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道鏡と孝謙女帝は
性具でも有名 by Akira Kato
March 1, 2004
道鏡鎧甲(よろいかぶと)
上の絵は葛飾北斎の「魂胆遣曲道具」の一部を忠実に再現したものです。『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』と画題がついていますが、 道鏡が鎧兜をつけて戦いに臨んだということはもちろん記録にありません。奈良時代の僧には、鎌倉時代のようにまだ僧兵として活躍できる場はありませんでした。 では、なぜ、道鏡の鎧甲という画題で、葛飾北斎が上の絵を描いたのでしょうか?よく絵を見てください。確かに鎧兜らしきものが2つ描かれていますが、 私たちが普通頭に思い浮かべる鎧兜とは格好がかなり違っています。 もちろん、これは戦争で身につける鎧兜ではありません。江戸時代に使われた性具を描いたものです。左が鎧で右が兜なのです。 鎧はペニスに装着します。これを男根に嵌(は)めるこことによって太さが増すと共に、 この凹凸が腰を使った前後運動に伴い女性の膣壁をしっかりと摩擦することになります。つまり、これによってGスポットが、確実に愛撫されるというわけですね。 江戸時代の研究家が、性生活の知恵としてこういうものを考え出したようです。 兜は亀頭にかぶせます。リングだと思えばどのような効果があるか想像がつくと思います。しかし、使ったことがない場合、この絵だけで判断しますから、 とても実用的とは思えませんね。これでは、すぐに外れてしまいそうです。何か仕掛けがあるんでしょうか?この性具に詳しい方が居たらぜひ教えて欲しいものです。
『光謙帝香合(こうけんていこうごう)』
上の絵も葛飾北斎の「魂胆遣曲道具」の一部を忠実に再現したものです。『光謙帝香合(こうけんていこうごう)』という画題がついています。 気がついたと思いますが、孝謙女帝の『孝』の字が『光』になっています。おそらく、天皇の名を性具の名にかぶせるのは恐れ多いことだとして、わざと一字だけ変えたのでしょう。 中国では、皇帝の名は庶民は使えませんでした。現在よりも、中国の文化の影響が強かった時代ですから、葛飾北斎か、あるいは、この煉香(ねりこう)媚薬の考案者が、 そのように配慮したものだと思います。 この香合(こうごう)というのは国語辞典で引くと「香の入れ物(香盒とも書く)」と出ていますが、この場合の香合は「こうあわせ」のことです。 つまり、二種の香木をたいて、その匂いや香銘の優劣を競うゲームのようなものです。 孝謙女帝はご存知のように、巨根の道鏡を愛人にしていたと、下世話では昔から言い伝えられてきました。最近では、 多くの研究家がそれはデマだと言うようになりました。私も、そのうちの一人です。詳しいい事はこの掲示板を見てください。 『巨マンの称徳』だなんて、言うに事欠いてなんですか!許しませんよ! 従来どおり下世話に従うなら、巨根の道鏡を愛人として受け容れていたわけですから、この女帝はたぐい希な巨マンの持ち主だったというわけです。 その孝謙女帝の巨陰の姿をそのまま写した煉香(ねりこう)が、上の絵に描かれているわけです。 煉香は薫物(たきもの)とも言われますが、各種の香木や香料を粉末にして甘葛(あまづら)・蜜・炭の粉などと練り固めた丸薬状の香のことを言います。 これを加熱して香りを立たせます。上の絵の煉香は単なる香ではありません。 『肥後ズイキ』から取れる分泌液を混ぜて媚薬として使っていたのです。 つまり、好きな男性を自分の部屋に招いた時にこの練香を加熱して香りを立てると、男性が欲情を催してその香を焚(た)いた女性を求めると信じていたわけですね。 この煉香が大奥でも使われたそうです。大奥では、この香合(こうあわせ)をよくやったのですね。 大奥の中心は御台所(みだいどころ;御台様)と呼ばれる将軍の正室(正妻)ですが、 奥女中の最上位である上臈(じょうろう)が、御台所に茶の湯・生花(いけばな)・香合(こうあわせ)などの遊芸を指導しました。 おそらく、御台所よりも側室たちのほうがこの『光謙帝練香』をしばしば使ったでしょう。将軍から一夜の寵を得るために、 側室たちはあれやこれやの手を使って将軍を自分の部屋に招き入れて、この練香媚薬の香りを立てたかもしれません。
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