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セレブと碓氷峠
by デンマン & 卑弥子
2008年9月7日
Subj:明けましておめでとうございます。 Date: 01/01/2008 3:12:13 AM Pacific Standard Time お正月に何を書こうと迷いましたが 題して“軽井沢不満たらたら編”ですう。
私は群馬で上州だから 那須とか日光には、めったにいきません。 私が学生のころ、高崎から横川へ碓氷峠を登り
今は電車は横川止まりです。 大人は高崎から新幹線のホームへ向かい高いお金を払って、
子供のころ軽井沢ってほんと遠いな~というか 碓氷峠にはいろいろ思い出があります。 東京も横浜も好きでよくいきますが、 佐野はあつい~。 思いつくままに取りとめも無く書きましたが、 2008年元旦 小百合より
今日は、デンマンさんの祖先の男の人があたくしの祖先の可愛い女の子に出会うお話をしてくださるのですよね?
そうですよう。そのつもりですよう。 それなのに小百合さんと碓氷峠の思い出でござ~♪~ますか? あのねぇ~、1000年も前の卑弥子さんの遠い祖先の可愛い女の子を持ち出しても、誰も信じてくれませんよう。 それで、碓氷峠を持ち出してきたのですか?でも、小百合さんは関係ないでしょう? 全く関係ないとは言えないのですよう。僕は、小百合さんの祖先と僕の祖先は同族だったと信じているほどですよう。 どう言う訳でござ~♪~ますか? だから、それを説明するためにも小百合さんの碓氷峠のメールを持ち出してきたわけですよう。 分かりましたわ。では、その碓氷峠の事からお話しくださいな。 卑弥子さんも覚えていると思うけれど、万葉集には碓氷峠が出てくる歌がある。僕は2つの和歌を取り上げて、その歌が刻み込まれている歌碑と共に紹介したのですよう。
釜めしと万葉集
おいしそうでござ~♪~ますわ。あたくしは電車の中で待っていますから、デンマンさんが2つ買ってきて下さいな。
あのねぇ、駅弁だけではないのですよう。僕は途中下車して行って見たい所があるのですよう。 どこでござ~♪~ますか? 卑弥子さんは忘れてしまったのですか? 忘れたって。。。何をでござ~♪~ますか? やだなあああぁ~。。。僕は卑弥子さんのために軽井沢と万葉集の事で調べたのですよう。その事で、かつて記事に書いたのですよう。 あらっ。。。いやでござ~♪~ますわぁ。。。うふふふふ。。。“夢のホテル”であたくしとデンマンさんがエッチな事をするのでござ~♪~ますか? しませんよう!んもお~~。。。そんな事は、どこにも書いてませんよう!たくゥ~~。。。 。。。んで、あたくしが何を忘れているのでござ~♪~ますか? 防人(さきもり)の歌の歌碑ですよう。
この上の写真を見れば思い出すでしょう?旧碓氷峠の見晴台入り口にあるのですよう。昭和42年に軽井沢町が建てたものです。思い出したでしょう? ええ、ええ、ええ。。。思い出しましたわ。確かに、デンマンさんが書いていましたわ。 『万葉集』には軽井沢は出てこないけれど、碓氷峠が出てきます。奈良時代や平安時代の初期には碓氷峠は「宇須比」とか、「碓日嶺」などと書かれていたようです。上の歌碑には次のような歌が書かれているのですよう。 日の暮れに
うすひの山を
越ゆる日は
背なのが袖も
さやに振らしつ
(巻第十四 東歌 三四〇二
詠み人知らず) 現代語訳: 日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、 峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。 ひなぐもり
うすひの坂を
越えしだに
妹が恋しく
忘らえぬかも
(巻第二十 四四〇七 現代語訳: ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、 碓氷峠越えの別れの恋歌。 ロマンチックな歌でござ~♪~ますわね? これはねぇ、実は悲しい歌なのですよう。 どうしてでござ~♪~ますか? もう2度と会えないかもしれないと言う悲痛な思いを込めて詠(うた)っているのですよう。 デンマンさんは、マジでござ~♪~ますか? もちろんですよう。 でも、それ程別れがつらいのならば、一緒に行けばいいではござ~♪~ませんか? しかし、一緒に行けない訳があったのですよう。 どのような。。。? この別れは、どちらも離れてゆく人が楽しい旅に旅立つ訳ではないのですよう。この別れが相手を見る最後になるかもしれないと言う、まさに悲痛な思いが込められていた。 なぜでござ~♪~ますか? 万葉集の「巻第二十」には、防人(さきもり)の歌がたくさん入っているのですよう。 つまり、上の歌で別れて碓氷峠を越えてゆく人は、九州まで歩いていって防人の役目に就(つ)く人でござ~♪~ますか? そうですよう。任期は3年だったのですよ。しかも、この間に税は免除されないから、残された家族は大変だったのですよう。働き者を防人に取られて、家族はその人の分まで一生懸命に働かねばならなかった。だから、残された者にとっても重い負担になった。しかも、この3年の任期は延ばされることもよくあったというのです。更に、任期が終えても、帰ってくる途中で行き倒れになる人もあったと言うのですよう。 マジで。。。? もちろん、マジな話ですよう。詳しい事は上のリンクをクリックして読んでくださいね。 。。。んで、この歌と碓氷峠がデンマンさんの祖先とあたくしの祖先に、どのように関わっているのでござ~♪~ますか? この歌を詠んだ人たちは一体どのような人だったのだろうか?僕は、まずその事を考えてみたのですよう。 アイヌ人の人たちがたくさん住んでいたのでござ~♪~ますわ。だから、この歌を詠んだ人たちもアイヌの人だったのですわよう。 それは違うと思いますよう。 なぜですか? まずアイヌの人たちは日本人に同化した人を除いて明治時代まで文字を使わなかった。和歌を書き残す訳がないのですよう。
アイヌ人は主に東北地方と
北海道に住んでいた。
7世紀頃には、蝦夷(えみし・えぞ【アイヌ人】)は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されている。 蝦夷征討 確かにアイヌ人も関東に少しは住んでいたでしょう。でもねぇ、そういう人たちは日本人に同化してしまった人たちですよう。この歌が詠まれた当時はアイヌの人たちのほとんどは東北地方に追いやられていたのですよう。万葉集の編者の大伴家持(おおともやかもち)は、718年に生まれ、785年に亡くなっている。この大伴家持は防人を集めて世話をする役人だった事があるのですよう。だから、彼の手元に集められてきた歌を家持が記録し、取捨選択して万葉集に載せたものと考えられているのですよう。 つまり、上の歌が詠まれたのは750年頃ですか? そう考えてほぼ間違いないでしょう。 その頃までに、ほとんどのアイヌ人は東北地方に移住していたのでござ~♪~ますか? そうですよう。 。。。んで、アイヌ人の人たちが関東から東北に移住したとして、そのあとに収まったのはどのような人たちだったのでござ~♪~ますか? 大伴家持が上の歌を万葉集に載せる約100年ほど前に、日本はたくさんの難民を受け入れたのですよう。 難民って。。。一体どこからの難民でござ~♪~ますか? この事について、僕は以前、記事に書きました。その記事の中から抜粋しますよう。読んでみてください。
東国人は天智天皇によって
防人(さきもり)として狩り出された
天智天皇は百済(くだら)を助けるために古代韓国で戦争に加担した。 これとは反対に、多くの人が、大海人皇子(後の天武天皇)になびいてゆきます。 おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。 国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。 そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。
しかし、天智天皇は重大な間違いを犯してしまった。 そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか? 「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」 大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。 魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人(アイヌ人の祖先)というのは、伝統的に町の周りに城壁を築くようなことをしません。 しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。 この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。 したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。 それで、バチが当たって(?)天智天皇は暗殺されたわけです。 分かるでしょう。天智天皇は百済を助けるために古代韓国で戦争に加担した。でも、663年に白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた!百済は国が無くなってしまったのですよう。 つまり、百済人が難民になって日本にたくさんやってきたのでござ~♪~ますか? そうですよう。天智天皇は難民を受け入れるより他に仕様がなかった。だから、土地が空いている関東平野に防人の予備軍として送り込んだ訳ですよう。 要するに上の歌を詠んだ人は、この難民の子孫でござ~♪~ますか? その可能性が強いですよう。難民たちが関東平野に移住してから100年経っているから、上の歌を詠んだ人は、おそらく孫の代でしょうね。当時は学校があるわけではないから、漢字は親から教わる。万葉集の歌はすべて漢字で書かれている。日本語の読みに漢字を当てて書いたのが当時の歌ですよう。 分かりましたわ。それで、あたくしの祖先の女の子の事ですけれど。。。どうして京都に居るはずのあたくしの祖先が関東平野に居るのでござ~♪~ますか? 次の文章を読んでみてください。
この列島にいつ「武士」が現れたのか
武士はいかにしてこの日本列島に「出現」したのか…。 旅の始まりで『更級日記』にふれます。 「馬に騎りて弓持(もち)たる」人物についてです。 それより360年前の西暦663年。
「この集団が、日本史上、われわれが誇る、最も典型的な日本人集団とされる坂東武者に変わってゆくことを思うと、東アジアの人間の交流や、文化の発生にかぎりないおもしろさを覚える。」(『街道をゆく』1)
日本人の原型体質とは、坂東武士団の中から結晶のように煮詰って現われ出た生き方であり、その広がりはアジア的スケールを持っていたかもしれないのです。 (84-87ページ) 『司馬遼太郎の「武士道」』 つまり、上の引用の中に現れる13才の少女があたくしの祖先の一人だとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか? 直系の祖先ではないけれど、卑弥子さんの遠い親戚筋に当たるのですよう。 『更級日記』を書いた女性は、確かに名前が今日に伝わっていませんわ。でも、彼女の父親は菅原孝標(たかすえ)でござ~♪~ますわ。確か4代前には、あの有名な右大臣・菅原道真(みちざね)がおりますわ。 ほおォ~。。。さすがですねぇ~。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ですねぇ~。。。知ってますねぇ~。。。 こういうところで煽(おだ)てないでくださいましな。 僕は詳しく知らないので調べてみました。ちょっと読んでみてください。
更級日記(さらしなにっき)
菅原孝標女によって平安時代中ごろに書かれた日記。 作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女で、母方の伯母に蜻蛉日記の作者である藤原道綱母がいる。 源氏物語を読みふけり、物語世界への憧憬に過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子(ゆうし)内親王家への出仕、三十代での橘俊通(としみち)との結婚と仲俊(なかとし)らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教への傾斜までが平明な文体で描かれている。 書名の「更級」は、古今和歌集の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」に由来する。 更級日記の現存する写本は全て藤原定家が書写した御物本の系統である。 菅原孝標女
(すがわらたかすえ の むすめ) 寛弘5年(1008年)に生まれる。 10歳頃から50歳頃までの人生を綴った『更級日記』の作者として知られ、更級日記御物本奥書により、『浜松中納言物語』などの物語の作者ともされる。 略歴 彼女の父は、菅原道真の血を引く上総・常陸の受領・菅原孝標であり、母は藤原倫寧の娘で、伯母(母の姉)は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母であった。 彼女は寛弘5年(1008年)に生れた。 祐子(ゆうし)内親王(後朱雀天皇第三皇女)に仕え、長久元年(1040年)頃、橘俊通(たちばな としみち)と結婚。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 『更級日記』の当時13才の作者の将来の夫となる人が橘家の人なのでござ~♪~ますわねぇ。 そうですよう。それで、卑弥子さんの遠い親戚筋に当たる訳ですよう。うへへへへ。。。 デンマンさんがあたくしの親戚とおっしゃるから、もっとずうっと血縁の濃い間柄だと思っていたのでござ~♪~ますわよう。例えば、あたくしの大叔母だとか。。。 そんな訳ないでしょう!千年ほども昔なんだから。。。 分かりましたわ。この13才の少女が橘家の者と夫婦になるのですわね。でも。。。、この少女が武蔵野で見た騎馬の上の人物が、どうしてデンマンさんの祖先だと分かるのでござ~♪~ますか? もちろん、確証があるわけではないのですよう。ちょうど上の本の中で次のように書かれている。
司馬さんの筆は期せずして
一編の壮大な叙事詩を つむぎだしているかに見えます。 だから、僕も司馬さんに見習って一編の壮大な叙事詩をつむぎだそうと言う訳ですよう。 分かりましたわ。それで、どのような叙事詩でござ~♪~ますか? 僕の生まれたのは北関東の行田市です。
忍十万石として知られている城下町ですよう。もちろん昔の武蔵野国にあるのです。
天正時代のデンマンのふるさと
天正18年(1590年)の小田原征伐のとき、石田三成率いる豊臣軍が忍城を攻撃しました。 後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れました。 僕の家は徳川時代には忍城下で“木のくりもの屋”をしていた。僕の祖父の代までこれが続いて、大正時代に作品の品評会があって、これに出品して埼玉県知事からもらった2等賞の賞状が家宝のようにして2階の床の間に飾ってありましたよう。つまり、僕の祖父は腕のいい木工職人だったのですよう。家にも祖父が作ったと言う置物がたくさんありました。僕のオヤジが行田市の博物館にすべて寄付したようです。 それで徳川以前はどうだったのでござ~♪~ますか? 後北条氏に仕えていた騎馬武者だった。つまり、『更級日記』の作者が見たと言う騎馬武者の末裔(まつえい)だったのですよう。 つうことわあぁ~。。。デンマンさんの遠い祖先は百済から逃げてきた難民だったのでござ~♪~ますわね? 難民と言うと響きは悪いけれど、唐と新羅の連合軍と戦った騎馬隊の一員だった訳ですよう。 それで、戦いに負けて百済の国が滅びてしまったので仕方なしに日本へ逃れて来たと言うことでござ~♪~ますか? そう言う事ですよう。 。。。んで、デンマンさんのご実家には家系図が残っているのですか? そんなモノは残っていませんよう。 。。。んで。。。、んで。。。、どうして上のような事を、さも史実のように言うことができるのでござ~♪~ますか? 僕の体の中にある DNA に僕の祖先から伝わっている遺伝子が刻み込まれているからですよう。 その。。。その遺伝子って。。。いったい、どういうモノでござ~♪~ますか? “海外飛躍遺伝子”ですよう。うしししし。。。 つまり、デンマンさんの遠い祖先は戦い敗れて百済から“海外”である日本へ渡ってきた。それから、京都に下って行ったけれど、生活の糧を得るためには畑仕事でもして食料を得なければならない。でも、近畿地方には土地がないので開拓団に入って関東まで落ちていったのでござ~♪~ますか? そうですよう。 でも、結局、後北条氏に仕えたけれど、秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅びると、騎馬武者から“くりもの屋”になって忍城下でお店を開いたのでござ~♪~ますか? その通りですよう。 。。。んで、その“くりもの屋”が大正時代まで続いて、デンマンさんの代になると、1400年近く眠っていた“海外飛躍遺伝子”が眠りから覚めて、デンマンさんは34カ国を放浪した末に、カナダに安住の地を求めて定住した、と言う訳でござ~♪~ますか? 全く、その通りですよう。。。うしししし。。。どうですか?。。。これが、僕のつむぎだした壮大な叙事詩ですよう。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 それにしても、ずいぶんとこじつけたものですわぁ~。 ええっ?あたくしの祖先の橘三千代というのも同じように怪しいって。。。? あたくしの家には、家系図が伝わっているのでござ~♪~ますわよう。 とにかく、あさってもメチャ面白くなりそうです。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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下着・ランジェリーを見つけませんか?』
■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に
別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』
こんにちは。ジューンです。
卑弥子さんの家系は
1300年続いているそうです。
すごいですよね。
カナダは今年の7月1日に
141歳を迎えたばかりです。
日本の天皇家が紀元前660年に
起こったとして、今年で2668年目です。
卑弥子さんの橘家は天皇家の
半分の長さを誇っている訳です。
ところで、アメリカでもカナダでも最近
自分の家系をたどる事が
隠れたブームになっています。
興味のある人は次のリンクをクリックして
覗いてみてください。
(あなたの家系をたどってゆこう!)
これは持統天皇(女帝)を中心として描いた系図です。
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読んでみてくださいね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
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