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小百合物語
 

 

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田舎教師
と熊谷
2009年8月31日

日付: Mon, 10 Nov 2008 10:17:26 +0900 (JST)
差出人: "domini@yahoo.co.jp"
宛先: "デンマン さん" green@infoseek.jp

件名:ブログに出さなくてもいいよ

おはよう ございます
11月9日は 寒い日曜日でしたね。

でも デンマンさんのお母さんは
少し忙しくなった日々を 楽しんでいるでしょうね。
(今朝は何を 食べさせて あげようかな?) なんてね。

朝方 冷えたね~、
毛糸のニット帽を かぶって 寝るんだけど どっかいってしまい
寝ぼけまなこで またかぶって 一晩に何度も かぶり直して。
頭に湯たんぽ しよう。

10日(月曜)はミルミルでしょう? 行田に行こうかな?
デンマンさんはパソコンやってれば! 私 本読んでるし、
でも ひどい 寒い雨だったら 行かない、 次の日にします。

10日 ミルミルで メール読んだら 返信ちょうだい。
このメールはブログに出さなくて イイよ。

もう ミルミルに着きましたか?
今日も寒いけど これから 母のとこに 行ってきます。
暖かい日 だったら 行田に行こうと思ったのですが・・

明日(11月11日)の火曜日、デンマンさんは 何か用事があるの?
天気よかったら 館林駅に来たら?
ケイタイに電話ちょうだい。

私が行田に行っても いいけど たまには こっちもイイよ。
ついでに かどやのゼリーフライ 買ってきてね!
私 イモフライ 買っていくよ。
じゃあね。

こんなの ブログだしたら ダメよ。

11月10日 10:16 AM


『心優しいハグ(2008年11月12日)』より

“思い出を食べるグルメ”の小百合さん。

思い出を大切にする小百合さん。

うん、うん、うん・・・
そんな小百合さんのことを改めて思い知らされたのでした。

館林駅で小百合さんと別れてから僕は羽生で秩父線に乗り換えて
東行田駅で降りて「かどや」に歩いていったのでした。
5分も歩けば「かどや」です。
開いていました。
午後4時半でした。
家族の土産にと、ゼリーフライ4つと焼きそば4人前を注文してから
お店をやっている60代のおばあちゃんとおじいちゃんに
営業時間を尋ねたのです。

小百合さんがかつて午後4時半ごろ「かどや」に行ったら閉まっていたと言ったのです。
それで、僕が確かめたのですよう。
そうしたら、営業時間は午前11時半から午後6時までと言う事でした。
定休日は日曜日。

バンクーバーでは午前10時になると、ほとんどのお店が開くのです。
そのつもりで僕は11月12日午前10時頃、実家を出て「かどや」を目指して歩いていったのです。
ところが、ほとんどの店が閉まっているのですよね。
もちろん「かどや」も閉まっていた。

そう言う訳で、小百合さんのためにゼリーフライのお土産を買って持ってゆこうと思ったけれど
それは、かなわなかったのです。

僕は何十年ぶりかで「かどや」のあたりを歩いたのですが、
子供のころの面影はまったくありませんでした。
下町の気取りのない店で“寅さん”が出てきそうな雰囲気です。

お店をやっているおばあちゃんもおじいちゃんも
“寅さん”の映画に出てきそうな好人物でした。

実家に持って帰ったら、「かどや」の“焼きそば”はメチャ受けた。
実にうまかった。

ゼリーフライは、僕が子供のころ食べた味と違うのですよう。
子供のころ“ゼニ(銭)フライ”と呼んでいたオリジナルのゼリーフライは“オカラ”をたくさん使っていた。
でも、「かどや」のゼリーフライは“オカラ”特有のパサパサ感が無くてモチモチしているのです。

“冷たくなったゼリーフライを食べたら草履(ぞうり)を食べたような気がした。”

小百合さんがそう言っていたので、じっくり味わいながら食べてみたのだけれど、
なるほどォ~。。。
実にうまい形容でした。

僕は食べてみて、すぐに納得できましたよう!
うしししし。。。

でも、焼きそばはマジで、うまかった。
“また買ってきてね。”
お袋は、絶賛していましたよう。

小百合さんが11月7日(金曜日)に行田にやって来ました。
かつて子供と一緒に行ったという行田市役所の近くの「駒形屋」へゆきました。
ゼリーフライの店です。
行田観光協会のフライマップにも載っている店です。
コーヒーも飲めるので、小百合さんは、この店に行きたくなったと言うことでした。
この店のゼリーフライはオリジナルの“ゼニフライ”に近い味でした。
“オカラ”を使って揚(あ)げた懐かしい味でした。

でも、中に入っている具が、わずかに違っていました。
同じゼリーフライでも、お店によって味が違うのでしょうね。

2008年の日本への帰省は、なぜか不思議に白鳥と縁がある。

館林駅に着くと小百合さんが迎えに来てくれて「花山」へ行きました。
「花山」と呼ぶのは地元で育った40代の人たちが、そう呼ぶらしい。
館林市のガイドマップを見ると「県立つつじが丘公園」と書いてある場所です。

五月ごろ来れば、きれいな“つつじ”がたくさん咲いているのでしょう。
当然のことですが、11月なのでつつじは咲いていなかった。
ところが桜が咲いているのですよね。

11月に桜が咲いている!
ビックリしました。
この写真ほど見事なものではありませんでした。
でも、間違いなく桜の一種です。
小百合さんもビックリしていました。
名前は分かりません。

バンクーバーやバーナビーの植物園のように名札をつけてくれればいいのに!
小百合さんは、そう言っていましたね。
ごもっともです。

旧秋元別邸(最後の館林藩主・秋元家の別邸)の菖蒲園(しょうぶえん)のすぐそばにある橋の近くに
白鳥が3羽居ました。
泳ぎ疲れたのか3羽とも岸辺に上がって草原(くさはら)の上で羽を繕(つくろ)ってこれから昼寝するところでした。
小百合さんは近寄るのが怖いと言うのですよう。

40代の女性の怖さを持っている小百合さんにも
こういう童女のような繊細さがあるのですよね。
小百合さんの“かわゆい”ところです。

僕は50センチまで近寄りましたが
その白鳥たちも、人に慣れているようで
全くビクビクしませんでした。

旧秋元別邸の近くに田山花袋が9歳から14歳まで住んでいたという旧居が保存されていました。
田山花袋の『田舎教師』を読んだ事がありますが、僕の記憶では、主人公は羽生の田舎にあるお寺に下宿して僕の母校・熊谷高校(当時の旧制熊谷中学)に毎日、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて通っていた、というような事を読んだことがあります。
初めて読んだ時、信じがたい事をしていたものだと驚きました。
僕が通ってた頃、校長室の前の廊下にガラス張りのケースがあって、その中に旧熊谷中学校第三回卒業生の写真の中に、田山花袋の少年時代の姿を見たことがあります。

小百合さんが卒業した館林女子高校は田山花袋の旧居から歩いて5分のところにありました。
女子高時代、校門の近くの食べ物屋さんで
ラーメンだか、うどんだか、あるいはカップヌードルだったか。。。
それを買って戻って来る時に校門のすぐ前で、それをぶちまけてしまい、後片付けをしなければと思ったけれど、結局、何もしないでそのままにして教室に戻ってしまった。
そんな事をいつだったか小百合さんが書いていました。

12月にバンクーバーに戻るまでに
小百合さんの面白いエピソードが、もっともっと聞けるような気がするのです。
楽しみにしていま~♪~す。

では、小百合さんに捧げる短歌を。。。

館林

季節外れの

桜咲き

かわゆいきみに

胸ときめかせ

『愛しい人 (2008年11月14日)』より

デンマンさん。。。、今日はどうして急に小百合さんが桜の園でビキニになるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、桜の園で小百合さんがビキニになるのは今日のテーマとはあまり関係ないのですよ。

だったら、ビキニの写真など出さなければよいではござ~♪~ませんか?

でもねぇ~、成りすまし馬鹿のようなオツムの足りない愚か者も僕のブログを読みに来るのですよう。

つまり、成りすまし馬鹿さんのような愚劣で低級な愚か者でも見て楽しめるように小百合さんが桜の園でビキニ姿になっている写真を貼り付けたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。うしししし。。。

マジで。。。?

僕は大真面目ですよう。成りすまし馬鹿は、めれんげさんのサイトで次のような愚かなコメントを書きましたからね。

こんにちは!久しぶりです!
めれんげさんの写真見たけど結構際どいのあって興奮しました!

早く新しいの投稿して下さいね!
楽しみに待ってますよー!!

by 煎餅 (別名: 成りすまし馬鹿)

2009/06/01 1:52 PM


『即興の詩 新たな気持ちで♪』のコメント欄より

『絶望的な愚か者 (2009年7月7日)』に掲載

つまり。。。、つまり。。。、成りすまし馬鹿さんが鼻血を出すように小百合さんのきわどいビキニ姿を貼り付けたのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、僕はわざわざ小百合さんの悩殺的なビキニ姿を貼り付けたわけではないのですよう。

だってぇ~、きわどいビキニ姿が貼り付けてあるではござ~♪~ませんかア!成りすまし馬鹿さんが鼻血をブ~、ブ~出しますわよう!

あのねぇ~、上の小百合さんのビキニ姿は去年の11月14日の記事の中に出てくるのですよう。

だから、上の写真を出す必要はなかったのでござ~♪~ますわ。

卑弥子さん!。。。あなたは。。。、あなたは。。。、いったい。。。、一体、何をしようとしているのですか?

小百合さんのビキニ姿を見ていたら、あたくしまで暑くなってきたのですわよう。も~~、こんなダサい十二単など着てられませんわよう。    

タラぁ~♪~    

卑弥子さん!。。。

いい加減にしてくださいよう!

成りすまし馬鹿が鼻血を出しすぎて

このサイトを血だらけにしてしまいますよう!

あたくしが十二単を脱いではいけないのでござ~♪~ますか?

十二単が卑弥子さんのトレードマークでしょう!

仕方ありませんわア。ムシムシしてキモいのですけれど、成りすまし馬鹿さんが出血多量でオツムの血の巡りが悪くなって、さらに馬鹿になると困りますから、ダサい十二単をまた身に着けますわ。。。これでよろしいでござ~♪~ましょうか?おほほほほほ。。。

あのねぇ~、今日は真面目な話をしようと思っているのですよう。

あたくしだって、そのつもりでござ~♪~ましたわ。

だったら、協力してくださいよう。んも~~。。。

デンマンさんが小百合さんの、きわどいビキニ姿の写真を貼り付けたから、このような事になってしまったのでござ~♪~ますわ。。。んで、今日は何についてお話になるのでござ~♪~ますか?

おととい(8月29日)の続きですよう。

『坊っちゃん』のモデルの弘中先生と

『田舎教師』の主人公の

モデルになった小林秀三

21才の頃の弘中先生

弘中先生は色白で背が高くて、学校近くへ写生に出かけると、青縞織(あおじまおり)の女子工員たちが一斉に工場の窓から首を出すほど「ハンサム」だったそうですよう。でも、『坊っちゃん』の主人公のモデルだ、と語ることはほとんどなかったらしい。

弘中先生が教えていた頃の校舎は今でも残っているのですか?

旧制熊谷中の校舎は改築されて、今では見ることができません。でも、当時からあったくぬぎ林は今でも残っていますよう。林の奥にある同窓会館「くぬぎ会館」で、弘中先生が写っている集合写真を見ることができます。

それ程ハンサムなら、あたくしも一度弘中先生が写っているお写真をぜひ見たいものでござ~♪~ますわ。

あのねぇ~、僕が更に驚いたのは、田山花袋の小説『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三(1884―1904; 熊谷中2期生)も、弘中先生に教わった生徒の一人だと言うのですよう。

しかし、これだけ有名なのに、どうしてデンマンさんは弘中先生のお話を覚えていなかったのでござ~♪~ますか?

いま、振り返ってみても、僕自身が不思議でならないのですよう。。。やっぱり、どのように思い出そうとしても記憶に無い。どう言う訳か僕にとって『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三の印象が強烈で、弘中先生の話は、多分聞いたと思うのだけれど、全く記憶に無いのですよう。

そのような事があるのでござ~♪~ましょうか?

あるのですよう。何が強烈に印象に残るのかは、人によってさまざまですからね。

でも、『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三の印象が強烈だとデンマンさんはおっしゃいましたけれど、何が強烈だったのでござ~♪~ますか?

実は、その事で僕はかつて記事を書いたことがあるのですよう。これから探してみます。


『坊っちゃんと熊谷 (2009年8月29日)』より

そして探し当てたのが冒頭で引用した記事なのですよう。

旧秋元別邸の近くに田山花袋が9歳から14歳まで住んでいたという旧居が保存されていました。
田山花袋の『田舎教師』を読んだ事がありますが、僕の記憶では、主人公は羽生の田舎にあるお寺に下宿して僕の母校・熊谷高校(当時の旧制熊谷中学)に毎日、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて通っていた、というような事を読んだことがあります。

初めて読んだ時、信じがたい事をしていたものだと驚きました。
僕が通ってた頃、校長室の前の廊下にガラス張りのケースがあって、その中に旧熊谷中学校第三回卒業生の写真の中に、田山花袋(訂正: 小林秀三)の少年時代の姿を見たことがあります。

この小林秀三さんは第3回卒業生と聞いた覚えがあるのだけれど、ネットで調べたら第2期生と書いてあるサイトがあった。

それで何が強烈な印象だったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて羽生から熊谷まで歩いて通っていたと言うのですよう。

主人公が住んでいる羽生のお寺から当時の熊谷中学までは20キロぐらいありますよう。僕は行田市から電車で通っていたけれど、熊谷駅から学校まで歩いて30分。通学に片道1時間かかる。それでもウンザリしたほど遠く感じたものですよう。それを時代が違うとは言え『田舎教師』の主人公は毎日、片道4時間かけて通学するのですからね。僕は初めて読んだ時には度肝を抜かれましたよう。

確かに片道4時間は大変なことでござ~♪~ますわ。

往復で8時間ですよう。。。まったく、呆れてしまいますよう。。。それを5年近く続けたのですからね。頭が下がる思いでしたよう。

『田舎教師』 作品解説

友人が上級学校へ進学するのに、林清三(実在のモデルは小林秀三)は文学を志しながら貧困のため進学することもできない。
それで村の小学校の代用教員として赴任する。
清三は、恋や人生に悩み貧しい生活と葛藤の中で結核にかかり田舎の小学校の代用教員として21才でこの世を去る。
一年後に友が建ててくれた墓石の前で、教え子が菊の花を供え涙しているところで小説は終る。

この小説は多くの実在のモデルを基にして書かれている。
モデルの小林秀三は明治17(1884)年3月11日に栃木県足利郡で生まれ、明治37(1904)年9月22日に羽生で亡くなっている。
成願寺(現・建福寺)の住職の山形古城は田山花袋の義兄である太田玉茗をモデルにしている。
著名作家の原杏花は田山花袋自身がモデル。

主人公が下宿している成願寺の住職が清三に次のように語る。

「人間は理想がなくては駄目です。
宗教の方でも理想を非常に重く見ている。
同化する惑溺するというのは理想がないからです。
美しい恋を望む心、それもやはり理想ですから。
理想があってものに憧れるところがあるのが人間としての意味がある」

「成功、不成功は人格の上には価値がない。
人は多くそうした標準で価値をつけるが、そういう標準よりも理想や趣味で価値をつけるのが本当だと思う」

「どんな人でも人間は人間で、それ相応の安慰と幸福とがある。それに価値もある。
名誉を追って一生をあくせくするにあたらない。
それよりも人間としての理想のライフを送るほうが、どれほど人間としてえらいかもしれない。
何のかのと言って、誰でも皆、死んでしまうんですからな。それを考えると本当につまらない。
どんなに得意になったって死が一度来れば、人々から一滴の涙を注がれるだけじゃあありませんか。死んでからいくら涙を注がれても仕方がない」

田山花袋は「布団」・「生」・「妻」など多くの作品を残した自然主義文学派の作家。
「田舎教師」は美しい自然描写を背景に不運の主人公を描く。
島崎藤村が部落差別で苦しんでいる青年を主人公に小説「破壊」を書いたのと共通するものがある。
現実世界でも、田山花袋と島崎藤村はたいへん仲のよい友達だったという。
また、主人公は人生と貧困に悩み若くして世を去った石川啄木とも共通するものがある。

田山花袋の代表作となった「田舎教師」は明治42(1909)年に発表された。
発売以来、明治から平成へと百年近くの激しい時代の移り変わりの中で新潮文庫で百刷を重ねている。
貧しさの中に理想を求め、人生に悩み、ひたむきに生きる清三の姿は、現在でも読む人の心に何かを感じさせないではおかない。

 

石川啄木

ふるさとの

訛り懐かし

停車場の

人込みの中に

そを聞きにゆく

故郷の方言が懐かしいなぁ。

上野駅に行けば、人混みの中に、

岩手から上京してくる人もいるだろうなぁ~

ちょっと出かけてみようかぁ。

石川 啄木

1886年2月20日生まれ
1912年4月13日没。

歌人・詩人・評論家。
本名は、石川 一(はじめ)。

テスト中のカンニング発覚・欠席の多さ・成績の悪さなどの理由から退学勧告を受け、
1902年10月27日に中学校を退学し、
文学で身を立てる決意をもって上京し、
正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通う。

1912年3月7日、母死去。
1912年4月13日、啄木、小石川区久堅町にて、肺結核で死去。
妻、父、友人の若山牧水にみとられる。享年27才。
1912年9月4日、妻は二人の遺児を連れ、
函館に移っていた実家に帰る。
1913年5月5日、妻の節子も肺結核で病死。
遺児は妻節子の父親が養育する。

東京の北の玄関として知られる上野駅。
開業は、1883年(明治16年)だそうです。
開業当時、営業は上野から熊谷まででした。
レンゲさんが店長を勤めている“ブティック・フェニックス”熊谷支店がある町です。
当時、1編成のみの列車が1日に2往復していたそうです。

開業から2年後の1885年(明治18年)、上野駅のレンガ造り2階建ての駅舎が完成しました。
岩手県から上京した石川啄木が上の歌を詠(よ)んだのは、1923年(大正12年)の関東大震災で焼け落ちた初代上野駅だったそうです。

。。。んで、強烈だったのは主人公の通学時間だけだったのでござ~♪~ますか?

いや。。。もちろん、それだけではありませんよう。

他にどのようなことが強烈だったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、『田舎教師』の主人公は、廃娼県である埼玉の教師であるため、利根川を越えて娼婦を買いに行くのですよう。

明治時代には埼玉県は、廃娼県だったのでござ~♪~ますか?

卑弥子さん!。。。僕は何度も言っているように第2次世界大戦後に生まれたのですよう。明治時代に埼玉県が廃娼県かどうかということを僕が知るはずがないじゃないですかア!

あたくしは、デンマンさんが娼婦を買いに利根川を越えて群馬県まで歩いて行ったのかどうか?とお尋ねしているのではござ~♪~ませんわ。

しかし。。。、しかし。。。、僕をなんとなく疑いの目で見つめているじゃありませんかア~!?

やっぱり。。。、デンマンさんには、何か?やましいことがおありなのでござ~♪~ますか!

ありませんよう。。。僕が買いに行こうかな?。。。そういう年頃になったら、日本は全国的に1956(昭和31)年に売春防止法が制定されたのですよう。1958(昭和33)年3月以降、完全に「赤線」は廃止になったのですよう。

デンマンさんは、ずいぶんと詳しいのでござ~♪~ますわねぇ~。。。

でもねぇ~、赤線内のカフェーは一斉に廃業したものの、やがて、トルコになったり、ラブホになったり、「風俗」になったりして、現在に生き残っている店もあるわけですよう。

それが強烈だったのでござ~♪~ますか?

違いますよう。

。。。んで、何が強烈だったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、明治の頃には廃娼県と娼婦を認める県があったのかと。。。つまり、地域差があったのか?。。。そう思ったのですよう。

それが強烈な印象となって『田舎教師』のモデル・小林秀三さんをしっかりと覚えていたのでござ~♪~ますか?

違いますよう。

だから、何が強烈だったのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて羽生から熊谷まで歩いて通っていたのですよう。。。通学時間が往復で8時間ですよう。

それで。。。?

さらに、『田舎教師』の主人公は、廃娼県である埼玉の教師であるため、歩いて利根川を越えて群馬県まで娼婦を買いに行ったのですよう。。。たぶん、片道2時間かかるでしょう。。。すると往復で4時間ですよう。。。つまり、学校が休みでない時には、夜と昼あわせて12時間歩くのですよう。さらに。。。、さらに。。。、布団の中で娼婦と活発に運動するわけですよう。。。仮に1時間としますよう。。。さらに、昼間、学校で体操の時間があったとしたら、もう1時間。。。合計で1日に14時間も運動するのですよう。。。これだけ運動エネルギーを燃やし尽くすゥ。。。結核に冒(おか)されない方が不思議ですよう。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
確かに、強烈でござ~♪~ますわ。んも~~。。。
でも、なんだか文学的に格調高いお話から急に医学的な病理解明になったようなお話でしたわ。
うふふふふう。。。
あなたは、どう思いますか?

とにかく、デンマンさんのお話がまだ面白くなりそうですわ。
どうか、あなたも、またあさって読みに戻ってきてくださいましね。
では、またねぇ。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

昔の人は本当に若くして亡くなってしまうのですよね。

デンマンさんのお話の中だけでも、

小林秀三さんは満20才で亡くなっています。

石川啄木は満26才です。

そのほとんどが結核菌に冒されて亡くなったようです。

結核は不治の病と考えられていた時代でした。

欧米でも結核で亡くなった人は多かったのです。

結核が不治の病で亡くなったのは1943年に

ストレプトマイシンという抗生物質が見つかってからです。

ストレプトマイシンは結核だけでなく

多くの伝染病の治療にも使われています。

ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

時間があったらぜひ読んでみてください。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


 





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