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新しい
古代日本史
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藤原鎌足と六韜
July 17, 2003

 

藤原鎌足が六韜を愛読していたという事から、鎌足と、百済との強いかかわりを、 このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で見てきました。 また、彼の次男である、不比等 が、古事記と日本書紀に深くかかわっていることを、 前のページ (古事記より古い書物がどうして残っていないの?) で見ました。

ここでは、藤原鎌足の政略が、いかに、原日本人の考え方と違っているかを見てゆきたいと思います。

 

原日本人の和の精神と
六韜の精神

すでに述べたように、大陸と、日本の大きな違いというのは、日本の街の周囲には、城壁がないということです。 したがって、原日本人というのは、もともと好戦的な民族ではなかったということです。 私は、アイヌ民族を原日本人とみているわけですが、 この民族がどうして、好戦的でないのかは、 すでにこのページ (マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?) で見てきました。この精神は聖徳太子の「和の精神」という形で、 その後の日本人へと引き継がれていったようです。

しかし、残念ながら、この「和の精神」というのは、この当時、ほとんど無視されたようです。なぜなら下の年表で示すように、 592年の崇峻天皇の暗殺から、壬申の乱を経て、686年の大津皇子の死(暗殺)までの、 約百年間というのは日本史上まれに見る波乱の時期だということが言えるからです。しかも、この時期に起こる事件というのは、 それ以降の日本の歴史上の事件とは、はっきり一線を画しています。それは天皇が二人、王子が一人が暗殺されているからです。 天皇を暗殺するというのは、それ以降の日本史には見られません。

592蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺する。
645中大兄皇子(天智天皇)、蘇我入鹿を討つ。
663白村江の戦い
671天智天皇、大海人皇子(天武天皇)に暗殺される。
672壬申の乱
686大津皇子、持統天皇に殺される。

これらの事件を見てゆくと、日本で起きたと考えるよりも、中国大陸で起きたと考えたほうが、すんなりと受け入れられるような事件が 多いのです。例えば、蘇我入鹿の暗殺を調べてゆくと、大陸的な血生臭が感じられます。それはなぜかというと、事件を動かしている中心人物、 藤原鎌足が大陸で通用していた兵書、六韜に基づいて暗殺を実行しているからです。したがって、これらの事件がどうしても、日本的でなく、 大陸的な印象を与えるようです。

そういうようなことからも、藤原鎌足が、日本的な考え方よりも、大陸的な考え方に、どっぷりと、つかって生きてきたような印象を与えます。 要するに、日本で生まれた人物と考えるよりは、百済で生まれ、大陸の影響を強く受けて育ち、百済から渡来した人物ではなかったのか? そういう疑問が、頭をもたげてきたわけです。しかも、そのような想定の元に、いろいろな文献に当たってみると、ますます、鎌足が渡来人らしい という考えを強くしたわけです。

 

藤原鎌足は、どのように六韜を実践したの?

それを、突き止めるには、鎌足が、中大兄皇子(後の天智天皇)と実行した、蘇我入鹿の暗殺を見てゆくと、よく分かります。

飛鳥一帯は、政治の舞台となる以前から、韓地南部から渡来したと言われる漢氏が本拠地としていた場所でした。 漢氏は、それまでの日本になかった特殊な技術を多数保持しており、その技術をもって、大和朝廷に奉仕していました。 その漢氏の上に、事実上の支配者として君臨していたのが蘇我氏です。当然のことながら、蘇我氏と朝鮮半島の強い関係が、 ここにも見えてくるわけですが、蘇我氏の出自は、このページ(蘇我氏は高句麗からやってきた)を見てください。 新しいウィンドーが開きます。このページへ戻るには、 そのページを閉じてください。

蘇我稲目は、欽明天皇の朝廷で、大臣として長く君臨し、その後宮に二人の娘を入れました。 生まれた皇子や皇女の多くを、飛鳥に住まわせたことは、もちろんです。やがて飛鳥が日本の中心になって行きます。 6世紀末、この蘇我氏当主として権勢を振るったのが馬子です。

蘇我馬子は聖徳太子とともに仏教を基盤として国造りをしてゆこうとします。しかし、こうした蘇我氏の方針に対して反対の手が上がります。 587年、蘇我氏は物部氏など仏教反対派の豪族と戦争を起こし、激戦の末に勝利します。

この争いには中臣氏は仏教導入に反対する物部氏について戦いました。この当時の中臣氏の方針は仏教反対だったわけです。 しかし、やがて、藤原氏として力を持つようになると、仏教を取り込んでゆくようになります。 中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、この戦いの30年後に生まれます。

馬子の孫である蘇我入鹿と中臣鎌足は対立するようになります。 その背景には日本を巡る国際情勢の変化がありました。 朝鮮半島の国々は唐に従うか反抗するかで、次々に政変が起こっていたのです。 こうした情勢を見た入鹿は外交方針を転換し、友好国の百済だけでなく、敵対関係にある新羅、高句麗にも使節を派遣します。 しかし、入鹿の外交に敵対する勢力が現れます。その1人が聖徳太子の息子山背皇子です。聖徳太子の死後、 蘇我氏が百済だけに頼らない外交をとると、山背皇子は蘇我氏と対立。643年、入鹿は軍勢を送り、皇子を滅ぼします。 次の天皇候補者とも目されていた皇子を倒すことで、入鹿の権勢は揺るぎないものになります。もちろん、この山背皇子殺害にも、 鎌足は裏で動いています。

『鎌足家伝』によれば、鎌足は、すっかり暗証できるほどに『六韜』を愛読していたといいます。やがて、彼は、この古代中国の兵法書 の教えに従うかのように、入鹿打倒の準備を進めてゆきます。

先ず、「相手の利益になるよう相談を持ちかけます」 

鎌足は協力者を求めて、有力な皇位継承者である軽皇子に接近します。 しかし、冷静に軽皇子の態度を分析すると、一緒に組んで、大事を成し遂げるほど器量があるとはみえず、軽皇子を見限ります。 次に目を付けたのが中大兄皇子です。ある日飛鳥寺の近くで蹴鞠の催しがありました。蹴鞠に興じる皇子たちの様子をのぞく鎌足の前に 靴が飛んできたのです。 この靴の持ち主が中大兄皇子でした。

中大兄皇子は、ひざまずいて靴を受け取ろうとします。身分の低い鎌足に対する皇子の丁寧な態度に鎌足は、 感ずるものがありました。この皇子は君主としての見聞を備えた人物だと考えたわけです。鎌足は、中大兄皇子に相談を持ちかけます。 蘇我入鹿が、やがては、大和朝廷を自分の思いのままに動かそうとするだろう。これを何とか防がなくてはならない。皇子は鎌足の話を聞いて、 彼の考え方に共鳴します。中大兄皇子にしても、入鹿に政権を取られるのは面白くありません。こうして、鎌足は有力な後ろ盾を得ることに成功します。

次に、鎌足の頭には。六韜の別の教えがひらめきます。 「敵国の有能な臣下に接近して、味方に引き込め、そして、これに協力させろ」 その心は? と尋ねられれば、もちろん鎌足は答えるでしょう。敵の分裂を誘うためさ、とね。これが藤原氏の常套手段になってゆきます。 しかも、この作戦は、鎌足が、入鹿と山背大兄皇子の対立のときに使っています。現実主義の入鹿をおだてて、理想主義の山背大兄皇子 を滅ぼすのに一役買っています。

今回、鎌足は、蘇我石川麻呂に近づきます。自ら仲人となり、石川麻呂の娘を中大兄皇子と結婚させます。このような段取りで事を進めた後で、 石川麻呂に入鹿を見限り、こちらにつくように説得しました。鎌足はこうして入鹿のいとこを味方に引き入れたわけです。

このようにして、準備を進めてゆきながら、鎌足は暗殺計画を練ります。六韜の別の言葉が彼の頭のなかで、繰り返しささやかれます。 「あらゆる方法で敵を惑わせ」

鎌足は刺客二人を雇い、入鹿を宮殿内におびき寄せる作戦を採ります。準備を終えた鎌足は、 石川麻呂に入鹿を倒す計画をうち明けました。

645年6月12日朝、飛鳥板葺宮で朝鮮半島の国々からの贈り物を天皇に捧げる儀式が行なわれることになっていました。 石川麻呂に呼び出された入鹿は儀式に出席するために現れます。鎌足は俳優(わざひと)を密かに差し向けます。 滑稽なしぐさに油断した入鹿は太刀を手渡してしまう。そういうわけで、入鹿は無防備になって中庭に入ります。儀式が始まり、 石川麻呂は偽物の上表文を読み上げます。 その間に刺客が飛び出すことになっていましたが、誤算が生じます。刺客がおじけづいて飛び出せません。上表文が終わりに近づいてきました。 暗殺に荷担していることが発覚すれば命はありません。石川麻呂はふるえだします。これ以上引き延ばせば入鹿に怪しまれ、たてた作戦は失敗する。 そのとき中大兄皇子が入鹿に向かって襲いかかります。中大兄皇子は顔と肩を斬りつけ、入鹿は足にも傷を受け倒れました。

江戸時代に描かれた下の絵(談山神社にある多武峰絵巻)では、ここのところで中大兄皇子が入鹿の首をはねたことになっています。 血しぶきと共に、はねられた首は御簾(ぎょれん)に喰らいつきます。それはそうでしょう。だまし討ちにされたわけですから、さぞかし無念だったことでしょう。

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板蓋宮(いたぶきのみや)における暗殺の場。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、弓を手にしているのが中臣鎌足。

上の絵をよく見れば、奥のほうに、知らぬ顔を決め込んだ女性がいるように見えますが、この女性は、誰あろう、この中大兄皇子の母親です。 つまり皇極帝です。この首をはねるちょっと前までその場にいたのです。

      「これは一体何事ですか?!」
      「母上、もういい加減に目を覚ましてください。この入鹿は、自分の思うままに朝廷を動かそうとしているのですよ。しかも、 あわよくば、天皇になろうと考えている。母上が、この男をあまりにも、えこひいきするからじゃありませんか!母上は、 実の息子よりも、この男のほうが大切だとでも言うのですか?」

こんな風に攻められては、皇極帝も返す言葉がない。それで、奥のほうへ引きこもってしまったというわけです。

実は、この当時の大臣(おおおみ)は、入鹿ではありません。彼の父親の蝦夷です。しかし入鹿の権威は、彼の父親を上回るほどになっていました。 それはなぜか? 当然皇極帝が、入鹿を取り立てていたわけです。かんぐって想像をたくましくすれば、二人の間には肉体関係があった事でしょう。 しかも、この当時の性関係というのは、大変おおらかでした。それは古事記を読めばよく分かることです。未亡人の皇極帝はそのような意味でも、入鹿を 可愛がっていたことでしょう。

上の絵で、首が御簾に喰らいついている様子を見てください。入鹿にしてみれば、皇極帝が助けてくれるものと当てにしたことでしょう。 ところが、息子に、ちょっと痛い所を突かれたぐらいで、奥へ引っ込んでしまった。「オイ!大年増のお姉さん!俺をあんなに可愛がっておきながら、 これは一体どういうこったい!俺を見殺しにして、自分だけ引っ込んでしまって平気なンかよ!俺は恨むよ!よく見ていろ! このまま喰い付いて離れないゾ!」

そういう無念の気持ちが伝わってきませんか?私には、入鹿の気持ちがよく分かるような気がします。この絵を見ると、とにかくすさまじい。 このような怨念の込められた場面というのは、長い日本史を見ても、前に述べたように、この百年の間にしか見られません。

ちょっと話は変わりますが、中国には、呂太后というすごい女性が現れました。前漢の高祖が没し、皇后の呂氏が権勢を振るい、 朝廷で専横の限りを尽くしました。この皇后の呂氏のことを呂太后というわけですが、この人は、昔のライバルである 女性の手足を切断し、耳をそぎ、目をつぶし、ダルマみたいにして旧式の便所の壷の中に落とし込め、飼い殺しにしたというものです。 この呂太后の「人彘(ひとぶた)」の話は、『史記』にでてきます。

このような話は、中国にはたくさんありますが、日本には、少ない。これは当然です。原日本人である、 アイヌ人が好戦的でなかったことはすでに述べました。 これが和の精神として、理想主義の聖徳太子に引き継がれ、やがて、この波乱の時期を経て、平安時代へと持ち込まれてゆくわけですが、この百年間という時期は、 どう見ても、「日本的」ではありません。どちらかといえば、大陸的、もっと正確に言うならば、中国的なのです。

 

どうして、そうなるの?

このページ、少し長くなりすぎました、ページを改めて説明します。

平和を愛したアイヌ人 (次のページ)

古事記より古い書物がどうして残っていないの? (前のページ)


 


筆者紹介
Akira Kato (kato.jpg--180x135)
  • 日本とカナダの大学で教育を受ける。
  • 横浜にある大手の電器メーカーでコンピューターのソフトウエアの開発に従事する。
  • カナダのノースウエスト隼州政府・財務省に勤務する。
  • バンクーバーのランガラ・カレッジおよびサレーのクワンテレン・カレッジで講師を勤める。
  • ヨーロッパ、東南アジア、中国、北米を幅広く旅行する。
  • 現在、経営コンサルタント、フリーランス・ライターとして活躍している。



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