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いにしえの愛を
見つめて。。。 by Denman
June 7, 2006
春過ぎて夏来たるらし白たえの
衣(ころも)ほしたり天(あめ)の香具山 万葉集の中に収められた持統天皇の歌。
持統天皇がこの歌を詠んだ時の気持ちは、おそらく次のようなものだったでしょうね。。。
春が過ぎて夏が来たようだ。
天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~ でも、私の心はあの山の裏にある 磐余(いわれ)の池を見ているのです。
大津皇子が自害する前に池の端で辞世の歌を読んだという。 自害の後で、皇子の妻であり、 私の腹違いの妹でもある山辺皇女が 髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。 痛ましいには違いない。 しかし私は、ああせねばならなかったのです。 怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、 私には他にとるべき道はなかったのです。 どうか、心安らかに眠っていて欲しい。
おととい(6月5日)、Realogで書いた記事(『いにしえの愛を求めて。。。PART 3』)に更紗さんから次のようなコメントをもらいました。
持統天皇の歌が「怨霊を鎮めるための歌」ですか・・・
それは大胆な仮説ですね(・◇・;) 持統天皇の歌というと、 そういえば、ブックオフで永井路子の この本だと不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています。 by 更紗 2006/06/06 15:45 さっそく僕は次のようは返信を書きました。
> 持統天皇の歌が「怨霊を鎮めるための歌」ですか
>・・・それは大胆な仮説ですね(・◇・;)
その通りですよ。 確証がありませんからね? でもね、“真相”はいつか必ず表れるものですよ。 歴史を読めば読むほど真相に近づいてゆきますからね。 つまり、歴史を読む人が解き明かして行くのが“真相”だと思いますよ。
>持統天皇の歌というと、「女性らしい爽やかな歌」
>という解説しか見かけたことがないのですが、 そうですよ。そういう批評ばかりが目立って、持統天皇の暗い部分に焦点を当てて批評する人は極めてまれですよね。 しかし、歴史上の人物でも完璧に善人は居ないし、完璧に悪人も居ませんからね。 僕は善人と思われている人は暗い部分を見ようと思うし、悪人と思われている人は善の部分を見ようとしますね。 そのほうが歴史を読んでいて面白いですよ。
>確かに持統天皇からすれば大津皇子の件は
>後ろめたい出来事でしたし・・・。 >祟りを恐れていたのは確かでしょうね。 間違いなく恐れていましたよ。
> そういえば、ブックオフで永井路子の
>『悪霊列伝』という本を105円で買って >あったのですが、 >読むのをすっかり忘れていました(^^;) 永井さんも良い本を書きますよね。 ブリティッシュ・コロンビア大学(UBC: University of Britishi Columbia)の新渡戸ガーデンのそばにある東南アジア・センターの図書館には、すばらしい日本の図書がたくさん収められています。
Vancouver International Airport の上の濃い緑が 僕は、日本ではほとんど日本の小説は読まなかったのですが、
>この本だと不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も
>悪霊扱いされています。 不破内親王についても書きたいと思っていますよ。 いつもながら更紗さんのコメントをもらって、感謝していますよ。 不破内親王。。。また、インスピレーションが湧いてきましたよ。 とにかく、メチャ忙しくって、更紗さんのブログを読む機会がありませんが、 じゃあね。
by デンマン 2006/06/06 18:06 『いにしえの愛を求めて。。。PART 3』のコメント欄より 更紗さんの書いたコメントに触発されて、上の返信にも書いたように不破内親王の事が書きたくなったというわけです。
不破内親王(ふわないしんのう)
生まれは723年(養老7年)頃で 聖武天皇の娘。 739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。 757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。 764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。 769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。 771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。 782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。 795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。 SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。 不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。 ■ 『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』 とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。 実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。 更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。 井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。 つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか? 事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。
1) 天平14(742)年10月、夫の塩焼王が伊豆へ配流された事件。
なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。 2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。 しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。 3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。 この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
興福寺の国宝・阿修羅像 4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。 県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。 5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。 氷上川継は伊豆へ流罪。 このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。 これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか? しかし、実際はどうだったのだろうか? この事については明後日じっくりと見てゆきたいと思います。 では。。。
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おほほほほ。。。卑弥子でござ~♪~ますわよ。
くどいようですけれど、また現れましたわ。
ええっ、何でこの記事に
顔を出すのかって?
あたくしも、日本史を勉強しているので
ござ~♪~ますわよう。
でも、日本に閉じこもっているばかりじゃ
つまらないので、レンゲさんのように
バンクーバーに行こうと思うので
ござ~♪~ますのよ。
あたくしだけこのようなダサい
十二単(じゅうにひとえ)なんか
着せられて、こうしてブログに顔を出すのって
少し飽きてきましたわ。
あたくしもレンゲさんのように
レオタードを身に着けて
かっこよく登場したいのでござ~♪~ますのよ。
でも、あまりグチを言うと
デンマンさんに叱られてしまうので、
これぐらいにしますわ。
ところでね、あたしが顔を出す
面白いサイトもよろしくね。
次のリンクをクリックして覗いてみてよ。
そうなのよう。あなたも笑って幸せな気分に
浸る事ができるのでござ~♪~ますわ。
面白いでしょう。。。
だから、あなたもぜひ覗いてみてね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあ、バ~♪~イ。
YouTube 動画
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