| ||||
|
聖徳太子の
家庭教師 by デンマン & 卑弥子
2008年7月15日
Subj:今日、月曜 子供は修学旅行で
1週間いません。
お弁当作りは無し。
\(^_^)/ ウレシイ! Subj:虫の知らせと言うのでしょうか?
小百合さんからメールがあるような
気がしました。
\(^o^)/キャハハハ。。。 Date: 02/03/2008 7:02:55 PM
> 今日月曜 子供は修学旅行で1週間いません。
> お弁当作りは無し。ウレシイ お弁当を作らなくてもいい幸せを充分に味わってくださいね。
> 私は明日から 東京と横浜に行きます。
> 土曜日戻りますが、急ぎがあったら > メールください 楽しんできてください。
> ブログも歴史編になり
> ますます 力 が入ってますね そうですよう。
すでにライブドアに投稿して推敲も済ませましたよ。 小百合さんの、あの“思い出し笑い”のメールを使わせてもらいましたよ。 あのメールは、メチャ使い道がありますよう!
> 今日はたまっていた、返信と検索が多い日です。
虫の知らせと言うのでしょうか? やはり“以心伝心”ってあるものですよねぇ~。 デンマンでした。 じゃあね。
デンマンさん。。。、今日も、おとといに引き続いて聖徳太子の事でござ~♪~ますか?
そうですよう。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している卑弥子・准教授にとっても聖徳太子の話題は興味があるでしょう? でも、聖徳太子に家庭教師が本当に居たのでござ~♪~ますか? いつの時代でも両親は子供の教育に頭を悩ませていたのですよう。 そうでしょうか? 上の小百合さんのメールを読んでみてくださいよう。学校に持たせるお弁当作りで毎日大変だから、たまに一週間、子供たちが修学旅行でいないと、とってもうれしいのですよう。その気持ちが卑弥子さんにも分かるでしょう? そうですねェ~。お弁当作りから1週間解放されて、小百合さんも旅行気分になれるのでござ~♪~ましょうね。 そうですよう。それ程子供の事では、母親は普段から気を遣っているのですよう。子供の教育ばかりじゃなく、弁当作りも大変なのですよう。気苦労が多いのですよう。 ところで、デンマンさんは、お休みなしですわね? 。。。ん? 休み無し。。。? 僕は別に学校へ行っていないし、子供も学校へ行ってないし、子供の弁当を作る事も無いですよう。 ブログの事ですわよう。毎日毎日休みなしで4年間も良く続きますわねぇ~? それ程感心する事でもないですよう。卑弥子さんだって、毎日毎日、朝ごはんと昼ごはんと夕食を3度3度食べるでしょう? あたくしは、ご飯を食べる事を言っているのではないのでござ~♪~ますわ。 僕は毎日、ブログの記事を書かないと一日が終わったような気がしないのですよう。 習慣でござ~♪~ますか? そうですよう。習慣と言うのは恐ろしいものですよう。。。そう言えば、卑弥子さんが面白い事を言っていましたよね? あたくしが。。。でござ~♪~ますか? そうですよう。卑弥子さんは次のように書いていましたよう。
おほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ますわよ。
くどいようですけれど、
また現れましたわ。
やっぱり、ジューンさん
ぱっかりに任せていると
退屈するのよねぇ~。
それで。。。つい、つい、
出て来てしまうので
ござ~♪~ますわよ。
ええっ、余計な事は言わなくてもいいから、
さっさと言いたいことを言って消えろ!
あららあああぁ~
あなたはそのような厳しいことをあたくしに
言うのでござ~♪~ますか?
いけすかないことォ~♪~
分かりましたわ。
では、今日の一言を。。。
うふふふふ。。。
Motivation is what gets you started.
Habit is what keeps you going.
--- Anonymous (詠み人知らず)
事を起こすにはやる気が必要です。
ひとたび習慣になれば、
それを続ける事ができます。 あたくしは、このように訳しました。
あなたなら、どう訳しますか?
素晴しい訳があったら教えてくださいませ。
では、今日も楽しく元気よく
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあ、バ~♪~イ。 誰が言ったか知らないけれど、卑弥子さんは上のような英文の格言を引用していたのですよう。 これは、デンマンさんがあたくしに書けって言ったんでござ~♪~ますわ。 でも、卑弥子さんが書いたのだから覚えているでしょう? いちいち覚えていませんわよう。 とにかく、卑弥子さんが書いた通りなのですよう。ブログを書くには、やる気が必要だけれど、充分なモチベーションがあれば、あとは習慣になってしまう。そう言うものですよう。 。。。んで、今日はどうして聖徳太子の家庭教師なのでござ~♪~ますか? おととい書き出したGOOGLEの検索結果を見てください。
「聖徳太子 ペルシャ人」 の検索結果
約 2,860 件
1) 聖徳太子はペルシャ人 チョコバットで2000本安打 - Yahoo!ブログ2008年7月1日 ... 子供の頃から大好きな「チョコバット」で2000本安打を達成し名球会 入りを目指す男のブログ。 (猫 写真 古着) 2) 聖徳太子は実在したのか 神護景雲と花鳥風月な日々~007の ...2008年7月8日 ... 最近昔習った歴史が覆されることが多いですね。 必死に覚えた年号等なんだったやねんー!と叫びたい(^m^) TVか雑誌の記事だったかな。聖徳太子はペルシャ人?!というのを見かけました。もう全然わかりません(≧▽≦;) ... 3) 聖徳太子はペルシャ人だった 異端会議ソロ/ウェブリブログ 日本史ミステリーの予告編を視ていたら「聖徳太子はペルシャ人だった。」という内容の予告編が(笑)。 サブテロップを見ると「楊貴妃も遣隋使も・・・」とあったように思えたのだけど、要は太子の都「斑鳩の里」においてペルシャ文化の影響を受けてこの ...
4) 聖徳太子の母親はペルシャ人だった?
宇宙の摂理ブログ聖徳太子の母親はペルシャ人だった? 聖徳太子の母親は ペルシャ人だった? 渡来人 聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。 ... 5) 聖徳太子の個人教授には
ペルシャ人がいた 宇宙の摂理ブログ確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになり ... ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居た ... (2008年7月10日午後4時現在) おとといは、4番目の『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』を取り上げた。だから、今日はその下の『聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた』を取り上げる気になったのですよう。 。。。んで、本当に聖徳太子にはペルシャ人の家庭教師が居たのでござ~♪~ますか? いつものように僕が読んでみてね、と言ったのに卑弥子さんは、まだ読んでないのですね? おほほほほ。。。あたくしも大学の仕事があるので忙しかったのでござ~♪~ますわよう。 読んでいれば分かったのですよう。。。卑弥子さんのためにも、ここに書き出しますから、しっかりと読んでくださいね。
聖徳太子の個人教授には
ペルシャ人がいた
太子は、高句麗からの渡来僧・慧慈(えじ)を個人教授として内教(仏教)を学んだとされています。さらに外典(そとふみ)を覚袈(かくか)から学んだそうです。仏教から外典というと、その中には儒教、道教、景教、拝火教、バラモン教、つまり仏教以外のさまざまな経典が含まれます。この覚袈が渡来人であったと言われていますが、どこの国からやって来たのか、については確証がありません。 聖徳太子は、蘇我氏の一員だと言っても過言ではないほど、蘇我氏とは切っても切れない繋がりを持っています。また、蘇我氏は渡来人を支配することによって実力をつけてきたということからも分かるように、渡来人の集団とは強い絆で結ばれています。私は、蘇我氏自身も高句麗りからやって来たとみています。このことについては、このページ (蘇我氏は高句麗からやってきた) で説明しています。 要するに、聖徳太子は、小さな頃から渡来人に取り囲まれて生活していたと言うことは、まず間違いないようです。従って、成長してからも彼の回りには実に渡来人が多いのです。先ほど述べた高句麗からの渡来僧・慧慈(えじ)と外典(そとふみ)を教えた覚袈(かくか)は、太子に影響を与えた数多い渡来人の中のたった二人に過ぎません。 太子の個人教授にはこの二人の他に慧聡(えそう)がいます。この人は、実は慧慈(えじ)と同じ年に百済から来朝しています。『書紀』 に 「慧慈、慧聡は内教を弘演(ひろめ)て並(ならび)に三宝の棟梁となる」、とあります。これら名僧は、飛鳥寺を造り終えると同時に、飛鳥寺の住僧となっています。 しかし、この当時の国際関係を考えると、一見、不思議な感じがします。交戦を続ける高句麗と百済の敵国同士の両僧が、同時に来朝し、飛鳥寺に共に居住して、仏教の二大棟梁となる、ということは、常識的には考えられません。こじつけて、説明しようとするならば、高句麗の慧慈を通して北朝仏教を、一方百済の慧聡を通して南朝仏教をともに導入しようとした、ということが言えるでしょう。しかし、これとても、もう一つ説得力に欠けます。そこで、この当時の坊さんの役目を考えてみる必要があります。 一言で言ってしまえば、言葉の響きは良くありませんが、坊さんは頭を丸めたスパイです。仏教を国教とする時代です。しかも、「推古女帝と聖徳太子」のページで述べているように、蘇我馬子の宗教観には、仏教を思想面で受け入れると言うよりも、政治に利用するという意図がありありと見て取れます。したがって、慧慈、慧聡、覚袈は、太子の宗教の専門の師であるばかりでなく、高度の政治外交の顧問格でもあったわけです。しかも、スパイとしての役目を担っていますから、「同時に来朝し、飛鳥寺に共に居住して、仏教の二大棟梁となる」ことは、不思議でもなんでもない。むしろ、この二人にとっては、好都合だったと言えるでしょう。居ながらにして情報交換ができるのですから。 後年、慧慈(えじ)は高句麗へ戻っています。もちろん、時の高句麗王に報告のためです。坊さんになってスパイ活動をしたという良い例は、藤原鎌足の長男・定慧(じょうえ)です。この人のことは、このページ (藤原鎌足と長男・定慧) で詳しく述べています。あまり出過ぎたことをしたために、天智天皇の命令で殺されています。 百済は高句麗や新羅にたえず攻められるため、大和朝廷に幾度も軍事援助を求めています。派兵の代償として、五経博士などの文化使節を送ってきたわけで、慧聡(えそう)もそうした文化使節の一員です。その記事は 『日本書紀』 の「継体紀」 「欽明紀」や 『百済本紀』 に書かれています。しかし、文化使節とは、表向きのはずで、慧聡(えそう)のような僧侶は、時の権力者に近づく機会が多いわけで、よく言えば、百済大使、悪く言えばスパイの親分として活動していたことは、いわば当然のことです。 五経博士の「五経」とは儒教の易・書・詩・礼・春秋で、これとともに医博士、暦博士、採薬師施(くすりかりのはかせ)や僧侶など、各分野の専門家を送って来ており、諸博士の人名も中国の南朝人と分るものもあり、時の大和朝廷は百済のみならず、百済を介して南朝文化の導入も意図していたことがうかがわれます。 ここで、このページのタイトルについて考えてみましょう。覚袈(かくか)は果たしてペルシャ人だったのだろうか?覚袈は外典(そとふみ)を太子に教えたのです。外典とは儒教、道教、景教、拝火教(ゾロアスター教)、バラモン教を含めた仏教以外のさまざまな経典ですから、儒教と道教については百済人や高句麗人でも教えることができたかもしれません。しかし、景教、拝火教、バラモン教となると、百済人や高句麗人では手に負えなかったのではないでしょうか?このように考えれば、覚袈がペルシャ人であったとしても不自然ではありません。 聖徳太子の一族に
ペルシャ人が居たの? ここで考えなければならないことは、これらの高度の文化を、一体、大和朝廷の誰が受容できたのであろうか?と言うことです。語学の素養もない、外国文化に触れたこともない一般の官吏ではまず無理です。つまり、これらの高度の文化を受け入れることができるのは語学の素養もあり、外国文化に触れたこともある東漢人(やまとのあやひと)や今来漢人(いまきのあやひと)などの渡来人です。 この人たちを掌握していたのは一体誰か?蘇我氏です。従って、蘇我氏の中にもまた語学の素養があり、外国文化に明るい人たちがたくさん居ないと、彼らを掌握し切れません。このことからも、蘇我氏が渡来系の氏族であったということがよく分かります。 上に述べたような理由で蘇我氏のもとには渡来人がたくさん集まってきます。渡来人の中には、もちろんペルシャ人も居ました。当然のことながら、蘇我氏を頼って行ったでしょう。 ここで、前のページからの本題に入ります。聖徳太子の母親はペルシャ人だったのか?
当時ペルシャ人をハシ人と呼び、波斯人と書きました。太子の個人教授の一人である覚袈(かくか)がペルシャ系の人ではないかという推測は、太子の母が穴穂部間人(あなほべのはしひと)と書かれている事と、大いに関係があります。間人(はしひと)とは波斯人(はしひと)でペルシャ人のことではないか!と、言うわけです。太子が赤い髪の毛をしていたと言う伝承があります。この伝承に真実が隠されているのではないか?もしそうだとするなら、太子の母親がペルシャ人であると言う事も決して荒唐無稽な事ではありません。
聖徳太子の父は用明天皇、母は蘇我稲目の孫娘です。この稲目の父は高麗(こま)で、高句麗からやってきたのですが、実はこの人がペルシャのサカ族の出身だと言う研究家も居ます。しかし、そんな遠いところにペルシャ人を持ってゆかなくてもよいのです。私はその説よりも、むしろ穴穂部間人の母親、つまり小姉君(おあねぎみ)がペルシャ人の血を受け継いでいるのではないか、とみています。 もし当時、ペルシャ人が日本へやってきて、どの一族を頼りにするかといえば、当然、飛ぶ鳥を落とす勢いの蘇我氏の元を訪れたことでしょう。その頃、渡来人を掌握していたのが蘇我氏だからです。ペルシャ人の中には、蘇我氏との絆を確固なものにするために、蘇我稲目に娘を側室として差し出す親も現れたでしょう。そのようにして穴穂部間人が生まれた、と考えるわけです。 小姉君の父はたしかに稲目なのですが、母親の出自について日本書紀は沈黙しています。なぜ沈黙する必要があるのか?その答えを出すには誰が日本書紀を書いたかが分かれば簡単です。天武天皇の息子の舎人親王が編集長だったと言うように書かれていますが、彼はむしろ発行人であり、実際に編集に当たっていたのは藤原不比等です。藤原氏は、元、中臣氏ということで、日本古来の氏族となっていますが、不比等のおじいさんの御食子(みけこ)は百済からやって来ました。従って、自分たちが「よそ者」であるということを書きたくなっかたように、穴穂部間人の出自についても沈黙していたのです。 では、なぜ、不比等は自分の名前を編集長として書紀に書かなかったのか?それには、これまた事情があります。そのことについてはこのページ (『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった) で説明しています。 しかし、この説を採ると、飛び越えねばならないハードルがあります。どういうことかというと、実は、小姉君の母親が物部氏出身と思える節があるのです。 というのは、当時の皇子・皇女は一定の年齢まで母方の実家で養育されるのが普通でした。そして育った土地の名前をつける慣習がありました。飛鳥で育った大王の娘なら飛鳥皇女と呼ばれるわけです。すると穴穂部間人皇女の穴穂も地名に由来することになります。大和周辺に穴穂の地名は河内と奈良の石上にあります。皇女がどちらで育ったか分りませんが、どちらも物部氏の領地なのです。 つまり小姉君は蘇我稲目の娘であると同時に、物部氏の娘でもあったのです。しかも穴穂部間人皇女は物部の土地で成長しました。しかし、ご存知のように、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立し、それまでの史上最大の戦闘を繰り広げました。したがって、このようなことがあり得るだろうかと、あなたは疑問に思うかもしれません。 ところが、それ以前、朝廷で権力を握っていた大伴氏を退けるため、蘇我氏と物部氏は手を握り合ったことがあります。どういうことかというと、小姉君は、蘇我氏と物部氏が宮中で勢力を伸ばす方策として、互いに婚姻関係を結んでいた当時の産物ということになります。「友情の証」として、蘇我稲目かあるいは彼の父親の高麗が自分の側室の中から美しいペルシャ人の娘を物部の氏の長者に与えたのでしょう。このようなことは、この当時よくあることでした。軽皇子(後の孝徳天皇)が小足姫(おたらしひめ)を中臣鎌足(藤原鎌足)に与えたのもこのような例です。このことについては、このページ (藤原鎌足と軽皇子) で述べています。 そのお返しに、今度は、物部氏がペルシャ人の女性から生まれた娘を蘇我稲目の側室として与えたわけです。その娘から生まれたのが小姉君だというわけです。したがって、小姉君の体内にはペルシャ人の血が4分の1流れていたわけです。彼女の娘が穴穂部間人皇女です。確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになります。太子が赤い髪の毛をしていたという伝承は、このことによって説明がつきます。 また、後に推古天皇を生む堅塩媛(きたしひめ)と小姉君の間の確執も、このことによっていっそう良く理解することができます。つまり、この腹違いの姉妹は共に欽明天皇の後宮に入ります。ところが、若くてきれいな小姉君へと天皇の愛は傾いてゆきます。それも分かるような気がします。エキゾチックなペルシャ人の血を引いている小姉君は、天皇の目には、さぞかし魅惑的に映ったことでしょう。 しかし、堅塩媛(きたしひめ)にしてみれば我慢のならないことです。このようなことを身近に見て来た娘の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)も、当然、この混血児の叔母のことを良く思うはずがありません。母親からずいぶんとグチをきかされたことでしょう。この豊御食炊屋姫が推古帝です。 推古天皇は、後年、この小姉君の血を引き継いでいる皇子(聖徳太子も含めて)が天皇になることを極力避けようとしています。推古帝の身になってみると、2重の意味でこのような皇子を排除したかったでしょう。先ず「よそ者」の血が流れているということ。しかも、この混血児の叔母のために、自分の母親がつらい目にあってきたということ。このように考えてゆくと、つまり小姉君にペルシャ人の血が流れているとすれば、このあたりの事情が非常にすっきりと説明できます。 しかし、これだけに止まりません。なぜ、聖徳太子は厩戸王子と呼ばれたのか?母親の穴穂部間人皇女が宮中を見回るうちに、馬屋の前で産気づき、そこで出産したからという逸話が日本書紀などに見られます。これはキリストの生誕を彷佛とさせます。しかし、納得ゆくような説明が見当たりません。 ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居たことを考えると、このことも、非常にうまく説明がつきます。では、次のページでもっと詳しくこのことを見て行こうと思います。 この記事は次のページをコピーして編集したものです。 リンク元(referer) Google.co.jp 聖徳太子 ペルシャ人 (2008年7月13日現在) 『聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた』より どうですか、卑弥子さん?。。。面白いでしょう? いつものようにデンマンさんの理屈に引き込まれそうでござ~♪~ますわ。 僕は理屈を捏(こ)ね回しているわけではないのですよう。 根拠に基づいているとおっしゃるのでござ~♪~ますか? もちろんですよう。上の記事の中に貼ってあるすべてのリンクをたどって僕が書いた記事を読めば、納得できるように書いてあるのですよう。 デンマンさん。。。、あのですねぇ~。。。よほど暇がある人でない限り、デンマンさんが書いた記事をすべて読むなんて無理でござ~♪~ますわ。 でもねぇ、僕も驚いたのだけれど、上の中で引用されている記事は結構読まれているのですよう。 どうして分かるのですか? アクセス解析で訪問者の数が分かるのですよう。僕と同じように聖徳太子の時代に、壮大な歴史ロマンを感じている人が結構、たくさん居るのですよう。上の記事を読むだけでも、国際的な広がりを感じませんか?僕は源氏物語より面白いと思いますね。 デンマンさん!。。。あたくしは、これでも京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している者でござ~♪~ますわ。 知ってますよう。 そのあたくしに向かって、“源氏物語よりも聖徳太子物語の方が面白い!”。。。デンマンさんは、そう宣(のたま)うのでござ~♪~ますか? 宣(のたま)うなんて、すごい事を言いますねぇ~うへへへへ。。。 デンマンさん!。。。笑いで誤魔化さないでくださいな。あたくしは真面目に腹を立てているのでござ~♪~ますわ。 分かりました。。。僕は源氏物語がつまらない、と言っているのではないのですよう。もちろん、源氏物語は世界的にも認められている素晴しい小説ですよう。でも、「聖徳太子物語」は、それ以上に歴史ロマンを感じさせる壮大な絵巻だと思っているのですよう。 でも、そう言う絵巻はござ~♪~ませんわ。 だから、僕がネットで立ち上げようかと。。。『壮大なる歴史ロマン・聖徳太子物語』。。。『レンゲ物語』と『小百合物語』に引き続いて、この歴史的大ロマンをスタートさせてみようかと。。。うへへへへ。。。 デンマンさん。。。マジですか? 夕べ、そう言う夢を見たのですよう。 夢のお話でござ~♪~ますか?。。。んで、上の“リンク元”と言うのは、どう言う事でござ~♪~ますか? これは僕が書き加えたものではないのですよう。 誰が書き加えたのでござ~♪~ますか? 『宇宙の摂理ブログ』では、記事を読みにやって来た人のリンク元を上のように最新10個だけ記録するのです。つまり、10個の URL を自動的に書き込むようになっているのですよう。そういう機能が WABLOG のブログにはついているのです。 「リンク元」に記録されている URL はデンマンさんの記事を読みにやって来る前に、ネットサーファーが居たページの URL でごさ~♪~ますか? そうですよ。上の10人は、すべて検索エンジンで検索した結果の中に表れた僕の記事のタイトルをクリックして読みにやって来たのですよう。 それで、その人たちの IP アドレスまで分かるのでござ~♪~ますか? もちろん、調べる気になれば分かりますが、そこまで記録するようにはなっていません。だから、上の記録だけでは 読みにやって来た人の IP アドレスまでは分かりません。 。。。んで、この聖徳太子の記事と小百合さんが何か関係あるのでござ~♪~ますか? 全く関係ないのですよう。 でも、デンマンさんは小百合さんからのメールを初めに引用していますよね。 そうですよう。 どうしてでござ~♪~ますか? 僕が歴史に興味を持っていることを小百合さんも良く知っているのですよう。 それで。。。? だから、この記事を読む人も、僕が歴史に関心があることを読み取る事ができる。何も予備知識が無いと、僕がどうして聖徳太子の事を書いているのか全く見当がつかない。 そのために小百合さんのメールを引用しただけでござ~♪~ますか? そうですよう。いけませんか?
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 はっきり言って、聖徳太子がペルシャ人だなんてマジで信じる人は居ませんわ。 ええっ?確証があるのかって。。。? とにかく、また、あさってが面白くなりそうです。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
ためになる関連記事
■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に
別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』
■ 『小泉純一郎君は漢字馬鹿か?』
(2009年4月18日)
■ 『小泉純一郎と名乗る漢字馬鹿』
(2009年4月20日)
こんにちは。ジューンです。
聖徳太子の体にペルシャ人の血が
流れていると言う考えは
とっても面白いと思いますよね。
その可能性は充分にあると思います。
なぜならば、正倉院の宝物を見れば、
ペルシャから伝来しているものって
たくさんありますよね。
直接ペルシャから日本に
届いたものは、まずないでしょう。
シルクロードを長い年月をかけて
たくさんの人の手に渡って、
アジアの東の果て、日本、にたどり着いた。
そのように想像するのは、
ロマンを掻き立ててくれますよね。
これは正倉院に収められている
ワイングラスですけれど、
このグラスもペルシャの影響を
強く受けているそうです。
1年前に作られたと言われても、
そう思えるよなグラスですよね。
ところで、卑弥子さんがマスコットガールになって
歴史の記事をたくさん集めました。
時間があったらぜひ読んでみてくださいね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
| |||
|