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禁忌の愛
by デンマン & レンゲ
2008年2月23日
卑弥子さんと業平さんの話を
でっち上げた根拠は 何でしょうか?
卑弥子さんとレンゲさんの楽しい対話を読ませてもらいました。 つまり、卑弥子さんと業平さんは一夜の契りを持たなかったことになります。 歴史バカにも分かりやすく説明してくれるとありがたいです。 by 歴史バカ 2008年2月17日午後7時21分
『女の秘め事 (2008年2月17日)』のコメント欄より
恬子(やすいこ)内親王の事は
書いてある!
『伊勢物語』の第69段の最後には、「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」と記されているのですよ。この斎宮になった妹は恬子内親王以外には居ないのです。 あらっ!ちゃんと書いてあるのですわね? レンゲさん、とぼけないでくださいよ。この資料はレンゲさんが持ち出してきたのですよ。 そうだったかしら? やだなあああぁ~。。。次の記事の中でレンゲさんと対話している時にレンゲさんが持ち出したのですよ。 もう1年以上も前の事ですわ。言われて思い出しましたけれど、すっかり忘れていましたわ。 とにかく、上の説明の中で最も重要な事は「藤原道長の時代に公けの場で語られ」たと言う事ですよ。 つまり、今風に言えば、国会、あるいは予算委員会の場で議論されたという事になるのですね? その通りですよ。公の場で語られるほどに、恬子(やすいこ)内親王が斎宮であった時に子供を身ごもった事実が公然の秘密になっていたと言う事ですよ。単なる御伽噺(おとぎばなし)やうわさを国会や予算委員会で取り上げたら、その国会議員は笑いものになってしまうでしょうね。その事を考えれば、「斎宮懐妊事件」は当時でも知る人ぞ知る「某重大事件」になっていた事が、このような資料から充分に理解できるのですよ。 つまり、デンマンさんは斎宮寮の記録は意図的に抹消された可能性があるとおっしゃるのですか? そうですよ。だから当時の記録には、在原業平(ありわらのなりひら)が狩の使で伊勢に派遣された事が記載されてないのですよ。 そうでしょうか? 記録が抹消されたにもかかわらず、なぜ恬子(やすいこ)内親王と在原業平の関係が伊勢物語の中で語られているのか? なぜですの? 語って世に伝えなければならないと考えた人が居たからですよ。 その人とは。。。?
デンマンさん。。。おとといは、これから盛り上がるところで。。。ちょうど良いところで終わってしまったのですわア。
うん、うん、うん。。。今日は、その続きを語ろうと思うのですよ。 。。。で、『伊勢物語』の編者は一体誰なのですか? レンゲさん。。。そう、あせらないでくださいよ。物事には順序と言うものがあるのですよ。 分かりますわ。でも、この際、順序なんかどうでもいいのですわ。あたしにだけ、こっそりと教えてくださいなぁ。 そう言う訳には行きませんよ。物事の順序どおりにやらないと、レンゲさんにだけ耳打ちしたところで、“まさかあああぁ~。。。それって、ないでしょう?”と言われてしまうのですよ。 デンマンさんのことですから、また、回りくどい説明になるのでしょう? でも、そうしないと、また“歴史バカ”さんのようなせっかちな人がコメントを書くのですよ。僕の話を最後まで読めば納得できるのに、良く読まないで、そのときの思いつきでコメントを書いてしまう。 コメントってそう言うものでしょう?その時に感じた事を書くのでしょう? そうですよ。しかし同じコメントでも、うっかりコメントと慎重コメントがありますよ。 “歴史バカ”さんのコメントはうっかりコメントなのですか? だって、そうでしょう。。。GOOGLEで、ちょっと調べれば、『伊勢物語』に出てくる斎宮は恬子(やすいこ)内親王だと書いてあるのですよ。 でも、「狩の使」が在原業平(ありわらのなりひら)さんだとは書かれていませんわ。 確かにそうです。でもねぇ、僕の話を最後まで読めば分かるのですよ。最後まで読まずにコメントを書いたから、うっかりコメントなんですよ。 分かりましたわ。時間がありませんわ。回りくどい説明を始めてくださいな。。。で、どこから始めるのですか? 恬子(やすいこ)内親王がなぜ斎宮に選ばれたのか?。。。ここから話を始めようと思うのですよ。 それって。。。占いで選ぶのでしょう? レンゲさんは良く知っていますねぇ~。そうなんですよう。では、そこのところを『ウィキペディア』で見てみますね。
恬子内親王(やすいこないしんのう)
生まれは848年頃 貞観元年(859年)、清和天皇の即位にともなって斎宮に卜定、 古典『伊勢物語』において、一説には書名の由来ともされる人物。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「卜定(ぼくじょう)」と言うのは、亀の甲羅(こうら)を火であぶって、ヒビ割れのしかたを見て占うものです。これによって誰を斎宮にするか選んだ。 この卜定に何か問題があるのですか? 全く無いとは言えないのですよう。 どう言う事ですか? 右大臣の藤原良相(よしみ)は、早くから恬子内親王を“危険人物”だと見ていたようですよ。 “危険人物”って、どう言う事ですか? この藤原良相の経歴を読むと分かりますよ。
藤原良相(よしみ)
弘仁4年(813年)に生まれる。 834年(承和元年)に蔵人になる。 清和天皇に娘の多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かったことから、政権の首座にあった兄良房からは常に警戒される存在であった。 今昔物語集に収録された説話の中では、一旦病を得て死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えらるが、小野篁(おののたかむら)の執り成しによって赦され冥界から帰還した、と記されている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 藤原良相は自分の娘を清和天皇に差し出したのですよ。つまり、娘が天皇の子供を身ごもって男の子が生まれれば、自分は外祖父として権力が握れる。そう言う考えを持っていた。だから、時の権力者だった兄の藤原良房からは常に警戒される存在だったのですよ。 でも、その事と恬子内親王と、どのような関係があるのですか? やだなあああぁ~。。。惚(とぼ)けないでくださいよ。知能指数が140もあるレンゲさんに分からないはずが無いでしょう?藤原良相の目から見れば恬子内親王は自分の娘のライバルですよ。 つまり、藤原良相は自分の娘を天皇に嫁がせるために、できるだけ候補者を少なくしようとしたと。。。 そうですよ。そのためには美しくて聡明で将来娘のライバルとなるような娘は都から遠ざけるに限るのですよ。それで、藤原良相は恬子内親王を斎宮として伊勢へ閉じ込めてしまったのですよ。。。上の経歴を読むと、そう考えるのがごく自然ですよ。 それはデンマンさんの個人的な見解だと思いますわ。 分かりました。では、僕の個人的な見解ではない事を語りましょう。 どう言う事ですか? 上の経歴を読むと不自然な事が書いてあるのですよ。 不自然な事ですか? そうですよ。 貞観8年(866年)2月、
母親の静子更衣が亡くなるも
退下の宣勅は下りず 慣例では、母親が亡くなった場合には斎宮は勤めを辞める事ができたのですよ。それが慣(なら)わしだった。実際の例を次に書きますよ。
徽子女王(よしこじょおう)
延長7年(929年)に誕生。 承平6年(936年)、時の斎宮斉子内親王(醍醐天皇皇女)の急逝により、8歳で伊勢斎宮に選ばれる。 天暦2年(948年)、叔父村上天皇に請われて20歳で入内し、同3年(949年)女御の宣旨を受ける。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 天皇の娘ならば“内親王”と呼ばれるのだけれど、この女性は醍醐天皇の娘ではなく孫娘だった。それで女王と呼ばれているのです。この女性の経歴を見れば分かるように「母の死により17歳で退下」と書いてあります。これが慣(なら)わしだったのですよ。 なぜ、恬子内親王はお母さんが亡くなったのに斎宮を辞める事ができなかったのですか? だから、藤原良相が辞めさせなかったのですよ。 なぜ。。。? 徽子女王の経歴を見てくださいよ。お母さんが亡くなったので17歳で斎宮を辞めて京に戻ったのですよ。すると、叔父の村上天皇に請われて20才で入内した、と書いてある。つまり、村上天皇の妻の一人になったのですよ。 お母さんが亡くなった時、恬子内親王は18才ですよね?。。。と言う事は、恬子内親王が斎宮を辞めた場合、天皇が内親王を妻の一人として招くかもしれない。藤原良相は、その事を心配して恬子内親王を斎宮のままにしておいたのですか? その通りですよ。とにかく藤原氏以外の女性に天皇が子を産ませる事を藤原氏は極力避けていたのですよ。恬子内親王は紀氏出身ですからね。 つまり、紀氏は藤原氏のライバルだったのですか? そうですよ。この当時、紀氏の中から優秀な人が出始めていたのですよ。 紀氏を退けようとする動きが実際にあったのですか? あったのですよ。「応天門の変」と言う政治事件があったのですよ。
応天門の変
応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。 大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣・源信(みなもとのまこと)と不仲であった。 応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言で無罪となった。 藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣・源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。 参議・藤原基経(もとつね)がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。 朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。 この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 この事件は結局、藤原良房に“漁夫の利”をもたらす事になったのですよ。伴氏・紀氏ばかりか、ライバルの藤原良相を退(しりぞ)ける事もできた。また、そうなるように藤原基経(もとつね)が裏で動いていたのが見えてきますよ。結果として藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功したのですよ。 『伊勢物語』の中に登場する藤原高子(たかいこ)の兄がこの藤原基経ですか? そうですよ。在原業平と藤原高子が駆け落ちするのですよ。その妹を連れ戻しに来るのが兄であるこの藤原基経ですよ。つまり、この基経は政略・陰謀に長(た)けていて裏で動き回るだけでなく、恋路(こいじ)の邪魔をする男としても伊勢物語の中に書かれてしまっているのですよ。 でも、この「応天門の変」と恬子内親王は関係があるのですか? なさそうに見えるでしょう?。。。ところが、関係があるのですよ。この事件に連座して処分を受けた紀夏井(きのなつい)を調べると次のような事が分かるのですよ。
紀夏井(きのなつい)
生没年未詳。 862年(貞観4)、任期満了の処、讃岐国百姓等の懇望により讃岐守を2年延任。 土佐国へ護送中、肥後国百姓等は肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで付き随い別れを惜しんだという。
【逸話】
紀夏井が讃岐守の任期を終えて二十余年後に、菅原道真が讃岐守として赴任するが、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘却していなかったため、道真は紀夏井と比較され国政運営で難渋したという。 中央・地方を問わず人望のあった彼の失脚は、武内宿禰(たけのうちのすくね)以来の名家である紀氏(きし)の政界における没落を決定的なものとした。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 どのように読んでも、この紀夏井と言う人物は素晴しい人なんですよね。この人は事件とは全く関係ないのですよ。でも、異母弟の紀豊城(きのとよき)が首謀者の一人として逮捕されたために、血のつながりがあると言うだけで逮捕されてしまった。つまり、有能な人物を退けるための口実ですよ。紀夏井が凡人でアホだったら逮捕される事は無かったでしょう。 そうでしょうか?いくらなんでも、藤原氏がそれ程ひどい事はしないと思いますが。。。 現代人にはそう思えるかもしれないけれど、この当時は、そうすることがむしろ常識だったのですよ。 でも、人には良心があるでしょう? その当時の良心とは、家系を守ると言うことに尽きたのですよ。なにしろ藤原氏にはバイブルが伝わっていますからね。 なんですの?。。。そのバイブルって。。。? ここで書くと長くなるので次のリンクをクリックして読んでみてくださいね。 ■ 『あなたもビックリ、マキアベリもビックリの藤原氏のバイブルとは。。。?』 でも、これほど酷(ひど)いのでしょうか? それが、この当時の藤原氏の常識ですよ。だからこそ、上のような事件が起きるのですよ。陰謀が渦を巻いている。その渦の中心に藤原基経がいた。。。。で、漁夫の利を得るのが父親の藤原良房ですよ。僕はこのように見ているのですよ。 紀夏井と言う人は、確かに素晴しい人だったようですよね。でも、同じ紀氏出身と言えども恬子内親王は皇族ですよね。内親王の身の回りでは、そのような理不尽な処分を受けた人は居ないのでしょう? それが居るのですよ。 誰ですか? 恬子内親王の妹に、上の経歴の中にも書いてあるけれど、珍子(よしこ)内親王という女性が居るのですよ。この女性は恬子内親王が29才の時に無品で亡くなっているのですよ。 無品ってどう言う事ですか? つまり、官位を与えてもらえなかったのですよ。 それって重要なものですか? 重要なものだったのですよ。今だって“あの人は品の無い人だ”という言い方があるでしょう? レンゲさんだって“品の無い女だ!”なんて言われたくないでしょう? もちろんですわ。 この“品”と言うのは官位の“品”から派生したのですよ。あの聖徳太子が制定したと言う官位ですよ。平安時代になると臣下の場合には正一位とか従五位のように呼ばれたものなのですよ。でも、皇族の場合には一品(いっぽん)、二品(にほん)、三品(さんぽん)、四品(しほん)と呼ばれた。 それで、品が無いままで亡くなるのは異常な事ですの? かなり異常ですよ。ちょっと、次の事件を読んでみてください。
神護景雲3(769)年5月の
巫蠱(ふこ)事件
この事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王(ふわないしんのう)のもとで氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅(ふこえんみ)を行った。 姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。 実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。 不破内親王というのはあの有名な道鏡と肉体関係を持ったのではないか?と疑われている称徳女帝の腹違いの妹です。この妹が姉を逆恨みして起こした事件と言うのが真相のようです。しかし、この不破内親王は“台所で働く下女”と言う汚名まで着せられたのに、41才の時に親王位としては最低の四品をもらっているのです。 でも、恬子内親王の妹の珍子(よしこ)内親王はもらってないのですか? 何も悪い事をしていなかったのに、母親が紀氏出身だったのでもらえなかったのですよ。文字通り“品が無い女”として死んでいったのですよ。 でも、死後に追贈する事ができるでしょう? 担当の者が追贈すると、時の権力者に睨まれてしまうから、珍子(よしこ)内親王に四品を追贈したくてもできなかったのでしょうね。応天門の変では、何の罪も無い紀夏井までが、ただ紀氏の血縁だったと言うだけで官職を解かれて刑罰に服したのですからね。。。 つまり、紀氏に同情する者や組する者は徹底的に排除されたのですね? そうですよ。紀氏の中には珍子(よしこ)内親王や紀夏井を含めて、恨みを呑んで死んでいった者がたくさん居るのですよ。 つまり、そのような人たちが怨霊になって祟(たた)りを引き起こすと思われたのですね?
怨霊信仰
非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、 原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀(まつ)られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。 『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。 しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。 その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」 SOURCE: 国史大辞典 その通りですよ。だから、怨みをのんで死んだ者の霊をその子孫が祀って御霊(みたま)を鎮(しず)めてあげなければならないのですよ。 つまり。。。つまり。。。そのようにして紀氏の怨霊の御霊(みたま)を鎮(しず)めた人が『伊勢物語』を編集したとデンマンさんはおっしゃるのですか? そうですよ。『伊勢物語』には紀氏との関わりの多い人物が多く登場していますよ。在原業平(ありわらのなりひら)は紀有常(実名で登場)の娘を妻としています。その有常の父・紀名虎の娘(紀静子)が惟喬親王と恬子内親王と珍子(よしこ)内親王を産んでいます。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されているのですよ。 なぜですか? つまり、藤原氏との政争に敗れた事を強調しているのですよ。それにもかかわらず、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているのです。それが『伊勢物語』ですよ。 つまり、編者は紀氏の一員なのですね? そうですよ。紀氏の子孫が怨みをのんで死んだ一族の霊を祀ったのが『伊勢物語』だと僕は考えているのですよ。ここまで言えば、その編者が誰だかレンゲさんにも分かるでしょう? もしかして。。。もしかして。。。紀氏の一員で有名な人と言えば。。。あのォ~。。。紀貫之(きのつらゆき)ですか? さすが、レンゲさんですねぇ~。。。僕もそのつもりで話を進めてきたのですよう。
【レンゲの独り言】
う~~ん。。。 でも、どうして在原業平さんではないのでしょうか? あなたも、どうか、この話の続きを期待して では。。。
メチャ面白い、
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■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
こんにちは。ジューンです。
「怨霊」と言う言葉を最近日本の本を読むと
見かけることがありますよね。
怨霊を英語で何と訳すのか?
わたしもずいぶんと調べてみましたけれど、
そのものズバリの訳は無いようですよね。
ghost と訳しているのを見かけましたが、
ghost とは、どちらかと言えば“お化け”ですよね。
「霊魂」で調べてみると、
Geist とか
ba 《古代エジプト》〔人頭の鳥。霊魂の象徴。〕
が出てきます。
soul と言う訳も見かけます。
この soul は人の死後も存在する、
肉体から分離して存在できると考えられている、
人の霊的存在のことです。
そうであるならば、
soul in animosity はどうでしょうか?
つまり、「怨霊」とは、
恨みの中に沈んでいる霊魂ではないでしょうか?
animosity には次のような意味があります。
敵意、悪意、強い憎しみ、恨み、憎悪、敵対意識。
ところで、これまで書いたレンゲさんの記事を集めて
デンマンさんが一つにまとめました。
もし、レンゲさんの記事をまとめて読みたいならば、
次のリンクをクリックしてくださいね。
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしてくださいね。
じゃあね。
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