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定慧の死の謎を解く
by Akira Kato
July 25, 2003
定慧は白雉4年(653)5月に出家し、遣唐使に従って入唐します。わずか11歳の時の事でした。遣唐使はまもなく帰ってきますが、 定慧はその人たちと一緒に戻ってきませんでした。彼は、唐を発っても、途中百済に立ち寄り、 そこに長いこと滞在したといわれています。少年にして、懐かしい故郷から千里も離れたところにいるわけですから、彼の心のうちは、 どんなだったでしょうか? 定慧がまだ百済に滞在していた655年に彼の実の父親である孝徳天皇が亡くなります。病死となっていますが、私は、 中大兄皇子の謀略によって殺されたと見ています。孝徳帝の死には謎がたくさんあります。すでに述べたとおり、孝徳帝は、 大化の改新の8年後の653年に、中大兄皇子と遷都問題で対立して、当時の都・難波に置き去りにされています。 この事件についてはこのページ (軽皇子と中大兄皇子) で説明しています。 この時、中大兄皇子は叔父を殺害するつもりだったと思います。ところが鎌足に止められたのでしょう。やめています。 孝徳帝は、甥の中大兄皇子とは全く正反対な性格で、決断力も、勇気も乏しいし、政治的手腕にも見るべきものがありません。 いわば負け犬になるために生まれてきたような人です。しかし、甥と比べて一つだけ決定的に秀でたものを持っています。それは、人を見る目があって、 人間的な温かみを持っているということです。もしくは、人情の機微に通じていると言い換えることができるかと思います。このことについては、 前のページ (藤原鎌足と軽皇子) で説明しています。 もし、軽皇子が人としての良さを何一つ持っていなかったとしたら、鎌足から、とっくの昔に見放されていたでしょう。 事実、鎌足は、蘇我入鹿を暗殺するとき、初めは、孝徳帝(軽皇子)と一緒にやろうとしますが、決断力と勇気に欠けているのを見抜いて、 彼に見切りをつけて、中大兄皇子と組んで実行しました。詳しいことはこのページ (藤原鎌足と六韜・藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?) で説明しています。 しかしその一方で、鎌足は、この軽皇子の使い道を知っており、決して見捨てませんでした。中大兄皇子には、決断力、勇気、 政治的手腕というように、見るべきものがあります。しかし、彼の性格的な欠陥から、敵も多かったようです。そのような理由から、中大兄皇子が 皇位につくことを良く思わずに、反対するものが多かったのです。こういう時に、まさに、お飾り天皇に、もってこいなのが軽皇子と言うわけです。 彼は人情の機微を知り尽くしていますから、人事において、その才覚を発揮できます。不満を聞いたり、人事のごたごたをまとめたり、 そのような役にはぴったりの人だったようです。 孝徳帝は、人並み以上の権力欲があるとは思われませんが、しかし、いつまでもお飾りでいることに満足しているとも、思えません。 おそらく、アヒルの水かきではありませんが、甥に隠れて、見えないところで人脈を形成していたことでしょう。この辺のやり方は、軽皇子当時、 鎌足に寵妃・小足媛をあてがったやり方で見るとおり、実にうまい。しかし、これが、中大兄皇子には我慢ならなかったようです。 旧都で、間人(はしひと)皇后にも家臣にも見放された状態で、孤独のうちに病死したことになっています。 もちろん、そんな単純なことではなかったはずです。この時、おそらく誰もが、中大兄皇子の即位を予測したことでしょう。しかし、実際には、 孝徳帝が病死したのではなく、殺害されていますから、中大兄皇子も考えたようです。そこで即位すると、邪魔者を消して皇位についたと見られはしないか? 孝徳帝の謀殺と中大兄皇子の関係が見え見えになってしまいます。 そこで、皇極天皇であった彼の母親を説得して、もう一度天皇になってもらったわけです。これが斉明天皇です。 したがって、この時もし中大兄皇子が皇位についていたら、鎌足は、定慧を百済から呼び寄せることができました。 しかし、そうなっていない以上、孝徳帝の息子を日本へ呼び戻すわけには行きません。それこそ新たな政争の種をまくことになります。 それどころか、中大兄皇子の猜疑の目が鎌足に向けられないとも限りません。定慧を還俗させて新たな政権を打ち立てるのではないかと。 そのような事情で、定慧は更に百済で足止めを喰らいます。しかし、もちろんその間、無為に過ごしていたわけではありません。 では一体何をしていたのか?定慧が、高句麗でなく、また新羅でもなく、百済に滞在していたというには訳があります。鎌足の父親の 御食子(みけこ)が百済からやって来たからです。詳しいことはこのページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。したがって、定慧は、 御食子の実家の世話になっていたわけです。
定慧の情報収集活動定慧は出家して坊さんになっていました。この当時の坊さんというのは、現在の坊さんと違って、 権力を握る人たちと交際を持つ機会に恵まれています。仏教を国教にするという時代です。 仏教を政治の手段として利用していたという事実を忘れることができません。 したがって、坊さんになると情報をつかみやすいわけです。 端的に言ってしまえば、頭を丸めたスパイです。 この良い例が、聖徳太子の若い頃からの個人教授を勤めた僧の慧慈(えじ)です。高句麗からやってきましたが、後に、呼び戻されて、 祖国へ帰ってゆきます。 もちろ時の高句麗王に、日本情勢をこと細かく報告するためです。この人については、このページ (朝鮮三国の緊張関係―聖徳太子の師・高句麗からの僧・慧慈(えじ)) で説明しています。 この当時の朝鮮半島は、非常な緊張状態にありました。663年に百済が滅びます。その5年後には高句麗も滅びます。 そのようなわけで、定慧はのんびりと、百済で息抜きしていたというわけではありません。鎌足とは彼の手下を通じて、連絡を取っていたでしょう。 したがって、いろいろな面で御食子の実家の援助を受けながら、できうる限りのツテを頼って情報を収集していたはずです。得られた情報は、 手下を通じて、鎌足に送られていたでしょう。これらの情報は、やがて始まる、本格的な戦争のための資料として、 鎌足と中大兄皇子の元へ達したはずです。 やがて、日本と百済の連盟軍は、唐と新羅の連合軍と白村江で戦闘状態に突入します。しかし、 百済と日本の水軍は致命的な痛手を負って敗れます。そして百済は滅びます。パニック状態になった敗戦国からは、 貴族から庶民にいたるまで、ぞくぞくと難民が日本へやってきます。 百済朝廷の実力者たちも、天智帝を頼りにやってきて、彼の回りに、新百済派と呼ばれる派閥が形成されてゆきます。 天智天皇は、背水の陣を引きます。この次は、唐と新羅の連合軍が日本へ攻めてくるという想定の元に、大防衛網計画を立てます。 663年の白村江の戦いで敗れたことは、天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、 決定的な痛手でした。先ず人望を失いました。これとは反対に、多くの人が、大海人皇子になびいてゆきます。この当時、大海人皇子は、 新羅派の統領として天智帝と対立していました。百済に援軍を送ることなど、もともと反対でした。 白村江で敗れたとはいえ、当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に 占領されたわけではありません。しかし、問題は白村江で大敗したという一大ニュースです。おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに 当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。 天智帝は、国を滅ぼされて続々と難民として日本へやってきた百済人に援助の手を差し伸べます。しかし戦費を使い果たした上に、さらに 重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。 天智天皇の人気は底をつきます。そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。
664年
665年
天智王朝に対する不満天智天皇は大きな間違いを犯します。唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。 そのために、何十万人の人々が動員されました。天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。 「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」大多数の人は理解に苦しんだと思います。 魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人というのは、伝統的に 町の周りに城壁を築くようなことをしません。したがって、山城を築くようなこともしません。これは朝鮮半島的な発想です。 原日本人にとって、山は信仰の対象です。聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、 神を冒涜することに等しいわけです、このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族から、総スカンを喰らう。「今に見ていろ。 きっとバチが当たるから!」 しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。 往きは良い良い帰りは怖いです。というのは、帰りは自弁当です。 つまり自費で帰国しなければなりません。したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。 それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。 途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは 天智天皇の人気が出るわけありません。人気どころか怨嗟の的になります。「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」
新羅派(天武派)の暗躍こういう状況の中で、新羅派が暗躍し始めます。天智天皇はすでに豪族の支持はもちろん、民衆の支持さえ失っています。 こういう状況の中で何も起こらなかったなら、起こらないほうが不思議でしょう? ところで、新羅派と言われる人たちが、なぜ反天智運動を展開する必要があるのか?それは、伝統的に中国王朝がとってきた『近攻遠交』 と呼ばれる戦略に関係しています。これは、どういうものかというと、読んで字のごとく、近い国を攻めるために、遠い国と親しく交際し、この近い国を 挟み撃ちにして攻略する、と言うものです。唐・新羅連合と言う結びつきは決して永続的なものではありませんでした。お互いが相手を利用すすために、 一時的に結束しているに過ぎません。どちらかが、相手の利用価値を認めなくなった時が、縁の切れ目です。百済が滅び、高句麗が滅びます。 次は、自分たちが唐に飲み込まれてしまうということを、新羅人はよく知っています。縁の切れ目が見え見えです。 そういうわけですから、新羅人は文字通り背水の陣をしきます。背後は海です。しかし海の向こうには日本がある。今度は、新羅を攻めるために、 唐が『近攻遠交』戦略を採るとしたら日本と組む以外にありません。もし先を越されでもしたら、新羅の命は風前の灯となります。したがって、 新羅人は、もう何とかして、日本に親新羅派の政権を打ち立てなければなりません。そうでもしないと、唐が必ず日本と組んで自分たちを滅ぼします。 すでに、述べたように、天智と天武は百済派・新羅派に別れて、対立している状態でした。このようなことをスパイ網を通して知っている唐は、 この当時しきりに使者を送って、天智政権を懐柔しようとしています。しかも悪いことに、天智帝は、すでに述べたように、豪族にも、 民衆からも見放されています。したがって、四面楚歌の天智政権は、唐と仲良くしてゆく以外にありません。
新百済派(旧百済朝廷遺臣)と
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