高田美和 と 映画
1947年1月5日に京都府京都市でうまれる。
往年の時代劇スター・高田浩吉の次女。
本名は梶浦美知子。
日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業。
俳優の大浦龍宇一は甥にあたる。
高校1年生だった1962年、大映に入社し、同年三隅研次監督「青葉城の鬼」でデビュー。
以後、「座頭市兇状旅」「舞妓と暗殺者」「大魔神」「眠狂四郎勝負」などの時代劇で可憐な娘役として活躍する。
現代モノでは。。。、
「高校三年生」
「青いくちづけ」
「十七才は一度だけ」
「わが愛を星に祈りて」
「限りある日を愛に生きて」などの映画にも清楚な現代娘の役で多数主演。
姿美千子とともに1960年代の大映の清純派スターとして世の男性達の人気を二分した。
1968年の大映退社後はテレビと舞台に仕事の場を移し、
「一の糸」
「女系家族」
「おんなみち」などのテレビドラマに出演した他、
「2時のワイドショー」の司会者としても活躍。
舞台作品では「雲霧仁左衛門」などがある。
1982年、久しぶりの映画となったにっかつロマン・ポルノ大作「軽井沢夫人」に主演。
大胆なベッドシーンに挑戦し、妖艶で成熟した大人の女の色香を存分にふり撒き「清純派からの破格の大変身」と大きな話題を呼んだ。
歌舞伎俳優の片岡秀太郎 (2代目)と結婚・離婚。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『わが愛を星に祈りて』 (1966)
【あらすじ】
佐伯浩子は、雪国のある高校の二年生だ。
ある日浩子のクラスに、浅川勝已という生徒が、静岡から転校してきた。
やがて、勝已は運動における万能選手ぶりと、底抜けの明るさで、クラスの人気者になった。
浩子も、そんな勝已の天真爛漫さに表面では反発しながらも、次第に勝已に魅かれていった。
だが、そのころから、浩子の身体は病気にむしばれ、次第に痩せ細っていった。
近くの医者はその病名をつきとめることができず、浩子は札幌の大学病院で精密検査をうけた。
病気は脊椎カリエスであった。
浩子の父昌治も、兄友夫も、これを院長から聞き、浩子に打明ける勇気のないままに、家に帰った。
が、ある日、浩子は家人の話を立聞して、自分が、寝たきりの療養生活を続けねばならない脊椎カリエスであることを知った。
それからというもの、悲しみをおしかくして、浩子の行動はことさら乱暴になった。
数日後浩子たちの担任の島木先生が辞めるために、送別会がひらかれた。
浩子は無理をおして、出席し、島木先生のために、明るく歌い“おてもやん"を踊ったりした。
むろん、それは、もう会えなくなるかも知れない勝已のためにでもあった。
やがて勝已が転校してから一年半の月日が流れ、受験シーズンがやって来た。
勝已は級友の北村と共に東京の城南大学に入学した。
それから数白、勝已のもとに、浩子から、身体が回復したという手紙が届いた。
勝已は北村と共に喜び合い、仲間と歌い踊り浩子の健康の回復を祝福した。
が、その時、突然電報が舞いこみ、浩子の死が知らされた。
残された浩子の日記には、迫りくる死との戦いと、勝已への愛がぎっしりと書きつらねてあった。
東京からかけつけた勝已はいたたまれず、いつか浩子と滑った白銀のスロープにとびだした。
浩子との楽しかった想い出を、そして今は悲しみに変ってしまった想い出を絶ち切るかのようにスロープを滑り下るのだった。