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なぜコメント
書けないの? by デンマン & レンゲ
2009年5月18日
めれんげさん、はじめまして。 2月12日の記事(裏切りはやさしく)で、 インターネットを利用して、差別用語を書くことは、 発言された方は、ご年配の方なのでしょうか。 言葉狩りをするつもりはありませんが、 めれんげさんは、当該の発言者を野放しにせず、 長文失礼いたしました。 なつみ 2009/04/14 3:56 PM 『即興の詩 青空』のコメント欄より
デンマンさん。。。また、なつみさんのコメントを持ち出したのですか?
いけませんか?うへへへへ。。。 こう、たびたび読まされるとウンザリしますわ。 でもねぇ、この愚かなコメントは今日の話題にピッタリなんですよう。 どのようにピッタリなんですか? つまりねぇ、漢字馬鹿は、自分が書いたものでない!。。。そう思われるだろうと思いながら、このコメントを書いたのですよう。 デンマンさんは、どうしてそう思われたのですか? あのねぇ~、僕だけじゃないのですよう。めれんげさんでさえ、このコメントが胡散臭(うさんくさ)いと思ったから返信を書かなかったのですよう。 根拠でもあるのですか? めれんげさんの『即興の詩』サイトへ行ってみれば良く分かります。めれんげさんはコメントを書いた相手がマジで書いてない限り相手にしないのですよう。この上の「なつみ」のコメントは完全に無視されたのですよう。 あたしは上のコメントを読んで、ちっとも不自然なものを感じませんでしたわ。 それはねぇ、めれんげさんが2月12日に書いた短歌『裏切りはやさしく』に僕が書いたコメントをレンゲさんがじっくりと読まなかったからですよう。 めれんげさんは、じっくりと読んだから、「なつみ」さんのコメントが胡散臭いと感じたのですか? その通りですよう。高校生程度の常識があれば、「なつみ」が僕の書いたコメントの内容を理解せずに、ただ“片輪者(かたわもの)”という言葉だけを取り上げて“言葉狩り”をしているのが見え見えなのですよう。 めれんげさんも、そのように感じて「なつみ」さんのコメントを無視したとデンマンさんは信じているのですか? その通りですよう。めれんげさんが返信を書いているコメントは、どれもまともなものですよう。読めば、その事が実によく分かるのですよう。 つまり、スパムコメントだとか、悪意のコメントに対しては、めれんげさんは徹底的に無視しているのですか? そうですよう。 でも、最近、めれんげさんはデンマンさんのコメントも徹底的に無視していますよね。うふふふふ。。。 あのねぇ~、僕のコメントを無視しているのは例外なのですよう。 どう言う訳で例外なのですか? あのねぇ~、めれんげさんは次のような絶交状を書いてしまったのですよう。
愛知らぬひとに告ぐ
愛を説く
ひとは愛など
知りはせぬ
まとわりつかれ
迷惑千万
【追記】
虚構に対して
わがことと思うなかれ
愛あらば
他の女性と関わるなかれ
そのひとと睦まじきを見て
われはきみより去る
by めれんげ 2009.03.14 Saturday 10:59 『愛の虚構』に掲載。 だから、めれんげさんはデンマンさんを無視しているのですわ。 違うのですよう。めれんげさんは、上の絶交状を書いた事を悔やんでいるのですよう。 どうして、そのようなことがデンマンさんに分かるのですか? めれんげさんは、絶交状を書いてしまった事をいろいろと考えてから4月22日に次のような短歌を書いたのですよう。
この短歌がデンマンさんを無視していることに関係しているのですか? もちろんですよう。めれんげさんは、レンゲさんと同じように乱歩先生の熱烈なファンなのですよう。 だから。。。? めれんげさんは、乱歩先生の推理とゴシックの世界にハマッているのですよう。だから、この短歌から僕が推理して真意を汲み取って欲しかったのですよう。 。。。で、そのめれんげさんの真意とは。。。? めれんげさんの上の短歌には次のような真意が込められているのです。
デンマンさんへ いつものことですが、デンマンさんの記事を読んで かなり感情的になってしまいました。 絶交状を書いてしまったことは 今から思えば見苦しい限りです。 また、デンマンさんに、わたしの恥ずかしい部分を お目にかけてしまいました。 仲直りのお手紙を書きたいのですが、 それがネットに載ると、わたしはさらに 恥ずかしい思いをしなければなりません。 そう言う訳で、わたしの思いを 短歌に認(したた)めました。 どうか、わたしの真意を汲み取ってください。 デンマンさんの「広い愛」と「狭い愛」について 何度も考え直してみましたが さらに考えてみたいと思います。 川面を流れる花びらのように わたしの思いは何処へ向かうのか? わたしの恋はどこへ向かうのか? 早急に結論を出す問題ではないと思います。 そういう訳で、じっくりと考えてみます。 デンマンさんに対してコメントを書くことは 控えさせていただきます。 これからもお付き合いをさせていただきたい、 という事だけは、どうかご理解してください。 では...、 かしこ めれんげ デンマンさんが自分の都合の良いように解釈しているだけですわ。これを読んだら、めれんげさんは苦笑しながら半分呆れてしまいますわ。 だから、それでもいいのですよう。めれんげさんとの付き合いも5年になるのですからね。お互いに言いたい事をそれとなく理解し合っているのですよう。 分かりましたわ。。。で、その事と今日のタイトルが関係あるのですか? あるのですよう。めれんげさんが僕に対してコメントを書く事を控えている。それはなぜなのか? だから、デンマンさんは、めれんげさんが返信を書かないことを上のように解釈したわけでしょう? そうです。そこにめれんげさんの分別・思慮を見ることが出来るのですよう。ところが、不注意にコメントを書いてしまう愚か者がたくさん居るのですよう。 それが漢字馬鹿さんだとデンマンさんはおっしゃりたいのですか? いや。。。僕が言う前に、すでに徳保(とくほ)さんが次のように書いていましたよう。
はてなダイアリーで更新していた
日記のアーカイブ by 徳保隆夫
2005-12-08
(中略) 2. ■ 誤読としての批判への批判~都合のいいときばかり「子ども」を持ち出す大人~ コメント欄より転載。
徳保隆夫
『少し反論しますと、satoshi さんは「大人になると」間違いを指摘されなくなる、と書きました。ということは、「子どもの頃は」は間違いを指摘されたわけですよ。くどい表現を避けて、省略されているだけ。私は書かれていないことを勝手に推測しているのではない。当然の読解を行っているのです。 そうして私は、子どもの頃に間違いを気軽に指摘されたのは「尊敬されない」ことと引き換えだったとして、子どもの頃を安直に古きよき時代として思い起こすことを否定したのでした。』 (2005/12/08 01:00) 問題は、satoshi さんこと snakajima さんのコメント。
snakajima 『life is beautiful のSatoshiです。私も「間違いを指摘しないのは聞いてる側の選択の結果」で、「自称ワイン通」氏の責任ではないと思います。
つまり、大人になると特に負のオーラを出していなくても、間違いは指摘してもらえないんですね。しかし、それでは悲しいので、何とかして「間違いを指摘しやすい」人になりたい、なる方法はないかな、という宣言であり問いかけなんです。』 umeten さんのところでは、以下の通り。
snakajima 『 私のエントリーに関して、こんなに深く分析していただき、ありがとうございます。このエントリーは、ご指摘されているように、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言であるとともに、私の知り合いやブログの読者に対しての「もし、私が間違っていることを言っていたら、教えてください」というお願いでもあります。「子供のころは、まわりの人が親切に色々と教えてくれた」というノスタルジーに浸っているだけでは何も得るところはありませんからね。』 (2005/12/08 01:55)
k3jaco さんが結論に困ってしまったのは当然で、Satoshi さんの主張は袋小路への道である。ワイン通に問題がないとすれば、Satoshi さんにできることは何もない。闇雲に「改善」を目指しても、空虚な宣言にしかならない。 しかも驚くべきことに、Satoshi さんは間違いを指摘する側に問題の原因を見出している。だったら、そもそも Satoshi さんの記事は転倒しているわけだ。「大人に対して大人は間違いを指摘できない」というところから、話を展開するのが本来の筋だったはずだ。 おそらく、子どもに対してであれば、仮に少々態度が生意気でも、Satoshi さんは「きみの説明は、間違っているんじゃないかな?」といえたろう。そうであればこそ、「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」という言葉が出てくる。 もし Satoshi さんが正しく記事を書き始めていたのなら、必ずこの問題に行き当たったはずだ。そして、なぜ子ども相手なら根拠不十分でも間違いを指摘できてしまうのか、考えたはずだ。 私は「間違いを指摘されるようになること」について、ひとつの回答を暗示した。ここは補足記事だから、はっきり書こう。 ● 指摘がほしければ、ガキ扱いされるような人間になればいいのだ。 だから、大人であり続けることを前提とすれば、有効な解を発見できない。「子供のころは、まわりの人が親切に色々と教えてくれた」というノスタルジーに浸っているのでは、残酷な結論に気付かない。 おいしいところだけ、
つまみ食いすることはできない 大人たちは、大人になりたいから、大人になった。子どものままでいたければ、そうすることもできた。 大人たちの、子どもに対する「間違い」の指摘は、なるほど親切心から出たものかもしれない。だが、親切心はどのような場面で発現するか。そして大人たちは、本当に親切にされたいのか。なぜ、大人たちは、子どもであることをやめたんだ? 子どもは、いくつかの特権と引き換えに、非常に多くの忍耐を強いられる。親切な指摘を無数に受ける特権は、本来、ノスタルジーを感じ、羨むようなものではない。大人たちに精神的にも物理的にも支配されている、血涙の滲むような服従の記憶とともにある。何をいっても簡単には信じてもらえない、正しい主張も簡単には通らない、それが子どもの支払っている犠牲である。 ある種の間違いだけを、プライドの傷つかないような形でピンポイントで指摘される、そんなつまみ食いは、不可能だ。 根拠不十分でも気軽に指摘されるようになれば、間違っていないことまで指摘されるようになる。気軽に指摘されるような状態では、異論・反論が気軽に提出され、自分の意見がなかなか通らない。そのつらさ、悲しさに、耐える覚悟はありますか。 (中略) 4. 文体を変えます。
謙虚な人柄と間違いを指摘してもらえるようになる事は同義ではない。何をどうとったらそういう帰結になるのか?
まず「謙虚」という言葉の定義が必要。 常識的に考えて十分な根拠が提示されている場合に、間違いの指摘を受け入れる人は、少なくともその点において「謙虚」である、と私は表現します。 自信過剰な人は、例えばメルローの件についていえば、「百科事典のミスかもしれないじゃないか!」「ワイン専門店の店員にだって間違いはあるぞ!」と強情を張るでしょう。 さて、このエントリーは、ご指摘されているように、「度量のある懐の深い人間になろうと思う」という宣言だといったのは Satoshi さんです。度量があって懐が深い、とは即ち、間違いを認める謙虚さを持つ、ということでしょう。そして Satoshi さんは、それが「間違いを指摘される大人」になるための道だと考えていらっしゃる。 私は、Satoshi さんの主張には一定の理を認めます。しかし、あまり本質的ではないと思う。そしておそらく、無意識的には Satoshi さんもそのことに気付いているはずだと思いました。その根拠が、Satoshi さんが「大人になると誰も間違いを指摘してくれなくなる」と書いたことです。 これは、前段の主張と矛盾した主張なんです。子どもに対する幻想を捨てて、子どもの実際の姿を見れば、それは明らかとなります。 1. 大人は子どもより、度量が広く懐が深い。 第1項が、逆なら、話は合う。でも、現実はこうなんです。だから、間違いを認める謙虚さを持つことは、あまり重要ではないことに気付いていい。 そして多くの場合、謙虚さは特定の局面のみで発揮されるものではない。したがって、他者の指摘に対して謙虚に対応する人は、自分が他者に対して指摘することにも慎重になります。tomozo3 さんは kanose さんを例示されましたが、デンマンさんと比較してくださいよ。kanose さんは謙虚です。傲慢なデンマンさんとは態度が全然違う。 ここで Satoshi さんの最初の事例に戻れば、パーティ会場において、不確実な根拠でしかワイン通の事実誤認を指摘できる人しかいなかったとしたならば、みなが謙虚である限り、誰も何もいえなかったのは当然なのです。したがって、Satoshi さんがいろいろ考えるきっかけとなった事例は、謙虚さでは解決されないことになります。 そしてまたデンマンさんが各所で批判されていることから、あれほど傲慢であっても「間違い」の指摘は行われることがわかります。 以上の推論から、私は「度量のある人間を目指す」という Satoshi さんの結論は、的外れだと考えました。 よろしいですか、私は謙虚な人柄と間違いを指摘してもらえるようになる事は同義ではないと考えているのです。同義だと思っているのは Satoshi さんであって、私はその主張を批判する立場なのです。 5. 言葉の定義の問題 tomozo3 さんの追記部分について。
過ちを認めるのは、謙虚ではなく、素直。
謙虚と素直を全く別の概念とみなすべき場面と、そうでない場面があると私は思います。 ご批判のかなりの部分は、言葉の定義の問題に過ぎません。tomozo3 さんは、ミクロの差異を決定的な差異とみなして、私の主張を過剰に否定されているのです。 私の記事では、謙虚と素直を同類の概念として扱っています。謙虚な人は素直なことが多い。謙虚な人、度量の大きい人、素直な人、これらは似たような人物像を想像させますよ。私は「それらの言葉で形容されるタイプの人」という大きな括りで話をしているんです。私が謙虚と書いた部分を、エディタで全部「素直」に書き換えたって、私の主張は変わりません。その語義の違いが影響しない領域で、それらの言葉を用いているからです。 それは逆
デンマンさんに過ちを指摘する人が少なく、加野瀬さんに意見や異論を述べる人が多くいるのは、加野瀬さんが指摘に対して、詭弁で返したり、何も言わずにこっそり変更修正したりはしないから。
これは意図が逆。私はデンマンさんを「強情な性格でも異論・反論をもらうことに成功した事例」として示したのです。デンマンさんに間違いの指摘をしたのは kiya2014 さんだったと記憶しています。 本題
中島氏が言わんとすることは、間違いの指摘にも異論にも意見にも率直に耳を傾ける姿勢を見せることにより、早期に間違いを修正することが、大事、と言うこと。
2.に書きましたが、Satoshi さん自身、今回の事例は、指摘される側ではなく指摘する側の問題だと、k3jaco さんのところのコメント欄で認めているんです。 であれば「ああ、どうしてあの時、私は間違いを指摘できなかったのか。指摘を躊躇してしまう自分を改善したい」と、考えるのが自然でしょう。指摘する側(が指摘を躊躇したこと)に問題がある、だけど私は指摘される側の立場で自省するぞ、というのは話が転倒していますよね。 「やっぱり躊躇するのは仕方ないな」とか、「これからは躊躇せずにどんどん行こう」とか、そうやって最大の問題に結論を出してから、瑣末な問題である、指摘される側のあり方について考えるべきなんですよ。 デンマンさんでさえ、間違いを指摘されるのです。大人社会に間違いの指摘が少ない決定的な理由は、指摘する側にある。そして、指摘する側が、指摘を躊躇する理由は何か。Satoshi さんが気付いている通り、大切なのは、そこなんです。 加野瀬さんの間違いを指摘する一般人は、常連読者さんです。ある程度気安い印象が醸成されていて、それで指摘しているのです。加野瀬さんとこは数千人が見ているからいいですが、ふつうはこのタイプの指摘だけでは大半のミスが見過ごされます。 これに対して、初めて見たサイトの間違いをいきなり指摘する人がいる。これはモヒカン族に近い立場で、otsune さんが書いている通り、気遣いせずに間違いを指摘する文化を持っているから、そんなことができるのです。 気遣い無しのコミュニケーションは、日本の大人社会では珍しい。しかし少なからぬ人は、子どもの頃、モヒカン族的だった。「王様は裸だ」といえたんです。で、人々は何故、気遣いを重視するようになったのですか? 大人は、物語としては「裸の王様」のラストに登場する子どもに憧れますが、本気でそうなりたいとは思っていない。 ところが、大人は子どもに対しては気遣いよりも教育指導を優先します。だから大人は子どもの「間違い」を指摘する際にはモヒカン族的な行動を取る。つまり、大人は子ども相手にはモヒカン族、大人相手にはムラ社会の住人を演じています。 こうした背景を踏まえて、私は、大人が大人に対して気軽に指摘できるメンタリティとはどのようなものか、想像するべきだし、想像できるはずだと主張しているのです。 (中略)
2005-11-28
明日から寒くなるそうだ。今年の秋は、今日までか。 伝文体 yosiyama さんが紹介してた記事だけど、飄々とした書きようがいい感じ。こういう文体、私もうまく使えたらいいな、と思う。伝文体を道具として埋め込む手法には、いろいろ可能性がありそう。 (中略)
2005-11-21
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また、ずいぶん長い引用になりましたわねぇ~。。。で、デンマンさんは上の説明の中でどの点を引き合いに出したいのですか?
次の部分ですよう。
大人社会に間違いの指摘が少ない決定的な理由は、
指摘する側にある。 他者の指摘に対して謙虚に対応する人は、 自分が他者に対して指摘することにも慎重になります ● 指摘がほしければ、ガキ扱いされるような人間になればいい。 ● 大人が大人であり続ける限り、指摘する側は躊躇する。 (デンマン注: めれんげさんは僕に対してコメントを書く事を、あるいは返信を書く事を躊躇している。なぜならば、慎重になっているからですよう。いい加減な事は書けない!。。。めれんげさんは、これまでの経験から十分に、その事を理解している。 それに対して、漢字馬鹿さんはまったく理解していない!。。。デンマンさんは、そうおっしゃりたいのですか? その通りですよう。漢字馬鹿は、実に、5年も馬鹿丸出しを続けているのですよう。 それほど馬鹿を丸出しにしているのですか? だってぇ、そうでしょう!?次のコメントを読んでくださいよう。 頭は固いがチ○コは柔い粘着自演ジジイなんか相手にするなよ。 言いたい事があるなら レンゲのフォーラムに来るんだYO!! って言われんぞ。 アザイゲ 2009/04/14 4:15 PM 『即興の詩 青空』のコメント欄より 漢字馬鹿は、僕のことを“粘着自演ジジイ”と書いておきながら、愚かにも自分で「なつみ」に成りすまして滑稽な一人芝居を演じているのですよう。しかも、すぐに見破られてしまうような幼稚な芝居なんですよう!
オマエは、どこまで底抜けの
馬鹿なのだア~♪~! 僕は、「なつみ」のコメントを読んだ後で、「アザイゲ」のコメントを読んだ時に、マジで、この上のおっさんのように、喚(わめ)き散らしたい気分になったのですよう。うしししし。。。 デンマンさんには、それほど簡単に見破ることが出来たのですか? 漢字馬鹿との付き合いも5年になりますからね。すぐに分かりましたよう。この事については、あさって、もっと詳しく書きますよう。 期待していますわ。 「なつみ」と書いてあったけれど、僕はすぐに漢字馬鹿が思い浮かんだから、記事の中でも「なつみ君」と書いていたのですよう。漢字馬鹿は、おそらく安倍なつみさんの名前を名乗ったつもりなんでしょうね。 デンマンさんは安倍なつみさんを知っていたのですか? もちろん知りませんでした。GOOGLEで“なつみ”と入れて検索したら2番目に表示されたのが次の安倍なつみさんだったのですよう。
安倍なつみ
出生名: 安倍なつみ 安倍 なつみは、日本の歌手、女優、タレント、アイドルである。 自他共に認める「究極の童顔」の持ち主。 趣味に「笑う事」と書くなど、笑顔が印象的な女性である。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 漢字馬鹿さんは安部なつみさんに成りすましたのでしょうか? この馬鹿は元首相の小泉純一郎氏の名前をハンドル名に使って僕にコメントを書いたほどですからね。「安部なつみ」と書くことなど屁とも思わないですよう。うしししし。。。 それなのにどうして書かなかったのですか? 「安部なつみ」と書いたら、別人の名前をハンドル名に使う漢字馬鹿の癖を丸出しにすることになりますからね。 それで、ファーストネームだけにとどめておいたのでしょうか? たぶんねぇ。。。漢字馬鹿も、そこまで愚かではないでしょう。 でも、どうして元モーニング娘の名前を書いたのでしょうか? 女性の名前を書けば漢字馬鹿だと、すぐには分からないと思ったのでしょうね。 でも、すぐに分かってしまいましたね。 そうですよう。。。女性に成りすますのが好きなのですよう。。。いづれにしても、漢字馬鹿は底抜けにアホなのです。うしししし。。。
【レンゲの独り言】
ですってぇ~。。。 あなたもどうか、また、あさって読みに戻ってきてくださいね。
メチャ面白い、
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■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
こんにちは。ジューンです。
何度も書くようですけれど、
1999年夏の「東芝事件」は
ネットでも画期的な事件でした。
東芝製ビデオデッキの修理に関し、
その対応に腹を立てた消費者が、
経緯をネットで公開したのです。
東芝側はホームページの一部削減をさせるため
「名誉権と営業権に基づく妨害排除の請求」の
仮処分を申請しました。
しかし、社会的な批判が高まり、
急遽謝罪を表明したのです。
仮処分の申し立ても取り下げました。
やはり、企業と言えども法の下には
個人と平等なのですよね。
「はてなダイアリー」のユーザーとして
デンマンさんが「はてなダイアリー」の問題点について
たくさん記事を書いています。
ユーザーと「はてなダイアリー」との関係も、
もちろん対等であるべきですよね。
ユーザーが不満を表明し、
釈明を求めているのであれば、
「はてなダイアリー」も誠実に対応すべきだと思います。
ネットの世界は単に現実世界の
向こうの虚像ではありません。
東芝事件のように、
ネット上で激しさを増したユーザーの声は、
間違いなく現実社会に戻ってくるからです。
ところで、英語の面白い話をまとめました。
興味があったら、
次のリンクをクリックして
読んでください。
とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
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