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好ましい批判
2009年5月12日

あなたは狙われている!

豚インフルエンザに気をつけてね。

デンマンさん。。。、今日も漢字馬鹿さんの愚かな批判を取り上げるのですか?

いや、いや。。。、そうではありません。漢字馬鹿の愚かさを晒すのが目的ではないのですよう。でも、漢字馬鹿の事を取り上げないと、何が好ましい批判なのか?それが分からないから、どうしても反面教師として漢字馬鹿を取り上げざるをえないのですよう。

そのように反面教師にされてデンマンさんに利用されるのがイヤなので、漢字馬鹿さんは、めれんげさんの『即興の詩』サイトにコメントを書くことを止めてしまったのですわね?

そうですよう。漢字馬鹿が“アザイゲ”と“なつみ”君に成りすまして、次のような愚かなコメントを書いたことを僕にすっかり暴(あば)かれてしまったのですからね。やりにくくなったのだろうし。。。何よりも、絶対分からないと思ってやったから、漢字馬鹿も少しは自分の愚かさが分かったのですよう。

頭は固いがチ○コは柔い粘着自演ジジイなんか相手にするなよ。

言いたい事があるなら

レンゲのフォーラムに来るんだYO!!

って言われんぞ。

アザイゲ

2009/04/14 4:15 PM

『即興の詩 青空』のコメント欄より

めれんげさん、はじめまして。
気になることがあって、コメントいたします。

2月12日の記事(裏切りはやさしく)で、
(心の恋人)と名乗っておられる方のコメントに、
差別用語が含まれていることに、気づいていますか?
それは、障害を持つ方を、意味する言葉です。

インターネットを利用して、差別用語を書くことは、
テレビなどで、差別的発言をすることと同様です。
あのようなコメントを、放置しておくべきではないと思います。

発言された方は、ご年配の方なのでしょうか。
相当、古い感覚を、お持ちなのでしょうか。
現代的感覚と、知識を持っている人間ならば、
公共の場、不特定多数の相手の面前で、
あのような言葉を吐くことなど、ありえません。

言葉狩りをするつもりはありませんが、
他人(めれんげさん)のブログに、コメントするのであれば、
最低限のマナーと常識を持つのが当然だと考えます。

めれんげさんは、当該の発言者を野放しにせず、
アクセスを制限すべきではないでしょうか。

長文失礼いたしました。

なつみ

2009/04/14 3:56 PM


『即興の詩 青空』のコメント欄より

『未熟な判断と稚拙な批判 (2009年4月22日)』に掲載。

上の2つのコメントはマジで漢字馬鹿さんが書いたのですか?

僕は大真面目ですよう。「なつみ」と名乗っているけれど、実は、漢字馬鹿が成りすましている訳で、「アザイゲ」と同一人物ですよう。

信じられませんわ。

これが「2ちゃんねるシンドローム」ですよう。うしししし。。。2ちゃんねるにハマッてしまうと成りすます事など何とも思わなくなってしまう。「言葉狩りをするつもりはありませんが」と言いながら、言葉狩りをしている。しかも、そう書いている本人が「アザイゲ」に成りすまして、女性のサイトに“頭は固いがチ○コは柔い”と書いている。

「なつみ」さんと「アザイゲ」さんは、本当に同一人物なのですか?

マジで同一人物ですよう。だから、漢字馬鹿は、めれんげさんのサイトにコメントを書く事を止めたのですよう。もう、書けないでしょう!

どうしてですか?

消しがたい証拠をさらにめれんげさんのサイトに残すからですよう。漢字馬鹿は、めれんげさんも馬鹿にしているけれど、めれんげさんは、実は、システムエンジニアで漢字馬鹿よりもコンピューターの事、ネットの事を良く知っているのですよう。漢字馬鹿は完全に墓穴を掘ってしまったのですよう。あとは、自分が掘った墓に入るだけですよう。うしししし。。。

人間って、そこまで愚かになれるものでしょうか?

なれますよう。2ちゃんねるで匿名で遊んでいると、漢字馬鹿のような愚かな成りすまし人間が出来上がってしまうのですよう。僕は漢字馬鹿のような底抜けの馬鹿を何人も見てきましたからね。うへへへへへ。。。

やっぱり、デンマンさんは、漢字馬鹿さんを晒し者にするために今日の記事を書き始めたのですか?

もちろん、違いますよう。僕は、いつまでも漢字馬鹿の事を書いて時間を無駄にしたくないのですよう。

。。。で、今日は、これまで書いてきて、一体何がおっしゃりたいのですか?

だからねぇ、どうせ、コメントを書くのだったら、どのように批判する場合でも、批判される人がすがすがしく感じるような文章を書け!と僕は言いたいのですよう。

それでデンマンさんは、次の記事の中で徳保隆夫 (とくほ たかお)さんのコメントを紹介したのですか?

■ 『デンマン批判 (2009年5月8日)』

その通りですよう。

。。。で、徳保さんは他にもデンマンさんを批判する記事を書いているのですか?

直接僕を批判するために書いた訳ではないけれど、僕の記事をかなり読んで、僕と言う人間をかなり理解していますよう。ちょっと読んでみてください。

はてなダイアリーで更新していた

日記のアーカイブ

by 徳保隆夫

2005-12-08

 (中略)

2.

誤読としての批判への批判~都合のいいときばかり「子ども」を持ち出す大人~

コメント欄より転載。

徳保隆夫

『少し反論しますと、satoshi さんは「大人になると」間違いを指摘されなくなる、と書きました。ということは、「子どもの頃は」は間違いを指摘されたわけですよ。くどい表現を避けて、省略されているだけ。私は書かれていないことを勝手に推測しているのではない。当然の読解を行っているのです。

そうして私は、子どもの頃に間違いを気軽に指摘されたのは「尊敬されない」ことと引き換えだったとして、子どもの頃を安直に古きよき時代として思い起こすことを否定したのでした。』 (2005/12/08 01:00)

大人だから間違いを指摘してくれない時もある。

問題は、satoshi さんこと snakajima さんのコメント。

snakajima 『life is beautiful のSatoshiです。私も「間違いを指摘しないのは聞いてる側の選択の結果」で、「自称ワイン通」氏の責任ではないと思います。

つまり、大人になると特に負のオーラを出していなくても、間違いは指摘してもらえないんですね。しかし、それでは悲しいので、何とかして「間違いを指摘しやすい」人になりたい、なる方法はないかな、という宣言であり問いかけなんです。』

umeten さんのところでは、以下の通り。

snakajima 『 私のエントリーに関して、こんなに深く分析していただき、ありがとうございます。このエントリーは、ご指摘されているように、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言であるとともに、私の知り合いやブログの読者に対しての「もし、私が間違っていることを言っていたら、教えてください」というお願いでもあります。「子供のころは、まわりの人が親切に色々と教えてくれた」というノスタルジーに浸っているだけでは何も得るところはありませんからね。』 (2005/12/08 01:55)

k3jaco さんが結論に困ってしまったのは当然で、Satoshi さんの主張は袋小路への道である。ワイン通に問題がないとすれば、Satoshi さんにできることは何もない。闇雲に「改善」を目指しても、空虚な宣言にしかならない。

しかも驚くべきことに、Satoshi さんは間違いを指摘する側に問題の原因を見出している。だったら、そもそも Satoshi さんの記事は転倒しているわけだ。「大人に対して大人は間違いを指摘できない」というところから、話を展開するのが本来の筋だったはずだ。

おそらく、子どもに対してであれば、仮に少々態度が生意気でも、Satoshi さんは「きみの説明は、間違っているんじゃないかな?」といえたろう。そうであればこそ、「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」という言葉が出てくる。

もし Satoshi さんが正しく記事を書き始めていたのなら、必ずこの問題に行き当たったはずだ。そして、なぜ子ども相手なら根拠不十分でも間違いを指摘できてしまうのか、考えたはずだ。

私は「間違いを指摘されるようになること」について、ひとつの回答を暗示した。ここは補足記事だから、はっきり書こう。

● 指摘がほしければ、ガキ扱いされるような人間になればいいのだ。
● 大人が大人であり続ける限り、指摘する側は躊躇する。

だから、大人であり続けることを前提とすれば、有効な解を発見できない。「子供のころは、まわりの人が親切に色々と教えてくれた」というノスタルジーに浸っているのでは、残酷な結論に気付かない。

おいしいところだけ、

つまみ食いすることはできない

大人たちは、大人になりたいから、大人になった。子どものままでいたければ、そうすることもできた。

大人たちの、子どもに対する「間違い」の指摘は、なるほど親切心から出たものかもしれない。だが、親切心はどのような場面で発現するか。そして大人たちは、本当に親切にされたいのか。なぜ、大人たちは、子どもであることをやめたんだ?

子どもは、いくつかの特権と引き換えに、非常に多くの忍耐を強いられる。親切な指摘を無数に受ける特権は、本来、ノスタルジーを感じ、羨むようなものではない。大人たちに精神的にも物理的にも支配されている、血涙の滲むような服従の記憶とともにある。何をいっても簡単には信じてもらえない、正しい主張も簡単には通らない、それが子どもの支払っている犠牲である。

ある種の間違いだけを、プライドの傷つかないような形でピンポイントで指摘される、そんなつまみ食いは、不可能だ。

根拠不十分でも気軽に指摘されるようになれば、間違っていないことまで指摘されるようになる。気軽に指摘されるような状態では、異論・反論が気軽に提出され、自分の意見がなかなか通らない。そのつらさ、悲しさに、耐える覚悟はありますか。

 (中略)

4.

文体を変えます。

■ 間違いを指摘される事の重要性を理解できない人

謙虚な人柄と間違いを指摘してもらえるようになる事は同義ではない。何をどうとったらそういう帰結になるのか?

まず「謙虚」という言葉の定義が必要。

常識的に考えて十分な根拠が提示されている場合に、間違いの指摘を受け入れる人は、少なくともその点において「謙虚」である、と私は表現します。

自信過剰な人は、例えばメルローの件についていえば、「百科事典のミスかもしれないじゃないか!」「ワイン専門店の店員にだって間違いはあるぞ!」と強情を張るでしょう。

さて、このエントリーは、ご指摘されているように、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言だといったのは Satoshi さんです。度量があって懐が深い、とは即ち、間違いを認める謙虚さを持つ、ということでしょう。そして Satoshi さんは、それが「間違いを指摘される大人」になるための道だと考えていらっしゃる。

私は、Satoshi さんの主張には一定の理を認めます。しかし、あまり本質的ではないと思う。そしておそらく、無意識的には Satoshi さんもそのことに気付いているはずだと思いました。その根拠が、Satoshi さんが「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」と書いたことです。

これは、前段の主張と矛盾した主張なんです。子どもに対する幻想を捨てて、子どもの実際の姿を見れば、それは明らかとなります。

1. 大人は子どもより、度量が広く懐が深い。
2. 大人になると、間違いの指摘が減る。

第1項が、逆なら、話は合う。でも、現実はこうなんです。だから、間違いを認める謙虚さを持つことは、あまり重要ではないことに気付いていい。

そして多くの場合、謙虚さは特定の局面のみで発揮されるものではない。したがって、他者の指摘に対して謙虚に対応する人は、自分が他者に対して指摘することにも慎重になります。tomozo3 さんは kanose さんを例示されましたが、デンマンさんと比較してくださいよ。kanose さんは謙虚です。傲慢なデンマンさんとは態度が全然違う。

ここで Satoshi さんの最初の事例に戻れば、パーティ会場において、不確実な根拠でしかワイン通の事実誤認を指摘できる人しかいなかったとしたならば、みなが謙虚である限り、誰も何もいえなかったのは当然なのです。したがって、Satoshi さんがいろいろ考えるきっかけとなった事例は、謙虚さでは解決されないことになります。

そしてまたデンマンさんが各所で批判されていることから、あれほど傲慢であっても「間違い」の指摘は行われることがわかります。

以上の推論から、私は「度量のある人間を目指す」という Satoshi さんの結論は、的外れだと考えました。

よろしいですか、私は謙虚な人柄と間違いを指摘してもらえるようになる事は同義ではないと考えているのです。同義だと思っているのは Satoshi さんであって、私はその主張を批判する立場なのです。

5.

言葉の定義の問題

tomozo3 さんの追記部分について。

過ちを認めるのは、謙虚ではなく、素直。

謙虚と素直を全く別の概念とみなすべき場面と、そうでない場面があると私は思います。

ご批判のかなりの部分は、言葉の定義の問題に過ぎません。tomozo3 さんは、ミクロの差異を決定的な差異とみなして、私の主張を過剰に否定されているのです。

私の記事では、謙虚と素直を同類の概念として扱っています。謙虚な人は素直なことが多い。謙虚な人、度量の大きい人、素直な人、これらは似たような人物像を想像させますよ。私は「それらの言葉で形容されるタイプの人」という大きな括りで話をしているんです。私が謙虚と書いた部分を、エディタで全部「素直」に書き換えたって、私の主張は変わりません。その語義の違いが影響しない領域で、それらの言葉を用いているからです。

それは逆

デンマンさんに過ちを指摘する人が少なく、加野瀬さんに意見や異論を述べる人が多くいるのは、加野瀬さんが指摘に対して、詭弁で返したり、何も言わずにこっそり変更修正したりはしないから。

これは意図が逆。私はデンマンさんを「強情な性格でも異論・反論をもらうことに成功した事例」として示したのです。デンマンさんに間違いの指摘をしたのは kiya2014 さんだったと記憶しています。

本題

中島氏が言わんとすることは、間違いの指摘にも異論にも意見にも率直に耳を傾ける姿勢を見せることにより、早期に間違いを修正することが、大事、と言うこと。

2.に書きましたが、Satoshi さん自身、今回の事例は、指摘される側ではなく指摘する側の問題だと、k3jaco さんのところのコメント欄で認めているんです。

であれば「ああ、どうしてあの時、私は間違いを指摘できなかったのか。指摘を躊躇してしまう自分を改善したい」と、考えるのが自然でしょう。指摘する側(が指摘を躊躇したこと)に問題がある、だけど私は指摘される側の立場で自省するぞ、というのは話が転倒していますよね。

「やっぱり躊躇するのは仕方ないな」とか、「これからは躊躇せずにどんどん行こう」とか、そうやって最大の問題に結論を出してから、瑣末な問題である、指摘される側のあり方について考えるべきなんですよ。

デンマンさんでさえ、間違いを指摘されるのです。大人社会に間違いの指摘が少ない決定的な理由は、指摘する側にある。そして、指摘する側が、指摘を躊躇する理由は何か。Satoshi さんが気付いている通り、大切なのは、そこなんです。

加野瀬さんの間違いを指摘する一般人は、常連読者さんです。ある程度気安い印象が醸成されていて、それで指摘しているのです。加野瀬さんとこは数千人が見ているからいいですが、ふつうはこのタイプの指摘だけでは大半のミスが見過ごされます。

これに対して、初めて見たサイトの間違いをいきなり指摘する人がいる。これはモヒカン族に近い立場で、otsune さんが書いている通り、気遣いせずに間違いを指摘する文化を持っているから、そんなことができるのです。

気遣い無しのコミュニケーションは、日本の大人社会では珍しい。しかし少なからぬ人は、子どもの頃、モヒカン族的だった。「王様は裸だ」といえたんです。で、人々は何故、気遣いを重視するようになったのですか? 大人は、物語としては「裸の王様」のラストに登場する子どもに憧れますが、本気でそうなりたいとは思っていない。

ところが、大人は子どもに対しては気遣いよりも教育指導を優先します。だから大人は子どもの「間違い」を指摘する際にはモヒカン族的な行動を取る。つまり、大人は子ども相手にはモヒカン族、大人相手にはムラ社会の住人を演じています。

こうした背景を踏まえて、私は、大人が大人に対して気軽に指摘できるメンタリティとはどのようなものか、想像するべきだし、想像できるはずだと主張しているのです。

 (中略)

2005-11-28

明日から寒くなるそうだ。今年の秋は、今日までか。

伝文体

議論できる人、できない人 (?B)

yosiyama さんが紹介してた記事だけど、飄々とした書きようがいい感じ。こういう文体、私もうまく使えたらいいな、と思う。伝文体を道具として埋め込む手法には、いろいろ可能性がありそう。

 (中略)

2005-11-21

ぐったり。

更新のルール

コメント欄は開放しない。トラックバックは受け付けない。キーワードリンクしない。カテゴリは設定しない。ときどき記事をバッサリ消す。ときどきプライベートモードへ移行する。

メモ

ノリのいい人には近づかないに限る。


『はてなダイアリーで更新していた日記のアーカイブ』より

徳保隆夫さんが書いたような文章が好ましい批判の文章ですか?

僕にとっては好ましい文章ですよう。僕のハンドル名を取り上げて僕の事も書いているけれど、このように書かれれば、ムカつくような気持ちにならないですよう。

どうして。。。?

「論理の不備」が無いからでしょうね。しかも、漢字馬鹿のように悪意で書いているわけではない。冷静に、感情的にならず、客観的に書いている。もちろん主観も表明しているけれど、主観に囚われていませんよう。

。。。で、徳保隆夫さんって、どういう人ですか?

紹介ページには次のように書いてありますよう。

管理人紹介:

徳保 隆夫(とくほ たかお)
1980年愛知県生まれ。大学卒業まで千葉県成田市で暮らす。現在は東京在住の会社員。
徳保隆夫は仮名(ハンドルネーム)ですが、問い合わせがあれば本名をお教えします。
ただし、私の本名を仮名と並べて記載するのはご遠慮ください。
検索エンジンで私の本名を検索して仮名と当サイトが判明するルートを作らないようご協力ください。
連絡先はトップページで案内しています。


『Info/趣味のWebデザイン』より

満で28才か29才と言うことですわね?

そうですよう。イイ意味で老成していると言う印象を僕は文章から持ちましたよう。漢字馬鹿は、30才を越えているのですよう。でも、未だに精神年齢が良くて中学3年生ですよう。徳穂さんの爪の垢をせんじて漢字馬鹿に飲ませてやりたいですよう。うしししし。。。

1980年生まれと言うのは事実でしょうか?

日本人は年齢にこだわりますからね。僕は、28才であろうが、38才であろうが、48才であろうが、108才であろうが、全く気になりません。本当の年齢を知ったからって、態度を変えることはありません。

マジで。。。?

もちろんですよう。

“文は人なり!”

この格言につきますよう。上の文章そのものが徳保隆夫さんですよう。ここまで書くと、自分を誤魔化すことができません。文章の印象から、自分に対してかなり素直な人だと思います。感情を抑えて冷静に書いていますよう。

。。。で、デンマンさんに反論は無いのですか?

もちろん、ありますよう。

どのような。。。?

徳保さんは次のように書いているのですよう。

他者の指摘に対して謙虚に対応する人は、自分が他者に対して指摘することにも慎重になります。
tomozo3 さんは kanose さんを例示されましたが、デンマンさんと比較してくださいよ。
kanose さんは謙虚です。
傲慢なデンマンさんとは態度が全然違う。

僕が傲慢だと言っている。

傲慢 (ごうまん)

偉いのは自分だけだと言うような気持ちで、

何でも自己本位に行動する様子。

三省堂 『新明解国語辞典 (第二版)』より

海外生活経験の無い日本人の100人のうち98人までが僕を傲慢だと思うでしょう。

つまり、徳保さんは海外生活経験が無いのですか?

海外旅行をしたことがあるかもしれません。でも、彼の文章から判断して、ヨーロッパやアメリカで、欧米人と肩を並べて働いた経験が無いことが僕には良く分かる。

どうして。。。?

“畳の上の水練”

あのねぇ~、畳の上で、いくら泳ぎを練習しても、決して泳げるようにはならないものですよう。テニスを10年やっていた人が、ラケットの素振りを見れば、それだけで、その人が初心者か熟練者か?その程度の事はすぐに判断が付くものですよう。

だったら、あたしがテニスのラケットを振るだけでも分かります?

分かりますよう。僕はプロではないけれど20年ぐらいテニスをやってきましたからね。ウへへへへ。。。

もし、デンマンさんの記事に反論を書きたい人は、どうすれば良いのですか?

あのねぇ~、“畳の上の水練”の事は次の記事の中でじっくりと語ったので、コメントをしたい人は少なくとも3度読んでからコメントを書いてくださいね。お願いします。

■ 『“縦社会” と “横社会” (再考)』
     (2006年2月25日)

つまり、徳保さんは“傲慢”の意味を国際化の文脈の中で誤解していると言うことですか?

そうですよう。でも、徳保さんは僕がこれまでコメントを交換してきた人たちと比べれば、社会的自我が目覚めている人です。いずれにしても、コネや、学歴や、閨閥(けいばつ)が全く日本人には関係ない欧米で仕事をしてゆくには、自信を持ってやる以外に無いのですよう。その自信を僕が自分で口にすると、平均的な日本人の目には“傲慢だ!”と映ってしまう。

そうでしょうか?

徳保さんが書いている通りですよう。

どうして。。。?

徳保さんも、上の文章を読む限り“畳の上の水練”で国際化しているに過ぎないのです。

徳保さんは分かっているのでしょうか?

うすうす分かっているのですよう。だから僕に対して直接批判する事ができなかった。

どうして分かるのですか?

ノリのいい人には近づかないに限る。

徳保さんは、上のように書いていましたよ。

つまり、デンマンさんがノリノリになって書いていたのが分かっていたのですか?

そうですよう。上の記事・『“縦社会” と “横社会” (再考)』を読んでみてくださいよう。僕は確かに、ノリノリになって書いていたのですよう。うしししし。。。

【レンゲの独り言】

ですってぇ~。。。
あさっての記事も、デンマンさんはノリノリになって書くそうですわ。
うふふふふ。。。
でも、反論のある人は、どんどんコメントを書いてくださいね。

とにかく、まだ面白い話が続きますう。
あなたもどうか、また、あさって読みに戻ってきてくださいね。
では。。。

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

1999年夏の「東芝事件」は

ネットでも画期的な事件でした。

東芝製ビデオデッキの修理に関し、

その対応に腹を立てた消費者が、

経緯をネットで公開したのです。

東芝側はホームページの一部削減をさせるため

「名誉権と営業権に基づく妨害排除の請求」の

仮処分を申請しました。

しかし、社会的な批判が高まり、

急遽謝罪を表明したのです。

仮処分の申し立ても取り下げました。

やはり、企業と言えども法の下には

個人と平等なのですよね。

「はてなダイアリー」のユーザーとして

デンマンさんが「はてなダイアリー」の問題点について

たくさん記事を書いています。

ユーザーと「はてなダイアリー」との関係も、

もちろん対等であるべきですよね。

ユーザーが不満を表明し、

釈明を求めているのであれば、

「はてなダイアリー」も誠実に対応すべきだと思います。

ネットの世界は単に現実世界の

向こうの虚像ではありません。

東芝事件のように、

ネット上で激しさを増したユーザーの声は、

間違いなく現実社会に戻ってくるからです。

ところで、英語の面白い話をまとめました。

興味があったら、

次のリンクをクリックして

読んでください。

■ 『あなたのための 楽しい英語』

■ 『性の俗説 (2008年3月4日)』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。


 





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