| |||||||||||||||||||||
|
朝鮮三国の緊張関係
by Akira Kato
July 15, 2003
高句麗は何とかして大和朝廷と同盟を結ぼうと接近百済からの仏教公伝の時期については、古来から二つの説があります。538年伝来説と552年伝来説です。 そのときからほぼ45年(またはほぼ30年)が経過したにもかかわらず、580年代の初めはまだ仏教が流布する兆しが見られませんでした。 物部氏や中臣氏を中心とする仏教反対派の勢力が、崇仏派の蘇我氏を圧倒していたためです。 また、天皇家も仏教の導入には消極的でした。したがって、一部の渡来系氏族の家族が個人的に、しかも隠れるように仏像を祀っているにすぎなかったのです。 仏教崇拝者にとって冬の時代といえるこの時期、高句麗から恵便(えべん)と名のる僧侶がやってきました。もちろん、本人の意思で来朝した訳ではありません。 平原王の意図を実現するための使命を帯びていたはずです。その使命とは、崇仏派の統領である蘇我馬子に接近して、 高句麗との外交のパイプをもっと太くすることでした。 しかし、廃仏派の仏教徒に対する迫害は厳しかったのです。その迫害を逃れるため、 恵便はやむを得ず還俗して播磨(現在の兵庫県加古川市のあたり)に身を隠したのです。 そのとき、彼は法明という尼僧を伴っていたのですが、彼女も一緒に還俗したようです。 『日本書紀』によると、584年(敏達13)9月、鹿深臣(かふかのおみ)が百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらし、 また佐伯連も仏像一体を持ち帰りました。蘇我馬子はこの2体の仏像を請い受けると、それを祀る僧を求めさせたのです。 探索を命じられたのは鞍作村主(くらつくりのすぐり)の司馬達等(しめのたっと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)の二人でした。 二人はしかるべき渡来僧を求めてほうぼうを探し、ようやく播磨の国で還俗僧の恵便を見つけ明日香につれてきたわけです。 そのように伝えられていますが、実際は、そんな悠長なことをしている余裕はなかったのが実情だったようです。 当然ながら、先ず恵便(えべん)の方からコンタクトを取ったことでしょう。そうでもしない限り、 大和からはるばる播磨まで出向いて行き、身を隠している恵便(えべん)を見つけることなど不可能です。 馬子にとっても恵便の教えを請うことは必要だったでしょう。当時、大陸の先進文化を身に着けていたのは僧侶です。 蘇我氏が政権をつかむためには仏教を政治手段として用いるのが早道だと言うことを朝鮮半島の情勢を学ぶにしたがって馬子は早い時期に悟っていたでしょう。 自分の権力を増大させるためにも、積極的に仏教を取り入れなければなりません。 それ以来、馬子は恵便を仏法の師として教えを受けました。恵便は司馬達等の娘で当時11才だった嶋(しま)を得度しました。 つまり、嶋(しま)は髪を剃り、尼になって仏教の戒律を守る生活を始めたわけです。 出家した嶋は善信尼(ぜんしんのあま)と呼ばれたのです。さらに、 善信尼の弟子として漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘・豊女(とよめ)と錦織壺(にしごりのつぼ)の娘・石女(いしめ)も得度しました。 二人はそれぞれ禅蔵尼と恵善尼と称したのです。 このように仏教を広めながらも、恵便(えべん)はもう一つの使命も忘れませんでした。当時、隋の力はますます驚異的に増大して、 高句麗を飲み込もうとしていたのです。高句麗は大和朝廷とできるだけ早く同盟を結び、隋と戦いを構える時には救援を送ってもらうように段取りを整えねばなりません。 しかし、一人の力では限りがあります。そこで恵便はそれまでの大和朝廷の情勢を高句麗王に報告のために手下の者を国に送り出しました。 もちろん、その報告の中には将来天皇になるべく期待されていた聖徳太子のことが述べられていたはずです。 馬子の師である恵便(えべん)には聖徳太子まで面倒見切れません。そこで高徳の僧を太子の師として送ってくれるように高句麗王に申し出たでしょう。 それが次に述べる慧慈(えじ)です。 聖徳太子の師・高句麗からの僧・慧慈(えじ)このようないきさつで送り込まれたのが慧慈(えじ)です。慧慈が単なる学問僧ではなく、高句麗の使者であることを考えてみる必要があります。 もちろん、一人の人物として見た時も、彼は立派な人だったでしょう。そうでもない限り、将来大和朝廷の天皇になるかもしれない人物の家庭教師になるなど、 望むべくもありません。 いずれにしても、慧慈の人選は間違いなかったようです。慧慈を師と仰ぎ、太子は皇太子としての教養を身に着けていったようです。 後年の師弟の関係から見ても、慧慈が立派な人であったことがよく分かります。しかし、慧慈が単なる学問僧ではなく、高句麗の使者であることを考えてみる必要があります。 ただ単に仏教のためだけならば、慧慈は、後年の鑑真のように大和の地に骨をうずめたでしょう。しかし、慧慈はかなり年をとっていたにもかかわらず、高句麗に戻っています。 もちろん高句麗王に大和朝廷の政治情勢を報告するためです。当時の船旅は死を覚悟したものでした。しかも慧慈は、その当時としてはかなりの高齢です。 仏教のためばかりではなかったと言うことが、このことからも容易に察せられます。 それ以前百斉の聖明王は国運にかかわる新羅との戦いを前に、仏像と経論を日本へ送ってきました。この点、 高句麗は大和朝廷との関わりにおいて数歩も遅れを取っていたのです。663年には百済が滅んで、その5年後には高句麗が滅びます. 慧慈が大和にやってきてから70年後の出来事です。国が生き延びるか滅びるかの重要な時期にさしかかっていたわけです。 高句麗が慧慈を太子の師として寄越したのは、このように危機感せまる時期でした。日本との親交を深め、対隋戦争に備えての援助を期待したのです。
なぜ高句麗の僧を太子の個人教師に? 高句麗僧の慧慈が倭国へやって来きたのは、日本書紀によると595年のことです。慧慈と一緒に、百斉の僧・慧聡(えそう)もやって来ています。 慧聡を師匠にしてもよいわけですが、そうはなっていません。 その理由として、大和朝廷が、百斉よりも高句麗の方をより重要だと考えていたとする説があります。確かに、それだけ高句麗の動きが活発になっています。 高句麗王の命令で、かなりの数のスパイが日本で活躍していたようです。同時に黄金を政府高官に散蒔いてもいます。当時、馬子は飛鳥寺を建てていますが、 605年、高句麗王が黄金300両余りを送ったと記録に残っています。 馬子の現実主義を考えれば十分納得の行く説明ですが、私はむしろ蘇我氏の出自とかかわりがあると思っています。このページ (蘇我氏は高句麗からやってきた) でも述べたように、 蘇我氏は高句麗からやって来た可能性が非常に高いのです。また、なぜ高句麗が馬子にアプローチしたかを考える時、 彼らは蘇我氏の出自を知っていたからだという事もその傍証になると思います。 いずれにしても高句麗の王や高官は、倭国の指導者たちを洗脳し、倭国が高句麗と深い同盟関係を結ぶように画策しようとしたようです。 そのためには知能の優れた人物を派遣しなければならない。 慧慈が来日したのはその政策の一環だったでしょう。 慧慈としても、自分の祖国、高句麗の立場が危機に瀕していることは充分承知していたでしょう。 それで、太子に学問、人間学、仏教を教えながらも、 太子の気持ちを高句麗側に引付けようとしたとしても不思議ではありません。太子が隋の皇帝に送った例の有名な書簡にもおそらく 慧慈の影響があったでしょう。
太子が出した国書 慧慈は太子を、一国の天皇になるべき人間として立派な人物となるよう教育したはずです。しかし、 高徳な僧ではあっても祖国が滅びようとするのをただ傍観するわけにも行きません。 教育者としての良心と祖国に対する忠誠心が彼の心の葛藤になっていたかもしれません。しかも、慧慈は使命を帯びていたのです。 当然ながら、太子に対する慧慈の教育を、このあたりの国際情勢や政治的背景を無視しては考えられません。 遣隋使の派遣に際して太子が持たせた国書には、聖徳太子の世界観が現れています。その世界観とは、 当時にしては誰も考え付かないような思想に裏づけられていました。つまり中国の中華思想を真っ向から否定していたことです。 その当時のどこの国でも、中国に出向いてゆくときには、少なくとも表面上は、ヤクザの子分が親分に挨拶に行くような態度をとっていました。 ところが太子はこれをしなかったわけです。国書の中では、隋の皇帝と大和朝廷の天皇を対等な者として書いているわけです。これが、 下に示すあの有名な文句です。
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 当然のことながら、当時の隋の皇帝,煬帝(ようだい)は激怒しました。しかし、現在のわれわれの感覚では、 この国書はむしろ国のあるべき姿を伝えているように思えます。激怒した煬帝こそ「愚か者!」と罵(ののし)りたくなります。 しかし、当時としては、これは超理想主義者的な「たわけ」の言うことだと受け取られたようです。 太子は、実際、仏教に基づく平等主義、理想主義的な教育を慧慈から受けたようです。これは、 太子が定めたとされる17条憲法によく現れています。ちなみに、分かりやすく、現代語にすれば、17条の憲法というのは次のようになります。
現在の我われの眼には上の憲法に書かれていることは、むしろ常識的なことです。とりわけすばらしい理念だとは思えません。 しかし、当時、上の事柄はほとんど守られていません。その結果が、下に示す略年表を見れば一目瞭然です。
上の年表を見てください。なぜ太子が一番初めに下の文句を掲げたかが分かろうと言うものです。
おそらく皆、心の中では思っていたことでしょう。「何を寝言いってるんだ!そんなことはもう千年先に生まれてから言え!」と。
国際関係の犠牲になった聖徳太子国内的には陰謀と暗殺と謀殺が渦を巻いています。国際的には大陸と半島の緊張関係が爆発しようとしています。 このような中で、平和対等外交をやってゆこうとしているわけですから、太子がいろいろな障害に突き当たるのは至極当然です。 慧慈としては太子にそのような理想主義的な教育を施してゆく以外に道はなかったでしょう。仏教の平等主義にかなっています。 また大和朝廷が堂々と隋と対等に付き合ってゆくならば、もし万が一、理不尽にも高句麗を攻めて滅ぼすようなことがあれば、 正義の見方として高句麗に味方して隋と一線を構える用意があると言うことをほのめかせる。 そのような意識を太子に持たせることが慧慈の使命であったかもしれません。 いずれにしても結果として太子は浮き上がってしまったようです。百済派、新羅派の連中にとっては、 高句麗出身の慧慈が太子によからぬ入れ知恵をしたと思っていたでしょう。太子が出した国書によって招いた隋との外交上の失態をなじる者もいたでしょう。 蘇我馬子にとっても、太子があまりにも理想主義的なやり方なので腹に据えかね、後年二人の間には敵対意識が育っていったようです。 事実、太子は後年推古天皇と馬子から煙たがられて政権の場から遠ざけられたようです。これについては次のページで説明します。
蘇我馬子と聖徳太子の対立 (次のページ)
Related Links
| ||||||||||||||||||||
|