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日本女性の愛と情念の原点
by Akira Kato
May 30, 2006
日本女性の愛と情念の原点
僕には興味を惹くタイトルだと思えるのですが、このタイトルに惹かれて記事を読みにきた人が少ないのです。
お返事ありがとう ごさいました(^^) この時代の皇位継承の流れを分析するには、「天武系」「天智系」、あるいは「蘇我系」「藤原系」を念頭に置かないといけないんですよね。 当時の政治的なパワーバランスを考えず、家系図だけを眺めて安易に古代の日本皇族を分析しようとする識者が多いのには呆れるばかりです(>_<) 阿部内親王(孝謙・称徳天皇)は道鏡がらみの言い伝えのせいで日本史からほとんど抹殺されていた悲劇の女帝ですね。 道鏡よりも藤原仲麻呂のやったことの方がよっぽど問題があると思うのですが、「藤原家の人間だから」ということで、のちの歴史書にはあまり悪く書かれなかったんでしょうね。 by 更紗 2006/05/29 01:22 僕は、さっそく次のような返信を書きました。
そうですよ!更紗さん。 正にその通りですよ。 明日、そのことについて書こうと思っていたのに先を越されて書かれてしまいましたよ! うへへへへ。。。。
> 道鏡よりも藤原仲麻呂のやったことの方が > よっぽど問題があると思うのですが、 > 「藤原家の人間だから」ということで、 > のちの歴史書にはあまり悪く > 書かれなかったんでしょうね。 その通りだと思います。 やはり、権力者の言うことばかりを信じていると大きな間違いをやらかしますよね。 “愛なき批判は空虚にして、 批判なき愛は盲目なり!” やはり、常に愛ある批判の目を持ちながら歴史を読むことが必要なのではないでしょうか? あすの記事に更紗さんのコメントを使わせてもらいます。 とにかく意味のあるコメントをありがとうございました。 by デンマン 2006/05/29 13:47 『日本女性の愛と美の原点 PART 1』のコメント欄より この女性は西暦734年当時16才でした。 。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。 この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。 この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。 もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。 阿部内親王以外にも、モデルになる女性が考えられるのだ!。。。と信じている人が居たら、ぜひコメントをお願いします。 ところで、更紗さんも指摘しているように...
阿部内親王(孝謙・称徳天皇)は道鏡がらみの言い伝えのせいで日本史からほとんど抹殺されていた悲劇の女帝ですね。 この阿部親王という女性は、後世によからぬことを言われた女帝なんです。 このコンビは江戸時代になるとアダルトグッズの業界ですっかり有名になってしまいました。 道鏡を馬鹿にした、というより面白半分に道鏡を笑い者にした次の川柳に、この辺の事情が良く表れています。 道鏡は本当に悪者だったのか? 当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことでした。 道鏡は語学にも才能があったと見え、留学僧でもない道鏡が兄弟子・良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れた時、二人の会話が理解できたと言います。 道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたのです。 しかし、当時、悪い僧侶も確かに居ました。 これに困った朝廷は、正式に僧侶としての資格を与える“受戒”を行える僧を、唐から招請することを決め、それに応え、鑑真和上が多くの困難を乗り越えて来日したわけです。 この“受戒”の儀式を行える場所=「戒壇」(かいだん)を持つ寺院が、畿内の東大寺、九州諸国の筑紫観世音寺、そして東国の下野(しもつけ)薬師寺の3カ所と定められました。 道鏡のレベルの僧侶になると、セックスにむちゃくちゃをするような僧はまずその地位を保つことが出来ません。 なぜ道鏡は藤原氏に憎まれたのか? 称徳天皇が亡くなると、道鏡は下野(現在の栃木県の県域とほぼ一致する)にある薬師寺に左遷されてしまいました。 もちろん、称徳天皇と道鏡は夫婦同然に性生活をエンジョイしていた、ということになっています。 こうした一連のことを考えると、その概要が見えてきます。 なぜこの女帝と道鏡がこれほどまでに貶(おとし)められねばならないのか? それは、その後権力の座に返り咲いた藤原氏(主流派)に憎まれたためです。 この光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。 称徳天皇というのはこの皇后の娘ですから、当然ながら藤原氏であることを認識していないわけではありません。 この称徳天皇という女帝は二度天皇になっています。 のちに『藤原仲麻呂の乱』を起こして殺されるのですが、この仲麻呂は藤原氏特有の権力欲に駆られており、政治を自分の思いどうりに操ろうとしたのです。 要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。 しかし、主流派は黙って手をこまねいていたわけではありません。 この藤原永手らの暗躍によって称徳天皇は病気という表向きの理由を掲げられて暗殺され、道鏡は下野の薬師寺に左遷されたわけです。 伝えられているように天皇位を望み、厳しい戒律を破って女帝と夫婦関係を結んでいたとしたら、まさに『大逆罪』のうえに『姦通罪』という汚名を着せられて死刑になっていたでしょう。 阿部内親王は、なぜ女帝になったのか? 阿部内親王は孝謙天皇となってから詔(みことのり)を出して次のように言っています。
私の母上の大皇后(光明皇后)が私にお告げになった。 「岡宮(おかのみや)で天下をお治めになった天皇(草壁皇太子を指す)の皇統がこのままでは途絶えようとしている。 それを避けるために女子ではあるが、聖武天皇の後をあなたに継がせよう」 このように仰(おお)せになり、それを受けて私は政治を行ったのである SOURCE: 『続日本紀』 つまり、孝謙天皇の即位には光明皇后の指図があったことを述べているわけです。 一説には聖武天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったとも言われています。 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依しました。 聖武天皇は741年には国分寺建立の詔を出します。 また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切りました。 それに引き換え女性たちの意志の強さは驚くばかりです。 持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。 藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。 美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。 藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。 『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。 藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。 橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。 感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。 僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。 ■ 静謐(せいひつ) このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。 この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない! 長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。 本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。 上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか? 父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。 でも、そればかりではないと僕は思います。 この奥深い苦悩の中には、阿部内親王と光明皇后の感じている女ゆえの情念の苦悩も込められているのではないか? それは藤原仲麻呂を間にしての三角関係だったと言う事ができるかもしれません。 阿部内親王が孝謙天皇として即位したときの実権は、母親である光明皇太后と彼女の甥である藤原仲麻呂(藤原氏主流派)によって握られていたのです。 要するに、光明皇后と藤原仲麻呂(主流派)に対する称徳天皇と道鏡(反主流派)という図式になります。 藤原氏の野望、つまり、不比等の亡き後は、橘三千代に引き継がれ、三千代の亡き後には光明皇后に引き継がれた藤原氏の野望。 天皇という日本国の最高位につきながら夫を持つことが許されない。 16才の阿部内親王には、まだそうした将来までは、はっきりと目には見えていない。 ところで、更紗さんからもらった上のコメントは2度目です。
はじめまして。 私もメディアの「男系継承=日本古来の伝統」という意見には疑問を持っています。 あたかも男系継承が日本のしきたりのようにみせかけた人物は、デンマンさんがおっしゃるように、藤原不比等です。 現在の日本で「男系継承」を熱く語っているメディアを見て、あの世の藤原不比等はきっと高笑いしていることでしょうねぇ・・・。 私も藤原不比等に関する記事をブログに書いたので、こちらの記事をトラックバックさせていただきますね。 by 更紗 2006/05/28 10:07 このトップで紹介した更紗さんのコメントに中にある“お返事”とは、次の返信のことです。 > 現在の日本で「男系継承」を > 熱く語っているメディアを見て、 > あの世の藤原不比等はきっと > 高笑いしていることでしょうねぇ・・・。 僕もそのように思っていますよ。 じゃあね。 by デンマン 2006/05/28 16:18 歴史に関心のある人はあまり多くないですよね。 一生懸命時間をかけて歴史を読んでも、一銭の得にもなりません。 歴史に関心を持っている人は、財布の中身よりも心の糧を大切にしている人ではないのか? そう思いました。 では。。。 ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、ためになる関連記事 ■ 定慧出生の秘密 ■ 藤原鎌足と六韜 おほほほほ。。。。 また現れて、 くどいようでござ~♪~ますけれど。。。 あたくし、やっぱしデンマンさんと 対話したいのでござ~♪~ますのよ。 デンマンさんはレンゲさんとも ジューンさんとも対話しているでしょう。 でも、あたくしをめったにお相手にしてくれないのですわよ。 どうしてかしら。。。? ええっ?あたくしが馬鹿やるからだってぇ。。。 んも~~ あなたって、女心が傷つくような事を づけづけとしゃべってしまうのですわねぇ~。 いけ好かないお方だことォ~~ 仕方ありませんわ。 しょうがないから、こうしてしばらく一人きりで、 あなたをお相手にお話しすることにしますわよゥ~。 うふふふふふ。。。。 そう言う訳ですから、 あなただけは あたくしがマスコットギャルをやっている 『新しい古代日本史』を見てねぇ~。 本当に見てねぇ~? ダメよ!生返事だけして この場を誤魔化そうとしちゃああああ~~ 絶対見てよねぇ。 見ないとダメよォ~ おほほほほ。。。。 とにかく、今日も一日楽しく愉快に ネットサーフィンしましょう。 じゃあね。バーィ (2008年9月26日更新)
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