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分かっているようで分からない
歴史の中の不思議 パンティーはいつ頃から
穿くようになったの? by June Adams
August 16, 2003
こんにちは。 「まさか、そんなことないでしょう?今私たちが身につける物と変わりがないように見えるもん」 多分そんなふうに思っているんじゃありませんか? でも実際、私が身につけているのとほぼ同じ物を、古代ギリシャの女性は身につけたんです。後ほど証明いたします。 ダイアゾーマというのは腰布のことです。ストロフィオンはブラジャーのような胸を押さえるバンドです。 ダイアゾーマの「ダイア」というのは古代ギリシャ語の接頭語で、「くぐりぬける」、あるいは「通り抜ける」というような意味があります。 「ゾーマ」はバンドあるいは通路を意味します。そんなわけで、ダイアゾーマは「細い通路」あるいは古代ギリシャの野外劇場に見られる半円形を描くような通路 という意味もあります。ゾーマだけでも腰布を意味することもあります。 ストロフィオンは古代ギリシャ語の strephein という言葉から派生したものです。元々の意味は回転させる、まわす、ねじる、というような意味がありました。 簡単なストロフィオンには肩紐が付いていません。このスタイルのストロフィオンはローマ時代の絵画や、下に示すようなモザイクなどに描かれた女性が身に着けています。
体操場の3人娘
下帯・腰巻が下着の原型 腰布は下着の中でも最も単純なものです。恐らく人間によって初めて着用された下着でしょう。腰布には大きく分けて3つの種類があります。 そのうちの一つは長い三角形の布で出来上がっていて、それぞれのコーナーに紐か幅の狭い布地が縫い付けてあります。 この紐はウエストの回りにめぐらされて結びれます。布の一部は両足の間からそれを覆うように持ち上げられて腰紐に挟み込むか、そうでなければ腰紐に結び付けます。 別の種類は、スカートのようなもので、布地を腰の周りに巻きつけるように数回めぐらします。これを帯で留めるわけです。 暖かい気候では、腰布がただ一つの衣類ということになるかもしれません。その場合には下着とは言えないかもしれませんね。 しかし、寒い地域では、腰布は人の衣類のなかで基礎的なものになり、他の衣服によってカバーされることになります。 3つめは、長い一本の布地からなるもので、日本で「六尺」と呼ばれているものです。文字どうり、引き伸ばすと長さが6尺になるのでそう呼ばれます。 先ず、腰の周りにこの布地を巻き締め、それから両足の間を通して、最後に、初めに巻いてできた腰のバンドにたくし込むようにして留めます。 ほとんどの古代文明では、腰布が利用可能なただ一つの下着でした。実際、エジプトのファラオ・ツタンカーメンは145の腰布と共に埋葬されました。 腰布は今でも引き続き世界中で人々によって着用されています。事実、多くのアジアの社会では腰布は伝統的な下着でした、 古代社会の女性も腰布を身に着けていました。上に示されるように、古代のギリシアやローマの女性は、 胸を支えたり隠すためにブラジャーのようなものをしばしば着用していました。また、多くのローマの女性は現在の女性が着用しているパンティーのようなものを 身に着けていました。
古代ギリシャのビキニスタイル 西洋文明の他の多くの文化的要素のように、ブラジャーおよびパンティーの発明も古代のギリシア人にまで、さかのぼることができます。 しかし、証拠は驚くほど希薄です。古代の作家は、エロティック文学のなかでもめったにブラジャーやパンテーに類するものついて書いていません。 また古代の画家や彫刻家でさえ、女性を表現する時に上着を身に着けさせるか、あるいは全裸のどちらかです。
少数ながらもセミヌードの女性を描いたギリシアの芸術の実例から当時の下着を垣間見ることができます。 ラコニアン時代の後期(紀元前6世紀末)に作られたブロンズ像などを見ると少女がダイアゾーマだけを身に着けているものがあります。 ちょうど英国ヴィクトリア時代のズロースといった印象を受けます。 右の写真に写っているのは、紀元前540年頃に花瓶に描かれたアタランテ (Brauronian arktos ブラウロンの熊: ブラウロンで行われるアルテミスを祭る儀式に参加する女の子がこのように呼ばれました) です。詳しいことはこのページ (アタランテ) を見てください。伝えられるところによれば、 アタランテと呼ばれた人物は紀元前1500年頃生きていた人です。 運動競技のためにダイアゾーマとストロフィオンだけを身に着けています。 体操や運動でもしない限り古代ギリシャの女たちは、キトン(chiton)と呼ばれる緩めのガウン(tunic)だけを身に着けていたようです。 下に示した、エドガー・ドガの描いたスパルタの少年少女の絵を見ると、体操の時間に古代スパルタの少女が何を着用していたのかを垣間見ることができます。
『少年たちに挑むスパルタの少女たち』 エドガー・ドガ (1834-1917) しかしながら、スパルタの少女たちは、他のギリシアの女性とくらべ、慎ましやかの点で少し異なっていました。つまり、あまり慎ましくはなかったということです。 古代のギリシアでは、裸になるということは決して珍しいことではありませんでした。 しかし、上の絵の少年たちは スパルタの少女の服装をからかっています。「太腿を見せる女」、「腿を露出した女」、「ドーリア人のような服を着た女」と呼んで馬鹿にしています。 ドーリア人の女性は、スパルタの女たちのように肌をあらわにすることが多かったのです。
ドーリアン あるいは ドーリア人: 彼らの名前はギリシャ神話でヘレーネの息子であるドロス(Dorus)にちなんで名づけられました。 元々はエピルスの北西の山岳地方及びマケドニアの南西部に住んでいた民族で、紀元前1100年から950年にかけて アカイア人を破り南下し、ギリシア中部を通ってペロポンネソスへ移動してきました。 彼らは、急速にクレタ島まで影響を及ぼし、イタリア、シシリーおよび小アジアに植民地を築きました。 スパルタとクレタ島の社会には、典型的なドーリア人の支配の痕跡が多く残っていると一般的に考えられています。 どういうことかというと、ドーリア人は征服した人たちを奴隷にして、全く別の階層社会を作っていたのです。 ドーリア人の到着は、初期のギリシアの文化の混乱、および衰退の期間の始まりとなりました。 彼らの文化レベルはアカイア人より劣っていたのです。しかし、ドーリア人は決してギリシャ文化に貢献しなかったわけではありません。 ドラマ、詩、彫刻、そして建築などに貢献の跡が見られます。特にドーリア式と呼ばれるようになった巨大な石造建築にその名を留めています。 運動競技や体操をするときなど、スパルタの女性はこの緩やかなガウンを脱ぎ捨てて素っ裸になるのでした。
パンティー復活
フランス女性がパンティーを穿くようになったのは、ルネッサンス時代になってからでした。イタリアのメディチ家からフランス王家に嫁ぎ、 アンリ2世の王妃になったカトリーヌ・ド・メディチが取り入れた流行です。 自分のスマートなおみ足がご自慢だった彼女は、お上品ぶったご婦人たちの横ずわりというヤボな馬の乗り方にかわって、 『アマゾン式』という新しい乗り方を考え出したのです。左足を鐙にかけ、右足は折り曲げて鞍の前輪に乗せるという、けっこうイキな乗り方でした。 これだと馬を走らせるあいだ、彼女のみごとな脚線美がスカートの間からチラチラ見えるのです。男たちは大喜びで、 カトリーヌのふくらはぎに目が釘付けになって、狩りどころではなくなったということです。 このアマゾン式乗馬はたちまち大流行して、宮中の貴婦人たちがまねをするようになりました。 ところが困ったことが一つあったのです。この時代、まだ女たちはパンティーをはいていなかったので、スカートの下はすっぽんぽんでした。 ときにはスカートがまくれて、あらぬところが見えてしまいます。 そこで女性たちは、『カルソン』と呼ばれ、それまで男性専用のものだったパンツを、いわゆるパンティーとして身につけるようになったのです。 忽ちカルソンも宮廷の女性たちの間で大流行しました。 しかし、覗きの楽しみを奪われた男たちは、正直いっておもしろくありません。パンティーを穿くことを認めるかどうかの議論が、 約一ヶ月にわたって宮廷でまじめに戦わされたということです。
現代に見る女性下着観
近代社会では、女性の下着は日常の服装に欠かせない実用的なものになったと共に、男性の目の保養になるような対象としての意味を持つようになりました。 ブラジャーは特に本質的に女性だけが身に着けるもので、それがカバーする肉体の部分と関連して、さまざまな意味を持つようになりました。 乳房は授乳を象徴すると共に、エロチックな興味の中心的な意味合いを帯びるようにもなりました。 1960年代には、フェミニストは、男性のコントロールからの解放のシンボルとしてブラジャーを燃やしたものです。 しかし、1990年代になると、悪名高い “ハロー、ボーイズ” と呼ばれたワンダーブラジャーの宣伝広告が現れ、 女性の権利を取り戻す象徴的な意味でブラジャーを身に着けようと大いに宣伝したのでした。 これからは、より広範囲に社会情勢を反映させながらも、ブラジャーはパンティーと同様に女性の体の一部のようになってゆくでしょう。 身に着けなくなるというようなことは、もう、起こらないかもしれません。恐らく永久に。
下に面白そうなリンクを並べました。
ぜひ読んでください。
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