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坊っちゃん再訪
by デンマン & 卑弥子
2009年9月2日
日付: Sat, 22 Aug 2009 16:31:29 +0900 (JST)
(バンクーバー時間:8月22日 午前0時31分) 差出人: "domini@yahoo.co.jp" 宛先: "green@infoseek.jp"
件名:デンマンさんも秋ですね。
\(*^_^*)/ はい ただいまー 軽井沢では 毎日 ご飯を炊かない為 三男坊は友達(女の子二人)と別れるのが辛く 今朝も8時過ぎに起きて、 さゆりより
Subj:日常茶飯事に飽き飽きしたら
僕のブログでも読んでね。 少しはルンルン気分になれますよう! \(*^_^*)/ キャハハハ。。。
Date: 22/08/2009 11:29:08 AM
はい ただいまー は~♪~い。おかえりィ~♪~ そろそろ軽井沢から戻ってくるのではないかな? 夕べは真夜中頃、ちょうど小百合さんからのメールが届いた頃に、僕のパソコンの画面の一番下にあるツールバーが消えてしまった。 でも、STARTボタンが表示されるツールバーが消えてしまうと、本当に作業がしにくいのだよね。 それでどうしたの? タスクマネージャーに RUN のコマンドがついている。 I'm gone for the day! そう言う訳でベッドにもぐりこみました。 \(*^_^*)/キャハハハ。。。
矢ヶ崎の花火、諏訪神社の花火、子供相撲。 うん、うん、うん。。。よかったね。 \(^Д^)/ ギャハハハハ。。。。
軽井沢では 毎日 ご飯を炊かない為
うん、うん、うん。。。 ♪┌(・。・)┘♪ うしししし。。。
1キロ 太りました。 はいよう! \(^o^)/ きゃはははは。。。
三男坊は友達(女の子二人)と別れるのが辛く はい、はい、はい。。。 \(@_@)/ キャハハハ。。。
今朝も8時過ぎに起きて、 日常茶飯事の生活に戻って 小百合さんの思い出の「麦わら帽子」から、たくさんのインスピレーションをもらって記事を書きまくっていますよう。
「人間の証明」
麦わら帽子
霧積温泉
小百合さんの思い出の「麦わら帽子」から次の記事を書くことができました。
ジョニーはお母さんに殺されてしまったけれど、 \(^_-)ノ きゃはははは。。。
「人間の証明」の原作者・森村誠一さんの経歴を調べたら、なんと熊谷市で生まれているのですよう。 「熊谷空襲」をウィキペディアで調べていたら、 そうしたら、旧制熊谷中学で19年間教えていた弘中又一先生が、なんと「坊っちゃん」のモデルだったと言うことが分かった。 そうしたら、なんと「田舎教師」のモデルの小林秀三さんが弘中先生の数学の授業を受けていたということが分かったのですよう。 小百合さんと館林の田山花袋の家で思い出話をしている夢を見たのは、そのためだったのですよう! ヽ(´ー`)ノ キャハハハ。。。 これから、ゆっくりとヴィエンナコーヒーを飲みながら上の記事を書き始めます。
旧制松山中学に赴任した
21才頃の弘中先生 弘中先生は1年ほどで松山中学を辞めてしまったのに、 もちろん、僕には理由が分かっているのです。 とにかく、小百合さんの思い出の「麦わら帽子」が僕にこれだけのインスピレーションを与えてくれたのです。 それでぇ~、セドリックのオナラの話のような面白いエピソードはないの?
\(^▽^;)/ うしししし。。。 考えてみたら、一つ思い出しましたよう。 「屁のツッパリにもならない!」 繊細で雅(みやび)やかで気品のある「軽井沢タリアセン夫人」だと僕が思い込んでいる小百合さんの口から、2,3度上の言葉が飛び出したのですよう。 今考えてみたら、小百合さんにカレーを作ってくれる旦那の口癖なんだろうなァ~? \(^_-)ノ うへへへへへ。。。
デンマンさんも秋ですね。 そうです。。。そうですよう。
芭蕉の句碑 行田の大長寺で小百合さんと芭蕉の句碑を見たのも秋でした。
室生犀星の旧居 それに、館林では田山花袋が住んでいた、これも、かわいらしい旧居を見ました。
田山花袋の旧居 小百合さんは万葉集の防人の歌碑を碓氷峠で見たし。。。
防人の歌碑 なんだか、あまりにもできすぎているように、僕と小百合さんには文学との縁が深いのですよう。 やっぱり、小百合さんは「軽井沢タリアセン夫人」なのですよう! \(^ヮ^)/ ギャハハハハ。。。 そう言う訳だから、日常茶飯事に追われて、つまらなくなったら僕のブログを読んでね。 (\__/) じゃあねぇ~
デンマンさん。。。、今日は上のメールで書いたように弘中先生が松山中学では滞在期間が1年にも満たなかったのに旧制熊谷中学では19年間も教えた。その理由をお話になるのでござ~♪~ますわね?
そうですよう。。。卑弥子さんも関心があるでしょう? もちろんでござ~♪~ますわ。 。。。んで、どうして弘中先生は松山では1年足らずで辞めてしまったのでござ~♪~ますか? それは『坊っちゃん』のあらすじを読めばすぐに分かりますよう。
あらすじ
人を小馬鹿にしたような赤シャツを着ている教頭「赤シャツ」、たくましい面構えの同僚教師「山嵐」、調子のいい芸人のような画学教師「野だいこ」など、個性豊かな教師たちと生意気な生徒たちに囲まれて始まった坊っちゃんの教師生活。 赤シャツたちを待ち伏せした坊っちゃんと山嵐。 つまり、「坊っちゃん」は自由な気分に浸りたかったのでござ~♪~ますか? そうですよう。「坊っちゃん」にとって町の雰囲気にも、学校の雰囲気にも窮屈で煩わしく息苦しいものを感じて松山の教師生活はやりきれなかったのですよう。 つうことわあああァ~、熊谷での生活は自由な雰囲気にあふれていたと言うことでござ~♪~ますか? そう言う事ですよう。モデルになった弘中先生は、事実、19年間も熊谷中学で教えたのですからね。弘中先生の愛した自由な雰囲気があったのに間違いないのですよう。 デンマンさんには、どうして分かるのでござ~♪~ますか? 熊谷時代の弘中先生のエピソードを思い出してくださいよう。
旧制熊谷中学でのエピソード
1975年に熊谷高校は創立80周年を迎えたのですよう。その記念行事として「熊谷高校八十周年誌」を出版したのです。
その八十周年誌に卒業生が寄せた弘中先生のエピソードがたくさん書いてあったのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。そう言えば僕も買わされて、親父が懐かしそうに手にとって読んでいたのを今でも思い出しますよう。 でも、デンマンさんのお父様は小学校だけしか出ていなかったのでしょう? 卑弥子さんは、そのようなどうでもよい事はよく覚えているのですねぇ~。。。確かにそうなのですよう。でも、親父だって家が貧乏でなければ、当時の熊谷中学へ入りたかったのですよう。 。。。んで、お父様はどうしていたのですか? 昔の忍尋常小学校で給仕をしながら独学で教員検定試験を受けてパスしたそうですよう。18才で小学校で教え始めたと言うのだから驚きます。でも、中学校に行けなかったので、小学校の頃の同級生の名前を探しながら、懐かしそうに読んでいましたよう。 デンマンさんは、読まなかったのでござ~♪~ますか? 親父が独占してしまったので、僕は初めにざっと目を通したぐらいで、とりわけ面白いとも思わなかったから、それ以後読まなかったのですよう。 そうしたら、「熊谷高校八十周年誌」に弘中先生の面白いエピソードがたくさん書かれていたのでござ~♪~ますか? そうです。ネットで、同窓生のページを調べていて知ったのですよう。 。。。んで、どのようなエピソードがあったのでござ~♪~ますか? 教科は『坊っちゃん』の中に書かれているように、熊谷中学でも数学を教えていたのですよう。博学で、英語の原書を授業で用いることもあったそうです。しかも、「坊っちゃん」のような破天荒ぶりも見せたそうですよう。 どのような。。。? 弘中先生は“泥鰌(どじょう)”が好物だったらしいのです。
ある時、安いのでどじょうを買ったのだけれど、あいにく入れ物がないので、かぶっていた山高帽の中に入れて持ち帰ったというのですよう。グルメの小百合さんが聞いたら絶対に大喜びしそうな話ですよう。うしししし。。。 その他には。。。? またある時は、荷車を引いて歩くのに山高帽にフロックコートをはおって引いていたというのですよう。おもしろいでしょう? まだあるのですか? 修学旅行で京都に行ったとき、先生方は皆モーニングにネクタイを締めて引率していたが、弘中先生はネクタイを忘れたらしく、モーニングにネクタイ無しで引率していたというのですよう。 他には。。。? 中学の先生にしては周囲の視線を気にしないで、ひょうひょうとして、あまり身なりには構わなかったそうです。 あだ名はあったのでござ~♪~ますか? 「エグス」というのですよう。 卵の英訳でござ~♪~ますか? 違うのですよう。出席簿の教師名欄に弘中の「弘」を書く代わりに数学記号「x」を書き、「エグス」と発音していたと言うのです。それで「エグス」と呼ばれるようになったとか。。。面白いのは、先生の名前をエグスだと思い込んでしまって、卒業しても本名を知らない生徒が居たとか。。。 マジで。。。? 「熊谷高校八十周年誌」に、そう書いてあるらしい。住んでいたのは、学校から南東へ約1キロ、さいたま地裁熊谷支部の南側にある「明石医院」の隣の貸家だった。 今でもあるのでござ~♪~ますか? その貸家は取り壊されて、今では駐車場になっているそうです。市街地の中心部にありながら、熊谷空襲でも焼けずに残った地区だったそうで、そのあたりは、今でも古い民家が立ち並ぶ狭い通りだそうです。 何か面白いお話でも伝わっているのですか? あのねぇ、大家だった明石千代子さん(92)は、「弘中先生が酔って道ばたで寝ていた」と、お母さんはから聞かされたそうですよう。 中学校の先生が酔って道端で寝ていたなんてマジでござ~♪~ますか? 覚えている女性の名前と年齢までがはっきりしているのだからマジですよう。しかも驚いたことに、「漱石の『坊っちゃん』先生旧居跡」という看板が、ブロック塀に今でも掲げられているのですよう。次のサイトへ行くとその写真を見ることができます。 弘中先生は色白で背が高くて、学校近くへ写生に出かけると、青縞織(あおじまおり)の女子工員たちが一斉に工場の窓から首を出すほど「ハンサム」だったそうですよう。でも、『坊っちゃん』の主人公のモデルだ、と語ることはほとんどなかったらしい。 弘中先生が教えていた頃の校舎は今でも残っているのですか? 旧制熊谷中の校舎は改築されて、今では見ることができません。でも、当時からあったくぬぎ林は今でも残っていますよう。林の奥にある同窓会館「くぬぎ会館」で、弘中先生が写っている集合写真を見ることができます。 それ程ハンサムなら、あたくしも一度弘中先生が写っているお写真をぜひ見たいものでござ~♪~ますわ。 あのねぇ~、僕が更に驚いたのは、田山花袋の小説『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三(1884―1904; 熊谷中2期生)も、弘中先生に教わった一人だと言うのですよう。
弘中先生は奇行が多いことでも熊谷中学の伝説となっているのですよう。
松山中学でも奇行で有名になりましたわね。 そうです。松山中学の生徒の間で歌われていたものに「教師数え歌」がある。「一つ弘中シッポクさん」で始まっており、7番目に「七つ夏目の鬼がわら」とあるのです。夏目漱石が始終、無愛想な表情をしていたことがこの歌によって分かるのですよう。 あまり笑わなかったのでござ~♪~ましょうか? 昔の男は無愛想な表情をしていたものですよう。
“地震、雷、火事、オヤジ” このように、オヤジは怖いモノの内の4番目だった。最近の父親は子供と仲の良い友達のような関係を持とうとしているけれど、僕が子供の頃は、父親はまだ怖かったものですよう。 そうだったのでござ~♪~ますか? そうですよう。無駄口を利(き)かず、あまり子供の前で笑うようなことはなかった。漱石先生が「七つ夏目の鬼がわら」と歌われていたのは、だから、よほど無愛想だったからですよう。 。。。んで、シッポクって何でござ~♪~ますか? ネットで調べたら、次のような事が書いてありましたよう。
シッポクうどん
シッポク=うどん汁にカマボコ、しんじょう、卵の厚焼き、シイタケ、ネギなどを加えたもの。 卓袱(しっぽく): もと中国風のテーブルクロースの意味。そば・うどんに野菜その他の具を載せたもの。 卓袱(しっぽく)料理とは、円卓を囲み、大皿に盛られた料理を各々が自由に取り分け食べるのが基本形。 また料理の内容も日本料理・中国料理・南蛮料理が入り交じった独特のものに変化していった。 それから今では懐かしい、卓袱台(ちゃぶだい)も卓袱(しっぽく)から派生した言葉。 弘中先生は上のシッポクうどんを四杯平らげたと言うのだから、かなりの大食いだったのでしょうね。 デンマンさんだって、4杯ぐらい食べてしまうのでしょう? いや。。。僕はうどんは、それほど好きではありませんからねぇ、一杯食べれば十分ですよう。どんなに腹が減っていても2杯食べるのがやっとですよう。 マジで。。。? 僕は卑弥子さんと違って大食いではありませんからねぇ。うしししし。。。 夏目先生はそれを見ていたので「坊ちゃん」が「旨かったから天麩羅を四杯平げた」と物語の中で書いたのでござ~♪~ますか? 多分、弘中先生が食べているのを見て圧倒されたのですよう。それでそのイメージが強烈だったので小説の中で書いたのですよう。僕だって、うどんを4杯食べる奴を見れば絶対に記録に残しますよう。 じゃあ熊谷では、どじょうが好物の弘中先生は、きっと柳川鍋を4人前平らげたのでござ~♪~ましょうねぇ~。
柳川鍋 (やながわなべ)
柳川鍋は開いたドジョウと笹掻きにしたゴボウを味醂と醤油の割下で煮て鶏卵で綴じた日本料理の鍋料理。 江戸時代にはドジョウもゴボウも精の付く食材とされていたため暑中に食べるものとされていた。 名前の由来 江戸時代後期の天保頃に日本橋横山町の柳川という料理屋で創始されたという説が一般的である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 まず、間違いありませんよう。僕は調べたわけではないけれど、泥鰌(どじょう)が好物だった弘中先生ならば、4人前ぐらいぺロッと食べてしまうでしょうね。 。。。んで、そのことが熊谷の自由な雰囲気と関係しているのでござ~♪~ますか? あのねぇ~、松山の町の雰囲気。。。、それに、学校の雰囲気。。。、僕が『坊っちゃん』を読んで感じるのは、やっぱり、堅苦しいものを感じますよう。 たとえば。。。? シッポクうどんを4杯食べただけで生徒の間に有名になってしまった。しかも先生をからかう数え歌にまでなってしまう。これはやっぱり当時の松山の町が、いかに単調で狭い世界だったかと言う事を暗示しているような気がするのですよう。 弘中先生が滞在していた頃の熊谷の町は、そうではなかったのでござ~♪~ますか? それわねぇ~、熊谷の町の歴史をちょっとばかり遡(さかのぼ)っただけでもすぐに分かりますよう。 どのように。。。? あのねぇ、隣の行田市は忍の城下町として発展したのですよう。松山市も松山城の城下町として発展してきた。やっぱり、どこか城下町特有の狭苦しくて堅苦しい雰囲気があるのだと思うのですよう。 。。。んで、熊谷は。。。? 熊谷は交通の要所として発展してきたのですよう。また、商業も盛んだった。昔、忍城主から木綿販売の許可をもらい、木綿産業が盛んになり、さらに商取引が発展した。江戸時代には、熊谷は中仙道の宿駅となった。秩父・東松山に通じる要地という事もあって、人が集まる場所だったのですよう。 つまり、人の往来が激しかったのでござ~♪~ますわね? そうですよう。でも、それだけではなかった。江戸時代の主要な運搬は、水運によってなされていた。熊谷は、利根川には酒巻と葛和田、荒川には久下と新川という四つの河岸があり、運搬に恵まれていた。それを経由して米や材木や肥料の取り引きが盛んに行われた。 つまり、商売人もたくさん集まってき来たのでござ~♪~ますわね? そうなのですよう。宿場町としての熊谷は、本陣が2軒(竹井家と鯨井家)脇本陣が1軒あった。街並みは1665年には210軒だったのが、1730年には380軒と増えた。その内で旅籠屋は27軒、茶屋が26軒あった。 つまり、たくさんの人がやって来て泊まったのですわねぇ~? そうですよう。1800年には937軒となり、めざましい増加ぶりが分かるのですよう。天保年間には浦和宿の2倍以上の人口が集まり、中仙道随一の宿場と言われた。熊谷には商家が今でも多いのですよう。明治6年から9年までの3年間には熊谷県が置かれたことでも、町の繁栄ぶりが分かるのですよう。この当時、埼玉県では、川越に次いで2番目に人口の多い町だった。明治の半ばには、養蚕と麦作が盛んになり、信州の資本などで製糸工場がつくられた。明治16年には高崎線の前身が引かれ、明治34年には上武鉄道(秩父鉄道の前身)が引かれた。つまり、弘中先生が居た頃は熊谷は最も栄えていた。 つまり、たくさんの人が集まるので自由と活気にあふれていたとデンマンさんはおっしゃりたいのでござ~♪~ますか? そうですよう。たとえ弘中先生が「柳川鍋」を4人前食べたとしても、その程度の事ではニュースにならないほどに活気と覇気(はき)にあふれた町だったのですよう。 それで弘中先生はその自由な雰囲気がすっかり気に入ってしまったとデンマンさんはおっしゃりたいのでござ~♪~ますか? そうですよう。でも、そればかりではなかった。学校の雰囲気も自由で弘中先生の性格にバッチシ合ったのですよう。 どのように。。。? 記事が長くなってしまったので、この続きは9月6日に話しますよう。卑弥子さんも楽しみにして待っててねぇ。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。
あたくしは、まだいただいたことがないのでござ~♪~ますわ。 とにかく、デンマンさんのお話がさらに面白くなりますわ。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
「どじょう」ですってぇ~
わたしは、このように細長くって
ぬるぬるするものには弱いのですわ。
あなたはいかがですか?
「どじょう」を英語でなんと言うか
ご存知ですか?
loach と言います。
「どじょう」と言えば、次のような諺がありますよね。
“柳の下にいつも泥鰌は居ない”
これを英語でなんと言うのでしょうか?
考えてみたことがありますか?
もちろん、文字通りに訳す必要はありません。
次のように言います。
One cannot be always lucky.
いつも幸運だなんて事はありえない。 Good luck does not always repeat itself.
幸運はいつも巡って来るとは限らない。 どうですか?
このような言い方があると言うことを
覚えておいて損はありません。
うふふふふ。。。
ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。
時間があったらぜひ読んでみてくださいね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
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