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酒船石の謎
by Akira Kato
September 11, 2003
岡の酒船石 他の酒船石と区別して「岡の酒船石」と呼ばれるこの石造物については諸説があります。1992年に、 版築状に積んだ土壇状の遺構と、それをめぐる石垣状の遺構の一部が調査され、 酒船石の据え付けは、その整地土の上にのることなどから、 斉明天皇の「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)関連の遺構ではないかと注目されています。 狂心の渠とは、土木工事を好んだ斉明天皇が、3万人を使って溝を掘り、そこに200隻の船に石を積んで浮かべ、 7万人を使って石の山を造りましたが、造るそばから崩れ、人々が、この無駄な大工事をののしった故事に由来します。 『日本書紀』「斉明紀」に「狂心の渠(みぞ)、功夫(ひとちから)を損(おと)し費す」との記述が残されています。 ほとんどのウェブページや解説書が上のような説明をしています。 斉明天皇がこれらの大工事を推し進めたことになっているわけです。しかし、そうではないはずです。 これは歴史の流れを見ればすぐ分かるように中大兄皇子が推進役になっています。斉明天皇は、大化の改新によって 弟の孝謙天皇にその座を譲った時に、すでにその実権は中大兄皇子に移っています。この辺の事情は このページ (藤原鎌足と六韜) で説明しています。 中大兄皇子は大化の改新を行った時点で実権を手中に握り、中臣鎌足と共に、その後の政権を担当しています。 孝徳天皇は飾り物でした。後に中大兄皇子は天智天皇になりますが、それ以前に白村江の戦いで唐と新羅の連合軍と戦って敗れます。 そのため、日本が戦場になることを想定して、一大防衛網を築きます。九州から近畿にかけて山城や水城(みずき)をたくさん構築します。 この工事の規模は「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)のそれとは比べ物にならないほど気違いじみたものです。 この時には30万から40万の人間が動員されたようです。 土木工事が好きだったのは、母親の斉明天皇ではなく、息子の天智天皇です。すでにこの時に「狂心」の渠(みぞ)と言われるほど、 その大工事に反対するものが多数いたわけです。その後、大防衛網を構築する時には、この時の何十倍という規模です。 彼は怨嗟の的になりました。 結局、このことが原因の一つとなって天智天皇は腹違いの弟の天武天皇に殺されることになります。この辺のことは教科書に書いてありません。 しかし定説にこだわらずに、歴史の流れをじっくりと見つめると、見えてきます。下の関連リンクに載せてありますので、 関心のある人はぜひ読んでみてください。
酒船石は何のために使われたの? 酒船石の使用目的については、これを製薬用に使用されたのであろうという説があります。古代中国の製薬、薬剤法は、 ある薬の材料を配合するのに、それぞれを臼で搗いて粉末にし、これを各分量に応じて混ぜ、丸薬の場合は、白密(蜂蜜)で練るという行程を経ています。 つまり、酒船石の円形凹所を、薬を搗くための石臼ではなかったかと考えているようです。 別の説では、生贄台ではなかったかという説もあります。 これは、最上部の半月形の皿と主軸の溝の交わる所に後頭部を当てるようにして仰向けに寝てみると、 腰から下が真ん中の小判形の中にすっぽりと落ち込み、そして両手を左右に大の字に伸ばすと、 枝溝に腕がすっぽりと納まったまま手の平は左右の円形皿の中にきっちりと入るからです。この研究者は、このことに基づいて古代日本には、 生贄の風習があったと主張しています。 最近では、酒船石のすぐ北側に「亀形石造物」が発見され、この石造物との関連が指摘され、 これも斉明天皇の「両槻宮」の遺構ではないかと考えられています。発掘が進むにつれて、 飛鳥京は「水の都」だったことが分かってきました。
「水の都」飛鳥京 1999年、飛鳥京の宮殿跡の北西に池の石垣跡が発掘されました。これは、宮殿付属の庭園「苑池」の遺構ではないかと考えられています。 苑池というのは、古代中国や朝鮮の都に造られていた庭園で、飛鳥京にも、その影響を受けた庭園があったのではないかと考えられていたのです。 『日本書紀』にも苑池の記述が残されています。また、亀形石造物は、宮殿のすぐ側に位置することから、 天皇が儀式を行った祭祀場であるという考えが有力です。苑池遺跡との関係から、 古代の天皇の権威が水を支配することにより支えられていたとすると、 この場所は儀式を行う神聖な水の空間だったと考えらています。 現在も続けられている発掘作業によって、苑地の重要な構造と機能がわかってきました。苑地の水は、 張り巡らされた水路を通って宮殿の隅々まで潤していたと想像されています。この発掘から、 「水の都」としての新しい飛鳥京の姿が浮かび上がってきたわけです。 レーザー探査機による調査からは、池の大きさは東西70m、南北200mと推定されています。池の中央には大小二つの島があり、北側の島は、 土橋で結ばれていました。中国や朝鮮の苑地では、木造の橋で繋げられていたものは見つかっていますが、土橋のものは日本独自の構造のようです。 また、土橋の北側の池の水深は4mもあったこともわかっています。これは、苑地を地下水脈と繋げることにより、 地下伏流水による涵養量をうまく利用した構造であったもののようです。この機構には、池の水を一定量保つばかりでなく、 飛鳥京に張り巡らされた水路の水を苑地に排出する事により、水害を防止していたものと考えられています。このことは、 土に含まれていた植物プランクトン(珪藻類)の調査から、池には澄んだ水が湛えられ、ゆっくりと循環していたことからも裏付けられています。 その他、発見された木管の記述からは、薬草類が植えられていたこともわかっています。実際発掘によって、桃や杏、梨などの種が多数見つかっています。 苑地の位置は、斉明天皇が両槻宮を作った多武峰(とうのみね)の西北麓の谷地形部にあります。両槻宮は天宮(あまつみや)と呼ばれ、 これは、道教の仙人の宮のことを意味するそうです。つまり、神仙境とよばれた理想郷を見立てた宮なのです。 両槻宮が仙人に関係する道教寺院であることは、『日本書紀』に「観」(たかどの)と表記されていることから道観のことを指すようです。 現在の中国にも多くの道観があります。ここで発見された亀形石造物は、 遺構の位置から考えて、両槻宮との関係を考えるのが最も自然なようです。 中国の文献にも「大亀が背に蓬莱山を負い、 手を打って蒼海の中で戯れる」との記述があることから、研究者の中には多武峰を蓬莱山になぞらえて、 その麓にそれを支える大亀を配置したと推測している者もいます。 右の写真がその大亀に当たるものですが、「大亀が背に蓬莱山を負」う、というようには見えません。しかし、 斉明天皇は道教に関心を持っていたようなので、上で説明したような故事を知っていたでしょうから、亀をリクエストしたようです。 実は、この「亀」の足の形から、スッポンだろうと指摘する人も居るようですが、通説では亀といわれています。 古来より水は、都の生活を支えるだけでなく、天皇の力を表す重要な役割を果たしていました。 飛鳥京の石の遺跡は水の都を造り出す為のものだったと思われます。 都の玄関口にあたる「石神遺跡」には、 左の写真に示すように「石人男女像」のような 水を噴出する石造物が並べられていました。これらは水の都の支配者への畏怖を抱かせる演出だったようです。 さきほど斉明天皇と道教の関係について触れましたが、蘇我氏から続いているペルシャ人との関連も見逃せません。 というのは、噴水の石像は中国、朝鮮には見当たりません。噴水施設は砂漢の国の発想だと言われています。 ここでもペルシャ人が顔を覗かせるわけです。事実、ペルシャのチェヘル・ソトゥーン宮殿跡にはライオンの口から噴水がでる施設があります。 しかし、この宮殿は16世紀の宮殿です。復古主義をとった王朝のものなので、 アケメネス王朝やササン朝にも籔水施設をもった石像があったと考えられています。しかし確証はありません。
出水(でみず)の酒船石
酒船石と呼ばれるもう一つの石造物があります。 1916年(大正5年)、明日香村岡の字「出水」の水田から二つの石造物が発見されました。平らな形のもの(長さ2.2m、幅1.7m)と、 滑り台のようなもの(長さ3m、幅0.3m)。二つの石を組み合わせて、水などの液体を流したらしいことはわかっています。 この「出水の酒船石」と名付けられた石造物は、現在、京都市東山の野村別邸・碧雲荘にあります。
この「出水の酒船石」は、まさに「水の都」を演出するために飛鳥川の水を引いて苑地の池に水を流れ落とすように仕組まれていた仕掛け の一部だったようです。私の想像では上のように使われていたのではないかと思います。 したがって、「岡の酒船石」も同様な使い方をしていたのではないかと考える研究者もいますが、トップの写真と見比べてください。 私は建築士でも、土建業者でもありませんが、一見しただけで用途が違うことが分かります。
結局、「岡の酒船石」の使用目的は何ですか? ある研究者は水占いの装置であると提唱しています。また、別の研究者は、ペルシアの聖なる酒「ハオマ酒」をつくる装置だと言っています。 私はぶどう酒を作るのに使われたと思います。なぜぶどう酒なのか?という疑問を投げかける人がいるかもしれません。 その時の用意にこのページ (飛鳥坐【あすかざ】神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話) を作りました。ぶどう酒が日本へも伝わっていたことが、このページを読んでもらうと分かると思います。
蘇我氏が全盛の頃、たくさんの渡来人が日本へやってきました。 この中には、もちろんペルシャ人も含まれています。正倉院に上の写真のようなワイングラスが伝わっているように、 ぶどう酒もまた伝わっていたと言うことは容易に理解できることです。このようなグラスでぶどう酒を出されたら、 さぞかし飲む人は感銘を受けたことでしょう。 このぶどう酒は現在我われが飲むような飲み物としてではなく、 遠い異国から伝わった長寿の薬として上に述べた「水の都」で供応の時に出されたことでしょう。 当然のことながら、天皇の権威と威厳を見せ付ける舞台装置の一つです。 『日本書紀』「斉明紀」の記述を見ると、斉明三年(657年)の条には、今のイラン人と考えられている覩貨邏(とから)人の供応。 同四年の条では、陸奥(みちのく)と越との蝦夷(えみし)の供応。同六年の条では、 粛慎(みしはせ: 北東アジアのツングース系の民族)四十人の供応といった具合に、遠来の賓客をもてなしたことが語られています。 飛鳥に招いた外来人や、蝦夷などの夷狄に対して、天皇の威厳をみせつける目的で、さまざまな石造物と一緒に、 「岡の酒船石」で造ったぶどう酒もテーブルの上に上ったことでしょう。 その石造物の一つである須弥山石について、 例外的に『日本書紀』が取り上げています。 右の写真は飛鳥資料館の庭においてある模造品です。 人の背丈より50センチほど高いです。3段積みの円錐状の噴水の機能を持つ装飾石で、石の全面に浮き彫りがなされています。 上段が仏教の世界観に於いて世界の中心にあると言われる須弥山を表わし、中段がそれを取り巻く山々、下段は水波紋です。 『日本書紀』によると、須弥山石は、推古天皇の二十年(612年)に、 百済から渡来した路子工(みちこのたくみ)、別名、芝耆麻呂(しきまろ)が造ったという記述があり、 その名を古代ペルシア語で道路工事の権威や技師を表す語と推測して、 ペルシア古典の世界の中心に聳える霊峰を型どったものだとする研究者も居ます。 このように古代日本には、ペルシア人は案外多く来訪して、その文化を伝えていたようです。
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