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平和を愛したアイヌ人
by Akira Kato
July 17, 2003
原日本人である、アイヌ人が好戦的でなかったことはすでに述べました。これが和の精神として、理想主義の聖徳太子に引き継がれ、 やがて、この波乱の時期を経て、平安時代へと持ち込まれてゆくわけです. しかし、いわゆる平安時代になって、蘇我入鹿の暗殺に見る ような血なまぐさい事件は少なくなるわけですが、それ以前のこの百年間という時期は、 どう見ても、「日本的」ではありません。どちらかといえば、大陸的、もっと正確に言うならば、中国的なのです。 しかし、よく考えてみれば、当然なことです。この一連の事件のシナリオ・ライターは誰かといえば、中臣鎌足です。 彼の生まれが、百済でないとしても、大陸の文化や六韜の強い影響を受けて、考え方や、やり方がすっかり大陸的になっているわけです。 従って、この一連の事件が、日本国内でなく、唐の長安のあたりで起こったとすると、ああそうか、というように自然と納得できます。しかし、 長安からは程遠い、見る人を威圧するような、町を取り囲む城壁もない、まだ草深い、今の感覚からすれば、片田舎で、 このような血なまぐさい事件が起きている。これは、異常としか思えません。 この百年の時期に起きた事件を見ると、 戦争でもないのに、天皇は殺されるは、皇子は暗殺されるは、とにかく血のにおいと死臭がプンプンとただよっているわけです。 もう一つ見逃しにすることができないのは、この事件に登場する人物のことです。皇極天皇も含めて、この事件に出てくる、すべての人物は、 何代かさかのぼると、みな大陸や、朝鮮半島からやってきた人々とつながりを持っています。ということは、感覚的に言って、この人たちは、 原日本人的な考え方にどっぷりと、つかっていたというよりは、彼らの考え方や生活観が、どちらかといえば、渡来人的であったわけです。 したがって、蘇我入鹿の暗殺に見るような血なまぐさい事件は、彼らの耳目には、それほどめずらしいことではありません。大陸や、朝鮮半島での、戦乱 や悲惨な状況、あるいは難民となって逃げてきたその惨めな逃避行のことなど、渡来人の親戚や知人から話を聞いて知っています。 したがって、そのような血なまぐさい事件を、あまり抵抗なく実行してしまうような素地が出来上がっていたということが言えます。 この当時、原日本人と呼ばれるアイヌ人は、現在の福島県のあたりまで追いやられていました。したがって、都にいる人々は、 言葉の響きはよくありませんが、アイヌ人と渡来人の混血児の子孫です。しかも半分以上は渡来人の血です。したがって、 現在日本に住んでいるほとんどの日本人も、多かれ、少なかれ、 このような人たちの血を受け継いでいます。もちろん私もそのうちの一人です。すでに書いたように、95パーセント以上が渡来人の血でしょう。 現在アイヌ人だと本人も、また日本政府も認めている人たちの数は、1986年に行われた政府の調査で約25,000人ということになっています。 ほとんどのアイヌ人たちは北海道の阿寒湖のあたりに住んでいるそうです。しかし、Cultural Survivalという国際的な組織の推定では、 200,000という数字を挙げています。この程度の数字の違いが出てきても仕方がないでしょう。 アイヌ人とは何か?日本人とは何か?という定義は非常にむずかしいからです。現在、その25,000人の中に数えられている人たちでも、特に、 子供たちの多くは、 もうアイヌ語が話せないそうです。この子供たちを写真で見る限り、日本人とまったく区別がつきません。したがって、親から言われなければ、本人たちも アイヌ人だという自覚がないわけです。そういうわけで、アイヌ人であっても、日本人だと信じている人たちが、たくさん居ます。なぜかというと、アイヌ人だと言うと、 差別されるので、親が黙っているそうです。 しかしこの差別の問題は、何も、つい最近になってから始まったというわけではありません。すでにもう、聖徳太子の頃から差別がありました。 なぜ、そういうことが言えるのか?と疑問に思われるかもしれません。しかし、今まで書いてきたことの中にちゃんと証拠があります。それは、 入鹿の父親の名前に現れています。そうです。蝦夷という名前です。蝦夷というのは、簡単に言ってしまえば、アイヌ人のことです。 でも、蘇我蝦夷はアイヌ人ではありません。蘇我氏というのは、 高句麗から渡来した氏族です。 そのことは、このページ(蘇我氏は高句麗からやってきた)で説明しています。 それなのにどうして、蘇我馬子は、自分の息子に、蝦夷という名前をつけたのでしょう?
そもそも、蝦夷とは何?蝦夷とは、大和朝廷の勢力圏の外にある東日本・北日本の 異文化の人達に対する、支配者たちの呼び方でした。 日本書紀に、斎明天皇五年(659)、「道奥(陸奥)蝦夷男女二人を天子に示す」とあって、唐に夷人を献上した、と解釈する学者も居ます。 このエミシについて三種があり、遠いのが「都加留(つがる)」、次が「アラ蝦夷(あらえびす)」、もっとも近いのが「熟蝦夷(にぎえびす)」と言われていました。 日本の律令国家の形成期にあたり、東北南部までが古代国家の版図に編入され、北東北の人々を区別して「蝦夷」と書き表すようになったようです。 以後、エミシは「王化に従わない、荒ぶれる民」「礼儀を知らない野蛮人」であり、天皇の威徳をもって、臣隷せしむべき対象となったわけです。 「礼儀を知らない野蛮人」という言い方を見ても分かるとおり、決して尊敬するような呼び方ではありません。蔑称であり、現在なら、さしずめ、 差別用語と呼ぶのにふさわしい言葉です。 日本書紀には更に、こうも書かれています。
要するに、良いことは一つも書かれていません。こういう書き方には注意する必要があります。大体、 どの民族について見ても、全部が全部悪いとか、全部が全部良いとか、そういうことはありえません。 悪いところがあれば、良いところもあるわけです。 では、どうしてこういう書き方をするのか?これは太平洋戦争中の、鬼畜米英的なスローガンと同じことだと考えればいいわけです。 戦時中、当時の小学校の先生は、子供たちに、アメリカ人や英国人は畜生だ!鬼だ!と教え込んだわけです。そういう教育をほどこすことによって、 男の子を日本帝国陸軍や海軍の兵隊さんに仕立て上げ、女の子は軍国の母になるようにしつけていったわけです。 つまり、上の日本書紀の記述は蝦夷討伐を正当化しているわけです。 いずれにしても、上の記述を読めば、誰もが蝦夷というのは悪い奴らだ、という印象を持つことでしょう。 それにもかかわらず、入鹿の父親の名前は、間違いなく、蝦夷です。
どうして、蘇我馬子は、自分の息子に、蝦夷という名前をつけたの?ここで、日本書紀を編纂したのが誰かをもう一度確認する必要があります。もちろん、天武天皇が音頭をとったということになっていますが、 実際に編集の責任者として編纂に当たったのは藤原氏です。おそらく、アイデアそのものを、鎌足が天武天皇に吹き込んだに違いありません。 上の、蝦夷についての記述を見れば分かるとおり、「蝦夷討伐を正当化するためならば、手段を選ぶな。なんでもいいから、 蝦夷を悪者にしたてあげろ!」そういう六韜の精神が、この記述の裏に読み取れます。六韜がどういう書物か、もし、よく分からないのでしたら、 このぺージ(マキアベリもビックリ、 藤原氏のバイブルとは?)をごらんください。新しいウィンドーが開きます。 裏を返せば、蝦夷と呼ばれる人たちは、日本書紀が記述しているほど、悪い人たちではなかったということです。 このことはすでに何度か触れましたが、アイヌ人というのは、もともと好戦的ではなかった民族です。戦乱を避けて、大陸の端までたどり着いたわけです から、もともと、町を、大陸的な、分厚い城壁で囲むというような習慣を持たなかった民族です。 したがって、この人たちが、万里の長城を見たとしたら、驚くよりも、あきれ返ってしまうでしょう。「何であんな長い無用の長物を作ったのだろうか」、と。 このアイヌ人というのは、とにかく、戦乱や、争いというものを非常に嫌っていた。だから、しいて戦いを選ぶよりも、争いのない土地へ移って行くという方法を採ったわけです。 しかも、大きな集団を作らずに、せいぜい村というような単位で生活していたようです。だから、中国の町に見るように、 馬鹿でかい城壁などというものを作る気持ちなど、 ハナからありません。それよりも、「みんな仲良くして、お互いに干渉しないで暮らそうじゃないか」、というような人たちです。 このような気質の民族であるがために、現在見るように、25,000人という少数民族になってしまったわけです。アイヌ人のうちで 順応性のある人たちは、もう遠い昔に、日本人に同化していました。そういうわけで、昔ながらの生活様式に固執する人は、 だんだんと少なくなってゆく。信じられないかもしれませんが、アイヌ人は話し言葉を持っていても、書き言葉を持ちません。 ユーカラ(yukar)というのをご存知でしょうか?アイヌに伝わる長編の民族叙事詩です。神々や英雄に関する物語で、 これに簡単な旋律をつけて歌うものです。しかし、このようなユーカラが、広く日本人に知られるようになったのは、明治になってからのことです。 日本へやってきた、アメリカ人や、ヨーロッパ人が、北海道へ行き、日本人とは違う民族が生活していることに気づいて、 アイヌの文化を研究するようになったのが始まりです。 したがって、アイヌ人は、明治になってから日本語や、英語を使ってユーカラを書き残すようになったわけです。 しかし本当に、アイヌ人の文化や人権が認められるようになったのは、もうごく最近のことです。 Barbara Aoki Poissonという日系アメリカ人の書いた “First Peoples The Ainu of Japan” を読むと、1979年には、アイヌ語を話せる人が、たったの10人程度だったそうです。やっと、アイヌ文化に興味を持つ人が現れて アイヌ語がまた息を吹き返してきたということが書かれています。1994年に初めてアイヌ人の中から国会議員がでました。 アイヌ進歩法ができたのが1997年です。 遅まきながら、日本政府がやっと腰を上げて、アイヌ人を、またアイヌ文化を保護しようとし始めたわけです。したがって、これまで、 アイヌ人がいかに不当な扱いをされてきたかということが、よく分かると思います。歴史に残る、その最古の具体例が、上に書いた、日本書紀の記述です。 しかし、大和朝廷の不当な扱いに対して、立ち上がったアイヌ人がいないわけではなかったのです。 1200年前の古代東北に、大和朝廷から獣と蔑まれ、忌み嫌われた蝦夷(エミシ)の族長、アテルイ(阿弓流為)がその人です。 紀元8世紀、東北地方に自然と共存し平和に暮らす狩猟採集民がいました。 大和朝廷は彼らを「蝦夷」と蔑称で呼び、 豊かな黄金を求め百数十年間にわたって侵略征服を企てたわけです。 エミシ最大の拠点であったイサワ(胆沢=岩手県水沢市周辺)の族長アテルイは、卓越した戦略と勇気で12年間その攻撃を食い止め続けました。 801年、和睦を前提に殺さぬとの約束を信じて征夷大将軍、坂上田村麻呂と共に京へ向かいます。しかし当然のことながら、朝廷を牛耳っているのは 六韜をバイブルとしている藤原氏です。とにかく、この当時は、うそを言ったり、人をあざむくのは、むしろあたりまえでした。現代人のように、それを嘘だとか、 欺くとか、そのような悪い意味では受け止めていなかったと思います。 いづれにしても、暗殺や陰謀が渦を巻いているような状況です。 殺すか殺されるかという殺伐とした100年間でした。天皇といえども殺される時代です。古事記と日本書紀を考えてみてください。 ちょっと読んでみればわかりますが、 今の感覚で読めば、嘘の塊のような歴史書です。(ちょっと言い過ぎたかもしれません) 藤原氏がアテルイを恐れるあまり約束を反故にしたと書いている歴史家がいますが、そんなことはありません。六韜を読めば分かるように、始めから 殺すつもりで坂上田村麻呂に命令を出していたはずです。おそらく、坂上将軍はその命令の真意を疑わなかったでしょう。「敵を欺く前に、先ず味方を欺け」 これが六韜の極意ですから。そういうわけで、朝廷は、アテルイを京の都から外れた河内(大阪府枚方市)へ連れ出して、まんまと斬首してしまったわけです。 蘇我入鹿の首は、御簾に喰らいついて離れようとしませんでしたが、アテルイの首は空を飛び、宙を走って故郷に向かったということです。 彼の無念な気持ちが分かるというものです。
それで蝦夷の名前の方はどうなりました?そうです。それを語るのがアテルイを引き合いに出した目的なんです。ページが長くなりましたので、次のページに譲りたいと思います。 なぜ、蝦夷という名前なの? (次のページ) 藤原鎌足と六韜 (前のページ)
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