| |||||||
|
『聖徳太子二王子像』
by Akira Kato
September 29, 2003
聖徳太子の容姿といえば、紙幣の顔にもなった上の『聖徳太子二王子像』が有名です。 これは三尊形式に基づいて百済の阿佐太子が描いたものとされています。中央が聖徳太子、向かって右が山背大兄天皇子、 左にいるのが聖徳太子の弟である殖栗(うえぐり)太子です。 これは聖徳太子像の最古のものとされています。しかし、幅広の袖とスカーフのような裾のある衣を纏った服装は、 太子が亡くなってから百数十年もたった盛唐時代、9世紀あたりのものだということが分かっています。しかも、王の装束ではありません。 単なる一般官吏の装束です。なぜなら、太子が持っている笏がそのことを物語っているからです。笏というのは、 唐の官吏たちが皇帝と接する時に怪しげな態度をとらせないため、 手に武器を持っていないことを示すためのものだったのです。
上は有名な法隆寺金堂の釈迦三尊像です。これは文字通り三尊形式で作られています。しかし、これは、 釈迦の姿を借りて聖徳太子一家を表しているのだという説もあります。すると、上の『聖徳太子二王子像』は、ちょうどその逆のことが言えるようです。 つまり、太子と王子たちの姿を借りて仏となった3人の姿を描いた仏画だと。この肖像画が描かれた当時(9世紀)、すでに太子信仰はしっかりと根付いていました。 従って、“釈迦三尊像”を太子一家の姿を借りて表現したのかもしれません。
聖徳太子に似せて造られたと言われる救世観音像。 明治17年の夏、フェノロサは政府の許可を持って法隆寺を訪れます。 夢殿の中央にしっかりと施錠された大厨子がありました。中には、もちろん、夢殿の創立以来秘像とされた、この救世観音像が安置されていたのです。 1200年間誰も見たことがないと言う仏像です。フェノロサは案内役の僧にこの鍵を開けろと言いつけます。僧は言います。 「この大厨子は200年前より一度も開けたことがありません。もし秘蔵の仏像を見るようなことがあれば、大地震が起こって寺全体が崩壊すると言い伝えられています。 どうかそんなことはしないで欲しい」 そう言われれば、ますます見てみようと思うのが人情です。この外国人も心が動かされたのでしょう。フェノロサは僧たちの反対を押し切って開けさせました。 その間に、 多くの僧侶が恐怖に駆られて寺から逃げ出したそうです。ぐるぐる巻きに包帯を巻かれた救世観音像を裸にすると、なんと500メートルにも及ぶ包帯が山になったとか。 その包帯の中から現われ出た秘像が上の写真に見る救世観音像です。
聖徳太子のページ
Related Links
| ||||||
|