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愛と陰謀
2008年2月27日

愛と陰謀

柿本人麻呂の謎

人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、紀貫之が書いた仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれている
また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされ、以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。

1) 五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。

2) 律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっているが、『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

このように、紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」であったと『古今和歌集』の仮名序に書いているのですよ。ちょうど、明治政府が明治37年に紀貫之に「従二位」を追贈したように。。。

なぜですの。。。?

だから、僕は紀貫之は真相を知っていると思っているのですよ。

どのような真相ですか?

持統三年(689)草壁皇子(持統天皇の皇子、軽皇子の父)の挽歌に始まり、翌四年の吉野行幸や六年三月の行幸に関する歌を柿本人麻呂は多数残しているのですよ。しかも六年冬に行われた軽皇子(後の文武天皇)の安騎野行きにも御付きとして従っている。十年七月には高市皇子(天武天皇の皇子)の死去にあたって「渾身の傑作」と後世評価される挽歌も捧げている。それなのに、柿本人麻呂の「死」に対し「妻」以外、誰一人として哀悼の意を表し、歌を捧げた人がいなかった。しかも、正史に、この人のことが1行も書かれていない。この事は歴史の謎になっているのですよ。

つまり、柿本人麻呂が正三位であった事は正史に書かれていないのですか?

正史に書かれてないのですよ。

それなのに紀貫之は柿本人麻呂が「正三位」だったと『新古今集』の序文に書いたのですか?

そうですよ。出鱈目(でたらめ)ではないのですよ。

どうしてですの?

だから、このような形で政治批判をしているのですよ。現在にまで謎が残る形で奈良朝の政治の暗黒部分を我々に伝えようとしている。ちょうど大伴家持が、持統天皇の平凡な歌を載せたように。。。でもその歌の裏には政治の混乱が隠されていたのですよ。

つまり、『伊勢物語』もそのようにして紀貫之が本音では“政治批判の書”として編集した、とデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよ。

。。。で、具体的には。。。?


『愛と怨霊 (2008年2月25日)』より

デンマンさん。。。一昨日は、ちょうど盛り上がる所で終わってしまったのですわ。

続けて読んでもらうには、そうするのが一番いいのですよ。

。。。で、たくさんの人が読んでいるのですか?

実は、レンゲさんのエロい話があまりないので、読む人が少なくなったのですよ。うへへへへ。。。

デンマンさんは。。。、デンマンさんは、やっぱり、あたしがエロい女だと思っているのですわね?

違いますよう。レンゲさんはエロい女ではありませんよ。僕はエロい話題が少なくなったので、最近、この『レンゲ物語』を読む人が少なくなったと言っているだけですよ。

でも、エロい話題は読まれているのですか?

そうですよ。僕はびっくりしているのですよ。

何をびっくりしているのですか?

ちょっと次の「リンク元キーワード」のリストを見てくださいよ。

分かるでしょう?“下つき”が3位なんですよ。つまり、“下つき”と言うキーワードを検索エンジンに入れて検索した結果、表示されたページの中からリンクをクリックして『宇宙の摂理ブログ』にやって来た人が過去30日に77人居ると言う事なんですよ。

どの記事を読みに来るのですか?

次のレンゲさんの記事ですよ。

■ 『下つきだねって言われて。。。(2006年3月18日)』

なんと、2年ほど前に書いた記事ですよ。レンゲさんも覚えているでしょう?

ええ。。。よ~く覚えていますわ。。。それで、どうしてこの記事が読まれるのですか?

だから、エロいからですよ。エロいと言う言葉が適切でないのならば“シモい”話題だからですよ。この30日の間に急に読みに来る人が増えたのですよ。2月1日に調べた時には、次に示すように過去30日に“下つき”を検索してやって来た人は26人だったのですよ。

どうして急に増えたのですか?

はっきりとした原因は分からないけれど、“シモい”話題だからですよ。うしししし。。。後で調べて記事に書くつもりですよ。本当は今日書くつもりだったのだけれど、中途半歩にシモい話題に飛びついて書くのはシモい事だと思って止めたのですよ。ウへへへへ。。。

つまり、歴史の記事よりはシモい記事の方が読まれるのですか?

シモい話題に関心がある人がたくさん居ると言うことは確かですよ。でもねぇ、なぜ急に増えたのか?それは今すぐには分かりません。いづれ調べて記事に書くつもりですよ。

いづれにしても、これから書くデンマンさんの記事はあまり読まれないのですか?

歴史に偏りすぎているので、歴史に関心のない人はつまらないようですよ。

でも、書くのですか?

歴史バカさんが退屈紛れで冷やかしのコメントを書いたのでこうなってしまったのですよ。

記事が読まれない責任をデンマンさんは歴史バカさんに、なすりつけてしまうのですか?

いや、違いますよう。乗りかけた船ですからねぇ、この船が岸に着くまで乗ってゆかねばならないですよ。しかも、この記事を読んでいる人の中には、紀貫之が『伊勢物語』で一体どのような政治批判をしているのか?この事に興味を惹かれて読みに来た人だって居るでしょうからねぇ。。。それに僕だって、この話題には興味があるのですよ。とにかく、そうやって読みに来る人に責任のようなものを感じていますよ。だから、歴史バカのコメントに答えると言うよりも、この歴史的に意味のある『伊勢物語』について、もう少し突っ込んで書きたいと思っているのですよ。

分かりましたわ。それで、一昨日、最後にデンマンさんがおっしゃっていた持統天皇の平凡な歌って、どの歌を指しているのですか?

次の歌ですよ。

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山

これを文字通りに解釈したら全く平凡で、つまらない歌ですよ。“もうすぐ夏になるのだなあああぁ~、香具山のふもとで農民が白妙を干しているから。。。” 初めてこの歌を読んだ時、僕はこの歌の素晴しさが全く分かりませんでしたよ。一体、何のために大伴家持(おおともやかもち)は、この歌を『万葉集』に載せたのか?

今のデンマンさんには、大伴家持が上の持統天皇の歌を『万葉集』に載せた理由が分かるのですか?

分かります。上の歌は次のように解釈する事ができるのですよ。

春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。

上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだのです。

この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。
この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。
現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。
僕(デンマン)もそう考えています。

つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。
“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。
とにかく、証拠がないんですよ!

しかし、状況証拠を寄せ集めれば、このような解釈しか僕にはできないんです。
関心のある人は、なぜ僕がこのように解釈したのか?を理解するために、ぜひ次の2つの記事を読んでくださいね。

■ 【いにしえの愛を求めて。。。】
『万葉集の中の持統天皇のあの有名な天香具山の歌は、
大津皇子の怨霊を鎮魂するために詠われたのでしょうか?』

■ 【いにしえの愛を見つめて。。。】
不破内親王(安倍内親王とは異母姉妹)は悪霊扱いされています。
果たして悪霊にあたいするのでしょうか?』

僕は、生前、司馬遼太郎さんが言った事を思い出しますよ。

“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。作者が50%で読者が50%。。。そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”

名言だと思いますねぇ~~。

あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!

持統天皇が、おそらく全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのが上に示した歌です。

あなたも、全身全霊の力を込めて。。。あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。

大伴家持は一読者として持統天皇の歌を充分に読み取った上で万葉集に載せたのだと思いますね。

大伴家持は、1250年後に生まれるだろうあなたに、この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、女帝の歌を万葉集に載せたのかも知れませんよ。

つまり、この歌の表面的な意味は、天の香具山の麓で農民たちが白妙の衣を干している、という事ですよね。
僕は初めてこの歌を読んだとき、どうしてこの歌がそれ程読むだけの値打ちがあるものか?
正直言ってさっぱり分からなかったですよ。
僕の感性に訴えてこなかった。

ところが大津皇子の事件を調べてゆくうちに、
この歌が、急に関連があるように思えてきた。
それで、僕は上のように解釈したんですよ。

味も素っ気もなかった歌が、このように解釈する事によって叙事詩的に広がりを持ってくる。
自分ながら、面白いと思いましたよ。


『いにしえの愛とコミュニケーション (2007年1月8日)』より

香具山と藤原宮と磐余(いわれ)の池の地理的な関係、それに、大津皇子が磐余(いわれ)の池の端で自害したという歴史的な事実、さらに、持統天皇の性格や生い立ち、。。。このように多面的に持統天皇の歌を解釈するとき、これまでの解釈からでは見えてこない部分が見えてくる。つまり、持統天皇の上の歌は、実は大津皇子の事件と密接な関連がある。しかし、この関連性は、どの文書史料(文献)にも書かれていない。でもねぇ、持統天皇の歌を多面的に解釈すれば、上のように読み取る事ができるのですよ。

つまり、紀貫之は大伴家持と同じような意図を持ちながら『伊勢物語』を編集したとデンマンさんはおっしゃるのですわね?

そうですよ。

。。。で、紀貫之は『伊勢物語』の中で具体的にどのような政治的批判をしようとしているのですか?

『伊勢物語』には紀氏との関わりの多い人物が多く登場しているのですよ。在原業平(ありわらのなりひら)は紀有常(実名で登場)の娘を妻としています。その有常の父・紀名虎の娘(紀静子)が惟喬親王と恬子内親王と珍子(よしこ)内親王を産んでいます。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されているのですよ。

なぜですか?

つまり、藤原氏との政争に敗れた事を強調しているのですよ。それにもかかわらず、紀氏は優美であったという事を『伊勢物語』の中で紀貫之は描こうとしているのですよ。

その政争とは。。。?具体的にはどのようなものだったのですか?

惟喬(これたか)親王が文徳天皇の第一皇子だったにもかかわらず皇太子になれなかった。第四王子の惟仁(これひと)親王が皇太子になったのですよ。

なぜですか?

文徳天皇が即位した850年に藤原良房の娘の明子が初めて文徳の皇子を産みました。これが文徳天皇の第四皇子の惟仁親王ですよ。

文徳天皇は皇太子時代に既に他の妃に3人の皇子を産ませていたのですか?

そうですよ。第一皇子の惟喬親王の母親が紀氏の一員・紀名虎の娘の静子なのですよ。在原業平(ありわらのなりひら)と一夜の契りを交わした斎宮・恬子内親王の母親でもある女性ですよ。

つまり、6才の惟喬親王でなく、生まれたばかりの赤ちゃんが皇太子に立てられたのですか?

そうですよ。藤原良房が赤ん坊の惟仁(これひと)親王の立太子にこだわったのです。当然の事ですよ。自分の娘の産んだ子供だったからです。つまり、自分の孫を天皇にしたいという気持ちがあった。天皇の外祖父として権力を握りたかった。実際そのようになったのです。惟仁親王は858年に即位して清和天皇になるのですよ。

でも、なぜ、そのような無理が通ってしまったのですか?

すでに紀氏の権力は脆弱だったのですよ。紀名虎は3年前の847年に亡くなっていました。惟喬親王のバックアップ(権力基盤)はあまりにも脆弱だったのですよ。だから無理が押し通ってしまった。

どのように。。。?

前代未聞の8才の幼帝の出現ですよ。それを平然と強行した藤原良房と藤原氏に対して朝廷内に批判が起こらなかったらウソですよね。

その批判は事件に発展したのですか?

その通りですよ。惟仁親王が858年に清和天皇として即位してから8年後の866年に応天門の変が起こります。この政変で大伴氏と紀氏は決定的に打撃を受けて、これ以後、この2つの名族は政治の舞台から姿を消すのですよ。

応天門の変

応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。

大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣・源信(みなもとのまこと)と不仲であった。
源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。

応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言で無罪となった。
その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。
これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。
藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。

藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣・源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。

参議・藤原基経(もとつね)がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。

朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。
伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。
また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。

この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

でも、応天門の変の時には清和天皇は元服して成人になっていたでしょう?。。。天皇としての権力を行使できなかったのですか?

うん。。。確かに、誰だってそう思いますよね。レンゲさんの言うように応天門の変の2年前、864年に清和天皇は元服していたのですよ。つまり、法律的には成人になっていた。だから、天皇として権力を行使できる。

それなのに、なぜ?

この応天門の変の張本人とされた大納言・伴善男(とものよしお)を清和天皇は信頼していたのですよ。でもねぇ、伴善男は藤原氏によって、すっかり悪者にされてしまったのですよ。

つまり、清和天皇は事件を解決した藤原良房に遠慮したのですか?

そうですよ。だから、これも藤原良房とその息子の藤原基経(もとつね)の陰謀ですよ。清和天皇は元服していたにも関わらず、自ら実権を行使しないで藤原良房を正式に摂政に任命してしまったのですよ。つまり、私は引っ込んでいますから、後はよろしくお願いします、と天皇は言った訳ですよう。

それ程、天皇の立場は弱かったのですか?

。。。と言うより、それ程藤原氏が横暴を極めたと言うことですよ。

反対した人も居たのでしょう?

だから、その反対する人たちを応天門の変で、すべて根絶(ねだ)やしにしてしまったのですよ。大伴氏と紀氏の没落は応天門の変で決定的になったのですよ。

つまり、紀貫之は『伊勢物語』の中で藤原良房とその息子の藤原基経(もとつね)の陰謀を告発しているのですか?

僕は、そう見ているのですよ。『伊勢物語』の中に藤原基経(もとつね)の抜け目のない暗躍が描かれていますよ。

五、むかし、をとこありけり。東の五条わたりに・・・

東の五条あたりに、忍んで行っていました。
土塀の穴からこっそり通っていましたが、度重なったのであるじが聞きつけ、通い道に毎夜人をおいたので行っても会えなくなりました。
歌を送ったらその女性が悲しんだので、あるじは通うのを許しました。
二条の后に忍んでいったのを、世間の聞こえがあるので兄人たちが守らせたのだということです。

この「二条の后」と言うのは藤原高子(たかいこ)のことです。清和天皇の女御になるのですが、通称「二条の后」と呼ばれていました。まだ、高子が清和天皇の后(きさき)になる前の話です。この高子の住んでいた家に夜毎通っていたのが紀氏と関係が深い在原業平(ありわらのなりひら)ですよ。

それで、「兄人たち」の一人が藤原基経ですか?

そうですよ。高子と業平は駆け落ちするのですが、基経は高子を無理矢理連れ戻すのですよ。

なぜですか?

高子を業平にくれる訳にはゆかないからですよ。

なぜ。。。?

高子を政略結婚の手段に使う必要があるからですよ。つまり、在原業平は、“そうはさせるものか!” と高子の清和天皇への入内を妨害する行動に出たわけですよ。藤原氏に対抗しているようにも読めるのですよ。

在原業平には、藤原氏に対抗しなければならないような事情でもあるのですか?

もちろん、大有りですよ。藤原氏の陰謀で天皇になれなかった惟喬親王は出家して小野に隠棲するのですよ。この惟喬親王と深く交流したのが紀有常で、これは紀名虎の息子で惟喬親王にとっては叔父にあたります。この紀有常の娘を妻としていたのが在原業平ですよ。

つまり、惟喬親王と在原業平は義理の従兄弟にあたるわけですね?

その通りですよ。この在原業平は藤原氏による最初の他氏排斥事件である承和の変(じょうわのへん)の直後に変の真相を知りながら急死した阿保親王の息子です。だから、常に反藤原的立場に立っていたのですよ。隠棲後の惟喬親王とも親しくしていました。

なるほど。。。紀貫之は、そのあたりの事をそれとなく『伊勢物語』の中に書き込んでいるわけですね?

そう言う事になります。

。。。で、在原業平は六歌仙の一人ですけれど、この六歌仙もこの政争に関係しているのでしょうか?

関係しているのですよ。今日の記事は長くなりすぎたから、この事については、またあさって話しますよ。

 

【レンゲの独り言】

う~~ん。。。
今日も、いいところで終わりになってしまいましたよね。
六歌仙と政争。。。?
小野小町も六歌仙の一人ですわ。
全く関係ないように思えるのですけれど。。。

あなたは、どう言う事が隠されていると思いますか?
また、あさって読みに戻ってきてくださいね。

では。。。

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

わたしは日本史は特に勉強した事がないので

詳しいことは知らないのですけれど、

六歌仙の小野小町の事は知っていますよ。

伝説上の女性だと思っていたのですけれど、

小野小町と言う歴史上の人物は

居たようですよね。

でも、伝説の方が有名になってしまったようです。

生まれたのは現在の秋田県湯沢市小野という説が

最も知られているようです。

お米の品種「あきたこまち」や、

秋田新幹線の列車愛称「こまち」は

小野小町の名前に由来するそうです。

現在でも、小野小町はそのようにして

生きているのですよね。

ところで、これまで書いたレンゲさんの記事を集めて

デンマンさんが一つにまとめました。

もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、

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■ 『最近のレンゲ物語 特集』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしてくださいね。

じゃあね。


 





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