聖徳太子が17条の憲法を制定したということは、前のページ (なぜ、蝦夷という名前なの?)
で見てきましたが、残念ながら、彼が、アイヌ人の酋長と会見して、
誓約書を取り交わしたというような記事も、文書も現在には伝えられていません。たとえ、そのような記録が残っていたとしても、
蘇我蝦夷が自宅で自刃した時に、
鎌足が重要書類をほとんど焼き捨ててしまいました。
したがって、蘇我氏が、聖徳太子を中心にして、アイヌ人と共存してやってゆこうとしたことは、その当時の、状況や、蘇我氏の方針,
その後の藤原氏のアイヌ人に対するやり方などから
類推するしかありません。
ただ、その重要な要素として考えられるのは、すでに述べたような、17条憲法の和の精神、それに、蘇我蝦夷という名前にこめられた謎、それに、
アイヌ人の非好戦的な民族性だということを、前のぺージで見てきました。
蘇我氏は一体何をしたの?
推古天皇の代になると、朝廷は蘇我馬子の一人舞台となります。しかし、馬子はただ権勢を振るうだけの人物ではありませんでした。
政治的には中国の政治体制を模して官位十二階の制を定め、遣隋使を派遣し、地方支配に力を尽くしました。
関東地方に蘇我とか蘇我部という地名が多いのは、蘇我氏の地方支配の名残です。文化的には、海外の思想などを盛んに取り入れ、
仏教の興隆に力を尽くしました。
後の「大化の改新」で行われたと言われる改革の基礎は、すでに馬子が行っているのです。そして、稲目が基礎を作り、
馬子が発展させたその政治体制を引き継いだのが、子の蝦夷です。
皇極天皇の時代,蘇我蝦夷(えみし),蘇我入鹿(いるか)父子が朝廷での実権を握ります。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,
海外の文化を積極的に導入しようとしました。 大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,
そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだわけです。入鹿はそこで学ぶ1人で,同塾生として中臣鎌足がいたのです。
鎌足—天才的政治屋
蘇我氏と一口で言っても、もちろん、その中には、さまざまな人たちがいます、考え方も、一つの主義に統一されていたというわけでもありません。
一方では、聖徳太子のような理想主義に偏った人が居る。その一方で、蘇我入鹿のように現実主義に偏った者がいたわけです。
実際に蘇我氏内部の対立も、なかったわけではありません。
蘇我入鹿は、彼の対外政策に反対した聖徳太子の子で次期天皇候補の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃し殺してしまいます。
藤原氏は、ここに目をつけました。六韜を藤原氏のバイブルにしている鎌足は、蘇我氏の内部分裂を画策します。結局蘇我氏本家は滅ぶわけですが、
滅ぶに至るまでの一連の事件を詳しく見てゆくと、影に必ずといっていいほど、この鎌足が、見え隠れしながら、
この蘇我氏の内部分裂が触発するように仕向けています。
藤原氏を、もっと端的に言えば、鎌足を動かしているものは何かといえば、蘇我氏から実権を奪って、大和朝廷の政権を我が物にするという野望です。
鎌足には、とりわけビジョンというものがあったわけではありません。
大化の改新も、基礎になったのは、蘇我氏がすでに確立したものを、引き継いだということで、鎌足が、全く新しい考え方や、
制度を導入したというわけではありません。
とりわけビジョンというものがなかった鎌足に、もし主義というようなものが、あったとしたなら、それは六韜主義とでも呼ぶ他にないでしょう。
彼は、この兵書を愛読して、実に忠実にその教えを実践しています。しかも藤原氏のバイブルと呼んでもよいほどに、この兵書は、
鎌足の子孫に伝わります。やがて、ひ孫に当たる藤原仲麻呂(恵美押勝)は、このときの鎌足のように、時の政府の実権を自分の手の内に握ろうとして
六韜の教えを実践します。そして遂に彼の野望を実現します。しかし残念ながら長くは続かずに、琵琶湖のほとりで反乱者として殺されます。
このように見てゆくと、藤原氏といえども、数多いうちには、仲麻呂のように頂上に登りつめて、その後反乱者として命を落とす人が現れます。
しかし、大化の改新から500年余り続く藤原氏の時代の基礎を築いたのは、間違いなく、この鎌足であったわけです。そういう意味で、彼の政治感覚
は研ぎ澄まされていたといえるでしょう。まさに天才的な政治屋ということができるのではないでしょうか。
しかし、残念ながら、鎌足には、聖徳太子が持っていたような、ビジョンというものがありませんでした。もし持っていたとしたら、
それは日本という国のためのビジョンではなく、藤原氏のためだけのビジョンに過ぎなかったようです。
どうしてそういうことが言えるかというと、例えば、六韜主義は、藤原仲麻呂(恵美押勝)が実行した政略・謀略の中に、ちゃんっと取り入れられていますが、
日本という国を、グローバルな目で眺めたときのビジョンというものを持ちえませんでした。藤原氏が政権を保っていた時代を、我々は普通、学校で、
平安時代と習いますが、この時代は、藤原氏にとっては、平安だったかもしれませんが、庶民にとっては決して平安ではなかったのです。
平安時代は、
決して平安ではなかった
黒澤明監督の、『羅生門』という映画を見たことがあるでしょうか?原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」です。
戦禍に荒れ果て、疫病が流行し、天災が続いた平安時代の話しです。先ず画面に現れるのは、激しい夕立の中、
壊れかけた羅生門の下で杣売りと旅法師が雨宿りをしながら考え込んでいます。
羅生門というのは、都の正門ですから、完成したときの姿は上の写真に見るような豪華なものだったはずです。
しかし、今、言ったように、「平安」時代でありながら、現実は、庶民にとって、ずいぶんときびしい時代だったようです。
というのは、映画の中では、羅生門が、下に示すような無残な姿で現れるからです。
破れ羅生門の下で雨宿りしている二人のところへ、みすぼらしい浮浪者みたいな男が駆け込んできます。押し黙る二人、どうかしたのかと、
その訳を聞きます。二人は三日前におきた恐ろしくも不思議な話を語り始めるのです。
都のはずれで起きた殺人事件について、犯人の男、犯された女、
殺された男(霊媒を通して語る)、事件を目撃した木樵がそれぞれ証言するのですが、どの話もすべて食い違うというミステリーです。
最後の最後まで事件の真相が明らかにならないことが、当時の観客や批評家には難解でした。製作した映画会社内でも不評で、
担当者は更迭されたということです。黒澤明監督は苦境に立たされたわけですが、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞で大逆転。今では
戦後日本映画史を代表する作品のひとつになっているわけです。
面白く(もちろん、ゲラゲラと笑うような面白さではありません)、しかも見ごたえのある映画です。見たことのない人には、ぜひ見ることを薦めます。
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話がちょっとばかり、横道へそれました。なぜ羅生門を持ち出したのか?それは、この当時の庶民の生活と、藤原氏の生活を比べるためです。
庶民は、といえば、こういう破れ羅生門と隣りあわせに生活していたわけです。しかし、よーく考えてみてください。この羅生門というのは都の正門ですよ。
今なら、さしずめ東京駅か、成田国際空港でしょう。それがもう、上の写真で見るようにボロボロです。もちろん藤原氏が政権を握っています。
これは、戦国時代の話ではありません。この当時、誰が政権を握っていたかというと、藤原道長の息子である藤原頼道(よりみち)です。
ところが、夜盗が、昼間から横行し、人殺し、追いはぎ、そういったものは、もう日常茶飯事です。
そこで、問題になるのが、藤原氏はどんな生活を送っていたのかということです。
この時代には、末法(まっぽう)思想が、流行歌のようにはやっていました。要するに、この世が終わりに近づいているという考えです。
その終わりが1052年(永承7)となっていました。そこで、藤原頼道(よりみち)は次に示すような別荘を作りました。
どこかで見たことがあるでしょう?そうです。10円玉の裏に描かれている。平等院鳳凰堂です。要するに、世界の終わりが近づいてきたものだから、
敷地内に阿弥陀(あみだ)堂を造ります。阿弥陀堂とは何か?
それは阿弥陀如来(あみだにょらい)を奉るお堂ということです。
阿弥陀さんは、西方の極楽浄土に住んでいる教主です。建物の形が鳳凰,つまり不死鳥(Phoenix)に似ているところから、そう呼ばれますが
正式には平等院阿弥陀堂と呼ぶそうです。
つまり、都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが,そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。
自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、
庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使(けびいし)という現在の警察にあたるものはありましたが、
正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。
そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。
もし蘇我政権が
続いていたら?
これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。
平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。
おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。
何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。
六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、
このことは一目瞭然です。
そういうわけで、蘇我政権が藤原政権にとって代わったということは、アイヌ民族にとっては不幸なことでした。
殺された蘇我入鹿の対外政策などを見ると、決して間違ったことはやっていません。
蘇我蝦夷の構築した情報網に因って東アジアの情勢を知った入鹿は,これまでの日本と百済との関係を見直し,
新羅や高句麗とも同じように国交を結ぶ政策(等距離外交)へと転換します。いわば、聖徳太子のとった和の精神です。
したがって、蘇我政権が続いたならば、桓武天皇の時代から本格的になる、蝦夷征伐のようなことは起こらなかったでしょう。
また、白村江の敗戦もなかったかもしれません。
この辺のところは、あのケネディー大統領暗殺を見るようです。ケネディー大統領はベトナム戦争の無益なことに気づいて、
ベトナム派遣軍を撤退する方向で対外政策の方向を180度転換しようとしたわけです。しかし、そうされては困る人たちがいたわけです。
ケネディー大統領暗殺に関心のある人は、このページ
(Gemstone file)
を見てください。
このような、無茶苦茶な政治はおかしいと、思わなかったなら、思わない人のほうがおかしわけです。
では、実際、そのような人が現れたのか?現れました。それが平将門(まさかど)です。いづれ、この人の事も書きたいと思っています。
しかし、藤原政権の終焉を見るには、源頼朝を待たねばなりません。
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