新しい日本古代史
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ファイル名 file name リンク |
ページの表題と簡単な説明 Title & Brief Description |
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asura3.html | 日本女性の愛と情念の原点 僕には興味を惹くタイトルだと思えるのですが、このタイトルに惹かれて記事を読みにきた人が少ないのです。
お返事ありがとう ごさいました(^^) この時代の皇位継承の流れを分析するには、「天武系」「天智系」、あるいは「蘇我系」「藤原系」を念頭に置かないといけないんですよね。 当時の政治的なパワーバランスを考えず、家系図だけを眺めて安易に古代の日本皇族を分析しようとする識者が多いのには呆れるばかりです(>_<) 阿部内親王(孝謙・称徳天皇)は道鏡がらみの言い伝えのせいで日本史からほとんど抹殺されていた悲劇の女帝ですね。 道鏡よりも藤原仲麻呂のやったことの方がよっぽど問題があると思うのですが、「藤原家の人間だから」ということで、のちの歴史書にはあまり悪く書かれなかったんでしょうね。 by 更紗 2006/05/29 01:22 |
banse.html | 皇室は、本当に万世一系か? (継体天皇の謎に迫る) (Coded in UTF-8) |
banse_jis.html | 皇室は、本当に万世一系か? (継体天皇の謎に迫る) (the same as above--older version, but coded in Shift_JIS) This program is called from 段落違い (../translat/danraku.html). Older version of the above. |
banseup_jis.html | 皇室は、本当に万世一系か? (継体天皇の謎に迫る) (Exactly the same as banse.html, but coded in Shift_JIS) |
banse_en.html | Is the Japanese imperial genealogy unbroken?
The suffix “_en” of a file name (not its extension) denotes that it is an English version. |
Copy (2) of jofuku1.html | Reserved |
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doukyou.html | not finished yet |
iroha.html | いろは51文字に隠された秘密 「いろは」は48文字じゃなかった?
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iroha2.html | 古代日本は人種の坩堝だった? 『日本語』というのは、その起源を探るだけでも簡単にかたずかないわけです。 それはなぜかといえば、地図の上で見るとこれ程狭いちっぽけな日本にも、先史時代あるいは古代を通して、 いろいろな土地からさまざまな人間が渡ってきたからです。 当時の日本列島は19世紀から20世紀にかけて、新大陸のアメリカを目指して、ヨーロッパから続々と移民が押し寄せて行ったように、 いわば人間の掃き溜めのようになっていた観がありました。そのよい例が、滅んだ呉からやって来た人たちです。 |
joe01.html | 藤原鎌足と長男・定慧 |
joe02.html | 定慧出生の秘密 |
joe03.html | 藤原鎌足と軽皇子 |
joe04.html | 定慧の死の謎を解く |
jofuku1.html | 徐福伝説に隠された意味 (not finished) |
jofuku2.html | 徐福伝説に隠された意味 (PART 2) not finished |
kouken.html | not finished yet |
menu.html | 新しい古代日本史 絵入りメニュー (Part 1) |
menu_jis.html | 新しい古代日本史 絵入りメニュー (Part 1) (The same as above, but this file is coded in Shift_JIS.) |
menu2.html | 新しい古代日本史 絵入りメニュー (Part 2) |
menu3.html | 新しい古代日本史 絵入りメニュー (Part 3) |
menu_en.html | Revised Ancient Japanese History (Part 1) |
nakatomi.html | 藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた。 |
persia.html | 飛鳥とペルシャ(波斯) 石人男女像の謎 マウスのポインターを卑弥子さんの上へ持ってゆくと、インドネシアの民俗音楽をバックグラウンド・ミュージックにして、卑弥子さんがダンスを踊ります。 |
persia2.html | 聖徳太子の母親はペルシャ人だった? |
persia3.html | 聖徳太子の個人教授にはペルシャ人がいた |
persia4.html | なぜ厩戸王子なの? |
persiab.html | 飛鳥と中南米は海でつながっていた ノルウェーの探検家・人類学者のトール・ヘイエルダールさんが1947年に、いかだ舟コンティキ号(Kontiki)によって、南米からポリネシアまでの約7千キロにわたる太平洋横断航海して世界から脚光を浴びたことがあります。 このページでは、このことから考察を進めています。 マウスのポインターを卑弥子さんの上へ持ってゆくと、民俗音楽をバックグラウンド・ミュージックにして、卑弥子さんがサモアのダンスを踊ります。 |
persiac.html | 飛鳥とシルクロード マウスのポインターを卑弥子さんの上にもってゆくと、薄いベールで半分顔を隠したペルシャ人の魅力的な女性が、卑弥子さんと同じ衣装を着て、 古いペルシャの歌を歌いながら踊ってくれます。日本では、こぶしを利かせるとでも言うのでしょうか?ペルシャ(イラン)ではTahrirと言いますが、 声を震わせて歌います。ちょっぴりスイスのヨーデルに似ています。 ジャバスクリプトが使えないブラウザーでは上のアニメーションを見ることができません。 |
persiad.html | ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た 狛犬(こまいぬ)と唐獅子(からじし)はペルシャからやって来た |
persiae.html | 猿石の謎 卑弥子さんがチマ・チョゴリを着て案内役として出てきます。 おチンチンを露出する全身像(山王権現)は、ペルシャ人の石工を通じて、古代ギリシャのディオニソス神話と関係があるのではないか? ここであまり知られていない、「マラ石」というのを取り上げてみる必要があります。これも飛鳥の不思議な石造物の一つに入っているのですが、「知る人ぞ知る」という類の代物で、学術的にはあまり取り上げられていないようです。こんなのは学問ジャない、と考える研究者が多いのではないでしょうか?しかし、古代ギリシャ史と照らし合わせると、この「マラ石」は非常に興味深いのです。 というわけで、もう少し詳しくこの「マラ石」の謎に迫ってみようと思います。本来は真直ぐに立っていたと言われています。写真に写っている背後の民家と比べてみてください。まっすぐに立っているとするなら、これは人の背丈ほどあります。四角い柱状ですが、ご覧の通り、先端を丸く縁取ってあり、先のところに筋の入っているところなどはとてもリアルに出来上がっています。 |
persiae0_jis.html | 猿石の謎 (本文のみ) Encoded in Shift_JIS |
persiae0_en.html | The Mystery of Ape Stone (Article ONLY) |
persiae_en.html | The Mystery of Ape Stone |
persiaf.html | 飛鳥坐(あすかざ)神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話
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persiaf0.html | 飛鳥坐(あすかざ)神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話 (This file contains only the article—nothing else, |
persiaf0_jis.html | 飛鳥坐(あすかざ)神社の神事と古代ギリシャのディオニソス神話 (This file contains only the article—nothing else, |
persiaf_en.html | Rituals at Asukaza Shrine and Dithyrambos An ancient, drunken, dance-chant fertility ritual that celebrated the birth of the wine god, Dionysus and the vaunted fruit of the vine, developed, around the ninth and eighth centuries B.C., with the dithyrambos. The dithyrambos was performed yearly at four tribal festivals (called orgia--from which comes our word orgy). These Dionysian revels were held outside town, probably in and around broad, earthen threshing circles, where, at harvest time, sheaves were pounded to separate grains from the chaff. Such circles can still be found in rural Greece today. A sixteen-foot phallos (penis) was erected in the center of the circle as a focal point for the orgiastic festivities. |
persiag.html | 亀石の謎 標識として使うならば、せいぜい道祖神ほどの大きさで十分です。どう考えても、私には、標識と考えるには大きすぎるような気がします。 結論を先に言えば、亀石がやはりペルシャと関係があると思えるのです。亀石をよーく今一度観察してみてください。 これに似た石造物を見たことがありますか?おそらく他に考え付かないでしょう. ペルシャ方面から中国、朝鮮半島を経由して日本へ伝わったものは、意外にたくさんあります。 すでにこのページ (ペルシャ人の石工が飛鳥にやって来た) で見たように、ペルセポリスのライオン像は、シルクロードを通って、中国で唐獅子になり、 朝鮮半島では、狛(高麗)犬になって、双方共に日本へ伝わりました。現在でも、神社へ行けば、 この種の石造物をたくさん目にすることができます。 おそらく亀石は、唐獅子や狛犬よりも以前に日本へ伝わったものだと思います。しかし定着しませんでした。なぜか? やはり日本人には馴染めなかったのでしょう。唐獅子や狛犬は日本で定着しました。その当時の日本人はライオンを見ていませんから、 これらの石像は犬のイメージとして受け入れられたのだと思います。しかし、亀石は唐獅子や狛犬と違い、ちょっと奇妙な印象を与えます。 |
persiah.html | 酒船石の謎 酒船石の使用目的については、これを製薬用に使用されたのであろうという説があります。古代中国の製薬、薬剤法は、 ある薬の材料を配合するのに、それぞれを臼で搗いて粉末にし、これを各分量に応じて混ぜ、丸薬の場合は、白密(蜂蜜)で練るという行程を経ています。 つまり、酒船石の円形凹所を、薬を搗くための石臼ではなかったかと考えているようです。 別の説では、生贄台ではなかったかという説もあります。 これは、最上部の半月形の皿と主軸の溝の交わる所に後頭部を当てるようにして仰向けに寝てみると、 腰から下が真ん中の小判形の中にすっぽりと落ち込み、そして両手を左右に大の字に伸ばすと、 枝溝に腕がすっぽりと納まったまま手の平は左右の円形皿の中にきっちりと入るからです。この研究者は、このことに基づいて古代日本には、 生贄の風習があったと主張しています。 最近では、酒船石のすぐ北側に「亀形石造物」が発見され、この石造物との関連が指摘され、 これも斉明天皇の「両槻宮」の遺構ではないかと考えられています。発掘が進むにつれて、 飛鳥京は「水の都」だったことが分かってきました。 ある研究者は水占いの装置であると提唱しています。また、別の研究者は、ペルシアの聖なる酒「ハオマ酒」をつくる装置だと言っています。 私はぶどう酒を作るのに使われたと思います。 |
rekishi1.html | エンタシス史観 「皆様、あちらの回廊の柱をご覧ください。柱の中ほどが少し膨らんでおりますね。あれはエンタシスと呼ばれ、遠くギリシャから伝わったものです」 修学旅行シーズンともなれば案内嬢は大忙しで習い覚えた説明を復唱する。和辻哲郎さんの名著『古寺巡礼』によって、 法隆寺と古代ギリシャの結びつきはあまねく世間に知れ渡るようになりました。 私も、中学生時代、国語の時間に、この『古寺巡礼』を読んだ記憶があります。井上章一さんは『法隆寺への精神史』で次のように説明しています。 『古寺巡礼』の特徴は大和の古美術とギリシャ古典の類似をうたいあげたところにある。和辻は、飛鳥から天平の仏像や絵画・建築に、 古代ギリシャにつうじる美をよみとった。(中略)中央アジアやインドを通って、ギリシャ文明が伝来し、その感化によって日本美術が成立する。以上のような見方で、 大和の古美術を説明しつくそうとするのである。 同じ見方は、奈良の正倉院を「シルクロードの終着駅」とするキャッチ・フレーズにも見られるとしています。さらに井上さんは、そのような見方の源流を尋ねて、 19世紀末から20世紀始めの、「脱亜入欧」(アジアから抜け出してヨーロッパの仲間に入ること)という時代思潮にたどり着くわけです。 古い日本に西洋とのつながりを見出すことは、 西洋の列強に追いつこうとする当時の日本人に大きな励ましとなったと結論しています。 つまり、学問的には何の根拠もない、法隆寺の柱のふくらみをエンタシスと呼び、それをギリシャ起源と見るような見方が普及したのは、 明治時代にはやった「脱亜入欧」の考えに基づくものだとしています。 |
rekishi2.html | 桂小五郎と恋 桂小五郎はご存知のように明治維新の血なまぐさい最中にも、恋の花を咲かせました。「春雨じゃ濡れてゆこう」なんて、かっこいい、 見方によってはキザな文句などはきまして、何となく人間的な、あるいは世俗的な彩(いろどり)を『明治維新』に与えています。 この辺のところは、維新一筋の西郷隆盛とはだいぶ性格が違っているようです。 ところで、この桂小五郎のお相手が誰だったのか思い出せませんでした。春雨の降るなか、小五郎に傘をさしかけた芸妓が確か相手役だったと思うのです。 |
rikutou.html | マキアベリもビックリ、 マキアベリ (Niccolo di Bernardo Machiavelli 1469-1527) の事は、多分知っていると思いますが、念のために、 ちょっとひと言。日本の戦国時代に当たりますが、当時の、イタリアは、フィレンツェ市国(公国)の役人をしていた人物です。 1513年に、“The Prince” というタイトルの本を書きます。これはいわば、政権の座にある者のための、治世の書とも言われるもので、 現在の考え方からすると、ひどくエゲツナイやり方で,国を治める方法が書いてあります。したがって,マキアベリズムと言う場合、たいてい、 悪い意味に使われることが多いようです。 そういう本を書いたマキアベリもびっくりする、というのですから、藤原鎌足が愛読していた「六韜(りくとう)」という兵書がどのようなものであったか、大体想像がつくでしょう。 たぶんマキアベリは、この兵書を読んでいなかったでしょう。私の知る限り、マキアベリが「六韜」を参考にしたとは、どこにも書いてありません。 |
rikutou2.html | 今、日本に住んでいる人は 呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、 呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、 日本語の中に消しがたい足跡を残しています。しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、 『呉』は日本語にすっかり定着しています。 これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。 一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。一体、 幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?ちょっと考えてみてください。 藤原鎌足が百済からやってきたという確証があるの? 藤原鎌足は「六韜(りくとう)」を愛読していた。 日本で一番古い書は? |
rikutou3.html | 古事記より古い書物が それは、歴史編纂の目的で、大和朝廷が、昔の地方王朝に伝わる歴史書をすべて集めさせたからです。その集めたものがどうなったかというと、 すべて焼き捨ててしまったのです。 ご存知のとおり、中国では、これ以前に、秦の始皇帝が焚書坑儒ということをやっているわけです。つまり、民間に広まっている儒教の本を焼き捨て、 多数の儒学者を殺しているわけです。地方の歴史編纂者を殺せ、とは藤原不比等は言わなかったでしょう。しかし、大和朝廷の正史、 つまり、古事記と違ったことが書いてある、昔の地方王朝の歴史書が、地方に残っていることは、まずいわけです。 藤原不比等が、この点について、天武天皇に、いろいろと中国史を話して聞かせたことでしょう。「六韜(りくとう)」を愛読している不比等にとって、 そのような、大和朝廷に、邪魔になる地方の王朝の史書を焼き捨てるのは当然のことです。したがって、古事記編纂の目的の一つに、 地方に伝わる歴史書を焼き捨てるということがあったわけです。 |
rikutou4.html | 藤原鎌足と六韜
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rikutou5.html | 平和を愛したアイヌ人 |
rikutou6.html | なぜ、蝦夷という名前なの? 蘇我氏と、藤原氏の決定的な違いは、この和の精神にあるといえます。簡単に言えば、蘇我氏は、和の精神で事を運ぼうとしていたわけです。 この端的な表れが、聖徳太子の17条憲法に示された冒頭のきまり文句です。「和をもって、貴(とうと)しとなす」 この条文が一番初めにあげられているということは、 先ず、何よりも、この条文から考えなさい、ということだと思います。 ちなみに、分かりやすく、現代語にすれば、17条の憲法というのは次のようになります。
この憲法の条文と、さらに上に書いた、蝦夷に関する記述を比べてみてください。 蝦夷に関する記述は、編集長である、藤原不比等の考え方があらわに出ています。もちろん文書の趣旨が違いますから、こうして並べて比べるのは 適当ではないかもしれません。しかし、どちらも公文書です。 |
rikutou7.html | 渡来人とアイヌ人の連合王国 聖徳太子が17条の憲法を制定しましたが、残念ながら、彼が、アイヌ人の酋長と会見して、 誓約書を取り交わしたというような記事も、文書も現在には伝えられていません。たとえ、そのような記録が残っていたとしても、 蘇我蝦夷が自宅で自刃した時に、鎌足が重要書類をほとんど焼き捨ててしまいました。 したがって、蘇我氏が、聖徳太子を中心にして、アイヌ人と共存してやってゆこうとしたことは、その当時の、状況や、蘇我氏の方針, その後の藤原氏のアイヌ人に対するやり方などから類推するしかありません。 ただ、その重要な要素として考えられるのは、すでに述べたような、17条憲法の和の精神、それに、蘇我蝦夷という名前にこめられた謎、それに、 アイヌ人の非好戦的な民族性だということを、前のぺージで見てきました。
平安時代は、決して平安ではなかった 黒澤明監督の、『羅生門』という映画を見たことがあるでしょうか?原作は芥川龍之介の短編小説「藪の中」です。 戦禍に荒れ果て、疫病が流行し、天災が続いた平安時代の話しです。 先ず画面に現れるのは、激しい夕立の中、壊れかけた羅生門の下で杣売りと旅法師が雨宿りをしながら考え込んでいます。 羅生門というのは、都の正門ですから、完成したときの姿は上の写真に見るような豪華なものだったはずです。 しかし、今、言ったように、「平安」時代でありながら、現実は、庶民にとって、ずいぶんときびしい時代だったようです。 というのは、映画の中では、羅生門が、下に示すような無残な姿で現れるからです。 |
shinri.html | 真理とは何か? 絶対の真理というものはあるのだろうか?
しかし、その認められた仮説でさえも、さらにその時代が過ぎると、新しい仮説が現れて、もっとよく、もっと広範囲の現象をより簡単に説明することができるかもしれません。 ニュートンの法則がアインシュタインの相対性理論によって修正されたのはこのよい例です。そうなると、絶対の真理というものはないことになります。 科学技術の進歩に伴って新しい仮説が時代と共に現れてきます。 |
shinri2.html | 真理は作られた? “六韜史観”—『古事記』と『日本書紀』の編纂に携わった帰国留学生や渡来人は、先ず間違いなくこのような中国の史観に通じていたはずです。 ところが編集長として彼らを統括している藤原不比等の史観は全く彼らの史観とは違っています。不比等の史観は、しいて言うならば“六韜史観”と呼ぶようなものです。 つまり自分の都合のよいように歴史的事実を書いてゆく史観です。 若い帰国留学生は編集長の指図に従って、不比等の言うように仕方なく書き直すことがあったかもしれません。しかし、古参の渡来人たち、 あるいは土着の豪族出身の史官の多くは、不比等が時々口を挟んで事実を編集長の都合のよいように書けという指示を苦々しく思ったことでしょう。 何よりも不比等が親の七光りで編集長になっているという事実がおもしろくありません。しかも、 勝手に事実をゆがめて書けというようなことを言う。おそらく喧嘩になってやめていった人もいたに違いありません。やめない人は、何とかして、 事実を『古事記』と『日本書紀』の中に書き残そうと懸命に努力したに違いありません。 そういう努力が、我われの眼には“矛盾”であったり“謎”として文中に登場するわけです。 |
shinri3.html | 「韓人」とは誰か? 「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。右の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。 これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。 一方、馬韓は百済になります。 要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。 |
shotoku1.html | 推古女帝と聖徳太子
聖徳太子に対して 愛憎なかばする推古女帝 これまで述べてきたことから言えることは、この姉妹は当時あまり仲の良い姉妹ではなかったという事です。しかも、後年、若い小姉君の方に、 欽明帝の愛情が向いたようです。従って、この辺の愚痴を堅塩媛は娘の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)、後の推古天皇にこぼしているはずです。 愚痴をたらたら言わなかったとしても、推古天皇は母親のそのような姿を見ていたはずです。 従って、推古女帝は母の堅塩媛(きたしひめ)への憐れみと愛情が強く、母がライバル視した小姉君(おあねのきみ)への憎しみから、 小姉君の皇子たちに憎悪の目を向けていたとしても、それほど不思議なことではありません。推古女帝は、一体、 聖徳太子に対してどのような感情を抱いていたでしょう? 卑弥子さんが甘樫丘に立って飛鳥を宣伝します。 聖徳太子のゆかりの地・飛鳥を探索してみませんか?私の後ろに見えるのは、耳成山です。今私の立っているところは甘樫丘(あまかしのおか)です。 私をクリックするとアマゾンJAPANの『飛鳥のすべて』のサイトへ行くことができます。 |
shotoku2.html | 朝鮮三国の緊張関係 |
shotoku3.html | 蘇我馬子と聖徳太子の対立 (not finished) |
shotoku4.html | 『聖徳太子二王子像』 これは聖徳太子像の最古のものとされています。しかし、幅広の袖とスカーフのような裾のある衣を纏った服装は、 太子が亡くなってから百数十年もたった盛唐時代、9世紀あたりのものだということが分かっています。しかも、王の装束ではありません。 単なる一般官吏の装束です。なぜなら、太子が持っている笏がそのことを物語っているからです。笏というのは、 唐の官吏たちが皇帝と接する時に怪しげな態度をとらせないため、 手に武器を持っていないことを示すためのものだったのです。 |
shotokub.html | 聖徳太子の惨めな少年時代 |
soga01.html | 蘇我氏は高句麗からやってきた |
temmu.html | 天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった。 |
temmu2.html | 天智天皇は暗殺された |
temmu3.html | 天智帝暗殺の謎 |
temmu4.html | 『壬申の乱』は天智帝暗殺で始まった |
uraomote.html | 古代、裏日本と表日本は逆だった。 |
uraomote_en.html | The head and tail of Japan were switched in the modern times |
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