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飛鳥とペルシャ(波斯)
石人男女像の謎 by Akira Kato
August 2, 2003
飛鳥の石造物奈良県の飛鳥地方には、石人男女像、猿石、二面石、亀石、益田の岩船、酒船石、須弥山石などの不思議な石造物が点在しています。 古くから諸説がありますが、誰が何のために造立したのか、まだはっきり分かっていません。 ある研究者は、斉明天皇(皇極天皇)の両槻宮(ふたつきのみや)の付属施設だったのではないだろうかと言う説を立てています。 そのために、多数の工人が酒船石、亀石、猿石、二面石、道祖神石、須弥山像石などを作ったといわけです。 ところが、両槻宮は造営不能で中止となっています。当然、これらの石造物も未完成のまま放置されました。 結局他に利用価値がなかったために、今まで放置されていたようです。 後になればなるほど、それが時代感覚と合致せず、馴染めない石造物に映ってきたようです。 誰が造ったのか、ということについては、ペルシャ人らしい者の渡来の記事が『日本書紀』に見えることから、 これらの人たちが作ったのではないかと推測する研究家もいます。 これらの石造物に何か共通したものがあるだろうかと調べてみると、これまでの先覚者の研究から、大体次のようなことが分かります。
諸説を基に、それぞれの石造物の謎に迫りたいと思います。 石人男女像 この石造物を作ったのは覩貨邏(とから)人とする説があります。 半島情勢の激変のために、彼らが急遽故国へ立ち去ってしまい、石造物が取り残されたと考えられています。 この半島情勢とは何か?というと660年に百済が唐・新羅に攻撃され危機を迎えます。百済は663年に滅びています。 この危機を迎えたときに、大和朝廷が都を難波宮に移し、臨戦体制に入りました。トカラの人たちは、この時に帰国を願ったというわけです。 この当時の日本の混乱状態は、このページ (しかし、 そんな風には日本書紀に書かれていないよ) で説明しています。クリックすると新しいウィンドーが開きます。 ただし、この覩貨邏人とは一体何者か?ということには定説はありません。この石人男女像に関して言えば、研究者は この石造物を造った工人を、耽羅(トムラ又はタムラ)からやって来た人たちだと考えています。つまり、 継体紀に一度名前の出てくる韓国の済州島からやって来た人だと考えているわけです。 済州島に多いトルハルバン(石爺)と呼ばれている石像があります。これを石人男女像のルーツと考えているわけです。 この島には、いたるところに右のような石像があります。これは石のおじいさんと呼ばれる石像です。何の目的で作られたのかは不明ですが、 今では子宝の神、村の守り神と信じられています。とても愛らしい格好なので済州島のシンボルになっています。 このトルハルバンを石人男女像のルーツとする理由は、トルハルバンの形状が、飛鳥の石人男女像の男の鼻とそっくりなのです。その他、 額に刻まれた深い皺の形、それに頭に冠る折り返しつきの帽子、妙に変なところがよく似ています。以上のことから、 飛鳥の石人男女像は覩貨邏人、即ち済州島の石工が造ったものと考えているわけです。 確かにこの説は、日本との距離を考えに入れると説得力があります。しかも、飛鳥以外の土地でも似たような石人が作られているのです。 5世紀の北部九州には、筑紫の君と言われる「磐井氏」が、いまの筑後平野を中心に、九州の大王的勢力を確立していました。 磐井氏は新羅系の渡来民族で、早くから筑後の八女を本拠地して、粕屋あたりまで 支配していました。筑紫の白木原(シラキバル)という地名も、この新羅系民族の集 落を意味していたようです。 磐井氏は八女の岩戸山古墳にみられるように、装飾文と石人(上の写真の真ん中の石造物が石人)・石馬をもつ独特の古墳を築き、 新羅との交流を活発に展開していました。したがって、済州島から渡ってきた石工がこれらの石人を造ったとも考えられます。
ただし、済州島は百済との関係が濃厚です。書紀に、継体天皇2年(508年)に初めて耽羅は百済と通うとあります。 これは、百済が南下して、 半島南部まで進出したことにより、済州島まで手をのばしたようです。 トムタレは百済領になり、「耽羅」と呼ばれるようになりました。 「トムラ」とも呼ばれたようです。 ここでの「羅」は、新羅、加羅の羅と同じです。また書紀は、 斎明7年5月(661年)に初めて耽羅から入朝の使者を迎えたと記録しています。 ちなみに、近畿の大王は、任那や百済系の渡来民族で、崇神大王を中心に大集団で渡来し てきたとされています。仲哀大王の頃までは北九州を中心に活躍していましたが、応神大王、仁徳大王の頃に東征して、 初めは河内、やがて飛鳥に本拠地を移しています。6世紀の初めに、対立関係にあった磐井氏と大和朝廷は激突します。 このようにして、やがて統一国家へと進んでゆきます。 「覩貨邏=耽羅」説に不服な研究者のなかには覩貨邏をビルマ、スマトラ、バリ島、若しくはタイと考えている人たちがいます。 イースター島のモアイも 石人男女像とトルハルバン(石爺)は確かに似ています。石人男女像の男の鼻とトルハルバンの鼻はそっくりなのです。 額に刻まれた深い皺の形、それに頭に冠る折り返しつきの帽子、妙に変なところがよく似ています。 しかし、この類似点を決め手とすると、右に示したイースター島のモアイも石人男女像とよく似ています。 本体は一つの石でできています。これにプカオとよぶ縁(へり)つきの帽子を別材で造って頭上にかぶせています。顔が大きく、首が太く、 ずん胴で、しかも脚部を省略し、両手は体につけたままです。何より大きな鼻が顔面の中央部を大きく占めている点が、 石人男女像の男像と済州島のトルハルバンに不思議に似ています。
イースター島は、上の地図で見るとおり、日本とはだいぶ離れています。しかし、石工が、潮流に乗ってはるばる島伝いに 大和にたどり着いたと考えられないわけではありません。
ここでちょっぴり一休みしてください。
2つとも顔立ちがよく似ています。目、鼻、口そして頬の肉付けまでが、まるで同一人が作ったのかと思われるほど瓜二つに見えませんか? ところで、この鼻の形には特別の意味があります。これは、当時マヤの習慣として、鼻を高く整え、 鼻梁の中心が額までとどくように生まれたときから矯正されていたのです。 だからこの頃のマヤの人物像はすべてこの鼻をもっています。とりわけ鼻を強調しているというわけではありません。 バリ島の米の女神像も、他の像と比べて、これだけが特に、マヤの月の女神像と似ているというわけではありません。 これと似た像や、テラコッタの作品がたくさんあります。ということは、文化的に非常に共通したものがあるということです。 おそらく何らかの交流があったはずです。
何か確証でもあるの?無いこともありません。それについては、次のページでお話します。
飛鳥と中南米は海で
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