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なぜ、蝦夷という名前なの?
by Akira Kato
July 17, 2003
藤原鎌足と六韜のページで見たように、 蘇我入鹿は中大兄皇子(後の天智天皇)に斬られて命を落とします。このとき、入鹿の父親、つまり、時の大臣(おおおみ)蘇我蝦夷はまだ豊浦(とゆら)に居ました。 中大兄は王族・官人たちを率いて飛鳥寺(あすかでら)に入って陣を敷きます。蝦夷方の反撃に備えたのです。 用明二年(587年)の蘇我(そが)対物部(もののべ)の戦(いくさ)以来の大戦になる可能性が強くなりました。 実際、蘇我氏の私兵的存在であった東漢氏(やまとのあやうじ)は軍陣を設けて戦う姿勢を示したのです。 しかし高向国押(たかむこのくにおし)の執拗な説得により、東(やまと)陣営は揺らぎを見せます。 このため、蘇我蝦夷は進退きわまってしまいます。そして結局、観念して、自邸で自刃して果てたのでした。 こうして厩戸王子(うまやどのおうじ)、つまり聖徳太子と共に黄金時代を築いた蘇我本宗家は、上宮王家(かみつみやおうけ)を 手玉に取った、わずか二年後、あっ気なく終焉を迎えたのです。 日本書紀の記述を見ると、滅んだ蘇我氏は、悪人として描かれています。つまり、中大兄皇子(後の天智天皇)と藤原鎌足は、 悪人を滅ぼした善人であると。したがって、政権を保つ正当性があるということを、日本書紀では、行間のそこ、ここに滲み出させています。 この辺のところに、藤原不比等を始めとして、日本書紀に携わった、編集者の意図が見えています。
蘇我氏は、本当に
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592 | 蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺する。 |
645 | 中大兄皇子(天智天皇)、蘇我入鹿を討つ。 |
663 | 白村江の戦い |
671 | 天智天皇、大海人皇子(天武天皇)に暗殺される。 |
672 | 壬申の乱 |
686 | 大津皇子、持統天皇に殺される。 |
これらの事件を見てゆくと、日本で起きたと考えるよりも、中国大陸で起きたと考えたほうが、すんなりと受け入れられるような事件が 多いのです。例えば、蘇我入鹿の暗殺を調べてゆくと、大陸的な血生臭さが感じられます。それはなぜかというと、事件を動かしている中心人物、 藤原鎌足が大陸で通用していた兵書、六韜に基づいて暗殺を実行しているからです。したがって、これらの事件がどうしても、日本的でなく、 大陸的な印象を与えるようです。
そういうようなことからも、藤原鎌足が、日本的な考え方よりも、大陸的な考え方に、どっぷりと、つかって生きてきたような印象を与えます。 要するに、日本で生まれた人物と考えるよりは、百済で生まれ、大陸の影響を強く受けて育ち、百済から渡来した人物ではなかったのか? そういう疑問が、頭をもたげてきたわけです。しかも、そのような想定の元に、いろいろな文献に当たってみると、ますます、鎌足が渡来人らしい という考えを強くしたわけです。
ところで、蘇我氏も渡来系です。そのことは、このぺージ (蘇我氏は高句麗からやってきた) で説明しています。 つまるところ、やって来た時代が前後することはあっても、原日本人であるアイヌ民族を除くと、ほとんどの氏族が、いわゆる渡来人です。
しかし,蘇我氏と、藤原氏の決定的な違いは、この和の精神にあるといえます。簡単に言えば、蘇我氏は、和の精神で事を運ぼうとしていたわけです。 この端的な表れが、聖徳太子の17条憲法に示された冒頭のきまり文句です。「和をもって、貴(とうと)しとなす」 この条文が一番初めにあげられているということは、 先ず、何よりも、この条文から考えなさい、ということだと思います。 ちなみに、分かりやすく、現代語にすれば、17条の憲法というのは次のようになります。
- みんな仲良くしなさい。平和であることが一番です。
- 人は生まれながらにして悪い人はいません。立派な人の行いをみならいなさい。
- 人はみな平等ですが社会には上下があります。上の人の言うことは必ず聞きなさい。
- 常に礼儀正しくしなさい。
- 自分だけがよければいいと言う考えは間違っています。そういう気持ちは持ってはいけません。
- 良いことと悪いことは分かっているはずです。悪いことをしては駄目です。
- あなたは回りの人に何ができるのか、それが、今あなたの考えるべきことです。
- 物事をする時には、必ず余裕をもってやりなさい。あわてると必ず失敗します。
- 信用は大切です。誰からも信用される人になりなさい。
- 人はそれぞれ違った考えを持っています。自分の考えが一番正しいと思ってはいけません。
- いい事をした人はほめ、悪いことをした人はしからなければなりません。
- 学校には校長先生、会社には社長、それぞれのグループには、全員をまとめている人がいます。 しかし、それらは、みな日本という国がまとめているのだという事を知っておく必要があります。
- ずる休みをしては駄目です。
- 他人をうらやむものではありません。
- いやなことでもしなければならないことは、やりなさい。
- ボサーとしていては駄目です。何かすることがあるはずです。それを見つけてやりなさい。
- 難しいことは一人で決めてはいけません。必ず相談してから決めなさい。
この憲法の条文と、さらに上に書いた、蝦夷に関する記述を比べてみてください。 蝦夷に関する記述は、編集長である、藤原不比等の考え方があらわに出ています。もちろん文書の趣旨が違いますから、こうして並べて比べるのは 適当ではないかもしれません。しかし、どちらも公文書です。
上の憲法の条文を読めば、そこにはっきりと、現在我われが使っている「国」という概念があることが分かります。 国を良くまとめてゆこうという意気込みが感じられます。 しかし、これよりも後に書かれた、つまり、聖徳太子を含めた、その当時の実権を握っていた蘇我氏本家が滅亡した後に書かれた日本書紀には、 そのような意気込みというものはすっかり影を潜めます。むしろ、蘇我氏以前の状態に戻ってゆく。熊襲退治という事が古事記に出てきますが、 その熊襲に代わって、蝦夷になるだけの違いです。熊襲も、蝦夷も、共に原日本人です。
蘇我氏には、今の言葉で言うと、グローバルな見方が持てた氏族です。非常に視野が広い。それは、 彼らの祖先が高句麗から渡ってきた事が大いに関係していると思います。したがって、聖徳太子の考えた国の中には蝦夷も含まれていたはずです。 それが、蘇我蝦夷という日本書紀に書かれている名前のなかに、証拠として現れています。
実は、藤原不比等は、蘇我毛人を実際以上に、悪人にするために、上に示したような、蝦夷に関する記述を日本書紀に書き込みました。 そういう段取りをしてから、毛人にかえて蝦夷を彼の名前とします。何も知らない人が日本書紀を読めば、悪い奴らである蝦夷と、“悪人である”蘇我蝦夷が 相乗効果を発揮して、互いに悪い点を強調してゆきます。これが、とりもなおさず藤原不比等の意図していたことでしょう。これは、まさに、 一石二鳥です。蘇我蝦夷を歴史上の悪人に仕立て上げることができる上に、蝦夷討伐の正当化も十分にできるというわけです。
裏を返せば、蘇我氏は、蝦夷と呼ばれる民族と仲良くして、この国で共存しながらやってゆこうとしていたのです。 魏志倭人伝については、すでに述べましたが、倭人の町が城壁に囲まれていないということを知って、大陸人は、驚いたというよりも、 あきれてしまった、という様子が伝わってきます。要するに、当時の大陸的発想では、原日本人の防衛体制は非常識なわけです。 蘇我氏にしてみれば、だからこそ、征伐するよりも共存の道を選んだのでしょう。原日本人の非好戦的な態度を実際の目で見れば、 戦争をするよりも、共存の道を選ぶのは当然です。
したがって、アイヌ人の歴史を見ても分かるのですが、その当時、戦乱に明け暮れていたのは、主に九州に根拠地を持つ渡来人たちの集団です。 戦乱に敗れたものが、東へと移動してゆく。ほとんどのアイヌ人は、結局,更に東へと移動してゆく。このような繰り返しが、現在見るような、 25,000人の少数民族、アイヌ人を北海道の片隅に残す結果になったのです。しかしアイヌ人が皆そうかといえば、決してそうではない。 ごく少数ではあっても、渡来人の理不尽な侵略に我慢がならずに、反抗するものも出てきます。これが、歴史上に残る、アテルイの悲話です。 この悲劇については、すでに、このページ (平和を愛したアイヌ人) で話しました。
私はそう考えます。そのように考える理由や、状況証拠は、たくさんあります。詳しいことは、次のページで説明します。
渡来人とアイヌ人の連合王国 (次のページ)
平和を愛したアイヌ人 (前のページ)
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