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枕詞とロマン
by デンマン & 卑弥子
2009年5月15日
今日は、また小百合さんのお手紙を持ち出してきたのでござ~♪~ますわね。
そうですよう。小百合さんは僕がめれんげさんと短歌の交換をしている事を良く知っているのですよう。 そのために持ち出してきたのでござ~♪~ますか? 違うのですよう。今日は枕詞(まくらことば)を話題にするのです。だから、上の小百合さんの手紙は、いわば、この記事の枕詞ですよう。うしししし。。。
枕詞 (まくらことば)
おもに和歌でその言葉の前に添えて・修飾する(語調を整える)一定の言葉。 五音節のものが多い。 【例】 「あまざかる」が「ひな」にかかるなど。 三省堂 『新明解国語辞典 (第二版)』より でも、どうして枕詞など取り上げるのでござ~♪~ますか? おととい(5月13日)に書いた次の記事で「つぼのいしぶみ(壷の碑)」を取り上げたからですよう。 ■ 『日本の真ん中の町』 “壷のいしぶみ”というのは枕詞なのでござ~♪~ますか? やだなあああぁ~。。。卑弥子さんは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授なのですよう。古典文学の研究者として“壷のいしぶみ”が枕詞の一つだと言う事ぐらい知っていて欲しいなあああぁ~。。。 サルも木から落ちる
弘法も筆の誤り
上手の手からも水が漏る デンマンさんがいつもおっしゃっているように完璧な人など居ないのでござ~♪~ますわよう。あたくしは、うっかり忘れていたのですわア。 つまり、ど忘れしていたのですか? そうでござ~♪~ますわ。おほほほほ。。。 なんだか、卑弥子さんは全く知らなかったように見えますよう。 そのような事は詮索しないでくださいな。。。でも、「つぼのいしぶみ(壷の碑)」は5音節ではござ~♪~ませんわ。7音節ですわよう。それで、あたくしのオツムから抜け落ちていたのですわ。ォほほほほ。。。 うん、うん、うん。。。確かに言われてみれば、7音節で例外的ですよね。僕が高校の古典で勉強した次の歌などはあまりにも有名だけれど、5音節です。 あおによし奈良の都の八重桜
けふ九重ににほひぬるかも あおによし奈良の都は咲く花の
にほふがごとく今盛りなり 両歌とも 小野老 (おののおゆ) による 出生不詳 あおに‐よし 【青丹よし】 (あをにーよし) 〔枕〕(ヨもシもともに間投助詞)「奈良」「国内(くぬち)」にかかる。 『広辞苑』より デンマンさんの思い違いではござ~♪~ませんか? 間違いではありませんよう。ウィキペディアにも次のように書いてあるのですよう。
つぼのいしぶみ (壷の碑)
「つぼのいしぶみ」とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。 比叡山で修学した僧・顕昭(けんしょう)が鎌倉時代の初期に書いた歌学書・『袖中抄(しゅうちゅうしょう)』の19巻では「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。 つぼの碑のことは多くの歌人が和歌に詠った。 多賀城碑壺碑説 江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。
「多賀城碑」の傍らに建つ芭蕉句碑 一方、菅江真澄らは文面や距離的な問題から壺の碑ではないと主張し、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。 南部壺碑説 青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に千人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。 1949年6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。 日本中央の碑発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物のつぼのいしぶみであるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 でも、ウィキペディアは素人が書いているものでござ~♪~ますわ。 素人が書いているから間違いだとは言えませんよう。僕は他でも「壷のいしぶみ」を歌枕として詠んだ歌を見たことがある。 たとえば。。。? 上の説明にも出てくる顕昭というお坊さんが詠んだ歌には次のよなものがありますよう。 おもいこそ千嶋のおくを隔てねど
えぞかよわさぬ壷のいしぶみ これだけでござ~♪~ますか? もっとありますよう。誰でも知っている鎌倉幕府を立ち上げた源頼朝が詠んだ歌には、次のようなものがありますよう。 みちのくのいはで忍ぶはえぞ知らぬ
かき尽してよ壷のいしぶみ 分かりましたわ。「壷のいしぶみ」が枕詞だという事を認めますわ。。。んで、その事が言いたいために今日の記事を書き始めたのでござ~♪~ますか? 違いますよう。僕にとって枕詞など、どうでも良いのですよう。 。。。んで、何がおっしゃりたいのでござ~♪~ますか? この枕詞である「壷のいしぶみ」に隠された壮大な歴史ロマンを僕は見るのですよう。 そのような事がどこかに書かれているのでござ~♪~ますか? いや。。。どこにも書かれていませんよう。これから僕が言うことは僕の歴史ロマンですよう。 つまり、夢のようなお話でござ~♪~ますわね。 いや。。。決して夢のような話ではありません。ある程度、根拠に基づいているのですよう。 分かりましたわ。お話くださいな。 あのねぇ、「壷のいしぶみ」とは、どちらの石碑なのか?まだ、論争の余地があるようなのですよう。でもねぇ、その論争の結果がどうであれ、多賀城で見つかった石碑に僕は壮大な歴史ロマンを見るのですよう。 その石碑には、一体どのような事が書かれているのでござ~♪~ますか? 現代語に訳すと次のように書かれているのですよう。
多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。
蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。 常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。 下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。 靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。 多賀城は神亀元年(724年)に築城された。按察使(あぜち)兼鎮守将軍の大野東人(おおのあずまひと)が管理した。 天平宝字6年(764年)12月1日 。。。んで、この石碑は何のための石碑なのでござ~♪~ますか? あのねぇ、藤原朝狩が多賀城を大改修した記念碑なのですよう。 つまり、藤原朝狩が自分で記念碑を建てたのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。 。。。んで、デンマンさんがおっしゃる歴史ロマンと言うのも、この人物が関係しているのでござ~♪~ますか? その通りですよう。 藤原朝狩という人は、それ程有名な人なのでござ~♪~ますか? いや、この人は中学や高校の歴史の教科書には、まず書かれない事が多いのだけれど、この人の父親は必ず歴史の教科書に書かれます。 誰ですの? 藤原仲麻呂ですよう。別名、恵美押勝(えみのおしかつ)。
藤原仲麻呂 (ふじわら の なかまろ)
慶雲3年(706年)に生まれる。 「続日本紀」は仲麻呂を「率性聡敏にして、略書記にわたる」と評している。 天平9年(737年)、天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。 天平13年(741年)、民部卿。天平15年(743年)、参議となる。 天平16年閏1月13日(744年3月1日)の安積親王の恭仁京での急死は、仲麻呂による毒殺説があるが疑問も出されている。 孝謙天皇の時代
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。 天平勝宝7歳(755年)、諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去した。 天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。 仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂であった。 淳仁天皇の時代 天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)した。 同年、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。 天平宝字4年(760年)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。 天平宝字5年(761年)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。 天平宝字6年(762年)、仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。 この頃、病になった孝謙上皇を看病した弓削道鏡が上皇に寵愛されはじめた。 藤原仲麻呂の乱 孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。 仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男・刷雄は死刑を免れて隠岐国に流されて、桓武天皇の時代に大学頭・陰陽頭を歴任している。 また、仲麻呂の推進してきた政策のうち官名の唐風改称こそは廃されて元に戻されたものの、養老律令をはじめ多くの政策が一部修正を加えられながらも、その後の政権によって継続されている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 仲麻呂は、あの有名な藤原不比等の孫なのですよう。 その事が歴史ロマンと関係するのでござ~♪~ますか? 大いに関係するのですよう。実は、藤原氏には藤原家を起こした中臣鎌足から伝わっている家宝の“バイプル”があるのですよう。 どのようなものでござ~♪~ますか?まさか、藤原氏がキリスト教徒だと言うのではないでしょうね? かつて、僕は記事に書いたので詳しい事は、すぐ下のリンクをクリックして読んでみてください。
。。。んで、そのバイブルがどうしたのでござ~♪~ますか?
仲麻呂は非常に頭の良い人だったのですよう。当然のことだけれど、仲麻呂は藤原家に伝わる“バイブル”に従って権謀術策を使い正一位になり太政大臣になった。 でも、「藤原仲麻呂の乱」で殺されてしまいましたわ。 その通りですよう。 サルも木から落ちる
弘法も筆の誤り
上手の手からも水が漏る まさに、完璧な人は居ないと言う事ですよう。仲麻呂は自分の術策に溺れてしまったのですよう。 それで、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか? 実は、父親よりも四男の藤原朝狩の方が頭が良かったのではないか?僕は、そう思っているのですよう。 なぜ。。。? ちょっと朝狩の略歴を読んでみてください。
藤原朝狩 (あさかり)
別名: 恵美朝狩。 天平宝字元年(757年)従五位下陸奥守となる。 天平宝字3年(759年)朝狩は正五位下へ進む。この頃陸奥鎮守将軍に任ぜられる。 天平宝字4年(760年)仲麻呂は太師(太政大臣)となり、陸奥守兼鎮守将軍であった朝狩も陸奥国での功績(荒蝦夷を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させた)が認められ、従四位下に叙される。 天平宝字6年(762年)、仲麻呂は正一位となり位人臣を極め、同年、朝狩は兄の真先、訓儒麻呂とともに参議に任じられ、親子4人が公卿に列する異例の事態になる。 しかし、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛し、仲麻呂が淳仁天皇を通じてこれを諌めたところ、上皇が激怒して天皇から政権を奪い、孝謙上皇・道鏡派と淳仁天皇・仲麻呂派の対立が起きる。 天平宝字8年(764年)9月、仲麻呂は反乱を計画するが、密告により発覚。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 陸奥国での功績に注目してください。 藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですわねぇ。 そうなのですよう。つまり、僕が言おうとしているのは、朝狩の方が父親の仲麻呂よりも“バイブル”に忠実に術策を使い、戦わずにして荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたのですよう。その手腕はすごいと思いますよう。 それ程、荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良くする事は大変な事だったのでござ~♪~ますか? 実は、蝦夷(えみし)は、もともと平和を愛する人たちだったのですよう。この人たちの平和愛好精神について、僕は記事を書きました。読んでみてください。
でも、どうして征伐しなければならなかったのでござ~♪~ますか? 一部の渡来人の身勝手から、そうしたのですよう。 その渡来人って。。。? その渡来人の血筋を引き継いでいるのが藤原鎌足や藤原不比等ですよう。 でも、藤原朝狩は荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)と仲良く出来たのですわね。どうしてでござ~♪~ますか? もともと、争いが嫌いな性格だったのでしょうね。父親と違い、威圧的、攻撃的な性格ではなかったのですよう。とにかく、その功績によって正五位下の藤原朝狩は従四位下に叙せられたのですよう。つまり、2階級特進したのですよう。 でも、藤原朝狩のした事は、それ程特筆するような事だったのでござ~♪~ましょうか? そうなのですよう。藤原朝狩が造営した雄勝城〔おかちのき〕の略歴を見ると良く分かりますよう。
雄勝城〔おかちのき〕
現在の雄勝郡域内に、雄勝城と同時代の遺構は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である。 現在、横手市雄物川町での発掘調査が進められており、払田柵から出土したものと同等のものが出土している。 略歴 天平宝字3年(759年) 天平宝字3年(759年)9月27日 天平宝字4年(760年)1月4日 天平宝字4年(760年)3月10日 天平神護元年(767年)11月8日 宝亀7年(776年)2月6日 宝亀11年(780年) 延暦20年(801年) 元慶2年(878年) 元慶5年(881年)2月26日 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 藤原朝狩が雄勝城〔おかちのき〕を造営してから、父親が原因で起こった「藤原仲麻呂の乱」で朝狩が殺されるまで、雄勝城周辺の情勢は平穏だった。しかし、後任者が圧制をやり始めたのが分かる。 どうして分かるのでござ~♪~ますか? 776年と780年に「賊に襲われた」と書いてあるけれど、周辺の荒蝦夷が圧政に耐えかねて、また暴れだしたのですよう。 分かりましたわ。でも、その事と歴史ロマンがどのように関係しているのでござ~♪~ますか? 朝狩は多賀城の大改修も任されたのだけれど、その時建てた石碑の次の文章をもう一度読んでみてください。
多賀城から京(奈良の平城京)に至るには、武蔵までは南西方向に歩いてゆき、さらに西に向かって歩いてゆく。その距離は1500里。
蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の西の国界(くにざかい)までは、南西方向に120里。 常陸国(ひたちのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南に向かって歩き、さらに西に向かって歩き、その距離は412里。合計で532里である。 下野国(しもつけのくに)の西の国界までは、「蝦夷国の西の国界」から南西方向に274里。合計して394里である。 靺鞨国(まっかつのくに)の西の国界までは、西に歩いてゆき日本海に至る。海を渡り、さらに西へ歩いてゆく。その距離は3000里である。 これは藤原朝狩が書かせたものですよう。 上の靺鞨国(まっかつのくに)とは、一体どこにある国なのでござ~♪~ますか? ウィキペディアの説明を読んでみてください。
靺鞨(まっかつ)
靺鞨とは、中国の隋、唐時代、勿吉(もつきつ)の表記が変化したものと考えられる。 1) 粟末部 - 現在の吉林市 上記7部の外、思慕、郡利、窟説、莫曳皆、虞婁、越喜、鉄利のような小部族が、外満州(現在の黒龍江以北とロシア沿海地方)に居住していた。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 つまり、靺鞨(まっかつ)部族たちの国という意味ですよう。この場合、粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)が立ち上げた渤海という国と、その北の黒水靺鞨(こくすいまっかつ)部族たちが立ち上げた国ですよう。この国は「黒水靺鞨」と呼ばれていたようです。 藤原朝狩は、この国の人たちと交易するつもりだったのでござ~♪~ますか? まず間違いなく、そのつもりだったろうと思います。荒蝦夷(あらえびす、あらえみし)を導いて天皇に順化させ、無血で雄勝城〔おかちのき〕を完成させたやり方を見ると、容易に彼のビジョンが見えてきますよう。 そうでしょうか? 渤海(ぼっかい)【698年建国ー926年滅亡】は、当時、日本と交流するようになっていた。 どうしてでござ~♪~ますか? 7世紀前半になると日本と新羅の関係が悪化した。それで日本は渤海が興(おこ)る前の高句麗と外交関係を強化したのですよう。 同盟を結んで新羅を牽制しようとしたのでござ~♪~ますか? そうです。その当時、高句麗の東に粛慎(しゅくしん)国がありました。日本ではこれを「みしはせ」と呼んでいた。阿倍比羅夫(ひらふ)の遠征記録を見ると粛慎(みしはせ)が出てきます。当時の大和朝廷が、粛慎と高句麗へ接近を図ろうとしたのですよう。そう言う訳で、高句麗は日本へ使節を18回も送り込んでいます。 日本は高句麗とお友達になった訳でござ~♪~ますわね。 そうです。おそらく卑弥子さんもそうだと思うけれど、学校の日本史では、その当時の東北より北の地域の活動は勉強しなかったと思うのですよう。 そうですわ。アイヌ人を日本人が征伐に行ったぐらいの事しか知りませんわ。 そうでしょう!でも、実は、上の地図を見ても分かるように、東北以北でも活発に活動している人々は居たのですよう。例えば、そのころサハリンには流鬼(りゅうき)と呼ばれる人たちが住んでいた。この人たちは大和朝廷と同じように唐の貞観14年(舒明12年、640年)に長安に朝貢使節を派遣しているのですよう。19年後の斉明5年(659年)には、蝦夷国(えみしのくに、かいのくに)の使節が大和朝廷(倭国)の遣唐使に随行して長安を訪れています。 そのような事は日本史で勉強しませんでしたわ。 当然の事だけれど、渤海は「蝦夷国(かいのくに)」とも交流を持っていた。 日本海をいろいろな国の船が行き来したのでござ~♪~ますわね。 そうですよう。だから、藤原朝狩が生きていたら、「蝦夷国(かいのくに)」、「流鬼(りゅうき)国」、「渤海」、「黒水靺鞨」と活発に交流したと思うのですよう。そのために朝狩は父親の命令で東北地方に送り込まれたのだと僕は思っているのですよう。 つまり、東日本連合王国の構想を朝狩が抱いていたとデンマンさんは思っているのですか? そうですよう。それが僕の言いたかった歴史ロマンですよう。うししししし。。。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 とにかく、まだ面白い話が続きますわ。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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下着・ランジェリーを見つけませんか?』
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こんにちは。ジューンです。
日本の中心も、
また世界の中心も、
時代と共に変わってくると思いますよね。
昔、昔、大昔。。。、
今から2000年前のギリシャ世界では、
世界と言えば、地中海沿岸だけでした。
その当時の世界地図には
地中海と沿岸だけしか書いてありません。
あなたも見たことがあるでしょう?
つまり、当時のギリシャ人にとって、
日本など想像もつかない
世界の果てにあったのですよね。
いいえ、日本も、日本人の存在も、
全くオツムに浮かんでこなかったでしょう。
その頃から思えば、世界は広がりました。
また同時に、飛行機のおかげで
世界は狭くなりました。
あと20年も経てば、
お月様に旅行できるようになるでしょうね。
あなたは、どう思いますか?
ところで、卑弥子さんには、ちょっと信じがたいような
恋物語がありますわ。
関心があったらぜひ次のリンクをクリックして
じっくりと読んでみてくださいね。
■ 『平助さんが卑弥子さんに恋をしたのがウンのつき』 では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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