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ワイセツと芸術
by デンマン & レンゲ
2010年11月28日
「エログロナンセンス」の時代
特有の、妖しげな表現に 魅せられました。 2007-04-13 13:53
デンマンさん で、回答へとまいりますね。。。 江戸川乱歩全集に関してですが、 乱歩の作品自体については、
「人間椅子」での、愛する女性のソファに、 そういえば… 「チャタレイ夫人の恋人」ですが… 小学生のわたしに、 女性が自らの性欲を恥じる必要など フロイトも、ヒステリーの原因は、 by レンゲ 『ゴスロリと黒パンツ』より
デンマンさん。。。あんさんはレンゲさんの手記を持ち出してきてワイセツな話をしようとしてるん?
やだなあああァ~。。。わては芸術の話をしようとしているのやでぇ~! そやかて、その前に“ワイセツ”がついてますやん。 めれちゃんは“ワイセツ”にこだわるのやなァ~。。。 あんさんがこだわるさかいに、タイトルの初めに“ワイセツ”を持って来たのやないかいなァ。 それやったら、『芸術とワイセツ』に変えるわァ。 もう、遅すぎますねん。。。で、レンゲさんが「チャタレイ夫人の恋人」を読んだ事がワイセツやと、あんさんは言わはるのォ~? いや。。。わては、そのような事を言うておらんでぇ~。。。 これから、言わはるのやろう? ちゃうねん。。。わては、たまたま「チヤタレー事件判例」を読んだのやァ。 それで、この記事を書く気になったん? そうなのやァ。。。めれちゃんが書いた手記を持ち出そうとしたのやけれど、見つけることができへんかった。 それで、レンゲさんの手記を持ち出してきやはったん? そうなのや。。。そやけど、思い返せば、めれちゃんもレンゲさんと同じような事を以前に言っていたなァ~? そうでしたやろか? そうなのやァ。 めれちゃんは次のように言うてたと思うのやァ。 わたし、「チャタレイ夫人の恋人」を読みましてん。
うふふふふ。。。
ぶっちゃけエロい箇所の拾い読みでしたわ。
そやけど、あまりエロい所はありまへんかった。
あの小説の大半は、
ロレンスの思想の展開とちゃうん?
そやけど、小学生のわたしに、
そんなものを理解できるような
知性も理解力もおまへんでしたわ。
大人になってから読み返したのやけど、
うふふふふ。。。
森の番人の野卑でありながら、
深い洞察力に満ちた性格に、
わたしは恋愛感情にも似た気持ちを持ちましてん。
おまけに、森の番人はセックスが上手ですやん。
うしししし。。。
女性が自らの性欲を恥じる必要などないと、
わたしはあの小説によって知りましてん。
フロイトも、ヒステリーの原因は、
性的欲求不満であると言うてましたわ。
セックスとは、愛を基盤とした
自由なものであるべきやと、
わたしは信じてますねん。
どうや、めれちゃん。。。このような事を言うた覚えがあるやろう?
勝手に決め付けんで欲しいわ。。。わたし、上のような下品な事を言うた覚えがありまへんわ。 さよかァ~?。。。めれちゃんが言うたと思うのやけれどなァ~。。。 それで、「チヤタレー事件判例」を読んで、どないしやはったん? どないも、こないも。。。めれちゃんの言うた事を思い出したのやがなァ。 そやけど、わたしは上のような事を言うてへん。。。 さよかァ~。。。とにかく、次の箇所が最初に目に付いたのやァ。
「チヤタレー夫人の恋人」は英文学界において名前が通つているA3の長編小説であり、芸術的観点からして相当高く評価されている作品である。
それは小説の筋の運び方や、自然、社会、登場人物の性格の描写、分析や、著者の教養の広さを示すところの、ユーモアと皮肉に富む対話などからして、著者の芸術的才能を推知せしめるものがある。 (中略) 話の発端は第一次大戦において負傷し、性的機能を失つた若い貴族のクリツフオードとその妻コニ―との、中部イングランドのラグビー邸における彼女にとつて不自然で退屈な生活である。 そしてこの構造は思想的、社会的、経済的の主題によつて肉附がなされているのである。 そしてその主題の中で全篇を一貫する最も重要なものは、性的欲望の完全な満足を第一義的のものとし、恋愛において人生の意義と人間の完成を認めるかのような人生哲学である。 かような人生哲学からして著者は彼の祖国のみならず他の国々においてもあまねく承認されているところの、性に関する伝統的な、彼のいわゆる清教的な観念、倫理、秩序を否定し、婚姻外の性交の自由を肯定するが、同時に性的無軌道な新時代の傾向に対しても批判的であり、精神と肉体との調和均衡を重んずる性の新な倫理と秩序を提唱しているものであること本書の内容、著者自身の序文、その他の著書および原判決において引用するA3の書翰からして推知できるのである。 この点から見て本書がいわゆる春本とは類を異にするところの芸術的作品であることは、第一審判決および原判決も認めているところである。 しかしながらA3の提唱するような性秩序や世界観を肯定するか否かは、これ道徳、哲学、宗教、教育等の範域に属する問題であり、それが反道徳的、非教育的だという結論に到達したにしても、それだけを理由として現行法上その頒布、販売を処罰することはできない。 問題は本書の中に刑法一七五条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれているかどうかにかかつている。 もしそれが肯定されるならば、本書の頒布、販売行為は刑法一七五条が定めている犯罪に該当することになるのである。 出典: 『チヤタレー事件判例』
このように言うてるわけや。 つまり、「チャタレイ夫人の恋人」はエロ本とは類を異にするところの芸術的作品であることを認めているのやァ。
でも、裁判官は刑法一七五条の「猥褻の文書」に該当する要素が含まれていると思うているのやろう? たぶん、そうなのやァ。。。そうやなかったら、裁判にならなかったのやから。。。 。。。で、どれが「猥褻の文書」やと言うてるねん? まず、猥褻とは何か? その事を裁判官は問題にしてるねん。
しからば刑法の前記法条の猥褻文書(および図画その他の物)とは如何なるものを意味するか。
従来の大審院の判例は「性欲を刺戟興奮し又は之を満足せしむべき文書図画その他一切の物品を指称し、従つて猥褻物たるには人をして羞恥嫌悪の感念を生ぜしむるものたることを要する」ものとしており、また最高裁判所の判決は「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」としている。 そして原審判決は右大審院および最高裁判所の判例に従うをもつて正当と認めており、我々もまたこれらの判例を是認するものである。 要するに判例によれば猥褻文書たるためには、羞恥心を害することと性欲の興奮、刺戟を来すことと善良な性的道義観念に反することが要求される。 およそ人間が人種、風土、歴史、文明の程度の差にかかわらず羞恥感情を有することは、人間を動物と区別するところの本質的特徴の一つである。 性欲はそれ自体として悪ではなく、種族の保存すなわち家族および人類社会の存続発展のために人間が備えている本能である。 例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。 ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。 刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。 出典: 『チヤタレー事件判例』 赤字はデンマンが強調するために施(ほどこ)したものです。
性道徳に関しても法律は、その最少限度を維持することを任務とする、と言うてますのやね。
そうやァ。 でも、具体的に何が猥褻なのか? 裁判官は言うてませんがなァ。 次のように言うてるのやァ。
しからば「チヤタレー夫人の恋人」が刑法一七五条の猥褻文書に該当するか否か。
(中略) 裁判所が右の判断をなす場合の規準は、一般社会において行われている良識すなわち社会通念である。 社会における個々の人について、また各審級の裁判官、同一審級における合議体を構成する各裁判官の間に必ずしも意見の一致が存すると限らない事実は、他の法解釈の場合と同材である。 従つて本著作が猥褻文書にあたるかどうかの判断が一部の国民の見解と一致しないことがあつても止むを得ないところである。 これと同じことは善良の風俗というような一般条項や法令の規定する包括的な諸概念の解釈についてとくに問題となる。 現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。 しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。 出典: 『チヤタレー事件判例』 赤字はデンマンが強調するために施(ほどこ)したものです。
裁判官は、どの社会でも最低限守らなければならない事があると言うてるねん。 そうですやろう?
そう言うことになるな。 つまり、公開の場で性行為をしてはダメだと言うてるねん。 そやけど、チャタレイ夫人は公開の場で性行為をしてはりませんでぇ~。 もちろんやァ。。。でもなァ、本の中の表現から、チャタレイ夫人が公開の場で性行為をしているように受け取る読者が居かもしれない、と言うてるのや。
さて本件訳書を検討するに、その中の検察官が指摘する一二箇所に及ぶ性的場面の描写は、そこに春本類とちがつた芸術的特色が認められないではないが、それにしても相当大胆、微細、かつ写実的である。
それは性行為の非公然性の原則に反し、家庭の団欒においてはもちろん、世間の集会などで朗読を憚る程度に羞恥感情を害するものである。 またその及ぼす個人的、社会的効果としては、性的欲望を興奮刺戟せしめまた善良な性的道義観念に反する程度のものと認められる。 次に本訳書の猥褻性の判定に関し二、三の点に立ち入つて説明する。 しかし芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。 実定法の内容が倫理的に悪であり得るごとく、我々が普通に芸術的作品と認めるところのものでも猥褻性を有する場合があるのである。 しかしそれが春本ではなく芸術的作品であるという理由からその猥褻性を否定することはできない。 高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない。 芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。 出典: 『チヤタレー事件判例』 赤字はデンマンが強調するために施(ほどこ)したものです。
裁判官は、「芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない」と言うてますやん。
めれちゃんは、反対なのか? 反対ですう。 裁判官は「我々が普通に芸術的作品と認めるところのものでも猥褻性を有する場合があるのである」と言うてますけれど、私は詭弁やと思いますわ。 つまり、芸術的作品ならば猥褻性はない。 要するに、猥褻なものは芸術ではない。。。めれちゃんは、そう言うのんかァ? そうですう。 「チャタレイ夫人の恋人」は芸術作品ですねん。 そやから、どこにも猥褻なものはあらへん。 その証拠に、チャタレイ夫人と恋人は公開の場で性行為をしてはりません。 そやけど、裁判官は、本の中の表現から、チャタレイ夫人が公開の場で性行為をしているように受け取る読者が居る、と言うてるねん。 それは、受け取る人の心が猥褻なだけやねん。 めれちゃんは、何が何でも「チャタレイ夫人の恋人」は芸術作品やと信じてるんか? そうですう。 わたしは表現の自由を断固として擁護します。 そやけど、小学生の女の子が「チャタレイ夫人の恋人」を読んで、チャタレイ夫人が公開の場で性行為をしているイメージを浮かべてショックを受けて、トラウマになって一生涯、性行為ができなくなったら、誰が責任を負うのや? そのような事は絶対にありません。 小学生の女の子に実際に性行為の経験がなければ、何度本を読んだとしても、チャタレイ夫人が公開の場で性行為をしているイメージを現実のものとして感じるような事は不可能ですねん。 そうやろか? なぜなら、わたしは小学生の頃に読みましてん。 ワクワクドキドキしながら興味を持って読みましたけれど、チャタレイ夫人が公開の場で性行為をしている現実のイメージなど、オツムの中に描く事が、全くできませんかった。 つまり、映画で性行為のシーンを見るのとは、わけが違うと、めれちゃんは言うのんか? そうですう。 そやから、公開の場で性行為をしてはダメだと言うのんが、どの社会でも最低限守らなければならない事であるならば、文学作品に猥褻は無いと言うのが、私の考えですねん。 つまり、あくまでも表現の自由をめれちゃんは大切にしたいんかァ? そうですう。
【レンゲの独り言】
ですってぇ~。。。 小学生の限られた性的体験では、成人の赤裸々な性行為など想像するのが無理だと、あたし自身の経験から理解できるのですわ。 とにかく、まだ面白い話題が続くと思いますわ。
メチャ面白い、
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こんにちはジューンです。
そうですよね。
映画の場合には、実際の性行為と
ほぼ同じものがスクリーンに映し出されますが、
文字の表現の場合には
小学生が実際の性行為を具体的に
イメージする事は、ほとんど不可能だと思います。
つまり、どのように性行為を克明に表現しても
映画を見るような衝撃は
文学作品から受けないと
わたしも信じる事ができます。
だから、アメリカやカナダでは、映画に対しては
厳しい倫理規定があっても、
文学作品には映画ほどの
倫理規定はありません。
ところで、英語の面白い記事を集めてみました。
時間があったら次のリンクをクリックして
読んでみてくださいね。
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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