皇室は、本当に万世一系か? という質問の回答を求める前に、なぜ万世一系である必要があるのか?
もっと的確に言うならば、なぜ万世一系である必要があったのか?という質問の答えを見つけたほうが早道かもしれません。
普通、われわれの毎日の生活には、日本の皇室が
万世一系であろうが、イギリスの皇室が万世一系であろうが、スウェーデンの皇室が万世一系であろうが、
まず関係がありません。 また、そのことを深く考えてみようともしません。どうしてか?もちろん、そんなことは決まっています。
要するに、われわれの、日常の生活には、全くかかわってこないからです。はっきり言えば、そんなことは、どうでもいいことです。
ということは、かつて、(もちろん、日本の古代ということを言いたいわけですが)、皇室が万世一系でないと、
まずいことになるということがあったわけです。万世一系でないと、ある人たちの毎日の生活が脅かされるということがあったわけです。
もしあなたが、そのような立場に置かれれば、必死になって、「皇室が万世一系」であることを主張し、またあらゆる機会を使って、
そのことを証明しようとするでしょう。とにかく、そうでもしないと、毎日の生活がやってゆけないのですから。
では、それはどういう人たちなのか?と、きっと私に質問をぶつけるでしょう?あるいは、聡明なあなたは、もう気づいているかもしれません。
もちろん、このページの謎々からして、もうすでに、大きなヒントがあなたに与えられています。そうです。継体天皇になった越(こし)の国王・
男大迹(ヲホト)王と、その取り巻き連中のことです。
現在の皇室は、系譜の上からは25代の継体天皇まで遡れることになっています。
しかし、意地悪なかんぐり方をするならば、なぜ、継体天皇の代になって、系図をはっきりさせる必要に迫られたのか?
という疑問にぶち当たります。それまでは、そんなことをする必要がなかったわけですから。
日本史を振り返ってみると、継体天皇とその取り巻き連中の他にも、系図に手を加えた天皇が居ます。
壬申の乱で天皇になった天武天皇がその人です。99パーセントの確率で、この時、王朝が変わっているようです。
天武天皇については、このページ (天武天皇と
天智天皇は同腹の兄弟ではなかった。) を見てください。
ごく最近の例では、明治から大東亜戦争の時代までの教育に現れています。もちろん、皇室の系図を改竄したというわけではありませんが、
いわゆる、 「皇国史観」 に基づいて初代・神武天皇から今上天皇に至るまで、一つの系譜が途絶えることなく続いているという考え方
を生徒に教え込んだわけです。なぜ「万世一系」 思想を生徒に教え込む必要があったかというと、当時の今上天皇、つまり、昭和天皇
が現人神(あらひとがみ)であることを説明するために天照大神(あまてらすおおみかみ)の血筋を受け継いでいるということが、
ぜひとも必要であったわけです。
「天皇陛下万歳」を叫びながら、突撃していったり、あるいは玉砕する兵隊を作り出すには、ぜひとも、
この「皇国史観」を教え込む必要があったわけです。
それでは、なぜ、男大迹(ヲホト)王は万世一系を持ち出す必要があったのか?
武烈天皇には嫡子がありませんでした。そのため、後継問題が起こったのです。そこで、越前の男大迹(ヲホト)王を、権臣の
大伴金村らが天皇に迎えたものとされています。その理由は、男大迹(ヲホト)王が応神天皇6代目の子孫であったということです。
ところが、「迎えられた」 にしては大和に落ち着くまでに20年近くかかっています。その間、なかなか大和に入れずに、
河内や山城を転々としているのです。どう考えても、すんなりと迎えられたとは考えられません。
むしろ、継体天皇はそれまでの天皇一族とは縁もゆかりもない人物だと考えたほうが、話はスッキリするのです。
後継者が無いまま武烈天皇が亡くなった時に、越(こし)の国王であったヲホトが絶好のチャンスと見て大和侵攻を試みたわけです。
豪族たちの抵抗が予想以上に強い為に20年近くを要したというのが真相だったでしょう。
武力制圧が成功したのか、大和豪族との間に和睦が成ったのかはよく解りません。
日本書紀によると、男大迹(ヲホト)王の父は近江の豪族彦主人(ひこうし)王、母は越前の豪族の娘、振姫(ふるひめ)、
ということになっています。越前における天皇の事跡は明らかではありませんが、
多くの伝説を残しています。中でも越前平野の治水伝説と、笏谷石の採掘伝説はよく知られています。
1884年(明治17年)足羽山三段広場頂上に建立された天皇の石像(このページのトップに掲載されている写真)は、
笏谷石採掘にたずさわる人々により、
天皇の遺徳を讚えるために造られたものです。
像は笏谷石製で、治水伝説にゆかりの九頭竜川河口を向いて建てられています。
しかし、この継体天皇は、さまざまな謎に包まれた人物で、生まれた年がはっきりわかりません。亡くなった年齢も諸説があります。
天皇になる前、
どこで生まれどこで育ったかについても諸説があります。はっきりしていることは、
現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇だということです。この辺に作為の跡が見られるわけです。
他のことが、よくわからないのに、なぜ、現在の皇室が系図を正確にさかのぼることができる最古の天皇なのか?これは、
非常に素朴な質問だと思うのです。しかし、突き詰めて考えたとき、本当に、どうしてそうなの? そう、疑問を投げかけざる
をえないでしょう。
日本書紀によると継体天皇は近江で生まれ、福井平野で育ったと書かれています。 しかし、以前は、
これを疑問視する見方がつよかったのです。最近の考古学と文献学の成果から、福井の強力な勢力を背景に育ち、
成長し、北陸、近江、尾張などの豪族の力をバックに、
中央に進出した人物だということがほぼ分かってきました。といってもどんな人だったのか、
なぜ急に越前から天皇になるような人物が出現したのか、
どんな力が背景にあったのか。男大迹(ヲホト)王と 既存の中央の勢力との力関係がどうだったのか。
まだ不明なことが、たくさんあります。
しかし男大迹(ヲホト)王の母が、越前の豪族の娘、振姫(ふるひめ)、であり、福井の強力な勢力を背景に育ち、成長したというのは、
重要な
ポイントです。すでに、「古代、裏日本と表日本は逆だった」
のページで述べましたが、下の地図で示すように、男大迹(ヲホト)王が生まれた450年頃にも、大陸から難民になって多くの古代韓国人
が日本へやってきました。
上の地図は、隋時代(589-618)のものですが、男大迹(ヲホト)王が生まれた450年頃というと、中国では、南北朝時代になりますから、
この時代よりも、戦乱が多く、大陸、及び、朝鮮半島から、戦乱を逃れてやってくると難民は、もっと多かったはずです。
そういう難民の中には、戦乱に敗れた将兵も多数含まれて居たでしょう。 優れた、武器と戦略を身に着けた将兵を取り込む
ことによって振姫(ふるひめ)の所属する越前の豪族が次第に強力になっていったわけです。
そもそも、この振姫(ふるひめ)自身が、
半島から戦乱を逃れてやってきた、新羅の貴族の娘だった可能性さえあります。生まれた年が不明だというのは、どうも、ヲホト王が振姫(ふるひめ)の連れ子くさい。
もし、それが事実とすれば男大迹(ヲホト)王には、日本人の血が一滴も混じっていないことになります。
いずれにしても、この豪族の中に多数の帰化人が居たことは、まず間違い
ありません。日本海側に圧倒的に強力な王国ができていたということが、最近の、考古学上の遺跡発掘でわかっているように、
この当時の先端技術は、鉄器や、武器も含めて、
半島からやってきた人々によってもたらされたものです。
それが万世一系と、
どう関わりがあるの?
男大迹(ヲホト)王には、日本書紀によると9人、古事記によると7人の后(きさき)が居たということになっています。
もちろん、この事実は、男大迹(ヲホト)王が精力絶倫だったということではなく、この当時の、豪族の首長であれば、
このぐらいの人数の女性を、そばにはべらせていたというのは珍しくありません。
もちろん、これは政略結婚で勢力拡大をはかってのことです。姻族関係を結ぶことでその背後にある勢力を利用しようというわけです。
ところで、日本書紀と古事記では后の記載の順番が違います。書紀は妻の格付けの順、古事記は結婚順という見方があります。
その出身地については越前から近江、美濃、尾張と水陸交通の要衝の地域が多いのが特徴です。
いずれにしても、この政略結婚をよーく見ると、勢力を広げることだけでなく、自らの出自を隠すような小細工が見て取れます。
つまり、天皇として国をまとめてゆくには、両親が日本人であることが望ましい。男大迹(ヲホト)王の母親が帰化人であるという可能性は
かなりあるし、男大迹(ヲホト)王が彼女の連れ子だという可能性さえあります。そのような事実を隠すために都合がよいのは、
強力な現地人の味方を数多く確保することです。
そのような意味で、男大迹(ヲホト)王と彼の取り巻き連中は尾張氏に目をつけたようです。
尾張氏の目子媛(めのこひめ)は、後に安閑、宣化の両天皇の母となる女性です。
名古屋市に東日本最大の前方後円墳といわれる断夫山古墳があります。これを築いたのが尾張氏です。
越前を出た後、男大迹(ヲホト)王は尾張を東国経営の拠点にしようと考えたようです。
また、彼の后(きさき)のうちで、日本書紀の三番目と七番目に出てくる三尾角折(みおのつのおり)君と三尾君については
本拠が福井、滋賀の両説があります。しかし、これまでの経緯から、私は滋賀説をとります。福井の勢力を増やすよりも、他国の勢力が加わるほうが
男大迹(ヲホト)王にとって好都合ですから。滋賀県には三尾君の始祖をまつった水尾(みお)神社や三尾里などミオと発音する地域があります。
安曇川町から高島町にかけての地域が出身地で、金銅製の冠や装身具などの副葬品が出土した鴨稲荷山古墳に深く関連していると
滋賀説は主張します。一方、福井説は金津町に御簾尾(みすのお)という地があり、ここはもとは三尾と呼ばれていたものが変化したらしいのです。
いずれにしても、男大迹(ヲホト)王は、まだ満足できず、最後の仕上げに、
後に欽明天皇を産む手白香皇女(たしらかのひめみこ)を娶ります。
彼女は「ヤマトの天皇の娘」ということで、
ヲホト王がヤマトに入るときのパスポートになったわけです。このようにして見て行くと、ヲホト王が万世一系にこだわる理由が理解できます。