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大奥
by Akira Kato
February 29, 2004
男子禁制
「男子禁制」と言っただけで好奇の目を集めるのに十分なのが江戸城大奥です。ここには二百数十人の奥女中(御殿女中)がかもし出す隠微な妖気が漂っていました。 大奥は、将軍が政務をつかさどる「表」と、上下二つの御錠口によって厳重に隔てられ、小姓もこの御錠口までしかついて行けなかったのです。 したがって、大奥に出入りできる男は、将軍と奥医師だけです。 もちろん、大奥の中心は御台所(みだいどころ;御台様)と呼ばれる将軍の正室(正妻)で、その次に将軍の側室・生母・乳母などの局(つぼね)が何人かいました。 正室は普通、皇族や身分の高い公家の娘の中から選ばれました。 彼女らに使える奥女中の最上位は上臈(じょうろう)で、公家出身が多く、御台所に茶の湯・生花(いけばな)・香合(こうあわせ)などの遊芸を指導しました。 そして100石、15人扶持(ぶち)、合力金100両という給金をもらっていました。 しかし、奥女中の中心であり、また大奥の実権を握るのは年寄(としより)です。大奥の総取り締まりの任に当たるのが大年寄でした。 年寄は表の老中に該当し、詰め所に居て御用を決済します。70畳ほどの部屋を一人で占領し、 50石、10人扶持、合力金60両という給料をもらっていました。上臈、年寄は正室などの寺社への代参もお勤めの一つです。年寄の中の御用掛は、 外出の際、老中と同格の10万石の格式を持っていました。たいしたものです。 大奥には、すでに述べたように二百数十人の奥女中が女だけの生活を繰り広げていたわけです。しかも、この女性の多くが性体験を持っていますから、 中には欲求不満に陥る女性が居るわけです。相手は将軍だけです。しかし将軍は一人ですから、仮に60人の女性と夜の営みを持つとしても、 順番に一人づつとして、一人の女性は2ヶ月に一度だけ将軍に抱かれることになります。
ところが将軍も人の子ですから、好き嫌いがあります。やはり気に入った女性と夜を楽しみたいと思うのは、下々の我われと同様でしょう。 そうなると、60人の女性の中でも、お呼びのかからない女性も結構出てくるわけです。この女性たちは、他に気を紛らわせるようなことがないんですね。 女の園には、当然のことながら隠微な妖気が漂ってきます。 当時、30歳になると夜のお勤めから開放されてお暇がもらえる女性もいたそうです。 つまり、女性としての魅力は、30歳を過ぎたら下り坂になると考えられていたようです。そういうわけですから、飛び切りの美人でもない限り、 将軍は30歳以上の女性には声を掛けません。 しかし、これは女性には酷というものです。「30歳を過ぎてから体の歓びを覚えた」という女性は結構多いものです。そういう女性が、 将軍から無視されるわけです。これではたまったものではありません。 上臈、年寄というようなクラスになると30歳を過ぎており、将軍との夜のお勤めは、もうほとんどありません。もっぱら、大奥内の政務に専念しています。 しかし、30代の女性ですから、いわば女盛りです。中には将軍との性生活に未練を残している女性も居るわけです。当然のことですが、 肥後ズイキのお世話になって体の寂しさを紛らわせていた女性も多かったはずです。したがって、 肥後ズイキが大奥から広まったと言うことも全く根拠のないこととは言えません。それだけの需要があるということは十分にうなずけます。 ところが、肥後ズイキだけではどうにも我慢が出来ないという女性も出てくるわけです。でも、大奥ですから、男子禁制です。 忍んで来るような男は皆無です。命をかけてまで女に会いに来る男なんて、この当時の江戸城には居ません。しかし、大奥の女性たちは外出することはほとんど出来ません。 せいぜい一年に一度か二度です。 それにもかかわらず、外出できる女性が居ました。これが上臈、年寄です。この人たちは正室に成り代わって寺社へ参拝に行きます。したがって、 どうしても肥後ズイキでは我慢できないと言う年寄は、この時に好きな男性に会いに行くわけです。このようなことが結構行われていたのですね。 ところが、あまり長居をしすぎて、門限に遅刻した年寄が居たのです。分かりますよね、その気持ち。せっかく本物の肥後ズイキにお目にかかっているのですから、 出来るだけ時間の許す限り一緒に居たい。そういうわけでついつい長居をしてしまうわけです。それで気付いてみると門限を過ぎている。 こういうことが実際に起こったのでした。これが、あの有名な『絵島・生島事件』の発端になったのです。 この絵島(えじま)という年寄は月光院(七大将軍家継の生母、左京の局)の世話掛だったのです。今でも役者に熱を上げる女性は多いですが、 この当時も役者に対する人気はすごかったらしいのです。江戸時代にはもちろん映画スターというのは居ませんでしたから、歌舞伎の役者です。 大奥の女性たちにとっても、歌舞伎役者というのが憧れの的だったのですね。 年寄・絵島のご贔屓(ひいき)は生島(いくしま)新五郎でした。この役者を溺愛していたのです。したがって、事件が発覚するまでにも、 代参という名目で情事を持っていたわけです。この日も月光院の代参ということで上野の寛永寺と芝の増上寺の両御廟屋(おたまや)へ出向いたのです。 その帰りに待合へ寄って生島新五郎と官能の悦楽に浸ったわけですね。刻限があるとは分かってはいるものの、ついつい悦楽にどっぷりと浸かってしまった訳です。 結局、門限に遅れてしまったことから、情事がバレたというお粗末です。 いずれにしても、この事件は、大奥という女性ばかりの集団がいかに人間的でない組織であったかということを良く物語っていると思います。 ちなみに、この年寄の下には「中年寄」、「御客会釈(あしらい)」、「中臈(ちゅうろう)」などが居ました。中年寄は年寄の代理ですが、 日常の主な仕事は料理などの指図をすることでした。御客会釈は将軍が大奥へ来た時や客人が来た時の接待役です。中臈は女中衆の中堅であり、 その中には祐筆(ゆうひつ;書記)、表使(おもてづかい;渉外係)などがいました。このあたりまでが御台所に対面することができました。 これより下になると御台所に会うことは許されません。した働きをする女性たちになります。御中居(おなかい)というのがそれで、 この下に御半下(おはした)というクラスがありました。共に雑用をしました。 側室は、中臈の中から「お手付き」となった女性が多かったのですが、中臈とは限りませんでした。 身分にかかわらず将軍のお目に留まり次第側室になるという可能性があったのです。そういうわけで、側室の出身はさまざまでした。 もと尼だったもの、未亡人、商家の娘、八百屋の娘、といったような女性までも側室になったことがありました。 女ばかりの特殊な社会ということもあって、大奥の中では陰険な権勢争い、嫉妬、中傷、讒言(ざんげん)などが渦を巻き、 一方では華美に流れて風紀の乱れることが多く、元禄時代には特にひどかったようです。 また、大奥では将軍の正室・側室・生母などの権威を盾に外部の干渉を許さず、独特の勢力を持ち、 幕府の政治に大きな影響を与えることもしばしばありました。奢侈(しゃし)禁止を不満とする大奥の勢力によって『寛政の改革』の立役者・松平定信が、 その職を追われ改革が挫折する一因となったことなどが、その好例です。
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