Google
A revolving earth (earthani.gif--64x64) Beaverland Net
小百合物語
 

 

Beaverland Net Revised Japanese Ancient History logo (jhist02.gif--140x300)

 

Idioms logo (idioms.gif--140x300)

 

 

Proverbs logo (proverb1.jpg--140x280)

 

Net Artist Page logo (netart3.gif--140x365)

 

 

Unlisted Slang logo (slangs.gif--140x260)

 

Beaverland Net Revised Japanese Ancient History logo (jpnword.jpg--140x360)

 

Mythology logo (myth007.gif--140x380)

 

Beaverland Net HTML Made Easy! logo (html01.gif--140x160)

 

JavaScript Made Easy! logo (javascrt.gif--140x360)

 

Beaverland Japonica banner (japonic3.gif--140x360)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
杜の都で食べる
2009年3月2日

[694]小百合さん!楽しい思い出をありがとう!
Name: 伝万 (HOME) E-MAIL
Date: 11/28/2008 19:56
(バンクーバー時間: 11月28日 午前2時56分)

命の洗濯ができました。

しかも“山の家”で入った露天風呂は最高でした。

ちょっと小さくて小百合さんと一緒に入る事が出来ませんでしたが、
山深い里の木立の中で、せせらぎの流れを聞きながら命の洗濯をした思いでした。
月は出ていなかったけれど、
2つの大きな照明灯が、まるで夜空の中に浮かんだ2つの月のように見えて格別でした。
大自然の中で、あんな贅沢な気分に浸(ひた)ったのは久しぶりでした。

その翌日のバーベキューも格別でした。
僕はあまり肉は食べないのだけれど、
あのバーベキューの焼肉は食欲をそそる匂いに包まれて、
衝動的に食べてしまうほど旨い物でした。

(中略)

とにかく、小百合さんのおかげで、楽しい思い出深い日本滞在になりました。
ありがとう。


『小百合さん!楽しい思い出をありがとう!』より

『山の家と露天風呂 (2008年12月6日)』にも掲載

デンマンさん。。。どうして、また露天風呂を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?

露天風呂って、やっぱりイイですよう。

カナダにも露天風呂って、あるのでござ~♪~ますでしょう?

あるけれど、カナダの露天風呂って、まず例外なく水着着用ですよう。しかも、日本の温泉と比べるとぬるくて、まるで温水プールですよう。だから、日本の露天風呂の気分なんて全く味わえない。

そういうものでござ~♪~ますか?

銭湯もカナダにはありませんからね。

それで、仙台の銭湯・「開福湯」が、とりわけ懐かしいのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。でも、この「開福湯」も2003年の12月で廃業してしまったから、仙台を訪れても、もう、入る事ができません。

明治の面影残す銭湯消える

仙台の「開福湯」廃業

2003(平成15)年12月26日 金曜日

仙台市内でただ一つ、明治時代から営業してきた銭湯「開福湯」(青葉区五橋)が廃業を決め、このほど市に届けを出した。
建物の入り口の屋根などは明治時代のままで、天井も高い。
古き良き時代の薫りを漂わせてきた銭湯の廃業に、常連客や同業仲間から惜しむ声が寄せられている。

SOURCE: 宮城県仙台市 河北新報ニュース


『懐かしい杜の都 (2009年2月28日)』より

。。。んで、今日のタイトルは『杜の都で食べる』ですけれど、また五右衛門ラーメンのお話でござ~♪~ますか?

■ 『仙台辛味噌ラーメン』
  (2009年2月24日)

■ 『愛のラーメンと杜の都』
  (2009年2月26日)

五右衛門ラーメンは、すでに上の記事で充分に語りつくしたから、今日は「公孫樹(いちょう)食堂」について話しますよう。

■ 『思い出の曲とふるさと』
  (2009年1月9日)

【 仙台での学生時代の思い出 】

昼ごろ片平丁に出かけ公孫樹食堂で定食か、カレーか、うどんを食べ、研究室へ行って机の上に置いてある洗面器と手ぬぐいを持って近くの風呂屋へ行く。
帰ってくると研究室の壁に貼り付けたヌードが迎えてくれる。
そのヌードは僕がFORTRANで文字を重ね打ちして描いた等身大のものだった。

上の記事でも書いたけれど、お昼は、たいてい片平丁キャンパスにあった公孫樹(いちょう)食堂で食べたものです。

どのようなものをいただいたのでござ~♪~ますか?

定食か、カレーか、うどんでしたね。それから研究室へ行って机の上に置いてある洗面器と手ぬぐいを持って「開福湯」へ行ったものですよう。

午前中は。。。?

僕は夜型の人間だから、試験以外の時には午前中は寝ていますよう。昼ごろ起き出してバイクでキャンパスに向かい、それから僕の一日が始まるのですよう。うしししし。。。

。。。んで、お昼ご飯を食べたあとにお風呂ですか?

いけませんか?

学校に居る間にお風呂屋さんに行く人なんて聞いた事がござ~♪~ませんわア~!

卑弥子さんが「日本文化と源氏物語」を講義している京都の女子大学の学生は昼ごろにスーパー銭湯に行かないのですか?

行きませんわよう。聞いた事も見た事もござ~♪~ませんわア。

卑弥子さんが知らないだけですよう。最近の女子学生はずいぶんと飛んでいると言うじゃありませんかア~

あたくしが教えている女子学生には、そのような変わり者、飛んでいる者は居ないはずでござ~♪~ますわ。。。んで、公孫樹(いちょう)食堂は、デンマンさんが居た研究室から近いのでござ~♪~ますか?

僕は上の地図の下の方に見える電気通信研究所の大泉・野口研究室に居たのですよう。そこから歩いて5分です。

デンマンさんは、しばしば公孫樹(いちょう)食堂で食べたのでござ~♪~ますか?

とりわけ旨くは無かったけれど、とにかく安かった。だから、よく食べに行きましたよう。でもねぇ、初めのうちは公孫樹(いちょう)食堂で食べる気がしなかった。

どうしてでござ~♪~ますか?

公孫樹(いちょう)食堂

この写真で見ると、けっこうきれいな建物に見えるのだけれど、前の通りを歩いてみただけでも古い建物だと言うことがすぐに見て分かった。しかも、食堂と言う感じではないのですよう。建物の表情がいかめしい。どう見ても古い校舎を改造して食堂にしたような印象を受けたのですよう。

それで、入る気が起こらなかったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。昼飯(ひるめし)を食べるのに、わざわざ講義室のような建物で食べる気が起きなかったのですよう。しかも古くて旧式な建物で、入れば黴(カビ)臭い匂いが漂ってくる気がして、ルンルン気分になれなかった。

いつ頃に建てられた建物なのでござ~♪~ますか?

明治か大正時代に建てられたと思っていたのだけれど、調べたら太平洋戦争中と、それに続く戦後、昭和30年代の中頃まで、中央講堂として使われていたのですよう。おそらく1935(昭和10)年頃に建てられたのでしょう。。。案の定、講堂として使われていたのですよう。。。そんな所で昼飯(ひるめし)を食べる気になれないのも無理ないですよう。卑弥子さんだって、そう思うでしょう?

それで、なぜ公孫樹(いちょう)食堂で食べるようになったのでござ~♪~ますか?

理由の一つは、その名前ですよう。僕は公孫樹を“いちょう”と読むとは思っていなかった。

デンマンさんは、なんと読んでいたのでござ~♪~ますか?

僕のオツムの中では“こうそんじゅ”と読んでいたのですよう。もちろん、その漢字が銀杏(いちょう)と同じものだとは夢にも思わなかった。

それで。。。?

公孫樹という漢字から、なぜか魯迅が連想されたのですよう。

どういう訳で。。。?

魯迅の本名は周樹人なのですよう。どちらも“樹”を含んでいる。公孫樹と言う呼び方は魯迅を尊敬して、記念して、そう読んでいるのではないか?!僕は、そんな風に連想していたようです。しかも、建物も明治時代に造られたのだと思われるぐらいに古い。壁の白いペンキなどが古くなって、灰色に変色して剥(は)げ落ちそうになっていた。僕は魯迅先生にハマッていたので、もしかすると、この建物は魯迅先生に関わっていたのではないだろうか?

中に入って調べてみようと思ったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。もしかすると 『かつて、この建物で魯迅が講義を受けました。。。』 なんて言う説明が壁に貼ってあるかもしれない。そう思ったのですよう。

でも、時代が違うのでしょう?

それは調べてみて分かった事で、僕がこの食堂で食べていた当時でも、明治時代に建てられたと言われたら、なるほど、と思うほど古い建物だったのですよう。魯迅と公孫樹食堂の建物は、僕のオツムの中では同時代のモノとして共存していたのですよう。

魯迅 (ろじん)

簡体字表記:鲁迅
ピンイン: Lǔ Xùn
1881(明治14)年9月25日に浙江省紹興市で生まれる。
1936(昭和11)年10月19日に亡くなる。
中国の小説家、翻訳家、思想家。
本名は周樹人(ピンイン:Zhōu Shùrén)
字は豫才。
ペンネームの魯は母親の姓だという。
4歳下の弟にやはり文学者・日本文化研究者の周作人がいる。
代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。

特に狂人日記は、文語主体の旧来の中国文学を口語主体とする点で画期的だった他、被害妄想に駆られている狂人の心理を実にリアルに描写する点においても、わずか15頁の短編作ではあるが近代中国文学の最高傑作ともいわれ、日本のみならず欧米諸国の中国文化研究者間では高く評価されているようである。
なお、魯迅自身が若い頃日本の仙台医専(現在の東北大学医学部)に留学した経験もあるが、彼の親戚に、本物の被害妄想患者が存在し、彼を見聞したことが、この作品を着想するヒントとなったと言われている。

【人物・経歴】

松本亀次郎の下で日本語を学び、1904(明治37)年9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。
当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。
その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、間諜(軍事スパイ)として処刑され、さらに同胞である中国人が処刑される様を喝采して見物する姿があった。
それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたのだという(『吶喊自序』『藤野先生』)。

当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され、周は無試験で入学している。
このため学力不足の留学生は途中で挫折している。
特に医学のような学問修得に特別の忍耐と努力を必要とする分野では、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技であった。
当時周には多額の奨学金が支給されており、授業についていけず町で遊興に耽ることもあり、やがて学問に対する興味も薄れていったと考えられる。
ニュース映画の場面は多感な年代の彼に大きな影響を与えたことは否定できないが、医学に挫折する自分に対する心理的な合理化(言い訳)としての側面も否定出来ないであろう。

1906(明治39)年3月に仙台医専を退学し、東京での生活を経て帰国。
杭州・紹興などを経て、1912年、南京において中華民国臨時政府教育部員となる。
さらに政府の移転に伴い北京へ転居。
1918(大正7)年雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表する。
以来、「魯迅」およびその他多くのペンネームを用いて文筆活動を本格化した。

【魯迅と仙台】

紹興市から仙台市に送られた魯迅像(仙台市博物館)仙台医専時代の魯迅を描いた作品に太宰治の『惜別』がある。
この「惜別」ということばは、仙台医専時代に、魯迅に個別添削を授けるなど何かと気を配っていた恩師、藤野厳九郎が最後に魯迅に渡した写真の裏に書いたことば。
藤野との関係は、小説『藤野先生』にも書かれている。

魯迅は、1904(明治37)年9月から1906(明治39)年3月までの約1年半しか仙台にいなかったが、仙台市や東北大学では、様々な面で魯迅を通じた交流を中国と行っている。
中国人にとっては、東北大学・片平キャンパスにある(旧)仙台医専の「階段教室」が観光地となっており、1998年11月29日には江沢民・中華人民共和国主席も訪問している。
訪問した中国人は、魯迅がいつも座っていたとされる同教室の中央帯、前から3番目の右端近くでの記念撮影をしている。
その他、同キャンパス内に「魯迅先生像」(1992年10月19日設置)、仙台城三の丸の仙台市博物館敷地内に「魯迅の碑」(1960年12月設置)と「魯迅像」(2001年設置)がある。
また、「魯迅旧居」が片平キャンパス正門近くに残されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

デンマンさんは魯迅先生に、それ程ハマッテいたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。僕は英語で魯迅が出て来る小説を書いたほどですよう。

マジで。。。?

大真面目ですよう。そのうちネットでも公開するつもりです。そのために僕は10年ほど前に上海にも行って魯迅が住んでいたという旧居も訪ねましたよう。太平洋戦争前には“日本人街”のようになっていた虹口(ほんこう、ホンキュー)と呼ばれる地区の北のはずれのところに魯迅が奥さんと子供の3人で住んでいたアパートがあって、そこが博物館のようになっていました。

魯迅先生は、そのアパートで亡くなったのでござ~♪~ますか?

そうですよう。当時の中華民国の秘密警察に追われて隠れるように住んでいたのだけれど、確か、癌だと思うけれど病気で亡くなっていますよう。魯迅がしばしば訪れたと言う内山書店の跡にも行ってみました。当時、確かその建物は銀行として使われていましたよう。

デンマンさんは、かなり魯迅先生にハマッテいたのでござ~♪~ますわね?

そうですよう。魯迅先生にあこがれて東北大学で勉強してみようと思ったほどですからね。

マジで。。。?

半分マジですよう。うしししし。。。

。。。んで、魯迅先生も公孫樹食堂でお昼ごはんをいただいてから、デンマンさんのように手拭をぶら下げて「開福湯」でお風呂に入ったのでござ~♪~ますか?うふふふふ。。。

実は僕も、そう想ったのですよう。でもねぇ、調べてみると公孫樹食堂、つまり、かつての中央講堂は昭和10年代に造られた。「開福湯」は明治43年に開業したのですよう。魯迅先生が清国(現・中国)に戻ったのは明治39年だから、どちらの建物も先生は知らないのですよう。

デンマンさんと魯迅先生の歴史的な接点は無かったという事でござ~♪~ますわね?

そうですよう。考えてみると、現在の東北大学医学部は公孫樹食堂のある片平丁キャンパスから、北へ2キロ以上離れているのですよう。だから、魯迅先生は片平丁をそぞろ歩いた事はないだろう、と僕はすぐに思ったのですよう。

でも、違うのですか?

地図を見て僕は驚いたのですよう。魯迅の「階段教室」が片平丁キャンパスにあったのですよう。昔、その場所が仙台医学専門学校だったとは僕は全く知りませんでした。

現在の医学部の前身でござ~♪~ますか?

そうなのですよう。つまり、魯迅先生は、現在の片平丁キャンパスの付近をそぞろ歩いていた事があるのですよう。

デンマンさんも知らずに魯迅先生が歩いていた道を通って、公孫樹食堂へ行ったり、「開福湯」へ行ってお風呂に入っていたのでござ~♪~ますわね?

そうなのですよう。うしししし。。。やはり、僕と魯迅先生には歴史的な接点があったのですよう。しかも、僕は魯迅先生が実際に住んでいた上海のアパートにも足を踏み入れたのですからね。。。

でも、それはデンマンさんが特別だと言うことではござ~♪~ませんわ。あたくしが仙台へ行って片平丁キャンパスを歩いて、それから上海へ飛んで虹口の魯迅記念館へ行けば、同じ体験ができるのでござ~♪~ますわ。

何も知らずに、そのような経験をしていた、と言うところが重要なところですよう。そして、こうして歴史的ロマンとして記事に書く。うへへへへ。。。

。。。んで、公孫樹食堂と小百合さんが何か関係あるのでござ~♪~ますか?

実は関係あるのです。

どのように。。。?

小百合さんは中学生時代、花も恥らう乙女の頃に『エマニエル夫人』を観たのですよう。

それで。。。?

普通の女の子であれば、それで終わりです。

小百合さんは違うのでござ~♪~ますか?

社会人になってから、小百合さんはエマニエル夫人が過ごしたバンコクへ行ったのですよう。

■ 『エマニエル夫人と山の家 (2008年2月6日)』

■ 『ブルックリンのエマニエル夫人』
  (2008年5月26日)

■ 『エマニエル夫人とチャタレイ夫人』
  (2008年9月9日)

エマニエル夫人と公孫樹食堂が関係しているのでござますか?

いや、残念ながらエマニエル夫人は仙台にやってきた事はないのですよう。うしししし。。。

だから、どのように関係しているのでござ~♪~ますか?

小百合さんは、以前、僕に次のメールを書いて寄越したのですよう。

お酒好きですよう

投稿日時: 2008/06/20 02:01 (ロンドン時間)
日本時間: 6月19日 午前10時1分
バンクーバー時間: 6月18日 午後6時1分


はい デンマンさん
夕べ 遅く開いて ブログを見てたけど、
今思うと どこ みてたのか 酔っていてわからない。

■ 『雨よ去れ (2008年6月18日、日曜)』

でも、上の記事、読みました。
短歌を3首、デンマンさんの日曜が見えて
嬉しいですよ。 つまらないなんて 批判しませんよ。

はげしさに

夢破るとも

妹(いも)のこと

思い煩(わずら)う

あじさいの花

 

五月雨(さみだれ)は

すでに遠のき

六月の

梅雨にぬれたる

妹(いも)の黒髪

ひさびさの

妹(いも)の言(こと)の葉

なつかしみ

うれし涙に

梅雨(つゆ)も忘れて

何かを作るって 楽しいですね。人それぞれで、
思い出、歌、料理、木工(これ大好き)、服(これダメ)

ヒノキのお風呂はつくれませんよ。
でも岩風呂とか タイルだったら できるかも、
たのしそ~。
けど 山仕事はしばらく 休みます。

一度 山に来ると 私が何して 遊んでるか
わかるでしょう。マキのことだけでなく
川に 小さい橋  山の斜面に階段 かまどを粘土で
作ったり、 たのしいよ~
そんなの くたびれて ヤダ! と思うかも
こんな 正反対の デンマンさんと私は 何が
共通してるのかな?

小百合より

Fuji & Kato Private Forum 『気になる記事』スレッド
“Beaverland e-XOOPS”


『赤提灯、ヌード、山仕事 (2008年6月23日)』より

小百合さんは“こんな正反対のデンマンさんと私は何が共通してるのかな?”と書いていますわね?

その通りですよう。

。。。んで、共通するものが分かったのでござ~♪~ますか?

分かったのですよう。

その共通点とは。。。?

夢とロマンを食べる事ですよう。うしししし。。。だから僕に“仙台辛味噌ラーメン”を送ってきてくれたのですよう。

お元気ですか?

昨年の暮れに

年越しそばのつもりで

送るつもりでしたが

遅くなりました。

日本はカップ麺の

種類も多く

生めんに近いもの カレー味

おそば 焼きそば 等々

デンマンさんの好きそうな

辛口を見つけ

仙台という事も

なつかしく思うだろうと

パックしました。

今回 チョコの方が おまけ。

私の好きなキャドバリーの

デイリーミルク。

それから 粉末ソース

10個入れました。

サッポロ一番で

焼きそばを作るときに

使ってみてね。

「かどや」風味に近くなるかも…。

船便で何日かかるのかしら…?

では。。。

小百合より

2009年1月17日


『愛のラーメンと杜の都』より
 (2009年2月26日)

小百合さんはバンコクで『エマニエル夫人』のシーンを思い浮かべながら現地の食べ物を飽きるほど食べて、夢とロマンの思い出を作ってきたのですよう。

。。。んで、デンマンさんは。。。?

だから僕は、小百合さんが“仙台辛味噌ラーメン”を送ってきたおかげで公孫樹食堂を思い出しながら歴史ロマンに浸(ひた)っているのですよう。僕は小百合さんに、さっそくお礼のメールを書きました。

。。。んで、公孫樹食堂と小百合さんがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?

とにかく、まず、僕のお礼のメールを読んでくださいよう。それから、ゆっくりと説明しますから。。。

[603]Re:「かどや」の定休日は

日曜日と書いてあるよう。

気をつけて行ってきてね。


Name: さゆり E-MAIL
Date: 2009/02/26 09:53 AM
(バンクーバー時間:
   2月25日 水曜日 午後4時53分)

火曜でなく 昨日の水曜日に 行きました。
母の用事があり 終わった後 ゼリーフライを、と思っていたら
午前中から 2時過ぎまで 用事が長引いてしまいました。

2時30分に実家から かどやに電話して 「3時ごろ取りにいきます」
途中 鐘つき堂にも注文して「3時10分ごろ取り行きます」
時間どうり お店に寄って 最後 エコスでも 買って 帰りました。

3時40分ごろ薬局に寄り 4時にまた 母の所の先生と話があって。
ゆっくり 大長寺でも寄ろうかと思っていたのに
駆け足 駆け足で お土産の はしご でした。
先生の話が終って また 大急ぎで三男坊の保育園にお迎え行きました。

おいしかったよ~
全部 味が違い 今朝も冷たい かどやを
食べて 菊ちゃんのぞうり と思う。
おいしい ぞうり でした。

三男坊は昨日 パクパクと片手に持って食べながら
「一緒に行きたかった」と言うのです。
春休み 桜の時でも連れてドライブしてきます。
まだ つぼみも無い、行田市の大長寺の桜。

さゆりより


『Re:かどやの定休日は… (2009年2月26日)』より

「鐘つき堂」のゼリーフライも、「かどや」のゼリーフライも僕の舌にはイマイチ。
子供の頃の思い出が蘇(よみがえ)ってきません。

今まで食べたうちでは「珈琲苑」のが、子供の頃食べた“銭フライ”に一番近いよう!
形も似ていた。
店の名前も気に入りました。
いつかまた、「珈琲苑」へ小百合さんと一緒に行きたいね。

こうして、また、ルンルン気分で差し向かいでゼリーフライを食べましょうね。
うしししし。。。

ところで、「鐘つき堂」のゼリーフライの形は、
まるで、ラグビーのボールを小さくしたようだったね。
あれは、おかしな形でしたよう。

小百合さんがどうして菊ちゃんと共感するのか?
それは、子供の頃、喧嘩で負けて、小百合さんにも菊ちゃんと同じような悔しい経験があるからだよね?
たぶん。。。
そのような事を小百合さんがどこかで書いていたよね。

■ 『菊ちゃんと小百合さん (2007年12月8日)』

■ 『毘沙門堂と菊ちゃん (2008年1月7日)』

■ 『白無垢の菊ちゃんと山の家 (2008年1月13日)』

■ 『菊ちゃんと八ツ橋 (2008年4月14日)』

■ 『菊ちゃんを旅する (2008年4月26日)』

■ 『菊ちゃんの一つ覚え (2008年6月25日)』

あの菊ちゃんが泣きべそかきながら、ムカついて下駄を片一方、5メートルから10メートル飛ばすエピソードは、小百合さんにウケたのかもしれないよね。
うへへへへ。。。

小百合さんは、悔しさをどのように処理していたのだろうか?

まさか、憎い相手の人形を作って、五寸釘を心臓に打ち込んでいた訳じゃないよね?
うしししし。。。

三男坊は昨日 パクパクと片手に持って食べながら
「一緒に行きたかった」と言うのです。
春休み 桜の時でも連れてドライブしてきます。
まだ つぼみも無い、行田市の大長寺の桜。

大長寺の桜が咲くのは、いつも4月になってからですよう。
小百合さんと一緒に見た2羽の白鳥は、もう、その頃にはシベリアへ帰って居ないだろうね。
今年の秋、縁があれば、また会えますよね。
もちろん小百合さんにも。。。

“仙台辛味噌ラーメン”は、旨かっただけに、いろいろな思い出を甦(よみがえ)らせてくれました。
仙台の記事が、これからたくさん書けそうですよう。

2月28日の記事は、題して『懐かしい杜の都』。
明治43年からやっている銭湯の話があります。
残念ながら、2003年の12月に廃業になりました。
面白い話をたくさん書きました。

掲示板にコピペするから読んでみてね。

小百合さんからの贈り物は、半分ほど食べました。
まだ半分、楽しみが残っていますよう。
じっくり味わいながら、充分に楽しみますよう。
もちろん、記事を書きながら。。。
贈り物をもらったおかげで、記事が20件ぐらい書けそうです。

今までの内では、“仙台辛味噌ラーメン”が僕に最も多くの思い出を甦(よみがえ)らせてくれました。
ありがとう!
感謝感激、雨あられ! 

では、風邪を引かないように。。。
インフルエンザにかからないように。。。
頭痛がひどくなったら、また『ロマンポルノ第5部』を読んでね。
そうすれば、頭痛の虫がビックリして、どこかへ飛んでゆくからねぇ~。
うしししし。。。

『軽井沢タリアセン夫人』も、一生懸命に時間があるときに書いていますよう。
60%ほど書き進みました。

とにかく、軽井沢タリアセンだから、格調高いのですよう。
もちろん、卑弥子さんがひっくり返って喜ぶようなヤ~らしい事も書いてあるけれど、
小百合さんが読んでもルンルン気分になれるような楽しい事が書いてあります。

とにかく、睡鳩荘が出てきて、
白いレースのカーテンの前で小百合さんがレースのランジェリーを身につけて
格調高く登場するのですよう。

『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』の高田美和さんもビックリしますよう!
おそらく高田美和さんは“タリアセン”の意味を知りませんよう。
でも、小百合さんは僕の記事を読んでいるから、意味を知っているよね?
。。。ん? もう忘れてしまったの?
しょうがないなぁ~
じゃあねぇ、次の記事を読んで思い出してよねぇ~。

■ 『タリアセンの思い出 (2008年12月14日)』

もう忘れないでね。
。。。ん? なぜ忘れちゃダメかってぇ~?
なぜならば、同じ質問を高田美和さんもされるのだよう。
そうすると、小百合さんは答える事ができるけれど、美和さんには答えられない。
それで、美和さんは『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』よりも『軽井沢タリアセン夫人』の方が芸術的に、文学的に価値があることを知るのですよう。
美和さんは悔しがって睡鳩荘の前の池に飛び込んで死のうとするのだよう。
でも、死ねない!
なぜ?
あの池は浅すぎて泳げない人でも助かってしまう。
うへへへへ。。。

それがどうなの。。。?

『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』では美和さんの相手役は最後に頭を切り取られて死んでしまう。
残酷だよねぇ~!!
それに、キモい!

『軽井沢タリアセン夫人』では、死ぬ人は一人も居ない。
登場人物の誰もが、以前よりも幸せになって結末を迎える。
八方美人的に終わるのが気に喰わないけれど、
でも、そのうちで一番幸せになるのが小百合さんなのですよう。
うしししし。。。

分かるでしょう?
幸せで、ルンルン気分で終わるのです。
そして、小百合さんは、その続きがまた読みたくなんるのですよゥ。

どうして。。。?

僕の創作だと思っていたラヴィオリカレーは、他にも誰かが作っていたらしい。
そのような事を小百合さんが言ったので、
今度は誰も作ったことのない創作カレーを僕が作りました。
それが、『軽井沢タリアセン夫人 第2部』の中に出てくるのです。
だから、小百合さんも絶対に読みたくなるのです。

読んでどうなるの。。。?

だから、読んだら、また小百合さんが僕と山の家で会いたくなるのですよう。
今度の創作カレーは、ラヴィオリカレーの2倍旨いから。。。
うへへへへ。。。

いつまでも、書いているときりがないし、
朝になってしまうので、これぐらいにします。
では、小百合さんもよい夢を見てね。
そして、今夜、夢の中で会いましょうね。。。
じゃあ、お休みィ~~~。

日本時間: 2009年2月26日 午後6時36分
バンクーバー時間: 2009年2月26日 (木曜日) 午前1時36分


『今度の創作カレー (2009年2月26日)』より

それで、“仙台辛味噌ラーメン”のお礼のお返し物が小百合さんをヒロインにして書く、夢とロマンの『軽井沢タリアセン夫人』でござ~♪~ますか?

そうですよう。いけませんか?うしししし。。。

あたくしがいけないと言ったところで、デンマンさんは、どうせ書くのでしょうから。。。んで、公孫樹食堂と小百合さんがどのように関係しているのでござ~♪~ますか?

つまり、夢とロマンですよう。小百合さんは食べる事によって夢とロマンの思い出を作る。僕は小百合さんからの心のこもった贈り物をもらって、その中から“仙台辛味噌ラーメン”を食べて思い出が甦(よみがえ)る。その思い出の中に公孫樹食堂が現れたのですよう。思い出を食べるグルメの小百合さん。その小百合さんがもたらした公孫樹食堂の思い出。。。それで、こうしてブログを書く事によって、僕は歴史の夢とロマンに浸(ひた)るのですよう。公孫樹食堂と小百合さんは、このようにして結びついているのですよう。

なんだか、いつものようにデンマンさんは理屈で無理やり結び付けているのですわ。そうゆうのを世間では“こじつけ”と申し上げるのでござ~♪~ますう。。。ところで、公孫樹食堂は、今でもあるのでござ~♪~ますか?

残念ながら1994(平成6)年に取り壊されてしまったのですよう。公孫樹食堂があった所には、現在、「さくらホール」が建っていますよう。

一番手前の建物が「さくらホール」です。

では、もう公孫樹食堂の建物は見られないのでござ~♪~ますか?

卑弥子さんのために、また、この記事をここまで読んでくれたネット市民の皆様のために珍しい映画を紹介します。

50年前の片平キャンパスで

撮影された人々

2007年吉日

いまから半世紀前の1957(昭和32)年6月22日、東北大学の創立五十周年を祝う式典が片平キャンパスで行われました。
式典の会場は片平地区の中央体育館。
当時県下最大規模の体育館として、国民体育大会の会場などとしても使われていたこの施設に来賓と職員学生代表あわせて約2000人が参加して行われた半世紀前の祝典について、フィルムには式典前の来賓控室の様子から式典終了後の祝賀会に至るまでの一切が記録されていました。

 (中略)

さて、フィルムでは学長式辞の後、文部大臣や当時東大総長であった矢内原忠雄、初期の卒業生でこの直後に東大の総長となる茅誠司(日本学術会議会長)といった人々による来賓祝辞があり、さらにやはり本学草創期からのメンバーである熊谷岱蔵元総長が特別功労者として挨拶をしています。
瀧川幸辰京大総長による万歳三唱のあとは、当時の中央講堂(のちの公孫樹食堂。現在のさくらホール南方付近)で行われた祝賀会に場面が変わりますが、ここでも日本初の女子学生・黒田チカさん(当時お茶の水女子大名誉教授)など卒業生や関係者のスピーチがありました。
映像の最後には、会場から出てくる参加者の背景に、当時の片平キャンパスの風景が映し出されています


『創立五十周年記念式典』より

すぐ上のリンクをクリックすると、上映時間10分程の50年前の映画を見る事ができます。公孫樹食堂(当時の中央講堂)での祝賀会。日本初の女子大学生・黒田チカさん(当時お茶の水女子大名誉教授)を見る事ができます。

日本初の女子大生は東北大出身でしたの?

東大も京大も女子の入学を認めなかったのですよう。

あ~♪~ら、女性差別でしたのねぇ~!!んも~~。。。東北大学は男女平等の思想の下に大学教育を行っていたのでござ~♪~ますわね。

実は、当時、東北大の入学者が少なくて、それで女子の入学も認めたと言う裏話が伝わっていましたよう。うしししし。。。で、映画の最後に、当時の片平キャンパスの風景が映し出されます。

ぜひ見てみたいですわ。

でもねぇ、ブロードバンドでなく、モデムでネットにつながっている場合には、ダウンロードに1時間以上かかるかも知れません。もちろん、一度ダウンロードしてしまえば、何度でも繰り返し、すぐに見る事ができますが。。。

特に興味深い事でもあるのでござ~♪~ますか?

あの“滝川事件”を起こした滝川さん本人が50年前の映画に出てきますよう。この事件を基にして黒澤明監督が映画を作っているほどです。

瀧川 幸辰(たきがわ ゆきとき)

1891年2月24日生まれ。
1962年11月16日に亡くなる。
日本の法学者。専門は刑法。
岡山県出身。京都帝国大学教授だった1933年、滝川事件で大学を追われるが、第二次世界大戦後、大学に復帰、京都大学総長を務めた。

【人物】

旧岡山藩士の子として生まれる。滝川家は戦国期の武将滝川一益の末裔とされている。
鳥取の瀧川家によると一益の三男辰政は岡山池田家に御預けになっており、これが幸辰の先祖とされている。

【学説】

瀧川は、東京学派の小野清一郎とほぼ同時期にドイツ刑法学における構成要件の理論を日本に初めて紹介し、犯罪を構成要件に該当する違法有責な行為であるとする現在の刑法学の基礎を築いた。
瀧川は、違法性の実質について、当初国家的条理違反としていたが、その後生活利益の侵害であるとして結果無価値論をとり、前期旧派・古典学派の立場を明らかにした。
その立場は佐伯千仭、中山研一、平野龍一らに継承されている。

京都帝国大学時代の1933年、中央大学法学部での講演がきっかけで、その刑法学説が自由主義的な内容であったため文部省(当時の文部大臣は鳩山一郎)から休職処分を下されたのち退官した(滝川事件)。
退官後は大学に属さず法律研究を行い、1939年(昭和13年)以降弁護士となった。

第二次世界大戦の終戦後には、大内兵衛らと共に論壇に復帰。
GHQの方針により1946年、京都大学に復帰し法学部長となった。
1951年法学博士(京都大学)(学位論文「刑法における構成要件の機能」)。

その後1953年に総長に就任したが、学生運動との対立事件を繰り返した。
特に「第2次滝川事件」と呼ばれる学生による滝川への「暴行」事件は有名である。
1957年、総長の任期を満了し退官した。

映画『わが青春に悔なし』

(黒澤明監督作品)

『わが青春に悔なし』は滝川事件とゾルゲ事件をモデルとした黒澤明監督の映画である。
GHQの奨励したいわゆる民主主義映画の一つである。
なお、本作と同時期に同じ題材の映画が企画されていたため、「新人監督をつぶすつもりか」との労働組合の圧力を受けて、黒澤の意図に反して映画後半の展開を大幅に変更せざるをえなかった。
農村シーンに込められた異様な気迫は、この圧力に対する反感があったからと黒澤は述懐している。

公開 1946年10月29日
上映時間 110分

【あらすじ】

日本が戦争へと歯車が狂い始めていた昭和8年、京都の吉田山。京大教授の八木原の娘として何不自由無く活発に育った幸枝と、父の教え子である、糸川と野毛を含む、7人の前途有望な学生達がいた。

全てに慎重で常識と立場を重んじる糸川、正しいと信じた事は立場に関係なく主張する野毛の二人は幸枝に好意を持っていた。
幸枝は好対照な二人それぞれにひかれる。

八木原教授への弾圧により、わき上がった学生運動をきっかけに、糸川と野毛はより生き方が別れていく。

幸枝は自らの満たされた生き方に疑問を感じていた。
時代が戦争へと流れていく中、自分を自制し安心感のある穏やかな普通の人生を送るのか、それとも、自分の意志に忠実に生き、波乱の人生を送るのかという選択に迫られる。

【キャスト】

八木原幸枝:原節子
野毛隆吉:藤田進
八木原教授:大河内伝次郎
八木原夫人:三好栄子
野毛の母:杉村春子
野毛の父:高堂国典
糸川:河野秋武
糸川の母:原緋紗子
毒いちご:志村喬
筥崎教授:清水将夫
文部大臣:深見泰三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

なんだか、すごいですわねぇ~。デンマンさんは映画会社の宣伝マンもしているのでござ~♪~ますか?

うしししし。。。まさかぁ!残念ながら、映画会社からもDVD配給会社からもギャラをもらってませんよう。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
とにかく、ワクワクしてきましたわ。

滝川先生って、どんなお顔をしていらっしゃるのでござ~♪~ましょうか?
でも、映画になる場合、そのモデルになる人には、あまりハンサムな人は居ないのですわよね。
うふふふふ。。。
とにかく、50年前の映画をあなたも見てみてねぇ~。
無料ですから。。。

いづれにしても、まだまだ興味深いお話が続きますゥ。
どうか、あなたもまたあさって、読みに戻って来てくださいね。
じゃあ、またねぇ。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事

■ 『きれいになったと感じさせる

下着・ランジェリーを見つけませんか?』

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』

■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

■ 『漢字馬鹿の再来 (2009年2月13日)』

■ 『漢字馬鹿の悦楽 (2009年2月15日)』

■ 『漢字馬鹿の自己矛盾 (2009年2月17日)』

■ 『あなた、おかえり (2009年2月19日)』

■ 『脳内漢字馬鹿 (2009年2月21日)』

■ 『他人の不幸は蜜の味 (2009年2月23日)』

■ 『漢字馬鹿の恋 (2009年2月25日)』

■ 『馬鹿のモデル (2009年2月27日)』

こんにちは。ジューンです。

デンマンさんの『軽井沢タリアセン夫人』をわたしも

読んでみたいですわ。

『日活ロマンポルノ・軽井沢夫人』を

残念ながら、わたしは見た事がありません。

でも、デンマンさんが書いたあらすじを読むと、

あまり見たくないような

残酷なシーンが最後にあるようですよね。

■ 『熱いロマン (2008年7月23日)』

■ 『陳腐な接吻 (2008年7月25日)』

確かに、ラストシーンは日本人には

あまり馴染みの無いキスシーンで終わるようです。

その事をデンマンさんは

「陳腐だ」と言っているのですけれど、

デンマンさんが書き直したラストシーンは

日本人女性の繊細さが表れているかも知れません。

でも、死体置き場という設定を

変えた方が良いのではないでしょうか?

あなたも、時間が会ったらぜひ上のリンクを

クリックして読んでみてくださいね。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてください。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


 





御意見・御感想
とても良い 良い まあまあ 良くない 最低

お名前:
Email アドレス:
御感想を書いて下さい。



Amazon Electronics Bargain Corner (amazbagn.gif--550x280)

Denman Blog
Re-Discover JAPAN
inserted by FC2 system