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女帝の憎悪
2008年9月25日

投稿日時: 2008/09/22 03:58 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午前11時58分
バンクーバー時間: 9月21日 午後7時58分

はい ただいま。
軽井沢ではいろいろとやる事があって、
ネットカフェでゆっくりとデンマンさんのブログを見ている時間が取れませんでした。
あとで ゆっくりと 見てみますね。

ブログを読んでもらえば分かるけれど、
小百合さんとのメールの交換がブランク(空白)の期間があったので、
歴史編になっていますよ。

万葉集のこと
柿本人麻呂のこと。。。
そう言う事に、かなりハマッて『小百合物語』を書いていますよう。

しばらく歴史編が続きそうですゥ。
もちろん、小百合さんからのメールを冒頭に書きますが。。。
歴史編になっても『小百合物語』に変わりがありません。

夕べも今朝も
ビーバーランド e-XOOPSの調子が悪かったのですよう。
最近、マジで Lycos UK のサーバの具合が悪いのですよう。
ムカつきました!

先ほどクリックしたら、やっとジューンさんが現れて、
小百合さんが1時間前にログアウトした事が記録に出ていました。

「親孝行スレッド」のデンマンさんのメールを読みましたよ。
うーん お母さんから 手紙が来たのですか?
宝物ですね。

久しぶりの手紙でした。
手紙に書いてある字を見ても、
目が遠くなっていると言うか。。。?
手が弱っていると言うか。。。?
体が弱っている事が感じられます。

字体に元気が無いのですよね。
書いてある文章はしっかりしていますが。。。

23日の秋分の日までいるつもりだったのですが、
台風が去ったのに 低気圧で雨、
戻ってきました。

うん、うん、うん。。。
10日間ほど軽井沢にいると言っていたから早いなあああぁ~、と思ってちょっと意外でした。
でも、うれしい喜びですよう。
それだけ小百合さんと多くメールの交換ができますからね。

今回は 風邪もひいたけど その分 ゆっくり、
気がついたら 10時まで寝てました。
寝過ぎです。

本当に小百合さんは“風邪っ子”ですよね。
その事が僕のオツムに始終あって、その事が僕に『ロマンポルノ』を書かせたのですよう。
半分マジで。。。

つまり、小百合さんの“愛とロマンの体質改善”があの『ロマンポルノ』のテーマなのですよう。
小百合さんは分かってくれただろうか?

防人の歌碑のところまで行って、
新しい道を探して 見つかった時の 新鮮さ。
長男や次男のこと、デンマンさんのことも
忘れて 自分だけのことで 走り回ってました。

■ 『ビバ! 白鳥の湖 (2008年6月15日)』
(防人の歌碑については上の記事を読んでみてね。)

“防人の歌”。。。懐かしいですねぇ~。

そうです。そうです。
あの防人の歌の歌碑も、小百合さんと一緒に見たいものですね。

日の暮れに

うすひの山を

越ゆる日は

背なのが袖も

さやに振らしつ    

(巻第十四 東歌 三四〇二

詠み人知らず)

現代語訳:

日の暮れ時に、碓氷の山の峠を越える日に、
我が夫が、別れの時に目につくほどはっきりと袖を振っていたわ。

峠を越えて去ってゆく夫を慕う妻の心情を詠んでいる。


ひなぐもり

うすひの坂を

越えしだに

妹が恋しく

忘らえぬかも    

(巻第二十 四四〇七

他田部子磐前 [おさたべの子いわさき])

現代語訳:

ひなくもり(碓氷を導く枕詞)碓氷の坂を越える時は、
国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。

碓氷峠越えの別れの恋歌。

■ 『夢のホテル (2008年5月8日)』より

私が室生 犀星(むろう さいせい) のことを書いたからって
無理に調べなくって いいのですよ。
私も作品を全部読んだわけでは 無いのです。
長女の室生 朝子さんは やはり子供のころ
軽井沢で過ごしたらしく
細かく 様子が書いてあったのです。

お手伝いさんがいたものの、
洋風かぶれしたのが嫌いな父・犀星に厳しく育てられて、
父(肺癌)を見送るまでの事、
いろんな作家との 交流 が書いてありました。
きっと デンマンさんには 面倒な本ですから
記事で取り上げなくてイイですよ、

室生犀星のことは、いつか書いてみたいと思っていました。
僕にもちょっとした思い出がありますよう。
その事を含めて、万葉集の歴史編の後に書こうと思っています。

昭和25年ごろの手書きのマップを見つけ
コピーして 今大切に見てます。
大きくして額に入れようかな~ 

本当に 雲場池のところに ニュー グランドホテル
と書いてあった。
1度見てみたい 竈岩(かまどいわ)
白人はジャイアントチェアー と呼んでいたらしい。
南のプリンススキー場の裏側なので 見たこと無いです
ごめん ごめん 私の事ばかり

うん、うん、うん。。。
小百合さんの事を、もっともっと書いてくれてもいいよう。

お母さんは 封筒の宛先は どうやって 書いてるの?
封筒だけ デンマンさんが たくさん書いて おいてきたりするの?

弟が書いてやっているようですよう。
僕は書いた事が無い。

私 今月末と思ったら 10月末 よね。
ネットカフェ・コンコルドであわてて デンマンさんの旅程表を見たから
勘違いしてました。
あと1ヶ月ですね。

まだ1ヶ月以上ありますよう。
でも、1ヶ月なんてすぐに経ってしまいますからね。

僕は1ヶ月分の記事を用意しなければならないので、
この1ヶ月間は大変です。

これ SUBMIT できるかな
何だか お気に入りが減ってるし、マウスはどっか
無くなってるし やりずらいなー

これが 現実の世界ですよ、今日も次男坊と
喧嘩がはじまりそうー。

では 今日も洗たく 掃除...
今から始めます。

では、また。。。

小百合より

そうですよう。そうですよう。
軽井沢は、小百合さんにとって“今一つの世界”なのですよう。

日常茶飯事から開放されて、小百合さんの“夢とロマンの生活”を軽井沢に求めているのですよう。
つまり、それこそ小百合さんの“女の世界”です。
デンマンの“ロマンポルノ天国”と重なると思うのですよう!
うしししし。。。

行田で元気に再会しましょうね。
“恍惚のハグ”を楽しみにしていますよう!
じゃあね。


投稿日時: 2008/09/22 07:16 (ロンドン時間)
日本時間: 9月22日 午後3時16分
バンクーバー時間: 9月21日 午後11時16分

『帰省スレッド』より
ロンドンの“ビーバーランド e-XOOPS”

デンマンさん。。。小百合さんに会えるのを楽しみにしているのでござ~♪~ますか?

もちろんですよう。1年ぶりですからね。

あたくしとも1年ぶりでござ~♪~ますわ。

そうですよう。卑弥子さんに会えるのも楽しみにしているのですよう。うしししし。。。

あたくしは、ほんの付け足しみたいなものでござ~♪~ますわね?

やだなあああぁ~。。。そのように僻(ひが)まないでくださいよう。。。こうして1日おきに僕と卑弥子さんはウェブカムを通して顔を合わせているでしょう?

でも、あたくしを軽井沢には連れて行ってくださらないのでしょう?

また、その事ですかぁ~? その話を始めると『女帝の憎悪』と言う今日の話を、あさってに延ばさなければならないのですよう。

かまいませんわ。女帝のお話など聞かなくても死にませんから。。。

僕にだって予定があるのだから、そう言う訳にもゆきませんよう。その事については、この記事を書き終えてから話しますよう。それでいいでしょう?

分かりましたわ。。。んで、女帝ってどの女帝でござ~♪~ますか?

持統天皇ですよう。

柿本人麻呂が女帝天皇に憎悪されたのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。初めは、むしろ目をかけられていたのですよう。後世になってからも、人麻呂は持統天皇の愛人ではなかったのだろうか?そう思われるほど二人の関係は良好だった。

それがどうして悪化したのでござ~♪~ますか?

その謎を解くには、すでに触れた“泣血哀慟歌”をじっくりと読んでみる必要があるのですよう。

泣血哀慟歌

天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば

ねもころに 見まくほしけど

やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ

さねかづら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて

玉かきる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに

渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと

沖つ藻の なびきし妹は もみち葉の 過ぎていにきと

玉づさの 使ひの言へば あづさ弓 聲のみ聞きて

言はむすべ せむすべ知らに

聲のみを 聞きて有り得ねば

わが恋ふる 千重の一重も 慰むる 情もありやと

吾妹子が やまず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば

玉だすき 畝火の山に なく鳥の

音も聞こへず 玉ほこの 道行く人も

一人だに 似てし行かねば すべをなみ

妹が名よびて 袖ぞ振りつる

(万葉集 巻二 207番)  

【現代語訳】

空を飛ぶような 軽(かる)の路は 愛する人の 住む里だから

飽きるまで 見ていたいけど

絶えず行けば 人目が多く 何度も行けば 人に知られる 

サネカヅラのように 後も会おうと 大きな船の 心を頼りに

究極の 崖っぷちに立って こっそりと 恋してきたが

渡る日が 暮れて行くように 照る月が 雲に隠れるように

沖の藻みたいに 靡(なび)き合った君は 紅葉のように 散ってしまったと

玉(たま)に来る 使いが言うので 梓(あずさ)弓の音ばかりして

何を言うことも 何をすることも出来ず

音だけを 聞いてるわけにゆかず

恋い慕う心の 千に一つでも 慰める手はなかろうかと

愛する君が いつも来ていた軽の市場に 立って見たらば

宝石のたすきのような 畝火(うねび)の山に 鳴いてる鳥の 

声も聞こえず 美しい 道を行く人も

一人として 似てはいないので 仕方なく

君の名を呼んで 袖を振るのだ

 

これは愛する妻が亡くなって柿本人麻呂が血の涙を流して慟哭しながら読んだ歌だと言うのですよう。

柿本人麻呂さんは、とっても奥様思いだったのでござ~♪~ますわね。

卑弥子さんも、そう思いますか?

誰だってそう思いますわよう。

ほおォ~。。。珍しく卑弥子さんが涙を浮かべていますねぇ~

だってぇ~。。。この歌をじっくりと味わうと、本当に悲しくなりますわ。

そうでしょうか?

そうでしょうかって。。。デンマンさんだって、この歌を読んだからこそ1073番の歌を次のように解釈したのでござ~♪~ますわ。そうでしょう?

玉垂(たまだれ)の

小簾(をす)の間(ま)通し

ひとり居て

見る験(しるし)なき

夕月夜かも

詠み人知らず

万葉集 巻第七・1073

このような素晴しい月夜の晩に、

一人で簾の隙間から月を見ているが

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情があったのだ。

今更嘆いたとて、どうなるものでもないが。。。

それでも、あの人を思い出すと

慟哭せずには居られない。

『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より

デンマンさんだって、慟哭せずには居られない、と書いているではござ~♪~ませんか!?

それで。。。、それで、卑弥子さんは、もらい泣きをしているのですか?

そうでござ~♪~ますわ。とっても悲しゅうござ~♪~ますわア。

しかしねぇ~。。。考えてもみてくださいよう。愛している妻が亡くなった。。。なにも柿本人麻呂でなくても、愛している妻が亡くなって悲嘆にくれている人はたくさん居るのですよう。

つまり、柿本人麻呂の時代にだって、いとしい妻が亡くなって慟哭しながら歌を詠んだ男がたくさん居た、とデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。柿本人麻呂という男が、愛する妻が亡くなったと言うだけで、血の涙を流して慟哭すると言うのは、ちょっと女々しいと思いませんか?

それで、デンマンさんは、次のようなシモいエロい戯作を書きなぐったのでござ~♪~ますわね?

オマエ、いい年して、妻に先立たれて

それほど悲しいのかア~

いつまで涙にくれていたって

死んだ妻は戻ってこないんだよう。

そんなところでじっとしてないで

元気出したらどうなんだい?

オラ、オラぁ~

夜の街に出てナンパしに行けよう。ゴラぁ~~

デンマンさんは、愛している妻に先立たれた柿本人麻呂の心が全く分かっていないようでござ~♪~ますわねえ~。

分かっていますよう。

それならば、上のようなふざけた事は書けないはずでござ~♪~ますわ。

僕は、血の涙を流して慟哭しなければ居られない柿本人麻呂の心が分かるからこそ、こうして記事で取り上げているのですよう。

それなのに、谷岡ヤスジの漫画などを持ち出してきて、柿本人麻呂の歌に泥を塗るのでござ~♪~ますか?

違いますよう。柿本人麻呂は本当に無念な思いをしたのですよう。だから、後世にその当時の事情を書き残したかった。でも、詳しい事を書いたなら、とても記録として後世に残らない。

どうしてでござ~♪~ますか?

持統天皇に握りつぶされてしまいますよう。そう言う訳で、愛(いと)しい妻が亡くなったことに託(たく)して無念な思いを書き記(しる)した。

それが“泣血哀慟歌”だ、とデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。

つまり、この歌には隠された意味が込められているとおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そうですよう。だから僕は1073番の歌の解釈で次のように書いたのですよう。

ああ~、愛(いと)しいあの人は、

もうこの世の人ではない。

あのように儚(はかな)く

逝(い)ってしまうのであれば、

もう少し足しげく通って、

優しい言葉をかけてあげたかった。

でも、そうできない事情があったのだ。

つまり、この事情を後世の人に伝えたくて、柿本人麻呂は“泣血哀慟歌”を詠んだとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

その通りですよう。血の涙を流して慟哭する、という事は愛する妻が一人死んだぐらいでは、できない事ですよう。どう考えても、ちょっとオーバーだと思いませんか?

。。。んで、その事情って、一体どういうものでござ~♪~ますか?

まず、歌の中の女性が誰なのか?そこから説明する必要があります。

柿本人麻呂の奥さんのことでござ~♪~ますか?

そうですよう。でも、この当時の奥さんというのは一緒に暮らしている訳ではなかったのですよう。ジューンさんが次のように書いていましたよう。読んでみてください。

妻問婚

こんにちは。ジューンです。

奈良時代や平安時代の

男女の恋愛物語を読んでいて

不思議に思うのは結婚の形態です。

わたしには、ちょっと理解できません。

「妻問婚」というのですよね。

男と女は同居せずに男が女の家を訪れて

一夜を共にする形をとっていたのです。

当時は現在のように結婚相手は

ひとりという制約もなかったそうです。

生まれてきた子度は妻の家で育てるのですって。

男は養育費も入れなかったのですって。

ちょっと常識では考えられないですよね。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。

『万葉集の謎 (2008年9月23日)』より

分かりましたわ。。。んで、その女性というのは一体どのような人だったのでござ~♪~ますか?

この女性は歌に詠われているように“軽の里”に住んでいたのだけれど、柿本人麻呂と同様に持統天皇に仕えていたのですよう。

それで知り合って愛するようになったのでござ~♪~ますか?

そうです。この二人が歌のやり取りをしていただろう、と言う事を思わせる人麻呂の歌が万葉集にも載っているのですよう。

皇祖(すめろき)の神の御門(みかど)を懼(かしこ)みと侍従(さもら)ふ時に逢える君かも
(巻11-2508)

真祖鏡(まそかがみ)見とも言わめや玉かぎる石垣淵の隠(こも)りたる妻
(巻11-2509)

そうですわね。“玉かぎる石垣淵”は人麻呂の長歌にも出て参りますわ。つまり、人目を忍ばねばならなかったと言うのは、持統天皇の目を気にしながら柿本人麻呂は、その“軽の里”の女性と会っていたと言うのでござ~♪~ますか?

そうですよう。やがて人麻呂は、使いのものから、その女性の突然の死を聞く事になるのですよう。なんとなく謎めいていませんか?

もしかして、この女性は持統天皇の手が伸びて毒を盛られたとか。。。?デンマンさんは、そのように思っているのでござ~♪~ますか?

考えられる事ですよう。持統天皇は目的のためならば手段を選びませんからね。大津皇子を死に追いやったのも持統天皇の冷酷な一面があるからですよう。次の記事を読むと良く分かりますよう。

■ 『愛と陰謀 (2008年2月27日)』

この女性は文武天皇と関係のある女性ではないのか。。。?そう言う人も居るのですよう。

どうしてでござ~♪~ますか?

文武天皇は、草壁皇子の嫡子の軽皇子です。つまり、持統天皇の孫です。当時、皇子の名前は生育地から付けられることが多かった。

つまり、“軽の里”で育てられたので軽皇子でござ~♪~ますか?

そうです。人麻呂の長歌に出てくる女性も、この“軽の里”に住んでいた。

軽皇子と長歌の中に出てくる女性は同郷なのでござ~♪~ますわね?

そうなのですよう。それで軽皇子が、宮廷に出仕していた年上の同郷のその女性に恋をした。そう考えるのですよう。でも、その女性が恋していたのは「宮廷詩人」として持統天皇に仕えていた人麻呂だった。

それは事実なのでござ~♪~ますか?

充分に考えられる事なのです。持統女帝は690年に紀伊白浜に行幸している。692年には、伊勢に行幸している。この期間に、人麻呂と軽の里の女性は出会い関係を深めていった。そして人麻呂は盛(さか)んに儀礼歌を詠んだ。

この二人は相思相愛の仲になったのですね。でも、軽皇子は、この女性に恋をしたということでござ~♪~ますか?それが持統天皇に知れる事となり、人麻呂は持統天皇の目を気にしながら女性に会いに行くようになったと。。。?

そう考える人が居るのですよう。確かに、このように考えると面白い。

でも、無理があるのでござ~♪~ますか?

この女性が死亡したのは大宝元年(701年)頃の事らしい。その当時、人麻呂は55才くらいだった。軽皇子(後の文武天皇)は19才です。その女性は25才から30才ぐらいだったと考えられるのですよう。

それで。。。?

軽皇子が立太子したのが文武元年(697年)で15才のときだから、軽皇子が“軽の里の女性”に出会ったのは、その後の事と考えられる。人麻呂がこの女性と出会ったのは持統四年(690年)と言われているのですよう。その時、軽皇子はたったの8才です。だから、皇子がその女性に恋をして妻にする事は到底考えられないと言う訳ですよう。

。。。つうことわあああぁ~。。。人麻呂が“軽の里の女性”に会うのに持統天皇の目を気にしなくても良い訳でござ~♪~ますわね。でも、なぜ人麻呂は持統天皇の目を気にしていたのでござ~♪~ますか?

柿本人麻呂と持統女帝との間には恋愛関係があったとの説もあのですよう。つまり、それ程、持統天皇は人麻呂を贔屓(ひいき)にしていたらしい。要するに目をかけてやっていたのですよう。

それで、人麻呂は女帝の目を気にして、足しげく女性のもとに通う事ができなかったとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか?

そのような事があったのかもしれませんよう。でも、その女性が亡くなった時に、その事を理由に男が慟哭すると言うのでは、な~んかイマイチ男らしくないですよね。卑弥子さんも、そう思いませんか?

つまり、もっともっと悲劇的な事があったとデンマンさんはおっしゃるのですか?

そうですよう。

それって、いったい何でござ~♪~ますか?

ちょっと。。。また、この記事が長くなりすぎましたよゥ。その悲劇を話し始めると、収拾が付かないくらい長くなるので、またあさって、この続きを話しますよう。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
また、お預けですわよう。んも~~
デンマンさんの記事は、前置きが長いのですわよう。
あなただって、そう思うでしょう?

とにかく、あさって面白くなりそうでござ~♪~ますわ。
その悲劇って、どのようなものなのでしょうか?

あなたも、どうか、読みに戻って来てくださいましね。
じゃあ、また。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

今日は興味深い歴史のお話をします。

乙巳の変(いっしのへん)から

4年後の649年3月の事です。

当時、右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が

謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が

中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりでした。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして

助けを求めたのですけれど、

聞き入れてもらえなかったのです。

中大兄皇子と石川麻呂は

政治的に意見が対立していたので

中大兄皇子はさっそく兵を

石川麻呂の邸宅に向かわせたのです。

危険を察した石川麻呂は

飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていました。

しかし、その山田寺もやがて包囲され、

石川麻呂は観念して妻と共に自害したのです。

しかし、事件はそれだけではすみませんでした。

やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った

遠智娘(おちのいらつめ)は

半狂乱の状態になってしまったのです。

無実の罪を着せられて、夫に父親を殺された。

そう思い込んでいる遠智娘は、

身重な体を抱えながら

心が晴れないままに日を送ったのでした。

“父親殺害者”の子を宿していたのです。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”

そう言って満4才の女児に言い残して

20代半ばの短い人生に終わりを告げて

遠智娘は命を絶ってしまったのでした。

後に、中大兄皇子は

義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、

死に追いやった事を後悔したそうです。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。

男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べば

それが結婚となり夫婦になるわけです。

男はその家にとどまることなく

自由に女の家を出て自分の家に帰り、

女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、

父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。

その子供の養育費はすべて女性任せで、

子供は女性の実家で養育される事になります。

当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、

母方の祖父母への愛着が深くなります。

優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、

そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。

満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、

やがて自分の父親が祖父母と母の三人を

“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。

しかも、父親の陰謀がその背景にあったのです。

その衝撃はトラウマになって、

その後の童女の人格形成に大きな影響を与えた事は

想像に難(かた)くありません。

その時の4才の女児こそ、後の持統天皇になる

讚良(さらら)皇女だったのです。

ところで、英語の面白いお話を集めました。

時間があったら覗いてみてくださいね。

■ 『あなたのための愉快で面白い英語』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


 





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