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古事記より古い書物がどうして残っていないの?
by Akira Kato
July 17, 2003
それは、歴史編纂の目的で、大和朝廷が、昔の地方王朝に伝わる歴史書をすべて集めさせたからです。その集めたものがどうなったかというと、 すべて焼き捨ててしまったのです。 ご存知のとおり、中国では、これ以前に、秦の始皇帝が焚書坑儒ということをやっているわけです。つまり、民間に広まっている儒教の本を焼き捨て、 多数の儒学者を殺しているわけです。 地方の歴史編纂者を殺せ、とは藤原不比等は言わなかったでしょう。しかし、大和朝廷の正史、つまり、古事記と違ったことが書いてある、 昔の地方王朝の歴史書が、地方に残っていることは、まずいわけです。 藤原不比等が、この点について、天武天皇に、いろいろと中国史を話して聞かせたことでしょう。「六韜(りくとう)」を愛読している不比等にとって、 そのような、大和朝廷に、 邪魔になる地方の王朝の史書を焼き捨てるのは当然のことです。 したがって、古事記編纂の目的の一つに、地方に伝わる歴史書を焼き捨てるということがあったわけです。 地方の歴史研究者が、たまには、神社に伝わる古い史書などを発見することがありますが、古事記よりも古い時代のものだ、などと言うと、 先ず歴史学会からは無視されているようです。しかし私は、まだまだ未発見の、古事記よりも古い史書が、かなりの数,地下で眠っていると信じています。 というのは、当時の大和政権が、強制的に地方王朝の歴史書を差し出すように命令を発したとしても、必ず、 反抗して、そういったものを隠してしまう者が居たはずだからです。そんなわけで、地方へ行けば行くほど、つまり、大和朝廷の権威が届いていない地方ほど、 そのような史書が残っている可能性があります。
まだ遺跡発掘などがあまり活発に行われていない、日本海沿岸の新潟県や秋田県あたりに、未発見の古書がかなり眠っているはずです。 上の地図からも分かるとおり、このあたりには、大陸からの難民がたくさん漂着していたはずだからです。 いずれにしても、藤原鎌足の余命はあまりないので、彼はおそらく、大海人皇子(天武帝)に、息子の不比等を紹介して、 正史編纂にかかわらせたでしょう。
古事記は、本当に、日本書紀より古いの?
ところで、古事記が日本書紀よりも古いとすると、おかしな点がいくつかあるという人たちが居ます。 例えば、どちらの 書も天武天皇によって編纂作業が進められた歴史書なのに、日本書紀には古事記に ついての記述がまったく見当たらない。また、古事記の内容は日本書紀よりも新し い。 日本書紀には他の多数の書の引用が載っているので、他にも書があったことが 分かるのですが、古事記には日本書紀の本文と他の書をまとめて1つの話にした神話という形で 載っている。 古事記の編纂者は後から作られた日本書紀の内容をどうして知って いるのか?編纂者が同じだったからなのか? また、風土記という書があり、 元明天皇によって日本書紀と同じ年に成ったこの書の内容が、古事記にふんだんに 引用されている。本当に、日本最古の書は古事記なのだろうか? 私は、両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。 名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。 当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、 そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが、史書の内容にまで影響する場合があったでしょう。 従って,両書をよく読んでゆくと、上で指摘されたような矛盾が、ところどころ顔をのぞかせるわけです。 これは、いわば、当然のことです。先ず何よりも、天武天皇は、自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。 藤原不比等は藤原氏が、日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。 しかしあまり無茶苦茶なことはできない。なぜなら 当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている 者が混じっている。 何よりも、不比等が、親の七光りで、編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。 この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、 不比等の生い立ちもよく知っている。このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。 要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができると思います。 藤原鎌足と六韜 (次のページ) 今、日本に住んでいる人は日本人でないの?
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