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性と愛の
影に隠れて by Denman
June 3, 2006
万葉集の中の政治批判?
磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たお)らめど 見すべき君が ありと云はなくに (万葉集 巻2の166) 原文: 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓 アシビ(馬酔木)は、ツツジ科の常緑低木で、アシミ、アセビ、アセボ、アセミともいう。
上の歌の意味: 岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、あなたが居るとはもう誰も言ってはくれない。 この歌を何も知らない人が素直に解釈すれば次のようになるでしょうか?
ああ、きれいな馬酔木の花が咲いている。
愛しているあの人と、この花を一緒に眺めることができたら、なんと素敵なことだろうか。 この花を持ち帰って見せたいけれど、もう、愛するあの人は居ない。 誰もあの人がどこに居るのか私に言ってくれる人も居ない。 この歌を詠(よ)んでいる人は美しい女性ですよね。 その愛する人は亡くなってしまったのか? とにかく、愛する人は、もうその美しい女性のそばには居ません。 さらっと読めば、ただこれだけのことです。 人を愛したことのある人なら、このような経験をするものですよね。 もちろん僕だってこのような事をたびたび経験しています。
レンゲさんがきれいな夕日を背にして浜辺に立っています。 万葉集というのは、奈良時代の庶民から貴族や皇族の、そのような愛の歌を集めた歌集ではないのか? 万葉集は政治批判のために。。。? 僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。 たとえばですよ。。。 現代であれば、さしずめ。。。天皇はもちろん、総理大臣、大蔵大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判事、検察庁長官、東京都知事。。。こういう人たちの詩が載るわけですよね。 無名の防人の歌を載せるということは、言ってみれば、そういうことですよね。 必ず理由があるはずなんですよね。 現代ならば“民主主義”のために下々の名もない国民の詩を載せるという大義名分が立つ。 日本に民主主義が“輸入された”のは太平洋戦争後だった。 江戸時代には武士と将軍を養うために働かされていた“百姓”だった。 万葉時代というのは、その江戸時代から数えても1000年以上も昔ですよ! 詳しいことは次のリンクをクリックして読んでみてください。 だからこそ、奈良時代に名もない防人の歌を載せるということは大きな意味がある事なんですよね。 実は、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。 なぜか? この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日) 奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。 『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。 天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。 この間に220余首の歌を詠んだ。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。 宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。 延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。 SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。 雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。 これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。 しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。 つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。 大伴家持は具体的にどのように立ち向かったのか?
長屋王の変 729(天平元)年
「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。完全に濡れ衣を着せられたものでした。 藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。 結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。 729年8月、長屋王の死を待ちかねたように光明子が皇后に即位しました。 天平10年(738年)正月に聖武天皇は娘の阿部内親王を皇太子にします。 古代の皇族・貴族の娘たちは15才か16才で結婚しています。 政治の実権を持っていた藤原4兄弟が“長屋王の崇り”によって死亡すると、政権は橘諸兄(もろえ)に移り藤原四家のうちの式家・宇合(うまかい)の子・藤原広嗣(ひろつぐ)は大宰小貳として九州に追われました。 “災害がたびたび生ずるのは諸兄のブレーンである玄昉・真備が良からぬことをしているためだから、彼らを除くべし!” 藤原広嗣は聖武天皇に信書を提出し740年9月3日に挙兵しました。 藤原広嗣の乱のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男;光明皇后の甥)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。 現在の日本で阿部内親王と安積(あさか)親王のどちらを皇位につけるか?ということが問題になれば、文句なく安積(あさか)親王が皇位を継承しますよね。 だから、大伴家持が橘諸兄側に立って次期天皇に安積(あさか)親王を推(お)す事は至極もっともなことです。
16才の阿部内親王をモデルにして造られた興福寺の阿修羅像 この当時の実権を握っているのが藤原仲麻呂と光明皇后だった。 744年正月11日聖武天皇は難波に行幸しました。 安積(あさか)親王暗殺は、おそらく藤原仲麻呂独断で行われたものでしょう。 聖武天皇も、光明皇后にも騒動を避けたい心があり、安積親王を担ぐグループに果断な行動をとる力が無かったから藤原仲麻呂を処分することができなかったのです。 このような藤原氏の横暴を大伴家持は苦々しく思っていた。 歌です! 当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか? しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。 “愛なき批判は空虚にして、
批判なき愛は盲目なり” つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。 でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。 もちろん僕は大伯皇女が政治批判を念頭において上の歌を詠んだとは思っていません。 上の歌以外にも大伯皇女が詠んだ次のような歌が万葉集に取り上げられています。
わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて
暁露(あかとき)に わが立ちぬれし (巻2-105) 二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ (巻2-106) 現身(うつそみ)の 人なる吾(われ)や 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む (巻2-165) トップに掲げた歌を含めて、この4作すべてが実の弟である大津皇子(おおつのみこ)を偲んで詠んだものです。 この大津皇子の性格と素質については『日本書紀』と『懐風藻』が次のように伝えています。
大津皇子は天武天皇の第三子で、威儀備わり、
言語明朗で天智地天皇に愛されておられた。 成長されるにおよび有能で才学に富み、特に文筆を愛された。 この頃の詩賦(しふ)の隆盛は、大津皇子に始まったといえる。 『日本書紀』
身体つきと風貌は大きくてたくましく、
人格と度量は高くて奥深い。 幼年にして学を好み、博覧にして良く文をつづる。 長じて武術を愛好し、力強く良く剣を撃つ。 性格は極めて豪放であり、 決まりごとに拘束されず奔放不軌(ほんぽうふき)であるが、 己の身分を誇ることはなく、人には礼をもって処している。 このために多くの人がつき従っている。 『懐風藻』 これに対して大津皇子が謀反をたくらんで殺そうとした相手の草壁皇子(持統女帝の息子)については、その性格や資質を伝える記録がないのです。
4月13日、皇太子草壁皇子尊が薨去された。
『日本書紀』 謀反者として処刑された大津皇子と、皇太子の身分である草壁皇子の『日本書紀』の中での扱いを比較すると、異常な違いが目立ちます。 つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。 大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
現身(うつそみ)の
人なる吾(われ)や 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)とわが見む (巻2-165)
この世に生き残った私は、明日からは、
弟が葬られている二上山を弟と思い見て、 慕い偲ぶことにしよう。 上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大伯皇女が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。 平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。
大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。
つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
怨霊信仰
非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、 原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。 『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。 しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。 その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」 SOURCE: 国史大辞典 持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。 大伯皇女が詠(うた)った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか? あなたはどう思いますか? 正解はありませんよね?! 僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。 “作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~” 名言だと思いますねぇ~~。 あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか? 大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。 あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。 大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。 大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。 では。。。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、ためになる関連記事
おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ます。
絶対に、しつこいわよねぇ~~、
分かっていますわ。
でもね、デンマンさんが
出なさいっつうんですよ。
どうして?
あたくしがマスコットギャルをやっている
次のサイトを宣伝しなさいってぇ。。。
そう言う訳ですから、あなたも、
ぜひ読んでくださいましね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
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