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天智天皇は暗殺された
by Akira Kato
July 14, 2003
天智天皇が暗殺されたなどとは、古事記にも日本書紀にも書いてありません。しかし、最近の研究に因って、 古事記と日本書紀が、どうやら藤原不比等によって編纂されたものであると言うことが分かってきました。インターネットの 古代史関連のウェブページをいくつか覗いてみてください。先ず間違いなく、ほとんどのページがこのことに触れています。 では、どうして、長い間学校の歴史の時間に教えられていたことが疑いをもたれるようになったのか? それは、古事記と日本書紀をじっくり読んでゆくと、あまりにも矛盾することが多いことと、神話の中に、出てくる話が、 この両書が完成した当時の天皇家の系図に基ずいて作られているようだということが分かってきたからです。 古事記と日本書紀の矛盾については、このページ (古事記より古い書物がどうして残っていないの?) を見てください。新しいウィンドーが開きます。 たとえば、天孫降臨の神話がありますが、これなども、祖母から孫への譲位を神話化したものだというわけです。 このような天皇位の譲位は、日本史を見ると、ただ一度あるのみです。697年に、 持統天皇が孫の軽皇子(かるのみこ)に彼女の位を譲り、文武天皇として即位させています。 これは古事記が成立する15年前の事です。 このようなことを考慮に入れて、改めて両書を見直すとき、どういうことが言えるかというと、時の権力者が、どうやら、両書を利用して、 自分たちの王朝が正統であることを 正当化しようとしているのだ、ということになるわけです。では時の権力者とは誰か?それは,下の系図を見ると一目瞭然です。
上の系図を見てすぐに気づくことは、この後、何百年と続く天皇家と藤原氏の係わり合いの原型が、ここで作られたと言うことです。 つまり、藤原氏は、娘を天皇に嫁がせて、そのことを背景にして外戚として権力を維持してゆくというシステムを作ったわけです。 この系図から見てもすぐに分かるのですが、きわめて不自然なことをしています。それはどういうことか?継承順位がどうしてもおかしいのです。 おばあさんから孫への遺産相続が極めてまれであるように、結局この皇位継承は、日本史上最初で最後になりました。 おそらくこんなことは世界史にも例がないでしょう。 もっと不自然なことは、文武帝が亡くなった後、誰が皇位を継承したと思いますか?なんと、 彼の母親である阿閉(あべ)皇女が元明天皇として即位しています。普通は、継承する、あるいは遺産相続をするという時には、 何かを次の代へ引き渡すわけですが、この場合には、息子から母親へ継承しているわけです。遺産相続の場合を考えてみると、 よく分かると思うのですが、子から親へ遺産相続することなど、常識では考えられません。 他に王位継承者がいないのならばまだ話はそれほど不自然ではありませんが、天武帝の息子たちがいるにもかかわらず、 上の系図で見るような変則的な 天皇位継承になっているわけです。もちろん、このようなことが本人たちだけで、なされているわけではありません。必ず、時の権力者の意思が絡んできます。 この場合には、天皇位が天武系の他の息子たちへ渡ってしまうのを極力避けています。持統天皇が、もうかたくなに、自分の血が通っている者にだけ、 皇位を渡そうと躍起になっています。これは、下の系図で見るとおりです。 なぜか?もちろん藤原不比等がそのように望んでいるからです。その事については、次のページで述べています。
いずれにしても、いくら古事記や日本書紀の中で、小細工を使って、それらしく正当化して見せても、どこかに無理が現れてしまいます。 その中でも一番無理をして書いているのが、天智天皇の箇所です。
天智帝は、後年、悪政を施していた天智天皇という人は天皇になるべくして生まれたような人です。決断力もあり、勇気もあります。これは前にも書きました。 だからこそ、鎌足が、この皇子と共に大化の改新を成し遂げたわけです。しかし、当時の皇子は20歳になるかならないかと言う若さです。 当然鎌足からいろいろと学ぶことも多かったでしょう。ただし、決断力もあり、勇気もある、しかも頭の回転の速い。こうなると、いつまでも、 鎌足の風下についているというわけではない。独自の考えと、独自の政策を打ち出してきます。 おそらく外交政策の面で天智帝と鎌足は、後年になって意見が分かれるようになったでしょう。天智天皇は百済一辺倒だったようです。 そこへ行くと鎌足は臨機応変です。それ以前の鎌足のやり方を見ても、これ以後の不比等のやり方、あるいは藤原氏のやり方を見ても、 非常に考え方が柔軟です。とにかく一つの主義や、外交方針にあまりこだわらない。悪く言えば日和見主義です。仏教に反対していたと思ったら、 いつの間にか仏教を取り入れ始めたように、どうしても、仏教が政権を維持してゆくのに必要だと見極めれば、さっそく仏教を取り入れます。 ひと言で言えば、政治屋に徹しています。主義を持っているとするなら、それは六韜主義とでも呼ぶものです。 それ以外にこだわるものがないように見えます。 いずれにしても、天智帝は、後年になってから、かなりの独断に走ったようです。もう鎌足の言うことを聞かなくなっていたでしょう。 白村江の敗戦後は、百済から逃げてきた役人たちをどしどし登用してゆきます。余自信(よじしん)、憶礼福留(おくらいふくる)、 鬼室集斯(きしつしゅうし)、谷那晋首(こくなしんす)、沙宅紹明(すたくしょうみょう)、答本春初(とうほんしゅんじょ)、 木素貴子(もくそきし)、。。。天智帝の回りには、このような人たちが群がってくるわけです。鎌足の祖先も百済からやってきましたから、 初めは、歓迎したでしょう。しかし、このような人たちがあまり増えてくれば、鎌足の影が当然薄くなってゆきます。そのことは、鎌足にとって、 余り気分のよいものではないはずです。 しかも、敗戦後にやってきた百済人が山城などの築城の指導をしてゆきます。天智帝が構築しようとした大防衛網計画には、 経験豊かなこれらの百済人の意見が重く用いられたとしても不思議ではありません。当然のことながら、 政府内に百済からやってきた人たちの新たな派閥ができてきます。こうなると、彼らは、日本の政治と外交について大きな発言力を持ってきます。 鎌足にとっては、ますますやりにくくなるわけです。 天智帝と、彼ら百済人の進めていることが、近畿周辺の豪族や、庶民の支持を受けていれば、鎌足としても、まだ我慢ができたでしょう。 しかし、彼らのやっていることに対して、豪族や庶民が反対する。この辺の彼らの不満や憤りは前のページ (天武天皇と 天智天皇は同腹の兄弟ではなかった。) で述べた通りです。 しかも、大海人皇子(天武帝)を統領とする新羅派の、 反天智運動がますます盛んになってくる。 こんな状態が続けば、いつか必ず変事が起こるでしょう。鎌足もただじっとしているわけには行きません。ここで例に因って、 六韜の教えが鎌足の頭にいろいろと閃きます。そこで鎌足としては、大海人皇子と連絡を取って、天智帝打倒に向かいます。 いずれ変事が起きるなら、そうなる前に、自分たちが政権をとろうじゃないかと。これが鎌足のこれまでのやり方でした。
天智帝と鎌足の対立を裏付ける証拠でもあるのですか?あります。それはこのページ (藤原鎌足と長男・定慧) で述べています。リンクをクリックすると、新しいウィンドーが開きますので、読んでください。 今まで、見てきたように、後年、天智帝の政策は、ほとんどすべてにおいて、豪族や民衆の反発を受けました。その当時、鎌足が、 かりに天智帝を悪人として批判したとしても、ほとんどの人が、そのことに異存はなかったでしょう。事実、天智帝は豪族からは憎まれ、 民衆の怨嗟の的になっていました。しかし藤原不比等には、天智帝が悪人だとは書けません。なぜか? 天智帝を悪人にすると、不比等の父親である鎌足までも悪人に仕立て上げなければならなくなります。 それはなぜかと言うと、勧善懲悪の精神で日本書紀の事件の説明がなされているからです。つまり、まず聖徳太子は立派な人だったという前提があります。 これをくずすことができません。当然聖徳太子の息子の山背大兄皇子も善い人だったとなる。そこで、この皇子を殺害した蘇我入鹿は悪人になります。 その悪人・入鹿を暗殺した中臣鎌足と中大兄皇子は善人だとなります。 そういうわけで、天智帝を悪人に仕立て上げることができない。と言うことは、日本書紀には天智帝を殺しましたとは書けません。そう書くと、 善人を殺した天武帝は悪人になります。これでは、天武朝が正統なる王朝であることを書いたことになりません。 天智帝を暗殺したことを明記して、しかも天武朝が正統なる王朝だと主張するためには、天智帝が悪人にならんければなりません。 そうするためには、すべての話を初めから書き換えねばなりません。そうすると、聖徳太子を悪人に仕立て上げねばなりません。 もちろん、そんなことはできません。 いずれにしても、天武朝が正統なる王朝だと言うことを、後世の人が納得のゆくように書き残す、という使命に燃えて不比等は両書の 編纂に当たったわけです。その結果が、今われわれの眼にする古事記、日本書紀となって伝わっているわけです。
一体どうやって天智帝を
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