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亀石の謎
by Akira Kato
August 2, 2003
亀石の名前は、亀に似ているからといわれていますが、本当に亀の造形なのでしょうか。上記の説のように、その場所が意味のあるものとしたら、 きっと造形にも意味があるものと考えられます。 亀石は、本当に不思議な形をしています。現代人から見ても、まるで異次元の存在を想像してしまう造形です。亀石は、昔から亀を象ったものされ、 広くその名で親しまれています。 しかし、この「カメ」を同時に「カミ」であるとする説があります。同様の意味を持ったカメ石やオカメ石が日本の各地に現存し、 また、そうした地名も多く残っていることも根拠の一つとされています。 太陽崇拝に関わる祭儀に、亀の造形が主要な役割をつとめる南国の風習が日本に伝来したと仮定すると、 大きな海亀を見たことのない内陸の人間にとって、それは想像の動物として増幅され、 飛鳥の亀石のような姿と大きさを与えられる結果となったのかもしれません。彼らにとってのカメ石とは、 日常的に馴染みのある川亀とは姿も形も異なったカミ石となり、不思議な姿形をした亀形の巨石はそうしたルーツをもつものではなかったかと考えられています。 では、この「亀石」は、果たしてそのような「カミ石」だったのでしょうか?
亀石の役割とは? 有名な石舞台は、その場所から蘇我馬子の墓といわれています。他の石造物にも、その置かれた場所に意味があるのかもしれません。 では、亀石の置かれた場所には、どのような意味があるのでしょうか。 飛鳥と檜隈(ひのくま)地域を、その用途として区分すると、寺院や宮殿、つまり現世の人々の活躍する地域と、 斉明天皇以後の「殯の宮」となる地域に分けて考えることができる、という説を唱える研究者がいます。檜隈地域を墳墓の地域とし、 更に、それを百済の影響で、百済の王家の墳墓を模して造ろうとしたのが、斉明天皇であるというのです。 これは、当地を天皇家にとっての黄泉の世界とし、 その東南に宮殿や寺院の現世の世界を配してたものとの説です。そして、この二つの世界の境に猿石や亀石を設置し、 現世の地域と来世の地域を画する結界の場所を示すために、黄泉の国との境を示すものとしてつくられたと考えらているわけです。 境界の標識として亀、蛇、蛙、男女神像などを立てる習俗は、ギリシア、ペルシア、インドなどにも見られるもので、 フレーザーの『金枝篇』によると、各地の古代民族にも、このような風習があったことから、飛鳥の石造物にも、 そのような意味があるのだろうと考えているわけです。
しかし、標識に亀石のような大きな石造物を使う必要があったのだろうか? 標識として使うならば、せいぜい道祖神ほどの大きさで十分です。どう考えても、私には、標識と考えるには大きすぎるような気がします。 結論を先に言えば、亀石がやはりペルシャと関係があると思えるのです。亀石をよーく今一度観察してみてください。 これに似た石造物を見たことがありますか?おそらく他に考え付かないでしょう. ペルシャ方面から中国、朝鮮半島を経由して日本へ伝わったものは、意外にたくさんあります。 すでにこのページ (ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た) で見たように、ペルセポリスのライオン像は、シルクロードを通って、中国で唐獅子になり、 朝鮮半島では、狛(高麗)犬になって、双方共に日本へ伝わりました。現在でも、神社へ行けば、 この種の石造物をたくさん目にすることができます。上の写真もその一例です。 おそらく亀石は、唐獅子や狛犬よりも以前に日本へ伝わったものだと思います。しかし定着しませんでした。なぜか? やはり日本人には馴染めなかったのでしょう。唐獅子や狛犬は日本で定着しました。その当時の日本人はライオンを見ていませんから、 これらの石像は犬のイメージとして受け入れられたのだと思います。しかし、亀石は唐獅子や狛犬と違い、ちょっと奇妙な印象を与えます。 実は私は、亀石は亀をかたちどったものではないと見ています。卑弥子さんが言ったように、亀よりはむしろヒキガエルです。 酒船石のすぐ北側に、左の写真に示したような「亀形石造物」が発見されましたが、 これこそ誰が見ても亀の甲羅の形をかたちどったものだと見えるでしょう。
では一体亀石は何だというの? ペルシャ人の石工が、ペルセポリスのグリフィンをヒントにして蘇我氏のために石像を作ったのではないか、と見ています。 おそらく完成した暁には下に示すようなものが出来上がっていたかもしれません。
ペルシャ・アケメネス朝(紀元前700~前300)のペルセポリスの柱頭飾りには、上に示すように ギリシャ神話ではグリフィンと呼ばれる鷲の頭と翼を持ち胴体がライオンの想像上の動物を載せています。 これは明らかに権威の象徴です。このペルセポリスの都を訪れる者に、 アケメネス王朝の威容と権威を見せ付けるための舞台装置のようなものです。 同じような目的でペルシャ人の石工か、あるいは彼の指導を受けた倭人が蘇我氏のためにグリフィンに似せて造った石像が、 現在私たちが「亀石」と呼ぶものです。もちろん、 この「亀石」は蘇我氏の威容と権威を訪れる人たちに見せつけようとした舞台装置だったでしょう。しかし、蘇我氏本宗家は蘇我入鹿 が中大兄皇子と中臣鎌足に殺されることにより滅びます。このあたりの事情は、このページ (藤原鎌足と六韜) で説明しています。 製作途中の「亀石」も、 その時にスポンサーを失って未完成のままに投げ出されたわけです。 蘇我氏というのは、ご存知の通り渡来人の文化や技術を積極的に導入することによって勢力を伸ばし、 結局、政治の実権を握りました。しかし、この当時の豪族たちは誰もが競って大陸や半島の文化や技術を導入しようとしました。 中臣氏は大和古来の旧氏族です。古くからの神道を守ってきた家系です。 中臣鎌足は父親が百済から来たのですが、 婚姻によって、 中臣氏に合流しました。しかし結局仏教を導入しなければならないことに気づいて、中臣氏とは袖を分かち、新たに藤原氏を創設して 仏教を利用して、蘇我氏がやってきたような政治を行ってゆきます。 中臣鎌足も中大兄皇子も大陸文化や技術を無視しようとはしていません。むしろ積極的に受け入れてゆきました。 しかし、蘇我氏の受け入れ方があまりに激しいので、拒否反応を起こしたようです。中国の文化まではよかったのでしょうが、 ペルシャの文化まで受け入れようとすると、抵抗にあったようです。特に、なんだかわけの分からない「亀石」のようなものを作って庭に置くことは、 ますます諸豪族の、少なくとも中臣鎌足と中大兄皇子の目には、海外文化の受け入れのやりすぎと映ったようです。 蘇我氏が、利用できるものならば、国の別を考えずになんでも取り入れようとしたことは、よく知られています。 従って、日本へやって来た渡来人の多くが蘇我氏を頼りました。そのようにして蘇我氏は勢力を伸ばしたわけです。 ペルシャ人もそのような渡来人の中に含まれていました。 聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのか?ここでちょっと話題が飛躍しますが、 ちょうど「亀石」がスポンサーを失って放り出されたのとよく似ています。聖徳太子の母親にはペルシャ人の血が流れていました。 聖徳太子の叔母である推古天皇はそのことを毛嫌いしたようです。それで、太子の才能を認めて、 摂政にはしたけれど、天皇の座を譲ろうとはしませんでした。この辺の事情はこのページ (聖徳太子の母親はペルシャ人だった?) で説明しています。 いずれにしても「亀石」は未完成のままに放りださてしまいました。ペルシャの文化や芸術までも受け入れようとした蘇我氏も、また、 グリフィンのような、なんだかわけの分からない石造物も、結局日本の土壌には根付かなかったようです。
しかし、ペルシャの痕跡が全く拭い去られてしまったかというと、そういうわけではありません。上のグリフィンの写真を見て分かるとおり、 柱をはさんで背中合せになっていますが、柱を除けば直接背中合せとなり、この彫刻の様式は人物像として受け継がれ、 飛鳥の石人男女像や二面石という形で引き継がれてゆきます。
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