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ペルシャ人の石工が
飛鳥にやって来た by Akira Kato
August 2, 2003
狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)はペルシャからやって来た前のページではカットグラスがペルシャから伝わったことを述べましたが、何もカットグラスだけではありません。 実は狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)もペルシャから伝わったようです。もちろん、これもシルクロードを西から東へと伝わってきたのです。
ペルシャから日本へ伝わるまでに、どのような変化を見せたのか、次に示す写真で見てください。
ペルセポリスの獅子 Lion stone carving at Persepolis
ペルセポリス遺跡 Persepolis Ruins 紀元前3000年頃よりイランの地にはエラム人が文明を築いていたが、 2000年紀に入るとロシア南部で遊牧生活を送っていたアーリア人が南下を開始する。彼らはエラム人を追放し、 さらにはメソポタミアを統治支配していた最強のアッシリアを滅亡させて、メディア王国を築く。狭義のペルシア人たちは、 そのメディア王国に従属しながらザグロス山脈の南にあるパールサの地に住んでいた。 紀元前550年ごろ、メディア王の臣下でペルシアを統治していたキュロス2世はメディア王家の内紛に乗じてこれに叛旗をひるがえし、 メディアとペルシアを併合してアケメネス朝ペルシアを建国する。 キュロス2世(在位BC559~530)はパサルガダエを首都にしたが、
第3代のダレイオス一世は即位した紀元前522年ごろ、パサルガダエから西南四十キロの荒涼とした丘陵地に新都建設を命じる。
建設事業はクセルクセス一世(在位BC486~465)、アルタクセルクセス二世(在位BC465~424)へと引き継がれ、
完成までに結局60年かかった。
トルファン(吐魯蕃)の獅子 清朝時代に作られたといわれている。 Lion stone carving at Torfan
北京・紫禁城の獅子 Lion stone carving at Forbidden City, Beijing
慶州(キョンジュ)掛陵(クエヌン)の狛犬 掛陵は8世紀末の元聖王の御陵で、 新羅統一時代の陵墓 制度が、 完備した時代の代表的な陵とされている。 Lion stone carving in Kyongju, Korea
八坂神社の獅子 Lion stone carving at Yasaka Shrine, Kyoto, JAPAN 上の写真を見てすぐ分かることは、ペルセポリスのライオンがもっとも写実的で、製作者は明らかに、本物のライオンを見たことがあるということが分かります。 しかし、トルファンも含めて、それよりも以東のライオンは、全く想像上の生き物としか思われません。作者は、明らかに、本物のライオンを見たことがないのです。 獅子が古代韓国に伝わる頃には、獅子は獰猛な犬というイメージで受け入れられたようです。おそらく、 ペルシャ人がライオンをまだ一度も見たことのない中国人や韓国人に説明する時、獰猛な犬のようだ、と言ったのでしょう。 それが日本へ伝わると狛犬(こまいぬ)、つまり「高麗(こま)犬」になったのです。高麗とは日本書紀では高句麗のことです。 半島では663年に百済が滅び、668年に高句麗が滅んで新羅が朝鮮半島を統一します。その新羅も918年に滅んで、 高麗(こうらい)に取って代わられます。この王朝が1392年まで続きます。高麗の武将である李成桂が王位を譲り受けた形で、 翌年に新しい王朝を立てます。これが李氏朝鮮です。1896年に大韓帝国になり、1910年、日本に併合され、1945年に独立します。 日本人の間では、ライオンは「唐獅子」と共に「狛犬」という言葉になって、語り継がれたわけです。 ペルシャから飛鳥へやって来た石工が獅子像をたくさん作ったはずです。しかし、 写実的なライオン像は日本人の目には、むしろ想像上の生き物に見えたことでしょう。 時代が下るに従って、写実的なライオン像よりも「伝統的な」唐獅子や狛犬の方が主流になってゆき、 それが、現在私たちが目にする唐獅子や狛犬となって残っています。 写実的なライオン像は、人気がなくて、作り変えられたか、壊されたのでしょう。亀石のように大きなものを作っていれば、 壊されずに残っていたでしょうが、残念ながら巨大なものは作らなかったようです。
ペルシャの石工がやって来た
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