エンタシス史観
by Akira Kato
October 12, 2003
法隆寺 (日本) パルテノン神殿 (古代ギリシャ)
観光バス案内嬢の
美声と共に
「皆様、あちらの回廊の柱をご覧ください。柱の中ほどが少し膨らんでおりますね。あれはエンタシスと呼ばれ、遠くギリシャから伝わったものです」
修学旅行シーズンともなれば案内嬢は大忙しで習い覚えた説明を復唱する。和辻哲郎さんの名著『古寺巡礼』によって、
法隆寺と古代ギリシャの結びつきはあまねく世間に知れ渡るようになりました。
私も、中学生時代、国語の時間に、この『古寺巡礼』を読んだ記憶があります。井上章一さんは『法隆寺への精神史』で次のように説明しています。
『古寺巡礼』の特徴は大和の古美術とギリシャ古典の類似をうたいあげたところにある。和辻は、飛鳥から天平の仏像や絵画・建築に、
古代ギリシャにつうじる美をよみとった。(中略)中央アジアやインドを通って、ギリシャ文明が伝来し、その感化によって日本美術が成立する。以上のような見方で、
大和の古美術を説明しつくそうとするのである。
同じ見方は、奈良の正倉院を「シルクロードの終着駅」とするキャッチ・フレーズにも見られるとしています。さらに井上さんは、そのような見方の源流を尋ねて、
19世紀末から20世紀始めの、「脱亜入欧」(アジアから抜け出してヨーロッパの仲間に入ること)という時代思潮にたどり着くわけです。
古い日本に西洋とのつながりを見出すことは、
西洋の列強に追いつこうとする当時の日本人に大きな励ましとなったと結論しています。
つまり、学問的には何の根拠もない、法隆寺の柱のふくらみをエンタシスと呼び、それをギリシャ起源と見るような見方が普及したのは、
明治時代にはやった「脱亜入欧」の考えに基づくものだとしています。
「脱亜入欧」史観
日本古代史を研究する時に、このような史観を、律令と遣唐使にも当てはめて理解しようとしている歴史学者がいる、と指摘する研究者がいます。
「脱亜入欧」史観では、幕末から明治にかけての建米欧使節団を遣唐使に、条約改正の前提としての西欧法制の継承を、唐の律令方の継承に比定し、
律令国家の形成と明治維新との類似点を強調しています。
「脱亜入欧」史観に批判的な研究者は、このような見方によって、大宝律令と遣唐使のイメージが拡大されたと主張しています。
朝鮮諸国の国制・文化が大和王権の国制・文化の基礎となり、
律令国家に内包されたことが軽視され、また遣唐使よりもはるかに回数が多かった新羅や渤海との交流が軽視されるという歪みが生まれたのも、
このような見方、つまり、「脱亜入欧」史観が影響しているのだと指摘しています。
「脱亜入欧」史観がエンタシス史観を誘導し、古代の歴史がこのような近代の史観によって歪められていると主張している研究者が結構いるようです。
「脱亜入欧」史観は古代日本史研究には害毒か?
アヘン戦争(1840-42)でイギリスの蒸気船の砲撃を受ける中国の木造帆船
「脱亜入欧」という考え方には、アジアはすべての点で劣っており、西洋はすべての点で進んでいる、ということが前提となっていました。これは、
19世紀中頃から後期にかけての主に中国と西欧の列強、特に英国との関係を眺めていた当時の日本の知識人が持った考え方です。
従って決して荒唐無稽な考え方ではなかったのです。
おそらく、当時の英国がアヘン戦争で見せた中国に対するやり方を見ていたなら、日本人ならば誰もが危機感を持ったことでしょう。
上の絵でも分かるとおり、木造帆船では、鉄製蒸気船に太刀打ちできません。これは、1840年の出来事です。それから13年後、
ぺリ-提督が艦隊を率いて下の絵に示すように浦賀にやってきます。
1853年6月ペリー艦隊、浦賀に来航
この時は日本国中が大騒ぎになったということです。少なくとも江戸幕府の閣僚にとってはショックだったでしょう。アヘン戦争のことは知っています。
アメリカも当然そのことを予想して、黒船で脅しをかけたつもりでしょう。開国を迫ったわけです。さもないとアヘン戦争のようなことになるぞと言外に威嚇しているわけです。
泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、
たった四杯(四艘)で夜も眠れず
上喜撰は宇治の高級茶で蒸気船にかけています。上等なお茶はたった四杯でも眠れなくなるほどよく効くわけです。それと同じように、
威力ある大砲を積んだ鉄船が、四艘来航しただけで脅しの効き目はてきめん。幕府の閣僚は眠るどころではありません。右往左往しながら、
どうしよう、どうしようと慌てふためいています。上の狂歌はそんな様子をもじったものでしょう。
それから7年後(1860年)、大老・伊井直弼が、桜田門外において水戸脱藩浪士達に暗殺されます。いわゆる「桜田門外の変」
がこれです。明治維新はそれから8年後です。それからの時代は文明開化一色になります。つまり、「脱亜入欧」政策をすべての面に渡って採用していったわけです。
そうでもしない限り日本の独立は守れなかったでしょう。
この「脱亜入欧」政策が古代日本史研究にも導入されて、上述したような「弊害」をもたらした、
と「脱亜入欧」史観に批判的な研究者は指摘しているわけなのです。
「脱亜入欧」史観は国粋史観に警鐘を鳴らした
「脱亜入欧」史観では、幕末から明治にかけての建米欧使節団を遣唐使に、条約改正の前提としての西欧法制の継承を、
唐の律令法の継承に比定し、律令国家の形成と明治維新との類似点を強調しています。
「脱亜入欧」史観に批判的な研究者は、このような見方によって、大宝律令と遣唐使のイメージが拡大されたと主張しています。
それに対して、朝鮮諸国の国制・文化が大和王権の国制・文化の基礎となり、律令国家に内包されたことが軽視され、
また遣唐使よりもはるかに回数が多かった新羅や渤海との交流が軽視されるという歪みが生まれたのも、
このような見方、つまり、「脱亜入欧」史観が影響しているのだと指摘しています。
しかし、「脱亜入欧」史観と言いつつ、これは「脱韓入唐」政策を当時の大和朝廷がとろうとしていたということを言っているわけです。
「脱韓入唐」政策を採ったために、朝鮮諸国の国制・文化が大和王権の国制・文化の基礎となり、律令国家に内包されたことが軽視され、
また遣唐使よりもはるかに回数が多かった新羅や渤海との交流が軽視されるという歪みが生まれた、といっているわけです。
要するに、上の論理の前提になっていることは何かというと、「韓」はすべてにおいて劣っている、「唐」はすべてにおいて勝っている。
だから当時の大和朝廷は「脱韓入唐」政策を採ったのだと。つまり、「脱亜入欧」とは直接には関係がないのです。突き詰めれば、
どちらの地域が進んでいるか、どちらの地域が遅れているかということを問題にしているわけで、「脱亜入欧」など持ち出さずに、「脱韓入唐」だけを言えばそれで事足りるのです。
ここで問題にしているところの本質は、歴史的に考えるならば、「脱亜入欧」でも「脱韓入唐」でもありません。
文化的にも、技術的にも遅れている集団が、文化的にも技術的にも進んでいる集団の「文明」を吸収しながら生き延びてゆくということです。
いわば、「脱亜入欧」とか「脱韓入唐」という言葉は、差別用語と呼ばれてしかるべきものです。こういう言葉には永続的真理というものが伴っていません。
従って時代と共に、まるで正反対の立場に立たされてしまうこともあるわけです。かつては、先進国であった、「唐」が、幕末には「亜」の中に組み込まれて退けられたわけです。
同じことは「脱亜入欧」にも言えることです。現在の欧米文化の発祥地はどこかと言えば、当然のことですが、古代ローマ・古代ギリシャを上げるでしょう。
しかし、その源流はどこかといえば、古代オリエントまでさかのぼります。従って、ホーマーが生きていた紀元前8世紀当時のギリシャ人は「脱欧入亜」を目指していたでしょう。
つまり、彼らの眼は、メソポタミヤあるいはエジプトに向いていた筈です。ギリシャは当時、文明に取り残された片田舎だったのです。
では、「脱亜入欧」政策や史観は全く無駄だったのでしょうか?私は、やはり意味が合ったと思います。
むしろ日本史を研究するうえで非常に有益な影響をもたらしたと思っています。それはなぜかといえば、250年近く続いた鎖国の影響で、
井の中の蛙になっていた多くの日本人に「西洋」を見る機会を与えてくれたからです。
泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、
たった四杯(四艘)で夜も眠れず
黒船の来航は、まさに井の中で居眠りをしていた蛙を揺さぶって起こしたのです。
この当時、「脱亜入欧」を目指す人々にとって、古代日本にエンタシスという形で西洋とのつながりを見出すことは、確かに大きな励ましとなったでしょう。
しかし、それだからと言って、「学問的には何の根拠もない
、法隆寺の柱のふくらみをエンタシスと呼び、それをギリシャ起源と見るような見方が普及した」、
と簡単に「脱亜入欧」の弊害と結び付けてしまっていいのだろうか?これが今の私の率直な感想です。
日本は長い鎖国の影響で、国粋的な史観が一人歩きしてしまったというような印象を受けます。具体的には、朝鮮半島の強い影響を文化的にも、技術的にも、
ほとんどすべての分野で受けているにもかかわらず、国粋的な見地からあまり触れないようにしているという姿勢が、江戸時代の国学者にはよく見受けられます。
法隆寺のエンタシスは本当に学問的には、何の根拠もないないのか?
結論を先に言うならば、法隆寺の柱はエンタシス以外の何物でもないとかなりの確率で言うことが出来ると思います。
学問的に根拠があるのか、ないのかということを問題にする前に、真理とは何かを考えてみる必要があります。
このことについては、別のページ (真理とは何か?)
で説明しています。私の論理に、どうも欠陥がありそうだと思われる人はぜひ読んでみてください。
ガンダーラの仏像が日本に伝わったとするならば、エンタシスも当然伝わったと考えられる。
ガンダーラはパキスタンの北部ペシャワール県にあたり,西のアフガニスタン,東のインド,ジャンム=カシミール州に隣接しています。
インド=アーリア人が,パンジャブ地方,すなわち五河地方へ定住する以前に根拠地としていた一つであり,大部分が移住後も一部は残留しました。
リグ=ヴェーダにも,この名があげられています。
紀元前5~4世紀には,ペルシア帝国がガンダーラの地まで延びました。ここはまた、インド内部から北カーブル渓谷を経てバクトリアへいたる要衝の地でもあったのです。
紀元前後には、西方および西北方から,バクトリア・ギリシア・シリア・シャカ族・パルティア人・クシャーナ族が次々にこの地に侵入、あるいは通過して東進しています。
また、この地で覇権争いが展開されたこともありました。クシャーナ王朝では、都がこのガンダーラにあったほどです。
ガンダーラはこのように、要衝の地だったために、歴史的に見て、人種・思想・宗教・文化・芸術の交流点になったわけです。
特に仏教美術に関しては、アカメネス・ペルシアの影響が初めにありましたが、アレクサンダー大王の遠征(前327~前325)によって、
ガンダーラがギリシアの植民地となります。アショーカ王(前3世紀)以後マウリヤ王朝とともに仏教および仏教文化が入ることによって、
ギリシア文化と仏教文化が次第に混ざり合ってゆきます。
これにインド中央部の伝統美術の影響も加わっていきます。この複合文化は紀元後2~3世紀を頂点として、かなり長い間ガンダーラ仏教美術は栄えました。
特にカニシカ王は仏教を信奉し、仏教と仏教美術、学問を保護し、首都プルシャプラに仏教寺院・塔を建立して、ギリシア人の芸術家を呼びよせています。
ギリシアの写実的様式および技法で、仏教のテーマやモチーフを表現しているのが次に示す仏像には、ありありと見て取れます。
如来坐像 ガンダーラ クシャン王朝 紀元2~3世紀
ガンダーラの彫刻は、もともと建造物を荘厳に見せるために造られました。また仏教建築の装飾にコリント式列柱やギリシア風の文様が使われています。
仏像をよく見ると鼻や額が高く、唇が薄く、髪は波打ち、西洋風の顔立ちが一目見ただけでもよく分かります。
仏教は、もともと偶像は作りませんでしたが、仏教を分かりやすく伝えるために次第に控えめに表現された仏像が出現します。
ガンダーラ仏像の特徴は、自然な人間らしい姿を現しています。
法衣の襞にギリシア風の影響がみられます。
実際、上のようなガンダーラ仏が日本へもかなり伝わっています。その一つを次のリンクをクリックすると見ることができます。
仏像が伝わっていたという事実は、それを製作した石工たちも日本へ来ていたという可能性が十分にあります。ギリシャ人がやってきていた、とは言いませんが、
彼らの血を引いたペルシャ人は、かなりの数日本へやってきていたようです。つまり、彼らは、ギリシャの様式や、技法をも身に付けていたのです。ですから、
法隆寺にエンタシスがあることも決して不思議ではないのです。
日本へやって来たペルシャ人やペルシャの文物、またギリシャ文化の影響については次に示すページで説明しています。ぜひ読んでください。
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