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むっちり楊貴妃
by デンマン & 卑弥子
2008年3月27
グラマラスな女
投稿日時: 2007-11-12 12:42 『ビーバーランド XOOPS 3世』は そうそう ビーバーランドのメインページに by 小百合
今日は、グラマーな女性のお話でござ~♪~ますか?
いや、違いますよ。今日は卑弥子さんの質問に答えるつもりですよ。ただ、たまたま小百合さんの上の投稿を思い出したのですよ。 『ビーバーランド XOOPS』は復活したのでござ~♪~ますか? いや、悪徳プロバイダーによって削除されたままですよ。詳しい事は次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。 ■ 『レンゲ物語と悪徳プロバイダー (2007年12月27日)』 それで、なぜ小百合さんの上の投稿を持ち出したのでござ~♪~ますか? 小百合さんが無意識に“グラマラスな私を期待してたのではないですか?”と書いているのですよ。 それが今日のタイトルの“むっちり楊貴妃”と関係あるのですか? つまり、昔から“グラマーな女性”を美しいと思うような男は居たのではないか?おととい卑弥子さんは次のような疑問を書いていましたよね。
楊貴妃はムッチリ美人だったの?
ところで、お話は違いますけれど、上の楊貴妃の像ですわ。。。あたくしがイメージしていた楊貴妃は、柳腰の細面の女性像だったのですけれど、上の大理石の像を見ると、腰の辺りがムッチリとして、とってもボインなのでござ~♪~ますわぁ~。おほほほほ。。。唐の時代の魅力的な女性って、実際にはどうだったのでござ~♪~ましょうか? うん、うん、うん。。。良い所を指摘してくれましたよ。僕も、その事で話したい事があったのですよ。でも、記事がちょっと長くなりましたよねぇ~。 あさってになるのでござ~♪~ますか? 楽しみは後に延ばした方がいいでしょう?うしししし。。。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~~ あなたは、どう思いますか? あさってが待ち遠しいですわ。
大島先生は、まるで玄宗皇帝になりきって、つい一週間程前に楊貴妃と華清池の温泉に一緒に入って、その忘れがたい思い出を語っているような調子で語って聞かせたものですよ。 楊貴妃は柳腰で細面だったのでござ~♪~ますか? 確かに大島先生は楊貴妃がムッチリしていたとは言いませんでしたよ。 柳のようにナヨナヨとほっそりとした腰つきだったのでござ~♪~ますか? そうですよ。僕は大島先生の話を聴きながら、ほっそりとしたタイプの日本画に描かれる次の絵のような女性を想像していましたよ。
それで、デンマンさんはどのようなところが印象深く思い出に残っているのですか?
特に、楊貴妃が一糸まとわぬ姿になって温泉に浸かる様子が、何とも印象的でしたよ。ちょっと、僕には、その時の表現を再現する事ができませんよう。なんと言うか。。。温泉から立ち上る湯気、その白い湯気の中に楊貴妃の白い肌が浮かんで見える。 「温泉水滑洗凝脂」 温泉の湯水がなめらかに楊貴妃の白いつややかな肌をしっとりと濡らしてゆく。。。、楊貴妃が女性の気品と魅力を保ちながら、なよなよとした「いでたち」で、そっと足を温泉に浸して、それからゆっくりと体を沈めてゆく。その姿を温泉につかって、玄宗皇帝はうっとりとしながら見上げる。そのシーンを見えるように語って聞かせる大島先生の語り口には、まるで映画でも見るような臨場感がありましたよ。 デンマンさんは、かなりハマッてしまったようでござ~♪~ますわね。おほほほほ。。。 当然の事ですが、大島先生も江戸時代の浮世絵、特に美人画に描かれるような女性を想像していたと思うのですよ。先生の話を聴きながら僕が想い描いた女性は、決して“鳩胸でっちり”ではなかったのですよ。 やはり、柳腰で細面な女性だったのでござ~♪~ますわね? そうですよ。 つまり、このページのトップに載せた大理石の楊貴妃の像とは違っていた訳でござ~♪~ますわね? そうですよ。違っていたのですよ。この楊貴妃の像は明らかに欧米の影響を受けていますよ。 ところで、上の大理石の楊貴妃の像はいつ造られたのでござ~♪~ますか? 僕はネットでずいぶんと調べたのですよ。でも、いつ造られたのか?どのページにも書いてありませんでした。はっきりと言えることは、まず間違いなく文化大革命のあとですよ。 どうしてでござ~♪~ますか? 卑弥子さんは文化大革命って知ってますか? 名前だけは聞いた事がござ~♪~ますわ。 次の説明を読めば、僕が詳しく説明しなくても分かるだろうと思いますよ。ちょっと、読んでみてくださいよ。
文化大革命
文化大革命は、中華人民共和国で1960年代後半から1970年代前半まで続いた。 政治・社会・思想・文化の全般に渡る改革運動のはずであったが、実際にはほとんどの中華人民共和国の人民を巻き込んだ粛清運動として展開され、結果的に約1,000万人以上(実数は不明)と言われる大量虐殺とそれに伴う内戦へと発展、国内は長期間にわたる混乱に陥った。 文革の展開 文化大革命は大きく3段階に分けられる。 エピソード 紅衛兵は、「赤は革命の色であるから赤信号で止まるのはおかしい。赤信号で進んで青信号で止まるべきだ」と主張した。 また、「道路の右側を通行するのはアメリカ帝国主義的であるから左側通行にすべき」との主張もあったが、帝国主義においてアメリカの先生的存在であるイギリスが左側通行との理由で取り止めになった。 旧思想・旧文化の破棄をスローガンとする紅衛兵らにより、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたという。 司馬遼太郎は当初、文化大革命に肯定的であったが中国を訪れたとき、孔子に見立てた人形を破壊する光景を目の当たりにし転向し、反中国共産党に転じることになる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この文化大革命時代には伝統的・宗教的なものは建物や美術品など徹底的に破壊されたのですよ。旧思想・旧文化は破棄され、孔子や儒教までが否定された。 だったら、美意識の点でも昔ながらの柳腰で細面の美人観は批判されたのではござ~♪~ませんか?むしろ、次の写真のようなグラマーなアメリカ女優が美人として、もてはやされるようになったのではござ~♪~ませんか?
メイ・ウエスト(Mae West) 1893年8月17日-1980年11月22日
マリリン・モンロー(Marilyn Monroe) 1926年6月1日 - 1962年8月5日 それはあり得ない事ですよ。 どうしてでござ~♪~ますか? 上のエピソードにもあるでしょう?アメリカ帝国主義的であってはダメなのですよ。アメリカのグラマーな女優のポスターなどを部屋の壁に貼ったら、アメリカ帝国主義的だと批判されて酷(ひど)い目に合わされたのですよ。
だから、この楊貴妃の像が、もし文化大革命時代にあったら破壊されていましたよ。 どうしてでござ~♪~ますか? ほぼヌードに近いでしょう? アメリカの男性雑誌『Playboy(プレーボーイ)』こ載せるような写真でしょう?これではアメリカ帝国主義的だと言われて、間違いなく破壊されていましたよ。 つまり、この楊貴妃の像が造られたのは少なくとも1976年以降だとデンマンさんはおっしゃるのですか? そうですよ。まず、間違いありませんよ。知っている人が居たらぜひ教えてください。 。。。んで、中国人の中にもグラマーな女性が美人だと思う人が居るのでござ~♪~ましょうか? もちろん居ますよ。上の楊貴妃の像を造った彫刻家も、明らかに欧米の美人観の影響を受けていますよ。欧米と言って語弊があるならば古代ギリシャの影響と言い換えることもできますよ。
このミロのビーナスを見るとき、楊貴妃の像を制作した彫刻家がこのビーナスの像を参考にしたような気がするほどですよ。 楊貴妃が生存していた唐の時代にも、ミロのビーナスのような女性が美しいと考えていた中国人が居たのでござ~♪~ましょうか? 居たのですよ。 証拠でもあるのでござ~♪~ますか? ありますよ。次の像を見てくださいよ。
これは、あの有名な敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、第45窟の菩薩像です。唐の時代に造られたと言われているものです。 この像がミロのビーナスの影響を受けているのでござ~♪~ますか?
古代ギリシャ時代に作られたミロのビーナスとは、地理的に見て全く関係なさそうに見えるけれど、実は関係があるのですよ。 どのようにでござ~♪~ますか? 次のガンダーラの仏像を見てください。
如来坐像 ガンダーラ クシャン王朝 紀元2~3世紀
ガンダーラ (Gandhara)
ガンダーラ地方は、現在のパキスタンの西北部にあり、中心はペシャワールやその北部のスワット地方。 紀元前380年頃までにペルシャの支配は弱まり、多くの小王国がガンダーラを分割支配した。 同じ頃、マウリヤ朝のチャンドラグプタ王はタクシラにあったが、紀元前305年にはセレウコス朝を破り、アフガニスタン南部を支配下に収めた。 その後、マウリヤ朝が衰退してインド亜大陸に退くと、ギリシャ系のバクトリアがこの地に勢力を拡張した。 実は古代ギリシャ世界のあの有名なアレクサンドロス大王がガンダーラにもやってきたのですよ。この影響が上のガンダーラの仏像にもはっきりと影響を残しているのです。
ガンダーラがギリシアの植民地だった
アレクサンダー大王の遠征(前327~前325)によって、ガンダーラがギリシアの植民地となります。 これにインド中央部の伝統美術の影響も加わっていきます。 ガンダーラの彫刻は、もともと建造物を荘厳に見せるために造られました。 ガンダーラ仏像の特徴は、自然な人間らしい姿を現しています。 実際、上のようなガンダーラ仏が日本へもかなり伝わっています。
■ 『嶽林寺のガンダーラ仏』
大峰山 嶽林寺 (群馬県利根郡月夜野町1697) 仏像が伝わっていたという事実は、それを製作した石工たちも日本へ来ていたという可能性が十分にあります。 日本へやって来たペルシャ人やペルシャの文物、またギリシャ文化の影響については次に示すページで説明しています。 ■ 飛鳥坐(あすかざ)神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話 by デンマン 上の莫高窟(ばっこうくつ)の菩薩像は、このガンダーラ仏像の影響を受けているとデンマンさんは考えているのでござ~♪~ますか? 当然ですよ。すぐ上の囲み記事を読んでも、ペルシャ人の石工が日本まで行った可能性が充分に考えられるのですよ。日本までの距離を考えれば、ガンダーラと敦煌は目と鼻の先ですよ。 古代ギリシャの文化がペルシャ人に伝わったと言うのは理解できましたが、その古代ギリシャ文化が唐の時代にペルシャ人を通じて中国人に伝わったのでござ~♪~ましょうか? 伝わっていたのですよ。 証拠でもあるのでござ~♪~ますか? あります。詩人・李白(701ー762)が作った「少年行」という詩があるのですよ。
少年行
五陵の年少、金市の東
銀鞍白馬、春風を渡(わた)る
落花(らっか)踏み尽くして、
何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ
笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中
盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。 見るからに金持ちの貴公子です。 花びらを踏み散らしながら どこへ行くのかと李白が見ていたら、 やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。 酒肆というのは酒場のことです。この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。 胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。 つまり、「胡姫」というのは胡の姫、ペルシャ人の女の子でござ~♪~ますか? その通りですよ。だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっていますよね。エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーですよ。うしししし。。。
こんな感じのペルシャ人のお姉さんがお酌をしていたのかもしれませんよ。 でも、ペルシャ人は極めて少なかったのでござ~♪~ますでしょう? いや、それが意外に多かったようですよ。この当時の長安(現在の西安)は国際都市だったのですよ。 どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか? 「安史の乱」がなかったら、そもそも白楽天は『長恨歌』を作ることはなかったでしょう。その「安史の乱」を起こした安禄山(あんろくざん)はペルシャ人だったのですよ。 マジで。。。? もちろんですよ。正確にはソグド人(ペルシア系のオアシス農耕民族)と突厥人(トルコ系の遊牧民族)の混血だと言われています。とにかく、容貌も体型も中国人とはかけ離れていた。なにしろ、体重が200キロを越す巨漢だった。 つまり、中国に帰化した外国人だったのでござ~♪~ますか? その通りですよ。この人の生まれはサマルカンドだった。
サマルカンド (Samarkand)
紀元前10世紀ころからイラン系民族のオアシス都市として発展した。 都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体を盟主として采配を振るった。 当時の中国の首都・長安も国際都市だったけれど、このサマルカンドは、まさに国際都市の中の国際都市だった。そう言う訳で、安禄山は6ヶ国語に堪能であったため、初め互市郎(貿易官)に任じられたのですよ。その後、軍功を立て出世してゆき、742年には節度使になり、その後は玄宗と楊貴妃に取り入り、二つの州の節度使を拝命し、まもなく三つの州の節度使を兼任する事になった。 つまり、この当時外国人に対する偏見は中国人は持っていなかったのでござ~♪~ますわね? 僕は思うのだけれど、長安が国際都市だったことを考えると、楊貴妃がハーフだったのではないか?僕はそう思っているのですよ。 どうして、そのように思ったのでござ~♪~ますか?
長恨歌(ちょうごんか)
漢の王は長年美女を求めてきたが、どの女性にも満ち足りないものを感じていた。 (中略) 楊貴妃は、そもそもは玄宗皇帝の子息の一人の妃であった。 (中略) 温泉の湯水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。 このあらすじを読んだ時に、玄宗皇帝のこだわりようが常軌を逸している、と僕には思えたのですよ。 それ程常軌を逸しているでしょうか? 自分の息子の嫁を取り上げてしまったのも同然ですよ。ちょっと、平凡な人には考えも及びませんよ。 そうでしょうか? つまり、玄宗皇帝は、普通の中国人の女性ではどうしても飽き足らなかったのですよ。楊貴妃は、かなり変わった女性だったのではないか?要するに日本人の男が金髪の白人の女性に魅力を感じるようなものですよ。 デンマンさんも、金髪の白人女性にそのような魅力を感じた事がござ~♪~ましたか? ありましたよ。おそらく、宮殿の庭園でも歩いていたハーフの楊貴妃を玄宗皇帝は目にしたのでしょうね。李白が「少年行」を詠んだように、当時の長安ではペルシャ人の娘が人気を呼んでいたのですよ。玄宗皇帝も、うわさを耳にしていた。そういう時にペルシャ人の血が入っているハーフの楊貴妃を目にした。うわさ通りの、透き通るような色白の肌をして、純粋な中国娘にはない異国情緒が表情に表れている。それがメチャ魅惑的に見えた。一目見て玄宗皇帝は楊貴妃の異国風な魅力の虜になってしまったのですよ。 そうでしょうか? そのような特徴的な女性を想定しない限り、いろいろと手の込んだ事をして自分の息子の嫁を取り上げるなんてしないと思うのですよ。 う~♪~ん。。。でも、楊貴妃がハーフだったなんて聞いた事がござ~♪~ませんわ。 でもねぇ、状況証拠ならばたくさんありますよ。安禄山が玄宗と楊貴妃に取り入って、二つの州の節度使を拝命し、まもなく三つの州の節度使を兼任する事になった、と言う事だって、楊貴妃自身がハーフであれば抵抗なく受け入れられる話ですよ。 そうでしょうか? つまり、この当時の長安は国際化がかなり進んでいて、美人観も古代ギリシャの影響が強くでていたのですよ。ハーフの楊貴妃は当然のことながらミロのビーナスのような体型に近かったでしょう。もちろん肌も白人に近い白い肌だったでしょう。そのような魅力が玄宗皇帝を虜にしてしまったのですよ。どうですか。。。?卑弥子さんも、そう思いませんか? でも、大理石の楊貴妃のムッチリした像を作った彫刻家は、そのような事を知っていたのでござ~♪~ましょうか? もちろん、知らなかったでしょう?多くの中国人と日本人のように、楊貴妃は柳腰で細面の表情をしていた、と信じていたはずですよ。それは、中国に現在残っている楊貴妃の絵を見れば分かります。 それなのに、どうして華清池の像を制作した彫刻家はムッチリとした楊貴妃の像を造ったのでござ~♪~ますか? それが我々の遺伝子の中に組み込まれている美人観だと僕には思えるのですよ。つまり、ムッチリとした腰と言うのは、骨盤が広い安産に適した体型ですよ。楊貴妃の像を作った彫刻家もミロのビーナスの自然な美しさに感銘を受けて、それを参考にして華清池の楊貴妃の像を造ったのだと思いますよ。 。。。んで、柳腰の細面は。。。? それは、纏足(てんそく)美人観ですよ。つまり、人為的に女性の自由を制限して考え出された美人観だから、我々の遺伝子に組み込まれている美人観とは違っているのですよ。 古代ギリシャの美人観は、より自然な発想から生み出されたものだ、とデンマンさんはおっしゃるのですか? そうですよ。より自然で、より人類の幸せと発展にかなった美人観ですよ。つまり、安産型の美人観です。僕には、そう思えるのですよ。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~~ あなたは、どう思いますか? 確かに、その方が人類の幸福と繁栄のためには良いのかもしれません。 無理して、あのような細い体型を保っているのは、確かにどうかと思いますわ? いづれにしても、また、あさって読みに戻ってきてくださいましね。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
確かに女性の体型を見てみると、
発展途上国の方が
自然な暮らしに近いせいか
とりわけ太っている女性をあまり見かけませんよね。
小柄でも、ムッチリとした女性が多いようですわ。
それは、安産に適しているからでしょうか?
ところで、経済的に発展している国の女性は
確かに必要以上に痩せようとしているようですよね。
スタイルを良くしようとしているのでしょうけれど、
出産に関する限り、
難産になるような体型の人が多いように見受けます。
ワンちゃんの世界でも、
大切に育てられているトイ・プードルなどは
骨盤が狭いままで大人になってしまい、
帝王切開しないと子犬を産めないそうです。
でも、デンマンさんがお話したような
遺伝子に組み込まれている美人観が
果たしてあるのでしょうか?
あなたは、どう思いますか?
ところで、デンマンさんが
飛鳥時代に日本に居たであろうペルシャ人について
面白い記事を書いています。
時間があったら下のリンクをクリックして覗いてみてくださいね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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