| ||||
|
杜の都で食べる
by デンマン & 卑弥子
2009年3月2日
[694]小百合さん!楽しい思い出をありがとう!
Name: 伝万 (HOME) E-MAIL Date: 11/28/2008 19:56 (バンクーバー時間: 11月28日 午前2時56分) 命の洗濯ができました。
しかも“山の家”で入った露天風呂は最高でした。
ちょっと小さくて小百合さんと一緒に入る事が出来ませんでしたが、 その翌日のバーベキューも格別でした。
(中略) とにかく、小百合さんのおかげで、楽しい思い出深い日本滞在になりました。
デンマンさん。。。どうして、また露天風呂を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
露天風呂って、やっぱりイイですよう。 カナダにも露天風呂って、あるのでござ~♪~ますでしょう? あるけれど、カナダの露天風呂って、まず例外なく水着着用ですよう。しかも、日本の温泉と比べるとぬるくて、まるで温水プールですよう。だから、日本の露天風呂の気分なんて全く味わえない。
そういうものでござ~♪~ますか? 銭湯もカナダにはありませんからね。 それで、仙台の銭湯・「開福湯」が、とりわけ懐かしいのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。でも、この「開福湯」も2003年の12月で廃業してしまったから、仙台を訪れても、もう、入る事ができません。
明治の面影残す銭湯消える
仙台の「開福湯」廃業 2003(平成15)年12月26日 金曜日
仙台市内でただ一つ、明治時代から営業してきた銭湯「開福湯」(青葉区五橋)が廃業を決め、このほど市に届けを出した。 SOURCE: 宮城県仙台市 河北新報ニュース 。。。んで、今日のタイトルは『杜の都で食べる』ですけれど、また五右衛門ラーメンのお話でござ~♪~ますか? ■ 『仙台辛味噌ラーメン』 ■ 『愛のラーメンと杜の都』 五右衛門ラーメンは、すでに上の記事で充分に語りつくしたから、今日は「公孫樹(いちょう)食堂」について話しますよう。
■ 『思い出の曲とふるさと』
(2009年1月9日) 【 仙台での学生時代の思い出 】 昼ごろ片平丁に出かけ公孫樹食堂で定食か、カレーか、うどんを食べ、研究室へ行って机の上に置いてある洗面器と手ぬぐいを持って近くの風呂屋へ行く。 上の記事でも書いたけれど、お昼は、たいてい片平丁キャンパスにあった公孫樹(いちょう)食堂で食べたものです。 どのようなものをいただいたのでござ~♪~ますか? 定食か、カレーか、うどんでしたね。それから研究室へ行って机の上に置いてある洗面器と手ぬぐいを持って「開福湯」へ行ったものですよう。 午前中は。。。? 僕は夜型の人間だから、試験以外の時には午前中は寝ていますよう。昼ごろ起き出してバイクでキャンパスに向かい、それから僕の一日が始まるのですよう。うしししし。。。 。。。んで、お昼ご飯を食べたあとにお風呂ですか? いけませんか? 学校に居る間にお風呂屋さんに行く人なんて聞いた事がござ~♪~ませんわア~! 卑弥子さんが「日本文化と源氏物語」を講義している京都の女子大学の学生は昼ごろにスーパー銭湯に行かないのですか? 行きませんわよう。聞いた事も見た事もござ~♪~ませんわア。 卑弥子さんが知らないだけですよう。最近の女子学生はずいぶんと飛んでいると言うじゃありませんかア~ あたくしが教えている女子学生には、そのような変わり者、飛んでいる者は居ないはずでござ~♪~ますわ。。。んで、公孫樹(いちょう)食堂は、デンマンさんが居た研究室から近いのでござ~♪~ますか?
僕は上の地図の下の方に見える電気通信研究所の大泉・野口研究室に居たのですよう。そこから歩いて5分です。 デンマンさんは、しばしば公孫樹(いちょう)食堂で食べたのでござ~♪~ますか? とりわけ旨くは無かったけれど、とにかく安かった。だから、よく食べに行きましたよう。でもねぇ、初めのうちは公孫樹(いちょう)食堂で食べる気がしなかった。 どうしてでござ~♪~ますか?
公孫樹(いちょう)食堂 この写真で見ると、けっこうきれいな建物に見えるのだけれど、前の通りを歩いてみただけでも古い建物だと言うことがすぐに見て分かった。しかも、食堂と言う感じではないのですよう。建物の表情がいかめしい。どう見ても古い校舎を改造して食堂にしたような印象を受けたのですよう。 それで、入る気が起こらなかったのでござ~♪~ますか? そうですよう。昼飯(ひるめし)を食べるのに、わざわざ講義室のような建物で食べる気が起きなかったのですよう。しかも古くて旧式な建物で、入れば黴(カビ)臭い匂いが漂ってくる気がして、ルンルン気分になれなかった。 いつ頃に建てられた建物なのでござ~♪~ますか? 明治か大正時代に建てられたと思っていたのだけれど、調べたら太平洋戦争中と、それに続く戦後、昭和30年代の中頃まで、中央講堂として使われていたのですよう。おそらく1935(昭和10)年頃に建てられたのでしょう。。。案の定、講堂として使われていたのですよう。。。そんな所で昼飯(ひるめし)を食べる気になれないのも無理ないですよう。卑弥子さんだって、そう思うでしょう? それで、なぜ公孫樹(いちょう)食堂で食べるようになったのでござ~♪~ますか? 理由の一つは、その名前ですよう。僕は公孫樹を“いちょう”と読むとは思っていなかった。 デンマンさんは、なんと読んでいたのでござ~♪~ますか? 僕のオツムの中では“こうそんじゅ”と読んでいたのですよう。もちろん、その漢字が銀杏(いちょう)と同じものだとは夢にも思わなかった。 それで。。。? 公孫樹という漢字から、なぜか魯迅が連想されたのですよう。 どういう訳で。。。? 魯迅の本名は周樹人なのですよう。どちらも“樹”を含んでいる。公孫樹と言う呼び方は魯迅を尊敬して、記念して、そう読んでいるのではないか?!僕は、そんな風に連想していたようです。しかも、建物も明治時代に造られたのだと思われるぐらいに古い。壁の白いペンキなどが古くなって、灰色に変色して剥(は)げ落ちそうになっていた。僕は魯迅先生にハマッていたので、もしかすると、この建物は魯迅先生に関わっていたのではないだろうか? 中に入って調べてみようと思ったのでござ~♪~ますか? そうですよう。もしかすると 『かつて、この建物で魯迅が講義を受けました。。。』 なんて言う説明が壁に貼ってあるかもしれない。そう思ったのですよう。 でも、時代が違うのでしょう? それは調べてみて分かった事で、僕がこの食堂で食べていた当時でも、明治時代に建てられたと言われたら、なるほど、と思うほど古い建物だったのですよう。魯迅と公孫樹食堂の建物は、僕のオツムの中では同時代のモノとして共存していたのですよう。
魯迅 (ろじん)
簡体字表記:鲁迅 特に狂人日記は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。 【人物・経歴】 松本亀次郎の下で日本語を学び、1904(明治37)年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。 当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され、周は無試験で入学している。 1906(明治39)年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を経て帰国。 【魯迅と仙台】 紹興市から仙台市に送られた魯迅像(仙台市博物館)仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。 魯迅は、1904(明治37)年9月から1906(明治39)年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 デンマンさんは魯迅先生に、それ程ハマッテいたのでござ~♪~ますか? そうですよう。僕は英語で魯迅が出て来る小説を書いたほどですよう。 マジで。。。? 大真面目ですよう。そのうちネットでも公開するつもりです。そのために僕は10年ほど前に上海にも行って魯迅が住んでいたという旧居も訪ねましたよう。太平洋戦争前には“日本人街”のようになっていた虹口(ほんこう、ホンキュー)と呼ばれる地区の北のはずれのところに魯迅が奥さんと子供の3人で住んでいたアパートがあって、そこが博物館のようになっていました。 魯迅先生は、そのアパートで亡くなったのでござ~♪~ますか? そうですよう。当時の中華民国の秘密警察に追われて隠れるように住んでいたのだけれど、確か、癌だと思うけれど病気で亡くなっていますよう。魯迅がしばしば訪れたと言う内山書店の跡にも行ってみました。当時、確かその建物は銀行として使われていましたよう。 デンマンさんは、かなり魯迅先生にハマッテいたのでござ~♪~ますわね? そうですよう。魯迅先生にあこがれて東北大学で勉強してみようと思ったほどですからね。 マジで。。。? 半分マジですよう。うしししし。。。 。。。んで、魯迅先生も公孫樹食堂でお昼ごはんをいただいてから、デンマンさんのように手拭をぶら下げて「開福湯」でお風呂に入ったのでござ~♪~ますか?うふふふふ。。。 実は僕も、そう想ったのですよう。でもねぇ、調べてみると公孫樹食堂、つまり、かつての中央講堂は昭和10年代に造られた。「開福湯」は明治43年に開業したのですよう。魯迅先生が清国(現・中国)に戻ったのは明治39年だから、どちらの建物も先生は知らないのですよう。 デンマンさんと魯迅先生の歴史的な接点は無かったという事でござ~♪~ますわね? そうですよう。考えてみると、現在の東北大学医学部は公孫樹食堂のある片平丁キャンパスから、北へ2キロ以上離れているのですよう。だから、魯迅先生は片平丁をそぞろ歩いた事はないだろう、と僕はすぐに思ったのですよう。 でも、違うのですか? 地図を見て僕は驚いたのですよう。魯迅の「階段教室」が片平丁キャンパスにあったのですよう。昔、その場所が仙台医学専門学校だったとは僕は全く知りませんでした。 現在の医学部の前身でござ~♪~ますか? そうなのですよう。つまり、魯迅先生は、現在の片平丁キャンパスの付近をそぞろ歩いていた事があるのですよう。 デンマンさんも知らずに魯迅先生が歩いていた道を通って、公孫樹食堂へ行ったり、「開福湯」へ行ってお風呂に入っていたのでござ~♪~ますわね? そうなのですよう。うしししし。。。やはり、僕と魯迅先生には歴史的な接点があったのですよう。しかも、僕は魯迅先生が実際に住んでいた上海のアパートにも足を踏み入れたのですからね。。。 でも、それはデンマンさんが特別だと言うことではござ~♪~ませんわ。あたくしが仙台へ行って片平丁キャンパスを歩いて、それから上海へ飛んで虹口の魯迅記念館へ行けば、同じ体験ができるのでござ~♪~ますわ。 何も知らずに、そのような経験をしていた、と言うところが重要なところですよう。そして、こうして歴史的ロマンとして記事に書く。うへへへへ。。。 。。。んで、公孫樹食堂と小百合さんが何か関係あるのでござ~♪~ますか? 実は関係あるのです。 どのように。。。? 小百合さんは中学生時代、花も恥らう乙女の頃に『エマニエル夫人』を観たのですよう。 それで。。。? 普通の女の子であれば、それで終わりです。 小百合さんは違うのでござ~♪~ますか? 社会人になってから、小百合さんはエマニエル夫人が過ごしたバンコクへ行ったのですよう。
■ 『エマニエル夫人と山の家 (2008年2月6日)』
■ 『ブルックリンのエマニエル夫人』 ■ 『エマニエル夫人とチャタレイ夫人』 エマニエル夫人と公孫樹食堂が関係しているのでござますか? いや、残念ながらエマニエル夫人は仙台にやってきた事はないのですよう。うしししし。。。 だから、どのように関係しているのでござ~♪~ますか? 小百合さんは、以前、僕に次のメールを書いて寄越したのですよう。
お酒好きですよう
投稿日時: 2008/06/20 02:01 (ロンドン時間) はい デンマンさん でも、上の記事、読みました。
はげしさに
夢破るとも
妹(いも)のこと
思い煩(わずら)う
あじさいの花
五月雨(さみだれ)は
すでに遠のき
六月の
梅雨にぬれたる
妹(いも)の黒髪
ひさびさの
妹(いも)の言(こと)の葉
なつかしみ
うれし涙に
梅雨(つゆ)も忘れて 何かを作るって 楽しいですね。人それぞれで、 ヒノキのお風呂はつくれませんよ。 一度 山に来ると 私が何して 遊んでるか
小百合より Fuji & Kato Private Forum 『気になる記事』スレッド 小百合さんは“こんな正反対のデンマンさんと私は何が共通してるのかな?”と書いていますわね? その通りですよう。 。。。んで、共通するものが分かったのでござ~♪~ますか? 分かったのですよう。 その共通点とは。。。? 夢とロマンを食べる事ですよう。うしししし。。。だから僕に“仙台辛味噌ラーメン”を送ってきてくれたのですよう。
小百合さんはバンコクで『エマニエル夫人』のシーンを思い浮かべながら現地の食べ物を飽きるほど食べて、夢とロマンの思い出を作ってきたのですよう。 。。。んで、デンマンさんは。。。? だから僕は、小百合さんが“仙台辛味噌ラーメン”を送ってきたおかげで公孫樹食堂を思い出しながら歴史ロマンに浸(ひた)っているのですよう。僕は小百合さんに、さっそくお礼のメールを書きました。 。。。んで、公孫樹食堂と小百合さんがどのように関係しているのでござ~♪~ますか? とにかく、まず、僕のお礼のメールを読んでくださいよう。それから、ゆっくりと説明しますから。。。
[603]Re:「かどや」の定休日は
日曜日と書いてあるよう。 気をつけて行ってきてね。
Name: さゆり E-MAIL Date: 2009/02/26 09:53 AM (バンクーバー時間: 2月25日 水曜日 午後4時53分)
火曜でなく 昨日の水曜日に 行きました。 2時30分に実家から かどやに電話して 「3時ごろ取りにいきます」 3時40分ごろ薬局に寄り 4時にまた 母の所の先生と話があって。 おいしかったよ~ 三男坊は昨日 パクパクと片手に持って食べながら さゆりより
「鐘つき堂」のゼリーフライも、「かどや」のゼリーフライも僕の舌にはイマイチ。 今まで食べたうちでは「珈琲苑」のが、子供の頃食べた“銭フライ”に一番近いよう!
こうして、また、ルンルン気分で差し向かいでゼリーフライを食べましょうね。
ところで、「鐘つき堂」のゼリーフライの形は、
小百合さんがどうして菊ちゃんと共感するのか? あの菊ちゃんが泣きべそかきながら、ムカついて下駄を片一方、5メートルから10メートル飛ばすエピソードは、小百合さんにウケたのかもしれないよね。 小百合さんは、悔しさをどのように処理していたのだろうか? まさか、憎い相手の人形を作って、五寸釘を心臓に打ち込んでいた訳じゃないよね?
三男坊は昨日 パクパクと片手に持って食べながら
「一緒に行きたかった」と言うのです。 春休み 桜の時でも連れてドライブしてきます。 まだ つぼみも無い、行田市の大長寺の桜。
大長寺の桜が咲くのは、いつも4月になってからですよう。
“仙台辛味噌ラーメン”は、旨かっただけに、いろいろな思い出を甦(よみがえ)らせてくれました。 2月28日の記事は、題して『懐かしい杜の都』。 掲示板にコピペするから読んでみてね。 小百合さんからの贈り物は、半分ほど食べました。 今までの内では、“仙台辛味噌ラーメン”が僕に最も多くの思い出を甦(よみがえ)らせてくれました。 では、風邪を引かないように。。。 『軽井沢タリアセン夫人』も、一生懸命に時間があるときに書いていますよう。 とにかく、軽井沢タリアセンだから、格調高いのですよう。
とにかく、睡鳩荘が出てきて、 『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』の高田美和さんもビックリしますよう! もう忘れないでね。 それがどうなの。。。? 『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』では美和さんの相手役は最後に頭を切り取られて死んでしまう。 『軽井沢タリアセン夫人』では、死ぬ人は一人も居ない。 分かるでしょう? どうして。。。?
僕の創作だと思っていたラヴィオリカレーは、他にも誰かが作っていたらしい。 読んでどうなるの。。。? だから、読んだら、また小百合さんが僕と山の家で会いたくなるのですよう。 いつまでも、書いているときりがないし、
日本時間: 2009年2月26日 午後6時36分 それで、“仙台辛味噌ラーメン”のお礼のお返し物が小百合さんをヒロインにして書く、夢とロマンの『軽井沢タリアセン夫人』でござ~♪~ますか? そうですよう。いけませんか?うしししし。。。 あたくしがいけないと言ったところで、デンマンさんは、どうせ書くのでしょうから。。。んで、公孫樹食堂と小百合さんがどのように関係しているのでござ~♪~ますか? つまり、夢とロマンですよう。小百合さんは食べる事によって夢とロマンの思い出を作る。僕は小百合さんからの心のこもった贈り物をもらって、その中から“仙台辛味噌ラーメン”を食べて思い出が甦(よみがえ)る。その思い出の中に公孫樹食堂が現れたのですよう。思い出を食べるグルメの小百合さん。その小百合さんがもたらした公孫樹食堂の思い出。。。それで、こうしてブログを書く事によって、僕は歴史の夢とロマンに浸(ひた)るのですよう。公孫樹食堂と小百合さんは、このようにして結びついているのですよう。 なんだか、いつものようにデンマンさんは理屈で無理やり結び付けているのですわ。そうゆうのを世間では“こじつけ”と申し上げるのでござ~♪~ますう。。。ところで、公孫樹食堂は、今でもあるのでござ~♪~ますか? 残念ながら1994(平成6)年に取り壊されてしまったのですよう。公孫樹食堂があった所には、現在、「さくらホール」が建っていますよう。
一番手前の建物が「さくらホール」です。 では、もう公孫樹食堂の建物は見られないのでござ~♪~ますか? 卑弥子さんのために、また、この記事をここまで読んでくれたネット市民の皆様のために珍しい映画を紹介します。
50年前の片平キャンパスで
撮影された人々 2007年吉日 いまから半世紀前の1957(昭和32)年6月22日、東北大学の創立五十周年を祝う式典が片平キャンパスで行われました。 (中略) さて、フィルムでは学長式辞の後、文部大臣や当時東大総長であった矢内原忠雄、初期の卒業生でこの直後に東大の総長となる茅誠司(日本学術会議会長)といった人々による来賓祝辞があり、さらにやはり本学草創期からのメンバーである熊谷岱蔵元総長が特別功労者として挨拶をしています。 すぐ上のリンクをクリックすると、上映時間10分程の50年前の映画を見る事ができます。公孫樹食堂(当時の中央講堂)での祝賀会。日本初の女子大学生・黒田チカさん(当時お茶の水女子大名誉教授)を見る事ができます。 日本初の女子大生は東北大出身でしたの? 東大も京大も女子の入学を認めなかったのですよう。 あ~♪~ら、女性差別でしたのねぇ~!!んも~~。。。東北大学は男女平等の思想の下に大学教育を行っていたのでござ~♪~ますわね。 実は、当時、東北大の入学者が少なくて、それで女子の入学も認めたと言う裏話が伝わっていましたよう。うしししし。。。で、映画の最後に、当時の片平キャンパスの風景が映し出されます。 ぜひ見てみたいですわ。 でもねぇ、ブロードバンドでなく、モデムでネットにつながっている場合には、ダウンロードに1時間以上かかるかも知れません。もちろん、一度ダウンロードしてしまえば、何度でも繰り返し、すぐに見る事ができますが。。。 特に興味深い事でもあるのでござ~♪~ますか? あの“滝川事件”を起こした滝川さん本人が50年前の映画に出てきますよう。この事件を基にして黒澤明監督が映画を作っているほどです。
瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき)
1891年2月24日生まれ。 【人物】 旧岡山藩士の子として生まれる。滝川家は戦国期の武将滝川一益の末裔とされている。 【学説】 瀧川は、東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の刑法学の基礎を築いた。 京都帝国大学時代の1933年、中央大学法学部での講演がきっかけで、その刑法学説が自由主義的な内容であったため文部省(当時の文部大臣は鳩山一郎)から休職処分を下されたのち退官した(滝川事件)。 第二次世界大戦の終戦後には、大内兵衛らと共に論壇に復帰。 その後1953年に総長に就任したが、学生運動との対立事件を繰り返した。
映画『わが青春に悔なし』
(黒澤明監督作品) 『わが青春に悔なし』は滝川事件とゾルゲ事件をモデルとした黒澤明監督の映画である。 公開 1946年10月29日 【あらすじ】 日本が戦争へと歯車が狂い始めていた昭和8年、京都の吉田山。京大教授の八木原の娘として何不自由無く活発に育った幸枝と、父の教え子である、糸川と野毛を含む、7人の前途有望な学生達がいた。 全てに慎重で常識と立場を重んじる糸川、正しいと信じた事は立場に関係なく主張する野毛の二人は幸枝に好意を持っていた。 八木原教授への弾圧により、わき上がった学生運動をきっかけに、糸川と野毛はより生き方が別れていく。 幸枝は自らの満たされた生き方に疑問を感じていた。 【キャスト】 八木原幸枝:原節子 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 なんだか、すごいですわねぇ~。デンマンさんは映画会社の宣伝マンもしているのでござ~♪~ますか? うしししし。。。まさかぁ!残念ながら、映画会社からもDVD配給会社からもギャラをもらってませんよう。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 滝川先生って、どんなお顔をしていらっしゃるのでござ~♪~ましょうか? いづれにしても、まだまだ興味深いお話が続きますゥ。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
ためになる関連記事
■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に
別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』
こんにちは。ジューンです。
デンマンさんの『軽井沢タリアセン夫人』をわたしも
読んでみたいですわ。
『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』を
残念ながら、わたしは見た事がありません。
でも、デンマンさんが書いたあらすじを読むと、
あまり見たくないような
残酷なシーンが最後にあるようですよね。
確かに、ラストシーンは日本人には
あまり馴染みの無いキスシーンで終わるようです。
その事をデンマンさんは
「陳腐だ」と言っているのですけれど、
デンマンさんが書き直したラストシーンは
日本人女性の繊細さが表れているかも知れません。
でも、死体置き場という設定を
変えた方が良いのではないでしょうか?
あなたも、時間が会ったらぜひ上のリンクを
クリックして読んでみてくださいね。
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてください。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
| |||
|