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時代の落とし子
2008年9月2日

ミシュリーヌ・プレールと

ジェラール・フィリップ

■ 『肉体の悪魔』 (映画紹介)

今日は「肉体の悪魔」を書いたレイモン・ラディゲの事についてお話しするのですか?

そうですよう。わずか20才で亡くなってしまったのですからねぇ~。

つまり、デンマンさんはラディゲが早死にして可哀想だと思うのですか?

うん。。。確かに同情しますよねぇ。自分の人生を振り返って、もし、自分が20才で死んでいたら。。。?

どうなっていたと思います?

僕は、全く何もしないで死んでしまった事になるのですよう。。。海外にも出てゆく機会を奪われて、バンクーバーのパラダイスも見ずに死んでしまったと言うことになるのですよう。

デンマンさんはバンクーバーで暮らしている事をマジでパラダイスに住んでいると信じているのですか?

僕はマジで信じていますよう。30カ国以上を放浪しましたからね。それは僕が20才を過ぎてからの事ですよう。いろいろな土地を訪れて。。。それで、最終的にバンクーバーを僕のパラダイスだと決めたのですよう。

。。。で、30才を過ぎてからバンクーバーに住んでいるのですか?

そうですよう。だから、僕が20才で死んでいたら、バンクーバーを見なかったどころか、ネットの世界にも、まったく僕が生きていたという痕跡を残さなかったのですよう。考えてみるだけでも、悲惨と言うか。無念と言うか。。。人生の儚(はかな)さをしみじみと感じますよう。

。。。で、今、デンマンさんが小百合さんのために書いている『ロマンポルノ 第3部』は、もしかして「肉体の悪魔」のつもりで書いているのですか?

うへへへへ。。。それ程力(りき)んで書いているわけじゃないけれど、でも、“遺書”のつもりで書いているのですよう。

マジで。。。?

もちろん、半分冗談ですよう。うしししし。。。

デンマンさん、あまり冗談は言わないでくださいね。真面目に読んでいる人の方が多いのですから。

分かりました。

それで、どうして『時代の落とし子』と言うタイトルにしたのですか?

僕は、レイモン・ラディゲが、まさに、“時代の落とし子”だと思うからですよう。

どう言う事ですか?

つまり、第一次大戦中にレイモン・ラディゲが10代を過ごしていなかったら、おそらく世界の文学史の中でも天才中の天才にならなかったかもしれない。僕はそう思っているのですよう。

それ程、ラディゲが第一次大戦中に10代を過ごしたことが重要なのですか?

僕は、そう信じていますよう。久しぶりにレイモン・ラディゲの経歴をもう一度じっくりと読んでみたのですよう。レンゲさんも、ちょっと読んでみてください。

レイモン・ラディゲ

(Raymond Radiguet)

1903年6月18日にフランスはパリの郊外、サンモール・デ・フォッセで生まれる。
1923年12月12日に、まだ20才なのに腸チフスで亡くなる。
フランスで生まれた小説家、詩人。

生涯

幼少の頃は学業優秀でならすものの、思春期にさしかかる頃から文学にしか興味を示さなくなり、
学業そっちのけで風刺漫画家として活動していた父の蔵書を読み耽るようになる。
そのときフランス文学の古典の魅力にとりつかれる。

14才の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分になる。
その後、自宅で父親からギリシア語とラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染める。

15才の時に父親の知り合いの編集者のつてをたどって知り合った詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、同じ詩人のジャン・コクトーに紹介される。
コクトーはラディゲの才覚を見抜き、自分の友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわる。
数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移しはじめ、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかる。

途中、詩集『燃ゆる頬』、『休暇中の宿題』の出版や、いくつかの評論の執筆を行ないつつ、「肉体の悪魔」の執筆を続行。
数度のコクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行される。
このとき出版社は新人作家対象としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びるが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼びベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになる。

「肉体の悪魔」で得た印税を元手に、コクトーとともにヨーロッパ各地を転々としながらも、
ラディゲはすでに取りかかっていた次の作品『ドルジュル伯の舞踏会』の執筆を続行。
同時に自分がこれまで書いた評論などの原稿や詩作を整理しはじめる。

1923年11月末頃に突如、体調を崩し腸チフスと診断され入院。
病床で「ドルジュル伯」の校正をしながら治療に専念するが、快方には向かわずそのまま20才の短い生涯を閉じる。

遺作の「ドルジュル伯の舞踏会」は、死後出版された。
コクトーはラディゲの早すぎる死に深い衝撃を受け、その後およそ10年にわたって阿片に溺れ続けた。

フランス文学界での位置づけ

ラディゲのフランス文学史全体における位置づけは、作家としての活動期間が短かく、作品の本数も少ないせいもあってか決して高くはない。
しかし処女小説「肉体の悪魔」は、題材のセンセーショナルさに溺れることなく、
年上の既婚者との不倫に溺れる自らの心の推移を冷徹無比の観察眼でとらえ、
虚飾を排した簡潔な表現で書きつづったことで、
今日もなお批評に耐えうる完成度に達している。

「ドルジュル伯の舞踏会」に至っては、
ラディゲ自らが参考にしたとしているラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を、
高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、
別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げていることからも、
「夭折の天才」の名にふさわしい文学的実力の持ち主であったことが容易に推察される。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

でも、上の経歴の中には第一次大戦の事はまったく書かれていませんよね。

そうです。この項目を書いた人は、ラディゲにとって第一次世界大戦は、それ程重要でないと思っているのでしょうね。

でも、デンマンさんは重要だと断定するのですか?

そうですよう。ラディゲが書いた「肉体の悪魔」を読めば、第一次世界大戦が彼に極めて重要な影響を与えた、と言う事が良く分かりますよう。

たとえば。。。どういうところがですか?  

「肉体の悪魔」を書いたレイモン・ラディゲは早熟だった。14才の頃、「肉体の悪魔」のモデルとされる年上の女性と出会った。第一次大戦中のことですよう。婚約者が戦争に行っている間に二人の関係は深まってゆく。

つまり、第一次世界大戦がなかったら、ラディゲは「肉体の悪魔」を書くことはなかったと。。。デンマンさんは、そう思っているのですか?

そうですよう。

でも、「肉体の悪魔」は自伝的要素が強い作品だけれど、ラディゲと実際の年上の女性の関係をそのまま作品にしたのではないと言われていますよね?

その通りです。小説では相手の女性は4才年上になっているけれど、実際には10才ほど年が離れていたらしい。僕は、実際の女性は小説で書かれているマルトよりも、ずっと大人だったよう思うのですよう。

どうしてですか?

僕はその女性こそ、ラディゲにとってラファイエット夫人を想わせるような人物ではなかったかと勝手に想像を膨らませているのですよう。つまり、文学的にも人生的にもラディゲの先生になれるような人物ですよう。作品の中のマルトは、決してそのような人物ではありません。

ラファイエット夫人

ラファイエット夫人マリー=マドレーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ=ラファイエット夫人
(Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette、
1634年3月18日(洗礼日) - 1693年5月25日)、
いわゆる、ラファイエット夫人(Madame de La Fayette)は、フランスの女流作家。

生涯

1634年にパリに下級貴族の家庭で生まれ、若くしてギリシャ語、ラテン語、イタリア語などを学んだ。
少女時代から摂政母后アンヌ・ドートリッシュに仕え、サロンの花形となった。
1655年、ラファイエット伯爵と結婚。
オーヴェルニュの領地に暮らすが、1660年ごろには夫婦仲は疎遠になっていた。

シャイヨのサント・マリー修道院にいる2人の妹達を度々訪ねるうちに、
亡命中のチャールズ1世の未亡人であったヘンリエッタ・マリアと末娘の王女ヘンリエッタ・アンの知遇を得た。
ラファイエット夫人は下級貴族の出身に過ぎなかったが、10才年下のへンリエッタと深い友情で結ばれ、
その友情は生涯変わらず、へンリエッタ・アンの最期も看取った。

義兄ルイ14世とへンリエッタの不倫を擁護するために、小説を刊行する。
『クレーヴの奥方』などの作品を残し、1693年に死去。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

でも、デンマンさんは、どうしてそのように思うのですか?

ラファイエット夫人は、上の経歴を見ても分かるようにギリシャ語、ラテン語を学んでいる。レイモン・ラディゲもギリシャ語、ラテン語を学んでいる。僕は、現実世界でラディゲが出会ったと言う年上の女性もギリシャ語、ラテン語を学んでいる、と憶測しているのですよう。

なぜ。。。?

作品の中に登場するマルトのような女性にはラディゲは、実際にはそれ程の関心を示さなかったと思いますよう。

つまり、ラディゲが現実に出会った女性はマルトよりもラファイエット夫人のような人だったと。。。?

僕は、そう思っているのですよう。しかも、その年上の女性がラファイエット夫人が書いた「クレーヴの奥方」を読むようにラディゲに薦めたのではないか。。。

クレーヴの奥方

『クレーヴの奥方』(クレーヴのおくがた、La Princesse de Clèves)は、ラファイエット夫人が書いたフランスの小説。
フランス文学史においては最初期の小説の一つで、また恋愛心理小説の祖とも言われる。1678年3月、匿名で出版された。
1世紀前のアンリ2世の王宮が舞台で、その時代をきわめて緻密に再現している。ヒロイン他数人を除く登場人物は実在の人物で、
そこで起きる事件も歴史に忠実に展開される。

あらすじ

シャルトル嬢は16才の美しい女相続人。
父親は早くに死に、母親の手で厳格に育てられてきた。
その母親に連れられて宮中に行った時、クレーヴ公が彼女を見そめ、結婚を申し込む。
シャルトル嬢はあまり乗り気でなかったが、母親の薦めもあり、クレーヴ公と結婚し、「クレーヴの奥方」となる。

結婚してまもなくして、奥方はルーヴル宮で催された舞踏会でヌムール公と出会う。
2人はたちまち恋に落ちるが、お互いの思いを打ち明けることはない。
そんな時、母親が危篤に陥る。
母親は奥方がヌムール公を好きなのに気付いていたが、夫に尽くす義務を忘れてはいけないと言い残して死んでゆく。
奥方はヌムール公を避けるようになる。

奥方の肖像画が盗まれる。犯人はヌムール公で、
奥方はその現場を目撃するが見逃す。ヌムール公は奥方の好意に感謝する。

ヌムール公にスキャンダルが持ち上がる。ヌムール公がある女性に宛てたらしい手紙が見つかったのだ。
それを聞いた奥方は激しい胸の痛みをおぼえるが、それが嫉妬だということには気付かない。
しかし、実はその手紙は奥方の叔父であるシャルトル侯のものだとわかり安堵する。
ヌムール公は叔父の窮地を救ってもくれ、2人はこれまでになく親密な関係になる。

夫のクレーヴ公が奥方の挙動を不審に思い、問い詰める。
奥方は身の潔白を証明するために、相手の名を伏せて、好きな男がいることを正直に打ち明ける。
夫は激しい嫉妬におそわれる。
相手はきっとヌムール公に違いないとあたりをつけ、近侍に探らせると、
はたしてヌムール公が夜中に奥方の元に忍んで行ったことがわかる。
この時、奥方はヌムール公と会うことを拒んだのだが、夫はそう思わず、絶望のあまり病に倒れる。
死の床で夫は奥方の不義を責める。身に覚えのないことを言われ、奥方は深い悲しみを味わう。

クレーヴ公の死で障害がなくなったヌムール公は、あらためて奥方に告白する。
奥方もヌムール公をこれからも愛していくだろうことは認めるが、
それ以上のことはできないとヌムール公の元から去ってゆく。
奥方はその後、修道院に入って、若くして亡くなった。

評価

『クレーヴの奥方』は出版当時、商業的に大変な成功をおさめた。
「パリの外側」ではこの本を手に入れるのに、何ヵ月も待たなければならなかったほどである。
この本の著者が誰なのか、奥方はどうして夫に不倫感情を告白する気になったのかなど、さまざまな論争も起こった。

影響

最初の心理小説の一つであるだけでなく、
最初のroman d'analyse(分析小説)として、
『クレーヴの奥方』は、文学史の大きなターニング・ポイントとなった。

それまで、広くロマン(小説)と呼ばれていたものは、
主人公が困難に打ち勝って幸せな結婚をするという信じがたい話で、
しかも、本筋とは関係ないサブプロットが無数にあり、
長さも10巻〜12巻もあるものだった。

『クレーヴの奥方』が小説の歴史を変えたのは、何よりも、現実的なプロットとキャラクターの内面心理を表す内省的な言葉によってであった。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラディゲの経歴を読んでも分かるように、彼が亡くなる前に書いた「ドルジュル伯の舞踏会」は、『クレーヴの奥方』を読んで、それを参考にして書いた。しかも、高度に文学的な手腕で、別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げている。そう言われているのですよう。

でも、デンマンさんは、次のように書いていましたよね?

レイモン・ラディゲがフランスの古典に親しみ、

ラファイエット夫人に傾倒した事が、

彼が年上の女性に憧れを持つ直接の原因になった


『肉体の誘惑 (2008年8月17日)』より

考え方を変えたのですか?

う~ん。。。いろいろ考えてみたのだけれど、僕はラディゲが出会った年上の女性こそ古典に関心があって、ラディゲに文学的な影響を与えたのではないか。。。そう思うようになりましたよう。また、そう考えた方が面白いですよね。うへへへへ。。。  

【レンゲの独り言】

ですってぇ~。。。
確かに、その方が興味深いお話になるのですが。。。
でも、根拠が希薄だと思いますわ。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、面白い話がまだ続きます。
どうか、また、あさって読みに戻ってきてくださいね。
では、また。。。

メチャ面白い、

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こんにちはジューンです。

堀辰雄は1930(昭和5)年に

『聖家族』で文壇にデビューしました。

でも、その頃から肺を病み、

軽井沢に療養することも多く、

そのために軽井沢を舞台にした作品を

多くのこしたのです。

当時、多くの人が肺結核にかかっていますよね。

今では、肺結核は決して不治の病ではありませんが、

当時は、不治の病と考える人が多かったようです。

1934年、堀辰雄は矢野綾子と婚約するのですが、

彼女も肺を病んでいたのです。

そのため、翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に

二人で入院しました。

しかし、綾子はその冬に亡くなります。

この体験が、堀の代表作として知られる

『風立ちぬ』の題材となったのでした。

もしかすると、レイモン・ラディゲが慕った

年上の女性も矢野綾子のように若くして

亡くなったのではないかしら。

それで、ラディゲはその年上の女性を

「肉体の悪魔」の中で“マルト”として登場させたのです。

彼女のプライバシーを守るために

マルトは4才年上の女性として描かれたのです。

「肉体の悪魔」は、その女性のための

鎮魂の作品のような気がするのです。

あなたは、どう思いますか?

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


 





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