弘法にも筆の誤り
(こうぼうにもふでのあやまり)
いかに優れた人物でも、時には間違えることがあるというたとえ。
弘法大師(空海)のような書の名人でも、時には文字を書き誤ることもあるということから。
似たような諺に次のようなものがあります。
- 孔子(くじ)の倒れ
- 麒麟の躓き (きりんのつまずき)
- 上手の手から水が漏る
- 猿も木から落ちる
この諺をもじった川柳に次のようなものがあります。
「弘法は点を打たれて点を打ち」
Even Homer sometimes nods.
ホーマーさえ時には居眠りをする。
There is no wise man without fault.
どんな賢い人でも間違いをすることがある。
Nobody is faultless, nothing is perfect.
どんな人でも間違いをすることがあるし、どんな物でも欠点がないということは無い。
弘法筆を選ばず
(こうぼうふでをえらばず)
名人・達人などと呼ばれる人は、道具のよしあしなど、全く問題にしない。
書聖と呼ばれた弘法大師は、筆のよしあしを選ばずに常に立派な文字を書いたことから。
これと似た諺に次のものがあります。
この諺と正反対のものには次のようなものがあります。
「下手の道具調べ」
A bad workman quarrels with his tools.
下手な職人は道具に文句をつける。
蝙蝠も鳥のうち
(こうもりもとりのうち)
取るに足らないものでも仲間には違いないということ。また、取るに足りない、つまらない人物が優れた人々の中に入り混じっていることのたとえ。
蝙蝠はもちろん哺乳類で鳥ではないが、飛ぶということからすれば鳥の仲間に入るから。
この諺と似たものに次のものがあります。
「田作りも魚のうち」
If you call any flying creature a bird, the bat may belong to the bird.
飛ぶものが何でも鳥ならば、蝙蝠も鳥といえる。
There is often the look of an angel on the Devil himself.
悪魔はしばしば天子の姿で現れる。
A wolf in the flock of sheep
羊の群れの中の狼。
同じような諺のように見えても。。。
皆さんは私が「パンツ」と言うと笑いますが。。。
日本で英会話を勉強する時にアメリカ人や英国人の先生について学ぶということは今では珍しいことではありませんが、
私が学生の頃は、キリスト教会が運営している私立の学校にでも入らない限り、ネイティヴ・スピーカーの先生について学ぶということは皆無でした。
そんなわけで、私は大学に入るまでアメリカ人と話したことがありません。
私が大学に入学したのは昭和43年でしたが、4年間に外国人の先生について勉強したのはたったの一講義だけでした。
英会話です。それも教養部一年の時だけです。しかも、その先生は、近くのキリスト教系の私立大学の先生で、講師として、その時間だけ教室に姿を見せるのでした。
この先生は非常にユニークな先生で、私の大学時代に個人的に話したことのある数少ない先生のうちの一人です。教え方も独自な教育方法を持っていて、
実に印象的な先生でした。クラスメートと一緒に、お宅に遊びに行ってご馳走になったこともあるくらいなのに、名前をすっかり忘れてしまっているんです。
年のせいでもないと思うのですが、どうしても思い出せません。
この先生が、ある雨の日に、いつものようにスクーターに乗って教室へやってきたのです。
「いやアー、よく降りますねェー」
20年近く日本に住んでいましたから、日本語はかなりうまかったです。200人の学生を前にして話し始めたわけです。
おそらく、ほとんどの学生が外国人の先生について英会話を勉強することなど無かったでしょうから、誰でも考えることは一緒なんだと思いました。
そんなわけで、この講義は人気があって、たいてい満員でした。
「ほら、このとおりですよ」 ズボンのすそに手をかけるようにして、先生は言いました。
「パンツ、ビショビショですヨ」
そこでみんながドッと笑ったわけです。
先生は、その時ちょっとキョトンとしたようでもあり、ハッとしたようでもあり、一瞬教室を見渡すようにして、上の言葉を言ったわけなのです。
「皆さんは笑いますが、“pants”というのは日本で言うズボンのことなんです。
日本で言うパンツというのは英語では“underpants”です」
話は変わりますが、社会人になって3年ほど経ってから、カナダのトロントで暮らすようになり、ある日帰りがけにタバコ屋の看板に
“tobacco for sale at half price!” という貼り紙を目にしたのです。もう禁煙してから20年ほど経ちますが、
当時は一日に一箱半ぐらい吸っていましたから、これは買いだめしなけりゃ損だと思って、私のお気に入りブランドを出来るだけ買い込んでレジへ持って行ったわけです。
しかし半額どころか、全く割引されていません。「なぜ半額ではないのか?看板の貼り紙はすでに期限切れということなのか?」と詰め寄ったわけです。
そしたら何と答えたと思いますか?
「お前の買ったのは “cigarette” で “tobacco” ではない」と、言うのです。つまり、貼り紙にある文字通りに “tobacco”
だけが半額だというわけでした。
中学校の英語の先生は “cigarette” も “tobacco” も同じような物だと言っていたので、
私は、この2つの単語は同じものだと思い込んでいたわけです。しかし、これは見かけ上、全く違うものだったのです。
つまり、“cigarette” というのは紙巻きタバコなんですね。 “tobacco”は刻みタバコで、紙に巻かれていなくて、袋に入っています。
北米では、節約するために、刻みタバコを買って、自分で紙で巻いて吸う人が結構居ます。
というわけで、同じようなものでも、微妙な違いを知っておかないと、思わぬ失敗をするわけです。諺もしかりです。
上の3つの英語の諺は、それぞれ微妙に違いますから、文章に書く時はその状況に合ったものを選んで書かないと、私がタバコを買った時のような失敗をしかねません。
念のため。
日本語で「パンツ」と言う場合には、たいてい男物のブリーフかボクサー・ショーツを意味しますが、昭和40年代の頃は、
女性が人前で「パンティー」というのを憚(はばか)ったためか(?)、パンティーの意味で「パンツ」と言う女性がかなり居ました。
最近はどうなっているのでしょうか?
ところで、女性がいつ頃から下着を身に着け始めたか知っていますか?興味のある人はこのページ
(パンティーはいつ頃から
穿くようになったの?) を見てください。 新しいウィンドーが開きます。
紺屋の明後日
(こうやのあさって)
当てにならない約束のたとえ。
「紺屋」は「こんや」の転音で、染物屋やのこと。染物屋の仕事は天候しだいだったので、客の催促に「明後日になれば染め上がります」
と言い訳するものの、その約束が当てにならないのが通り相場だったことから。
この諺と似たものに次のものがあります。
「医者の只今(ただいま)」
この諺をもじった川柳に次のものがあります。
「あさってと言わぬ紺屋は哀れなり」 (注文が少ないから)
One of those days is none of those days.
そのうちという日はない。
紺屋の白袴
(こうやのしろばかま)
仕事や他人のことで忙しく、簡単にできるのにもかかわらず、自分のことなるとものぐさになったり、自分のことをする暇が無いたとえ。
染物屋が忙しくて、自分の袴を染める暇が無くて、白い袴のままでいることから。
これと似た諺に次のものがあります。
The tailor’s wife is worst clad.
仕立屋の妻の服が最低。
甲由田申は筆者の誤り、十点千字は継母の謀
(こうゆでんしんはひっしゃのあやまり、じつてんせんじはけいぼのはかりごと)
数字を書くときには十分注意しろということ。
甲・由・田・申などの文字は、書き誤っても単に書き間違いですむが、十に点を付け加えて、千にする事は、
継母が継子にするような悪意に満ちた謀だと、とられてしまうということから。
Writing will as bill may be a simple mistake, but adding another zero to 100 is an ill will on purpose.
“will” を “bill” とうっかりして書くことはあるかもしれないが、“100” の後にもう一つゼロを加えることは悪意でわざとやることだ。