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性と愛の
影に隠れて
June 3, 2006

万葉集の中の政治批判?

磯の上に 

生(お)ふる馬酔木(あしび)を

手折(たお)らめど 

見すべき君が

ありと云はなくに

(万葉集 巻2の166)

原文: 礒之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓

アシビ(馬酔木)は、ツツジ科の常緑低木で、アシミ、アセビ、アセボ、アセミともいう。
東北地方南部から九州の主に太平洋側に分布。
有害植物で牛馬がこれを食べると酔ったようになるので馬酔木の名がついた。
アセボトキシンasebotoxin とよばれる有毒成分を含んでおり、昔は葉を煮出して殺虫薬として用いたという。
早春、枝先に白い鈴蘭に似た壺状の花を咲かせる。
花期:4-5月
花言葉:犠牲、二人で旅をしよう

上の歌の意味: 

岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、あなたが居るとはもう誰も言ってはくれない。

この歌を何も知らない人が素直に解釈すれば次のようになるでしょうか?

ああ、きれいな馬酔木の花が咲いている。
愛しているあの人と、この花を一緒に眺めることができたら、なんと素敵なことだろうか。
この花を持ち帰って見せたいけれど、もう、愛するあの人は居ない。
誰もあの人がどこに居るのか私に言ってくれる人も居ない。

この歌を詠(よ)んでいる人は美しい女性ですよね。
僕は、勝手にそう想っています。
きれいに咲いている馬酔木の花を目にして、いつだったか愛する人と一緒に見た頃のことが懐かしく思い出されてきます。
その愛する人を偲びながら詠んでいるわけです。

その愛する人は亡くなってしまったのか?
他の女性のもとに行ってしまったのか?
もしかすると、蒸発してしまったのか?

とにかく、愛する人は、もうその美しい女性のそばには居ません。
いづれにしても愛する人を偲んで詠(うた)った歌です。

さらっと読めば、ただこれだけのことです。
愛の歌です。

人を愛したことのある人なら、このような経験をするものですよね。
あなただってまず間違いなくこのような経験をしているだろうと僕は思います。

もちろん僕だってこのような事をたびたび経験しています。
旅に出たとき、息を呑むようなすばらしい景色だとか、きれいな花などを目にすると、
ああ、あの人が今ここに居て一緒にこの景色を見られたら、なんとすばらしいことだろうか。。。

レンゲさんがきれいな夕日を背にして浜辺に立っています。
近くに愛し合っているカップルの姿を見れば、こうして一人ぼっちで浜辺に立つレンゲさんは、“愛しているあの人と一緒にここできれいな夕日を見たいわ”、と思うに違いないのですよね。
僕だって、もし一人でこのような浜辺に立てば、やっぱり同じ想いに駆(か)られるでしょうね。
あなただって、そうでしょう?

万葉集というのは、奈良時代の庶民から貴族や皇族の、そのような愛の歌を集めた歌集ではないのか?
愛の歌の中には、愛する者を亡くした悲しいものや、愛する人を偲ぶつらい思いを詠ったものもあるけれど、万葉時代の人々の素朴な情愛を歌集にしたものではないのか?
僕は、単純にそんな風にこの万葉集を受け止めていたのです。

万葉集は政治批判のために。。。?

僕がこの万葉集に奇異なものを感じたのは“防人(さきもり)の歌”が載っていることでした。
なぜ、無名の防人が読んだ歌をこれほど名前の通った“日本最古の歌集”に載せたのか?

たとえばですよ。。。
あなたが編集長になって、これから1000年先の人にも読んでもらえるような詩集を作ることになったとする。
そうなったら、おそらく、あなたは現在の有名な詩人に話を持ちかけて、すばらしい詩を作ってもらうか、その人がすでに作ったすばらしい詩を載せることだろうと思います。
その方が簡単だし、あなたの名前にも“ハク”がつく。
あの有名な詩人が作った詩が載るような詩集を出した。。。というように言われる。

現代であれば、さしずめ。。。天皇はもちろん、総理大臣、大蔵大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判事、検察庁長官、東京都知事。。。こういう人たちの詩が載るわけですよね。
そういう詩の中に、代々木公園のダンボールで作った小屋の中に住んでいる、どこの馬の骨とも分からない名もないホームレスの若者の詩を載せる。
そんなことをしたら、笑いものにされるかもしれない?
でしょう? うへへへへ。。。

無名の防人の歌を載せるということは、言ってみれば、そういうことですよね。
それなのに、なぜ?

必ず理由があるはずなんですよね。
動機があるはずです!

現代ならば“民主主義”のために下々の名もない国民の詩を載せるという大義名分が立つ。
しかし、奈良時代では、もちろん民主主義なんて考えている人は当時の“政治家”の中には居なかった。
1000年以上早い“思想”でした。

日本に民主主義が“輸入された”のは太平洋戦争後だった。
明治、大正、昭和の、それまでの日本人は天皇の“臣民”だった。“国民”でもなければ“人民”でもなかった。
天皇陛下のためだと言われれば、お国のために死ななければならなかった。
今の僕には、そんなことは馬鹿馬鹿しくてできませんよ。
やれと言われれば、国外に脱出しますよ。(。。。だからじゃないけれど、他の理由で現在、国外に居ますよ!)

江戸時代には武士と将軍を養うために働かされていた“百姓”だった。
その“百姓”たちは“生かさず殺さず”搾り取られていた。
人権なんてものはなかった。
まるで虫けらのように生かされていた!

万葉時代というのは、その江戸時代から数えても1000年以上も昔ですよ!
この万葉時代といわれた奈良時代の後に平安時代がありますよね。
“平安”時代なんて、いかにも平和で雅(みやび)やかな名前をつけていますが、それは貴族から見てのことであって、名もない庶民(被支配者)にとっては“地獄”時代だった。

詳しいことは次のリンクをクリックして読んでみてください。

■ 『平安時代は決して平安ではなかった!』

だからこそ、奈良時代に名もない防人の歌を載せるということは大きな意味がある事なんですよね。
一体、誰が名もない防人の歌を載せたのか?
いったい誰が万葉集の編集長だったのか?

実は、さまざまな説があるようですが、大伴家持の手によって二十巻にまとめられたとする説が有力のようです。
僕も歴史の時間にそのように習ったし、今調べなおして、ますますそうだと思うようになりました。

なぜか?

この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。

大伴 家持 (おおとも やかもち)

養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)

奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。

天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。

この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。

橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。

宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。

延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴氏は古代日本の有力氏族の一つなんですよね。
天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされています。
軍事氏族として物部氏と共に軍事の管理を司っていた。
大伴氏は天皇の親衛隊的な機能を果たしていた。
それに対して物部氏は国防軍的な役目を持っていた。

雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連(おおむらじ)になった時に全盛期を迎えた。
金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑、宣化、欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚した。

これ以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入ります。

しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、大化の改新の後、649年に大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっています。
また、672年の壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てて、以後の政界で大納言・中納言・参議等が輩出しています。

つまり、大伴家持が生きていた時代には大伴氏は、どちらかと言えば“反主流派の名門”と言うような存在だったという事が読み取れます。
もはや政治的実権などは手中にはない。
しかし、当時実権を握っていた“新参者の藤原氏”に対して反骨精神を持って立ち向かっているという姿勢を僕は感じます。

大伴家持は具体的にどのように立ち向かったのか?
それを理解するには長屋王の変から見てゆく必要があります。

長屋王の変 729(天平元)年

「密かに左道(人を呪う呪法を行なうこと)を学んで国家を傾けようとしている」という密告があり、長屋王は謀反の疑いをかけられたのです。藤原武智麻呂らはただちに王の邸を囲みます。もうこれではどうしようもないと観念した王は妻子と共に自殺したのです。完全に濡れ衣を着せられたものでした。

藤原不比等の息子たちが光明子を聖武天皇の皇后にしたかったのですが、長屋王が邪魔だったのです。それで王を亡き者にしようとしたのが、この事件の真相です。

結果として、藤原四兄弟の政権が確立しました。一方、彼らが画策していた光明子を聖武天皇の皇后にすることにも成功したのです。皇后は、天皇なき後臨時で政務を見たり、女帝として即位することがあり皇族でなければならないというのが古来からの慣例だったのです。

729年8月、長屋王の死を待ちかねたように光明子が皇后に即位しました。
すべては藤原四兄弟の思惑どおりに事が運んだように見えました。
ところが737年天然痘が大流行し、藤原四兄弟が全員死亡したのです。
人々は長屋王の怨霊(おんりょう)の崇りだと噂しました。

天平10年(738年)正月に聖武天皇は娘の阿部内親王を皇太子にします。
過去に女性が皇太子になったことは無く、異例の皇太子誕生でした。
光明皇后の娘でもある阿部親王は、このとき未婚の21才でした。

古代の皇族・貴族の娘たちは15才か16才で結婚しています。
光明皇后は、親王が生まれないために、皇位継承の最後の手段として、娘の阿部内親王を嫁がせずに内裏にとどめておいたのです。
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。

政治の実権を持っていた藤原4兄弟が“長屋王の崇り”によって死亡すると、政権は橘諸兄(もろえ)に移り藤原四家のうちの式家・宇合(うまかい)の子・藤原広嗣(ひろつぐ)は大宰小貳として九州に追われました。
一年半ほど管内豪族の動きや疲弊の深い農民の状態を観察し、あらゆる機会を捕らえ藤原広嗣は官人を誘い豪族をあおったのです。

“災害がたびたび生ずるのは諸兄のブレーンである玄昉・真備が良からぬことをしているためだから、彼らを除くべし!”

藤原広嗣は聖武天皇に信書を提出し740年9月3日に挙兵しました。
聖武天皇は大野東人(壬申の乱で大伴吹負を破った近江側の大野果安の子)を大将にして一万七千の兵を動員したのです。
東人の適切な行動もあり2ヶ月で反乱を制圧し広嗣は捕えられました。

藤原広嗣の乱のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男;光明皇后の甥)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。
ここで大伴家持が登場するわけです。
つまり藤原仲麻呂が主導権を握ってわがまま勝手に政治を進めることに家持は反対しているわけです。

現在の日本で阿部内親王と安積(あさか)親王のどちらを皇位につけるか?ということが問題になれば、文句なく安積(あさか)親王が皇位を継承しますよね。
まず、問題の起こりようがないんですよね。
なぜなら、天皇位を継承する男子が居るからです。
現在の日本には、この天皇位を継承する男子が居ないので、政府やマスコミや知識人や庶民がいろいろと議論をしているわけですよね。

だから、大伴家持が橘諸兄側に立って次期天皇に安積(あさか)親王を推(お)す事は至極もっともなことです。
ところが藤原仲麻呂や、光明皇后はそのようには考えないわけです。
何が何でも藤原氏の女性が産んだ皇子を天皇にしたい。
しかし、安積(あさか)親王は藤原氏の女性が産んだ皇子ではないのです。
ただそれだけの理由で、がむしゃらに藤原氏の女性であり、光明皇后の娘である阿部内親王を次期天皇にしようとしている。

16才の阿部内親王をモデルにして造られた興福寺の阿修羅像
詳しくは次のリンクをクリックして読んでください。

■ 『日本女性の愛と情念の原点 (2006年5月30日)』

この当時の実権を握っているのが藤原仲麻呂と光明皇后だった。

744年正月11日聖武天皇は難波に行幸しました。
造営中止になった恭仁宮(くにきゅう)に藤原仲麻呂が留守官として残り、安積親王は脚の病で桜井頓宮(さくらいかりみや)より恭仁宮へ帰ったのです。
その二日後に安積親王は急死しました。
藤原仲麻呂の暗殺という噂が難波の朝廷に広まったのです。
しかし、この事件は仲麻呂を留守官から外すだけで終わりました。

安積(あさか)親王暗殺は、おそらく藤原仲麻呂独断で行われたものでしょう。
藤原氏のバイブルである“六韜”を愛読していた仲麻呂ならば当然やりそうなことです。
この兵書については次のリンクをクリックして読んでください。

■ 『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

聖武天皇も、光明皇后にも騒動を避けたい心があり、安積親王を担ぐグループに果断な行動をとる力が無かったから藤原仲麻呂を処分することができなかったのです。
しかし、この後、仲麻呂の思う方向へ事態は進んでゆく事を考えれば、仲麻呂の安積親王暗殺の嫌疑は光明皇后によって揉み消されたようです。
むしろ、その後、仲麻呂に活躍の場を与えられたことは、暗殺の“論功行賞”ではなかったのか?

このような藤原氏の横暴を大伴家持は苦々しく思っていた。
しかし、実権を持っていないので、どうすることもできない。
また、武器を持って藤原氏に立ち向かうほどの勢力があるわけではない。
では、何で戦うのか?

歌です!
そのために大伴家持は万葉集を編纂したのではないのか!
僕はそう思っているわけですよ。

当時の政治権力者は、この歌集が“愛の歌”であったために、まんまと大伴家持のたくらみに引っかかってしまったのではないか?
万葉集が政治批判の歌集であるとは、どこにも書いてありません。
また、そのように言う国学者や歴史家に、僕はお目にかかったこともありません。

しかし、僕は大伴家持の残そうとしたものは、そのことに尽きると思っています。
そして、この業績の中に僕は大伴家持と言う人物の人柄を偲ぶことができます。

“愛なき批判は空虚にして、

 批判なき愛は盲目なり”

つまり、愛の歌と批判の歌が表裏一体となって“万葉集”の中に織り込まれている。
だから、ボンクラな当時の政権担当者は“万葉集”を愛の歌集だと思って見逃してしまう。
この当時の権力者は、この歌集が毒にも薬にもならないと思っていたでしょう。

でも、じっくりと読めば、薬と毒が散りばめられていますよ。
その例として僕は大伯皇女(おおくのひめみこ)の詠んだ歌を取り上げたのです。
大伴家持の経歴をじっくりと見てみれば、“愛の歌”だけを残そうとした人には見えません。
では、上の歌にどのような政治批判が込められているのか?

もちろん僕は大伯皇女が政治批判を念頭において上の歌を詠んだとは思っていません。
大伯皇女は、謀反の汚名を着せられて自害して死んでいった実の弟を偲んで上の歌を作ったと思います。

上の歌以外にも大伯皇女が詠んだ次のような歌が万葉集に取り上げられています。

わが背子を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 

暁露(あかとき)に わが立ちぬれし 

(巻2-105)

二人行けど 行き過ぎがたき 秋山を 

いかにか君が ひとり越ゆらむ 

(巻2-106)

現身(うつそみ)の 人なる吾(われ)や

明日よりは 

二上山を 弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

トップに掲げた歌を含めて、この4作すべてが実の弟である大津皇子(おおつのみこ)を偲んで詠んだものです。

この大津皇子の性格と素質については『日本書紀』と『懐風藻』が次のように伝えています。

大津皇子は天武天皇の第三子で、威儀備わり、

言語明朗で天智地天皇に愛されておられた。

成長されるにおよび有能で才学に富み、特に文筆を愛された。

この頃の詩賦(しふ)の隆盛は、大津皇子に始まったといえる。

『日本書紀』

身体つきと風貌は大きくてたくましく、

人格と度量は高くて奥深い。

幼年にして学を好み、博覧にして良く文をつづる。

長じて武術を愛好し、力強く良く剣を撃つ。

性格は極めて豪放であり、

決まりごとに拘束されず奔放不軌(ほんぽうふき)であるが、

己の身分を誇ることはなく、人には礼をもって処している。

このために多くの人がつき従っている。

『懐風藻』

これに対して大津皇子が謀反をたくらんで殺そうとした相手の草壁皇子(持統女帝の息子)については、その性格や資質を伝える記録がないのです。
古代日本の正史である『日本書紀』にも詳しい記述はなく、
死亡した日の条には次のような1行の記載があるのみです。

4月13日、皇太子草壁皇子尊が薨去された。

『日本書紀』

謀反者として処刑された大津皇子と、皇太子の身分である草壁皇子の『日本書紀』の中での扱いを比較すると、異常な違いが目立ちます。
それほど大津皇子への期待と同情が大きかったことが実に良く分かります。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

この世に生き残った私は、明日からは、

弟が葬られている二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大伯皇女が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。
死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が皇子の霊を祈祷によって鎮めた。

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

怨霊信仰

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」

SOURCE: 国史大辞典

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。
つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、この事実を我々に伝えようとしたわけです。

大伯皇女が詠(うた)った歌を“愛の歌”と見るのか? それとも“政治批判の歌”と見るのか?

あなたはどう思いますか?

正解はありませんよね?!

僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!

大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

大伯皇女は、それを期待しながら、1300年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。

大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

では。。。

ィ~ハァ~♪~!

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そう言う訳ですから、あなたも、

ぜひ読んでくださいましね。

では、今日も一日楽しく愉快に

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