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愛と軽井沢
の接点 by デンマン & 卑弥子
2009年2月18日
私が室生 犀星(むろう さいせい) のことを書いたからって お手伝いさんがいたものの、 室生犀星のことは、いつか書いてみたいと思っていました。
私 今月末と思ったら 10月末 よね。 まだ1ヶ月以上ありますよう。 僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか 無くなってるし やりずらいなー これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と では 今日も洗たく 掃除... では、また。。。 小百合より
そうですよう。そうですよう。 日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。 行田で元気に再会しましょうね。 by デンマン
投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間) 『帰省スレッド』より
デンマンさん。。。今日は室生犀星のことを語るのでござ~♪~ますか?
卑弥子さんにも分かりますか? 2月16日にはデンマンさんが“愛の原点”についてお話になりましたから。。。 ほおォ~。。。卑弥子さんにも“愛の原点”が心に留(と)まりましたか? 記事のタイトルは『愛の接点』ですが、“愛の原点”が“母の愛”であるならば、デンマンさんが室生犀星を持ち出すと思いましたわ。 でもねぇ、もし、僕が小百合さんと軽井沢で会わなかったら、室生犀星の事をこれほど記事に書くようなことにはならなかったと思うのですよう。 小百合さんは、室生犀星にハマッているのでござ~♪~ましょうか? 室生犀星と長女の朝子さんの親子関係に小百合さんは心が惹かれているのだと僕は思うのですよう。 それは、なぜでござ~♪~ますか? だから、小百合さんは自分のお父さんとの関係に、室生犀星・父娘の親子関係を重ねて見ているような印象を僕は受けたのですよう。 洋風かぶれしたのが嫌いな父・犀星に
厳しく育てられて、
父(肺癌)を見送るまでの事… 小百合さんは、このように書いているけれど、小百合さんもお父さんが亡くなってから、榛名山の中腹のお墓まで遺骨を納めに行きましたからね。 ■ 『榛名山の小百合さん』 そう言う訳で小百合さんは、室生犀星・父娘に共感するものを持っているのですよう。 ところで、デンマンさんは、なぜ室生犀星に惹かれるのでござ~♪~ますか? 実は、僕は室生犀星のことをあまりよく知らなかったのですよう。室生犀星が金沢生まれだと言うことは知っていたけれど、まさか軽井沢でも暮らしていたなんて全く知らなかった。 小百合さんと会わなかったら、デンマンさんは、こうして記事に書くことも無かったとおっしゃるのですか? そうですよう。軽井沢の犀星記念館を訪れ、さらに小百合さんの案内で文学碑を見たことが、さらに僕を犀星に近づけましたよう。 それで、何が一番印象に残ったのでござ~♪~ますか? なんと言っても文学碑に刻まれた詩ですよう。 我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す
我は氷の奥にあるものに同感す
我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり
さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す 昭和三十五年十月十八日 室生犀星之建 詩集『鶴』巻頭詩「切なき思ひぞ知る」より
この詩を読むとねぇ、僕はどう言う訳か背筋がゾクゾクと寒くなってくるのですよう。読む人に温かみが伝わってくる詩ではないのですよう。 そうでござ~♪~ましょうか?それはデンマンさんの極めて個人的な受け留め方ではないかしら。。。? だったら、卑弥子さんは、上の詩を読んで宝くじに当たったミーちゃんハーちゃんのようにルンルン気分になれますか? 確かに、スキップしたくなるような詩ではござ~♪~ませんわ。 そうでしょう?僕だって、ルンルン気分でスキップしたくなるような気分にはなれませんよう。 そう言えば、デンマンさんは、上の詩を読んで犀星さんの人生哲学を読むようだとおっしゃっていましたよね? そうですよう。悪く言えば「井の中の蛙人生」。。。よく言えば、「孤独を愛した孤高の人生」ですよう。。。僕は、上の詩を読んで、そのように感じ取ったのですよう。 でも、“井の中の蛙人生”と決め付けるのは、かなり言い過ぎではござ~♪~ませんか? しかし、犀星自身が“我はつねに狭小なる人生に住めり”と言っていますよう。 でも、“狭小なる人生”は“井の中の蛙人生”とはニュアンスが異なると思いますわ。 どのように違うのですか? 犀星さんが言おうとしているのは、狭小かもしれないけれど、自分の世界を深く深く掘り下げていって、氷のように冷たいかもしれないけれど、自分の世界の真実を見届けようとする姿勢を詩に詠んだと、あたくしには思えるのでござ~♪~ますわ。 ほおォ~。。。さすがに京都の女子大学で「日本文学と源氏物語」を講義している准教授の卑弥子さんの良識が見えるような意見ですねぇ~ このような時に、また、あたくしの職業を持ち出さないでくださいましなア。 しかし、なぜ、犀星の世界の真実は、氷のように冷たくなければならないのですか?その冷たい人生の荒涼の中で、なぜ呻吟しなければならないのですか?。。。卑弥子さんは考えてみた事がありますか? だから、真実に直面するという事は、冷たい現実に真正面から向き合う事だからですわ。 でも、現実が冷たいとは限らないでしょう。ほっかほっかの現実だってあると思うのですよう。それなのに、どうして犀星の詩には冷たい、鋭い、痛々しいモノが詠まれているのですか?。。。卑弥子さんは考えてみた事がありますか? なぜでしょうか? 僕は次の句に、その答えが秘められていると思いますよう。
『犀星発句集』(1943年)に見える次の句は50歳を過ぎた後も、犀星がこのダブルバインドを引きずっていたことを示している。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり この句がどうだとおっしゃるのでござ~♪~ますか? 卑弥子さん!。。。とぼけないでくださいよう。卑弥子さんは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているのですよう。分からないはずがないでしょう! 京都の女子大学とは関係ござ~♪~ませんわ。 あのねぇ~、日本語が母国語でないジューンさんだって次のように言っているのですよう。 こんにちは。ジューンです。
夏の日の匹婦の腹に生まれけり
なんとなく意味は分かりますよね。
でも、わたしは“匹婦”という言葉を
初めて見たのでした。
“匹”は動物を数えるときに使いますよね。
“婦”は成人女性のことです。
だから、“動物的な女性”だろうと
わたしは直感的に意味を考え出したのです。
念のために辞書を引いてみました。
身分の低い女。 【用例】 三省堂「大辞林 第二版」より
なるほどね~。
男性の場合は“匹夫”です。
ところで、“匹”は何をかたちどって
出来た漢字だと思いますか?
なんと、馬のお尻だそうです。
そう言われてみれば、
馬のお尻のようにも見えますよね。(爆笑)
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
つまり、犀星さんは自分の産みの母親を“身分の低い、道理をわきまえない卑しい女”だと俳句の中で詠んだのでござ~♪~ますわね? そうですよう。 それでデンマンさんは「犀星の詩には冷たい、鋭い、痛々しいモノが詠まれている」とおっしゃるのでござ~♪~ますか? そうですよう。犀星は自分の出生について50歳を過ぎた後でも、心の底に重くわだかまっているものを感じないでは居られなかったのですよう。 。。。んで、“ダブルバインド”と書いてありますけれど、それって、一体どう言う事なのでござ~♪~ますか? それは犀星の生い立ちを見れば分かりますよう。
室生 犀星 (むろう さいせい)
本名: 室生 照道(てるみち) 1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とハルという名の女性の間に私生児として生まれた。 私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。 夏の日の匹婦の腹に生まれけり 抒情小曲集の次の詩句が有名である。 ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの この句の通り、文壇に名を轟かすようになった後も金沢にはほとんど戻ることがなく、そのかわり犀川の写真を貼っていたという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 犀星の父親は上の略歴にも書いてあるとおり旧加賀藩の足軽組頭だった人なのですよう。当時64歳だった。真珠湾攻撃を考え出した山本五十六という陸軍大将が居たけれど、この人の名がどうして五十六かというと、山本大将が生まれた時の父親の年齢が56歳だった。 つまり、山本大将のお父さんよりも、さらに8歳もお年を召していたにもかかわらず、犀星さんのお父様は、お寝間ではお元気だったのでござ~♪~ますわね?!今で言うならば、高齢化社会の見本のような方だったのでござ~♪~ますわねぇ~ おほほほほ。。。 あのねぇ~、卑弥子さん!。。。笑っている場合じゃないのですよう! 失礼いたしました。。。んで、ダブルバインドとは、どういうことなのでござ~♪~ますか? 犀星を生んだお母さんは、実は小畠弥左衛門吉種の正妻ではなかった。 どういう方だったのでござ~♪~ますか? 木畠家に仕えていた奉公人だったのですよう。 つまり、お手伝いさんだったのでござ~♪~ますか? まあ、分かり易く言えば、そういうことなのですよう。犀星は、祝福されながら生まれたわけではないのですよう。ハルさんは当時32歳だった。木畠家は、とりわけ裕福である訳ではないから、水子にして処分しないのであれば、後は里子に出すしかなかったのですよう。 つまり、他の人に赤ん坊を貰ってもらうのですわね? そうですよう。それで、生後まもなく雨宝院住職の室生真乗の内縁の妻、赤井ハツさんにもらわれたのですよう。 つまり、この赤井ハツさんも、世間で言うところの“お妾(めかけ)”さんだった訳でござ~♪~ますか? そうなのですよう。 “人の口に戸は立てられない” 諺にもあるように出生の秘密というのは、どういうわけか漏れてしまう。それで、上の略歴にも書いてあるように、犀星は「お前はオカンボ(妾)の子だ」と馬鹿にされたのですよう。 でも、犀星さんは赤井ハツさんの子供ではないのでしょう? そうですよう。噂というものは、いい加減なものだという事ですよう。真実を知る人は少ない。でも、“妾の子”と馬鹿にされただけでも子供心には、深い心の傷になってしまう。 つまり、ダブルバインドという事は、“お妾さんの産んだ子”だと馬鹿にされた事とは別に、自分の父親が奉公人の女に手をかけて産ませた子だという事実を犀星さんは知ったということですか? その通りですよう。要するに自分の出生にまつわる2重の苦しみの種を抱えてしまったのですよう。 夏の日の匹婦の腹に生まれけり その苦しみ、悩みがこの俳句に詠み込まれていると、デンマンさんはおっしゃるのですか? そうですよう。50歳を過ぎた後でも、犀星はこのダブルバインドを引きずっていた、と言うのですよう。 つまり、自分の産みの親を憎んでいたのでござ~♪~ましょうか? 憎んだ事もあったでしょうね? つうことわぁ~。。。犀星さんがこの句を詠んだ時には、もう産みの親を憎んでいなかったと。。。? 上の句を詠んだ時には、犀星は産みの親を憎んでいなかったと僕は思いますよう。 どうして、そのようなことがデンマンさんに分かるのでござ~♪~ますか? 犀星は生みの母に会った事がないのですよう。だから、なおさら憎めなかったのでしょうね。 どうして会えなかったのですか? 当時、我が子を里子に出したら産みの親は2度と別れた子に会うべきではない、というのが里子に出した産みの親の守るべき事だと言われていたのですよう。 つまり、会ってはいけないと。。。? そうですよう。いわば暗黙の掟(おきて)のようなものだったのですよう。 犀星さんは、さぞかし産みのお母様にお会いしたかったでしょうね。あたくしは、いつも『徳光和夫の感動再会"逢いたい"』を見て感動しているのでござ~♪~ますわ。もし明治時代にあの番組があったならば、犀星さんも産みのお母様にお会いできたかもしれませんわよねぇ~。(卑弥子さん、番組の感動シーンを思い出しながら目頭に熱いものがこみ上げてくる。。。) ちょっと、卑弥子さん!。。。涙を浮かべて。。。それではまるで司会の徳光さんのようじゃないですかア~ デンマンさんは。。。、あのォ~。。。日本に帰省した時に、その番組をご覧になりませんでしたのォ~? 実は、僕のお袋があの番組が好きでしてねぇ~。僕も、仕方なしに一緒にみましたよう。 産みのお母さんとの再会なんて、実に感動的でござ~♪~ますでしょう? 卑弥子さんもTBSテレビで見たのですか? あたくしは関西でござ~♪~ますから毎日放送(MBS)ですわ。。。んで、犀星さんは一生、産みのお母様にお会いしなかったのでござ~♪~ますか? 会えなかったのですよう。お母さんは行方不明のままだったのですよう。それで、室生犀星は生涯にわたって、この「見えない母」を思慕しつづけたのですよう。 どうして。。。、どうして、そのような事がデンマンさんに分かるのでござ~♪~ますか? 長編小説『杏(あんず)っ子』を書いあとで、犀星は次のような率直な感想を書いていたのですよう。 「ただ、このような物語を
書いているあいだだけ、
(母に)お会いすることが出来ていた。
物語をつづるということで、
生ける母親に会うことのできるのは、
これは有難いことのなかの
特に光った有難さなのである」 卑弥子さんも、これを読めば分かるでしょう!?会えない産みの親というのは男にとって“心のふるさと”なのですよう。 そう言うものなのでしょうか?。。。でも。。。でも、それならばなぜ、犀星さんは産みのお母様を侮辱するような次の句を読んだのでござ~♪~ましょうか? 夏の日の匹婦の腹に生まれけり だから、そこですよう。 どこでござ~♪~ますか? 産みの親を“匹婦”と呼んでいるけれど、それは決して母親を侮辱したり憎んでいるために、そう書いたわけではないのですよう。 でも、“匹婦”とは、ジューンさんが調べたように、とっても悪い意味でござ~♪~ますわ。産みの親が、デンマンさんのおっしゃるように男にとって“心のふるさと”であるならば、犀星さんは絶対にそのような悪い言葉を使わないはずでござ~♪~ますわ。 だから、その言葉は産みの母親に向けたわけではないのですよう。 。。。では。。。では。。。いったい、どなたに向けた言葉なのでしょうか? 室生犀星自身に向けた言葉ですよう。 犀星さんご自身に向けた言葉でござ~♪~ますか? その通りですよう。 それならば、匹婦ではなくて匹夫になるはずですわ。 でもねぇ、匹夫と書いたのでは、全く馬鹿馬鹿しい句になってしまう。普通の人が読んで誰でも分かるようにするには、やはり匹婦と書かざるを得ないのですよう。 でも、あたくしには、まだ良く分かりませんわ。 あのねぇ、次のような諺を卑弥子さんも聞いたことがあるでしょう? “三つ子の魂百までも” ええ。。。聞いたことがありますわ。 人間は三歳までにいろいろ経験したことが、その後の性格を形成する、というのですよう。つまり、幼い時に培われた性格は、いくつになっても変わらない、とのたとえです。 犀星さんの場合、具体的には、どう言う事なのでござ~♪~ますか? ここでまた、ジューンさんの書いたエッセーを読んでみてください。
でも、なぜ女性でなければ
ならないのでしょうか?
こんにちはジューンです。
わたしのような外国人にとって
日本語の漢字を覚えるのはしんどいものです。
でも、面白いですよね。
「好」という漢字は
母と子のスキンシップを表現しています。
考えてみた事がありますか?
子育てって、大変ですよね。
もちろん私はまだ独身ですわ。
上の絵はデンマンさんがコラージュした絵です。
私の顔写真を貼り付けたのですわ。
まだ子育ての経験はありませんけれど、
自分が育てられた頃のことを思い出すと、
さぞかし母親は私を育てるのに
手を焼いたと思うのですわ。
ところで、私は今、古代中国の孔子について
興味があるので歴史の本を読んで
勉強しているのです。
たまたまタイム・ライフのイラストがたくさん書いてある
歴史の本を読んでいたら
次の面白い説明に出くわしました。
いっぽう、「良いこと」、「好き」、「優しい気持ち」、「親愛の情」を表す漢字は女が子供を抱っこしている2つのシンボルから成り立っています。
このような漢字を習い、筆で竹簡に書くことで、生徒は学問を学んで文化を吸収してゆくのです。
私がこの部分を読んで感じたことは、
「安」も「好」も女が重要な位置を占めているのですよね。
「男」の代わりにあえて「女」を使っています。
「安」の屋根の下に男が入ると次のようになります。
なんとなく様になりませんよね。
これだと屋根の下に“パンツにコカイン”君だとか
“ウンコマン”君が入っているようで
とても安らかな気持ちにはなれませんよね。
うふふふふ。。。
また、「好」も同様に子供の隣が男だと次のようになります。
これも、パンツにコカイン君が子供と並んでいるようで、
好ましいようには見えませんよね。
これなどは、とてもキモいですわぁ~。
うふふふふ。。。
見慣れているからだと思いますが、
「安」も「好」も女性が入っていて
初めて意味があるように思えます。
でも、なぜ女性でなければならないのでしょうか?
ちょっと考えてみてください。
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
つまり、母とのスキンシップが重要なのですよう。“母の愛”が大切なのですよう。なぜなら、そこからすべての愛が派生しているからですよう。ジューンさんのエッセーを読んで僕は、ハッとしてそのような思いに捕(と)らわれたのですよう。 それで。。。? ジューンさんは、大変重要な疑問を投げかけている。 その疑問とは。。。? だから、ジューンさんは言っているのです。“でも、なぜ女性でなければならないのでしょうか?” 。。。んで、デンマンさんの答えは。。。? だから、“母の愛”はすべての愛の源(みなもと)だと僕には思えるのですよう。それで、「安」の字も「好」の字も、その中の「女」は子供を限りなく愛する母でなければならないのですよう。なぜならば、愛の原点が“母の愛”だからです。そのことを中国人は紀元前5000年前にすでに知っていたのですよう。 そうでしょうか? その証拠が、今でも卑弥子さんが使っている「安」の字であり、「好」の字なのですよう。 そうでござ~♪~ましょうか? 室生犀星は、このスキンシップを経験せずに幼時を過ごしてしまった。 つまり、母親のあふれるような愛を知らずに幼少期をすごしてしまったのですね。 そうですよう。 う~♪~ん。。。 学校の帰り、ちょうど雨が降ってきよるねん。
わてが、そう思っていると、 わてのおかあはんは、ごっつうやさしかったでぇ~
小百合さんも、そうゆう優しいおかあはんの一人やでぇ~ \(*^_^*)/ うしししし。。。 by 心の恋人 (デンマン) 2009-02-10 07:19 AM 『即興の詩 ほほえみの傘』のコメント欄より だから、たとえば、母親が下駄箱で傘を持って我が子を待ち構えている。犀星も小学生の頃に何度か、そのような場面を目撃していたに違いないのですよう。しかし、犀星にはそのような母親は居なかったのですよう。 そのような苦い思い出が50才を過ぎても、犀星さんの心の底に重く沈んでいたとデンマンさんはおっしゃるのですか? そうですよう。それで、次の句を読んだのですよう。 夏の日の匹婦の腹に生まれけり でも、この句を詠んだ時の犀星は、もはや少年の頃の犀星ではない。犀星の生い立ちの事で馬鹿にする人も居なければ、苛める人も居ない。冷静に考えれば、犀星自身は、何も悪い事をしたわけじゃない。犀星にはどうする事もできない事だった。でも、“三つ子の魂百までも”。。。子供の頃、悲しいつらい思いをしたことは、心のどこかに焼きついている。 その事に対して犀星さんは素直に向き合って上の句を読んだと。。。? そうですよう。その事が上の詩の中にも、再度表れていますよう。 どこにでござ~♪~ますか? 我はつねに狭小なる人生に住めり
その人生の荒涼の中に呻吟せり 狭小なる人生とは。。。結局、その生い立ちの柵(しがらみ)から抜け出そうとして抜け出せない自分ですよう。そのような事を考えても仕方がないのだけれど、やはり考えない訳にはゆかない。そういう心の状態が“人生の荒涼の中に呻吟せり(苦しくてうなる)”ですよう。 。。。んで、それに続く次の詩句はどういう意味なのでござ~♪~ますか? さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す つまり、犀星は「母親とは何か?」、「我が子を里子に出さねばならない母の気持ちとはどういうものなのか?」。。。「女とは。。。?」。。。そのような事を考えない訳にはゆかなかったのでしょうね。。。自問自答しながら書いたのが長編小説『杏っ子』だった。。。書き終えてから犀星は、次のような感想を書いたのですよう。 「ただ、このような物語を
書いているあいだだけ、
(母に)お会いすることが出来ていた。
物語をつづるということで、
生ける母親に会うことのできるのは、
これは有難いことのなかの
特に光った有難さなのである」 。。。それで。。。? 創作の中で生ける母親に会うことこそ、犀星にとって“愛すべき張りつめたる氷”だったのですよう。 さればこそ張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す そして、そうする事に犀星は切ない思いを味わったのですよう。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 実の父母に育てられたと言うことは本当に幸せな事なのかもしれません。 とにかく、まだまだ、興味深いお話が続きますわ。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
わたしがいつも泣かされるお話は
『フランダースの犬』です。
あなたは読んだことがありますか?
フランダース地方アントワープ郊外の
小さな農村に住む少年ネロは、
正直な寝たきりのおじいさんと
忠実な老犬パトラッシュと3人で
暮らしています。
貧しいミルク運搬業で生活を支えながら
いつかルーベンスのような
偉大な画家になることを夢見ているのです。
しかし、唯一の親友である風車小屋の一人娘とは
望まずして疎遠となり、
新しく街から通いはじめたミルク買い取り業者には
仕事を奪われていくのです。
風車小屋付近で火事があり、
放火犯の濡れ衣を着せられてしまいます。
それで、ネロの居場所は村から失われてしまいます。
クリスマスを数日後に控えたある日、
優しかった祖父もついに亡くなるのでした。
クリスマス前日には、家賃を滞納していた小屋から
追い出されてしまいます。
その日は、アントワープで開かれている絵画コンクールの
結果発表日でした。
優勝すればきっと皆に認めてもらえるようになると、
コンクールに全ての望みをかけるネロでしたが
審査結果は落選でした。
厳しい吹雪の帰りの道すがら拾った財布を
風車小屋に届けると、
ネロは再び雪夜の闇の中に飛び出してゆきます。
財布の中身は風車小屋一家の全財産でした。
帰宅した一家の主人は今までの仕打ちを後悔し、
翌日ネロの身元を引き受けに行くのです。
さらに翌日には、彼の才能を認めた著名な画家が、
ネロを引き取り養育しようと街を訪れるのです。
でも、何もかもが手遅れでした。
クリスマスを迎えた翌朝、
アントワープ聖母大聖堂に飾られた
憧れのルーベンスの絵の前で、
ネロと愛犬は抱擁したまま冷たくなっていたのです。
悲しすぎるお話ですよね。
ところで、英語の面白い話を集めました。
時間があったら覗いてみてください。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。
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