日本書紀では、ご存知のように、天智帝は671年10月17日に病状が悪化したことになっています。その時、彼は、
弟の大海人皇子を病床に呼んでこう言ったのです。「もう私は、病気で体が思うように動かないので、後の事はお前に任せたい」
しかし、大海人皇子を呼びに来た天智帝の家臣の蘇我安麻呂は、皇子に好意を持っていたので、忠告したのでした。
「言葉を選んで、どうか慎重に答えてください」
頭の回転の速い大海人皇子はピンと来ました。
天智帝は更に続けます。「そんなわけで、お前に皇位を譲ろうと思うのだがどうか?」
「兄さん、それはどうも。しかし、私も最近、病気がちで、任に耐えません。せっかくですが、ご辞退申し上げます。ついでながら、
私からもお願いがあります。前々から考えていたことですが、そのようなわけで出家したいと思います。兄さんからお許しが出れば、
早速、吉野に向かう準備をしたいと思うのですが、。。。」
「そうか、それは残念だ。しかし、そういうことなら、無理に頼めないな。仕方ない、大友皇子にでも継いでもらうか」
そういうわけで、大海人皇子は、家にある武器をすべて国の武器庫へ納めて吉野へ向かったとあります。ある人はこの事を耳にして、
「トラに翼を付けて野に放ったようなものだ」と言ったと書かれています。
この話のポイントは大海人皇子が出家して吉野に向かったのは、天智帝に殺されるのを防ぐためだということです。
天智帝が、皇位を譲るがどうか?と尋ねた時に、もしも、それを引き受けると言ったら、天智天皇は、大海人皇子を殺すつもりだった、と。
大海人皇子は、直ちに、坊さんになることによって野心のないことを示したので、殺されずにすんだと言うわけです。
誰が一体そういう話を
でっち上げたの?
もちろんこの話を考え出したのは藤原不比等です。このような話を作らないと、天智帝が善人のまま死んだことにならないからです。
しかし、実際には、天智帝は、豪族からは総スカンを喰らい、庶民の怨嗟の的になっていました。
「皆に、さんざ迷惑をかけたのだから、きっとロクな死に方はしない。今に見ていろ、きっとバチが当たるから」と、ほとんどの人たちは、
そう思っていたことでしょう。もう四面楚歌の状態です。実際にどのようなことをして、天智帝が皆から憎まれるようになったかは、
このページ (天武天皇と
天智天皇は同腹の兄弟ではなかった。) を見てください。
おそらく、百済から逃げてきた難民だけしか天智帝を支持する人は居なかったでしょう。もちろん、大海人皇子を統領とあおぐ新羅派は、
機会さえあれば、天智帝をバッサリやろうと命を狙っていたでしょうから。
そんなわけで、日本書紀では、大海人皇子は天智帝の同腹の弟で、皇位継承権が十分あるという書き方によって、
皇位を継承したことの正当性を説明し、弘文天皇を殺したことの言い訳としています。
しかし、どんなに事実をゆがめようとしたところで、あれだけのことをやっていれば、苦しんだ人、悲劇に巻き込まれた人がいたはずで、
そのような人たちが家伝、メモ、日誌として書きとめていた可能性が十分に考えられます。したがって、
どこかに隠された記録が残されているのは当然過ぎるほど当然です。今後、まだ発見されていない記録が出てくるだろうと思います。
次に示すものは、壬申の乱から400年後に皇円(こうえん)という坊さんによって書かれた『扶桑略記(ふそうりゃくき)』という本のなかに出てくるものです。
「12月3日に天智天皇が亡くなり、5日に大友皇太子が即位した。25歳である。一説に言う。天皇は山科の里に遠乗りに出かけたまま、
帰ってこなかった。山林の中に深く入ってしまい、どこで死んだか分からない。仕方ないので、その沓(くつ)の落ちていたところを墓とした。
殺害された可能性も考えられる。
その地は現在の山城国宇治郡山科郷(京都府山科区)北山である」
一方で真実を隠そうとした人たちがいた。これは、古事記と日本書紀の記述を読んで、歴史を振り返ってみると、くい違いや、
矛盾が見えてくるので、そう言うことができます。しかし、真実は隠し通せるものではありません。どこかに、真実を書きとめた人がいる。
あるいは、記録を残せなくとも、言い伝えによって家伝として伝わっているかもしれない。その子孫が、あるいは関係者が、後年、記録として残します。
皇円(こうえん)も、おそらくそのような経緯で、記録として残したのでしょう。これからも、そのような記録がもっと見つかるはずです。
忘れてならないことは、古事記や日本書紀を編纂する時に、参考書という名目で、地方王朝に伝わる歴史書を集めさせたのです。
しかし、本当の目的は、地方に残っている歴史書を焼却することだったわけです。なぜか? 現政権の正当性を説明するためには、
事実を都合のいいように変えて書かねばなりません。そのようなときに、地方に本当の事が書かれている歴史書が残っていては
現王朝は迷惑するわけです。したがって、古事記や日本書紀以外にも、日本の古代史を書いた書物がもっとたくさんあったのです。
このことについては、このページ
(古事記より古い書物がどうして残っていないの?)
で書きました。リンクをクリックすると、新しいウィンドーが開きます。読んでください。
このようなことは、何も、古代に限ったことではありません。特に要人の暗殺のような場合、現政権と深くかかわってきます。
したがって真実がそのまま伝わっては、政権の維持に支障をきたすことがあります。ケネディー大統領の暗殺がその良い例です。
この事件の重要証拠、あるいは書類が75年間封印されています。要するに、法律を作って、
そのような書類にタッチしてはいけないと決めたわけです。
このようなことが実際にアメリカで行われていると言うことは、とても信じられませんが事実です。このことは、
インターネットを使えばすぐに調べることができます。うそだと思われるなら、ぜひ関連サイトを覗いてみてください。
したがって、ケネディー大統領殺害の真相が明るみに出る頃には、暗殺が実行された
昭和時代に生まれた人はもうこの世にいません。民主主義の本家と言われる、アメリカでさえこのようなことをやっているわけです。
真実を書き換えられないので、隠すと言う手段に出たわけでしょう。ケネディー大統領の暗殺に関心のある人は、
ぜひこのページ (Gemstone File) を読んでください。
ところで、皇円(こうえん)と呼ばれる坊さんが、うそを書くと、利益に結びつくという理由が見当たりません。その当時は、現在のように、マスコミが、
面白半分に読者に受けるような記事を書く、と言うようなことはまだ行われていません。これに対して、これまで見てきたように、古事記と日本書紀のなかで、
当時の政権が正統性を説明したいという意図は十分に見て取れます。持統天皇が孫に皇位を継承させたこと、天孫降臨という神話を作って、
いかにも、日本古来の伝統であるかのように、この不自然な皇位継承の正当性をそれとなく書いていること。
過去の事実を自分に有利に書き換える、あるいは神話をでっち上げる。そのような理由で、この両書があまり当てにならないということは、今日、
多くの歴史研究者によって認められていることです。
このようなことを考えて、皇円(こうえん)の書いたものを読むとき、壬申の乱が「トラに翼を付けて野に放った」時に始まったのではなく、
新羅派、つまり天武派が天智天皇を暗殺したときに始まっていると解釈したほうが、一連の事件が無理なく非常に良く説明がつくのです。
最後に生き残り、繁栄してゆくものは誰か?それは藤原氏以外には考えられません。大化の改新から桓武天皇の平安遷都、またそれ以降、
源頼朝の鎌倉幕府設立まで、この間の歴史的事件には、藤原氏が深く関わっています。したがって、藤原氏が、大化の改新によって、
蘇我氏から実権を奪い取ってから、源頼朝によって実権を奪われるまでの時代は、決して『平安』時代ではありません。
このことは、このページ (渡来人とアイヌ人の連合王国 ・ 平安時代は決して平安ではなかった)
に書きました。
では、最もふさわし名前とは何か?と考えたとき、六韜時代か六韜主義時代が閃きます。このほうが、平安時代などと言う、宣伝臭い
時代名より、ピッタリします。しかし、よく考えてみれば、この時代名が、まさに、六韜主義によって藤原氏が名付けたものだという事が良く理解できます。
この六韜については、このページ (マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?)
を見てください。
大友皇子は天皇として
即位していた
日本書紀には、天智帝が亡くなった後で大友皇子が即位したと言うことが、書かれていません。天武王朝の正統性を日本書紀によって
伝えると言う目的がありますから、それが書けない事になります。なぜか?大友皇子が天皇として即位していたと書くと、大海人皇子(天武天皇)が
即位していた天皇を殺したことになるわけです。これは大逆罪です。
大逆罪と言うのは、刑罰の中でも最悪の罪ということになっており、これは、文句なく死刑です。明治時代に起こった大逆事件を、
あなたも歴史の時間に勉強したと思いますが、これなどはその良い例です。
「大逆事件」は、1910(明治43)年5月、信州の社会主義者・宮下太吉被告を含めた四名が、
「爆発物取締罰則違反」で逮捕された「明科事件」に端を発しています。要するに、
この人たちが天皇暗殺を企てたということを時の権力者がでっち上げたと言うのが、
現在、歴史研究者の間では、常識になっています。
大逆罪は極刑ですから、つまり、このような事件を起こすと死刑になります。時の政府にとって非常に都合の良い罪だったわけです。
どういうことかというと、当時の権力者にとって、
社会主義者、無政府主義者は目の上のタンコブでした。何が何でも取り除きたかったのです。
この「明科事件」の逮捕者が社会主義者の中心人物である幸徳秋水と強いつながりを持つ者であったことから、時の政府は、
この事件を利用し、天皇暗殺の「一大陰謀事件」を捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽に抹殺しようと企てました。
これが、事の真相であったということを、私も高校の日本史の時間に勉強しました。その結果、26名が逮捕され、24名に死刑判決が下った。
これが有名な「大逆事件」の概略です。
時の権力者、政府の首脳陣、こうした人たちを取り巻く、時の政権を担当している人たちというのは、このようにして、
法律や、裁判所を利用して、自分の都合のいいように、反対者を取り締まろうとします。これは、主義や、時代を問いません。
昔の、ローマ帝国であろうが、最近の、ロシア帝国であろうが、つい最近、駄目になったソ連であろうが、はたまた、
最大の権力を誇っているアメリカ合衆国政府であろうが、
このようなことは、遠い昔から権力者が行なってきたことです。
そこで、上の大友皇子に話を戻すと、大海人皇子は、実際に、この「大逆事件」を起こして政府を転覆させたのです。
これが、まんまと成功したわけでした。もしも失敗していたなら、彼は、「大逆事件」を起こした大悪人として歴史にその名を残していたでしょう。
しかし、事はそのようにはなりませんでした。大海人皇子は、政権を手中に収めました、そこで、
自分の王朝の正統性を、事件を良く知らない庶民や、後世の人たちに知らせなければ、政権が保てません。
そうでもしないと、同じ事が行われて、自分の首が飛びます。このために古事記と日本書紀が作られたわけです。
そして、上に見るような情報の操作がなされているわけです。
大海人皇子は、『臭いものに蓋』をしたつもりで居たでしょう。つまり、大友皇子が実は、
即位して天皇になっていたと言う事実を日本書紀の中では、それとなく隠したわけです。しかし、臭いものに蓋をしても、
匂いが出てきてしまいます。その匂いが、消えずに400年もの間、巷に漂っていたと言うわけです。その臭い匂いを
皇円(こうえん)と言う坊さんがハナにして『扶桑略記(ふそうりゃくき)』と言う書物に書き残したと言うわけでした。
真実と言うのは、そういうものだと思います。『火のないところに煙は立たぬ』とも言います。
ところで、弘文天皇という名前は、殺害された当時の今上天皇、つまり、大友皇子に明治になってから与えられたものです。
したがって、明治時代には、歴史学者の間では、上に述べたような大海人皇子による大逆事件が起こったことが知れ渡っていたようです。
しかし、昭和時代になると、事情が少し違ってきます。とりわけ、太平洋戦争中になると、政府による情報操作がはなはだしくなってきます。
この当時の歴史の教科書を見ると、『壬申の乱』については一言も書かれていません。皇国史観によって、天皇家が万世一系であることが強調されて、
皇国史観に反することが歴史から一切排除されています。天皇家が果たして万世一系であったかどうかは、このページ
(皇室は、本当に万世一系か? 継体天皇の謎に迫る)
を見てください。
一体どうやって天智帝を
暗殺したの?
「12月3日に天智天皇が亡くなり、5日に大友皇太子が即位した。25歳である。一説に言う。天皇は山科の里に遠乗りに出かけたまま、
帰ってこなかった。山林の中に深く入ってしまい、どこで死んだか分からない。仕方ないので、その沓(くつ)の落ちていたところを墓とした。
殺害された可能性も考えられる。
その地は現在の山城国宇治郡山科郷(京都府山科区)北山である」
上の記述を読んで分かる通り、天智帝は病気どころか、馬にまたがって遠乗りするほどピンピンしていたという訳です。したがって、
病気で床に就いていたという日本書紀の記述は、ウソと言うことになります。しかも、日本書紀には、天智帝の墓の所在が書かれていません。
墓を造らなかったのか?もちろん、そんなことはありません、ちゃんと造ったのです。じゃあ、どうして書かなかったのか?書けなかった。それで、
墓はどこにあるのか?
上の記述の中に出ている京都府山科の地にあります。
と言うことは、日本書紀の記述よりも、皇円(こうえん)が書いた『扶桑略記(ふそうりゃくき)』の方が正しい、と言うことになります。
では、真相はどうだったのか?大海人皇子は吉野へ行って、坊さんになったのではありません。それどころか、吉野に新羅・天武派の司令部を設置したのです。
ここに栗隈(くりくま)王と言う人が登場します。この人は天智10年(671)の6月に、九州の大宰府長官に任命されます。しかし、この時までに彼は、
他の多くの豪族たちと同様に天智政権に見切りを付けています。鎌足親子も、すでに大海人皇子と内通しています。ただし、鎌足は、
669年に亡くなってなっているので、もうこの時には、あの世の人です。
この後、半年もたたないうちに(671年11月)重要な使節が日本へやってきます。唐からきた郭務(かくむそう)という将軍です。この郭将軍は、白村江での戦い(663年)で
捕虜になった日本兵を1400人引き連れてやってきました。このことは日本書紀にも書いてあります。しかし、何の目的でやって来たのかは、書けなかったとみえて、
秘密にしてあります。
郭将軍が日本へやってくる前の年(670)には、668年に滅びた高句麗の遺将が唐に対して反乱を起こしています。
新羅は大軍を派遣してこの反乱を助けています。百済と高句麗を滅ぼすときには、新羅は唐と組んで連合軍を組織しましたが、唐が、やがて
新羅を属国として扱い始めると、はっきりと反発する態度を採りました。この高句麗の反乱を良い機会と見て、新羅は唐の勢力を取り除こうとしたのです。
そこで新羅は、唐の支配下にあった旧百済領を唐から奪還しようとします。670年の9月から、新羅は旧百済領へ侵攻します。
年が明けるとともに、百済の旧都・扶余(ふよ)を占領します。このような一連の事件を見れば分かるとおり、唐にとって、
朝鮮半島問題が重大な危機を迎えたわけです。
こういう国際情勢の下で、唐は、郭将軍を日本への使節として派遣してきたわけです。しかも、
白村江の戦いで捕虜になった1400人の日本兵を送り返してきました。この唐の目的について、日本書紀は何も書いていません。
書かなかったと言うよりも書けなかった。それが実情でしょう。
むしろ故意に隠したと言う方が的を得ているかも知れません。なぜなら、唐の目的を明らかにすると、政変によって
天智政権から新羅派政権が成立したことが見え見えになるからです。したがって、
天智天皇暗殺がはっきりしてしまいます。
郭将軍は、もちろん、大和朝廷・天智政権に対して『日・唐軍事同盟』を申し入れたのです。これは、新羅派にとっては、
絶対に阻止しなければならないことです。ところが、天智帝はこの軍事同盟を受け入れる意思を示します。
これは当然のなりゆきです。すでに書いたように、天智帝は四面楚歌の状態でした。何とかしなければならないとは、
当事者である天智帝自身が深刻に考えていたことでしょう。このような時に、唐から上のような申し出があったのですから、
天智天皇にとっては、いわば、タナボタ(棚から牡丹餅)です。
このような時に天智帝が重病であるわけがない。上で述べたようなタナボタがあれば、たとえ病床に就いていても、すぐに病気が回復してしまいます。
それほど、天智帝にとって、唐からの軍事同盟は、天からの恵みだったでしょう。これまでの事情を考えれば、すぐに分かることです。
八方塞の状態で、しかも鎌足親子の間には、ふさぐことが不可能なほどに亀裂が入っています。このことについては、
このぺージ (藤原鎌足と長男・定慧) で述べています。
天智帝は、鎌足の長男・定慧を殺すように命じたのですから。
藤原不比等が大海人皇子と結んで、今度は自分がやられる番だ。しかし、そうされてたまるものか!何が何でも阻止してやるゾ!
しかし、どうしたらよいものか。。。その時のタナボタです。
この時の天智帝の気分を想像してみてください。もうルンルン気分です。万葉集に出てくる額田王(ぬかだのおおきみ)の歌などを見れば分かるとおり、
大海人皇子を初め、天智帝も狩が好きな人でしたから、うきうきしながら山科へ向かったわけです。
もちろん、このようなことを見越していた新羅派が、絶好の機会を見過ごすはずがありません。すでに、天才的な政治屋の鎌足はこの世の人ではありませんが、
次男の藤原不比等は健在です。しかも、父親をしのぐほどに六韜を勉強していますから、天智帝暗殺計画についても、抜け目なく準備を整えています。
父親から、蘇我入鹿の暗殺の手順などは、もうすでに耳にタコができるほどに聞いて知悉しています。
しかも片腕になって動き回ってくれる人物が現れました。それが今は大宰府長官になっている栗隈(くりくま)王です。
天智帝は何も知らずに狩に向かいましたが、その行き着いた山科というところは、実は、この栗隈王の領地のすぐ近くだったのです。
栗隈と言う地名が残っています。
『飛んで火にいる夏の虫』 季節は違いますが、おそらく、新羅派の要人も含めて、天武帝と藤原不比等は、そう思いながらほくそえんだことでしょう。
栗隈王の領地では、手下が待ち構えています。そこへ,ルンルン気分で天智帝が、狩をしようと出向いてゆくわけですから、後はもう、
計画通りに事を運べばいいわけです。狩が始まってしまえば、弓矢を持って天智帝のそばへ近づいても、そう怪しまれることもありません。
なにしろ、栗隈王は大宰府長官です。しかもその人の領地から手助けに現れた人たちです。誰も殺し屋がやって来たとは思いません。
死体をかたずけるのも、そう難しいことではありません。後は、事故で行方不明になったとしてしまえばいいわけですから。
この頃の天智帝の回りには、百済から難民としてやってきた旧百済王朝の貴族が、新百済派を形成して側近として
仕えていました。大化の改新の後、天智帝が年を取るにしたがって独断的な親政を採ります。その頃から煙たがられていた鎌足親子は、
この人たちのために、ますます退けられていたわけです。 したがって、この機会は、一石二鳥です。藤原不比等に従わない者は、
この時にかたずけられていたはずです。
『壬申の乱』は
天智帝暗殺で始まった
したがって、『壬申の乱』は、むしろ、この時に始まったと見る方が、一連の事件との関連で、より的確だと思われます。
詳しいことは次のページに譲ります。
『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった (次のページ)
天智天皇は暗殺された (前のページ)
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