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熱い長恨歌
by デンマン & 卑弥子
2009年6月28日
日付: Sun, 7 Jun 2009 19:45:39 +0900 (JST)
(バンクーバー時間: 6月7日 午前3時45分) 差出人: "domini@yahoo.co.jp" 宛先: "green@infoseek.jp"
件名:毎日 勉学 えらいね。 はい 山の家から もどり 本は 1度よりも 2度よんだほうがイイね。 山小屋のコケに 悪い 奴が入ってる。すごい繁殖で 「ゼニゴケ(扇ゴケ)」 どうして 嫌われるか? ダウンタウンは 日本人の学生やワーホリも多いから、焼きそば売れてしまうね。
夕べ デンマンさんが珍しく 夢に来たよ、主人もダブって。 続きはまた後で 子供がそばで 何かオモチャが見つからない っと さゆりより
デンマンさん。。。小百合さんに褒(ほ)められて鼻の下を伸ばしているのでござ~♪~ますわね?
いけませんか?うししししし。。。 そのように自慢げにしていると『小百合物語』の読者の皆様方も呆れ返ってしまいますわよう。 小百合さんに褒められたからといって僕は別に自慢しているわけではないのですよう。 でも、鼻の下が伸びておりますわ。 うへへへへへ。。。僕の鼻の下はもともと伸びているのですよう。 分かりましたわ。。。んで、小百合さんのビキニ姿をトップに貼り付けて、今日は楊貴妃が夏、九龍湖で泳いだことをお話しするのでござ~♪~ますか? いや。。。楊貴妃は九龍湖で泳いだことはないと思いますよう。 どうして泳がなかったのでござ~♪~ますか? 楊貴妃は温泉に浸(つ)かったことはあるけれど、泳いだなんて、どこにも書いてありませんよう。
長恨歌(ちょうごんか)
華清池は秦の時代(前221~前207年)から続く温泉地で、唐代(618~907年)中期には玄宗皇帝がここに華清宮を建てた。 九龍湖は規模としては湖と言うより池である。 中国の四大美人(西施,王昭君,貂蝉,楊貴妃)の1人として名高い楊貴妃が華清池で温泉に入り、皇帝の寵愛を受けたことで知られる。 華清池があるのは西安市。 【解説】 長恨歌は中国・唐の時代、白居易(白楽天)によって作られた長編の漢詩である。 【あらすじ】 漢の王は長年美女を求めてきたが、どの女性にも満ち足りないものを感じていた。 その有様に反乱(安史の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出す。 反乱が治まると王は都に戻ったが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。 太真は道士に、王との思い出の品とメッセージをことづける。 【史実との相違】 時代が唐代から漢代に変えられている。 【楊貴妃の美】 ■ 「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」 温泉の湯水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりとした白い肌の持ち主だった。
■ 「雲鬢花顏」「花貌」「芙蓉如面柳如眉」 ふんわりとした髪の生え際、芙蓉の花のような顔だち、柳のようなほっそりとした眉、など顔のパーツも重要であったようだ。 ■ 「侍兒扶起嬌無力」「金歩搖」 侍女に助け起こされてもぐったり、歩くに連れてかんざしがしゃらしゃらと揺れる、といった感じで、北宋ごろから流行しだした纏足(てんそく)という習慣にも見られるように、いかにもなよなよとした頼りなげな様子が女性らしいしぐさとして愛されたらしい。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 でも、今日のタイトルは“熱い長恨歌”でしょう。。。楊貴妃が泳いだとしても誰も迷惑する人は居ませんわ。 あのねぇ、“暑い長恨歌”ではないのですよう。楊貴妃が暑くて泳いだ話ではなく、“熱い長恨歌”とは、楊貴妃が情熱的に玄宗皇帝と愛し合ったという意味ですよう。そのぐらいのことは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ならば分かるでしょう! また、あたくしの職業を持ち出してきて精神的なプレッシャーをかけるのでござ~♪~ますか? 違いますよう。僕は、おととい卑弥子さんと「源氏物語と長恨歌」について語り合って、卑弥子さんはさすがに古典研究家だと改めて尊敬し、感心したばかりですよう。。。それなのに、またトンチンカンな事を言って世界のネット市民の皆様の失笑を買うのですか? あたくしは、それ程可笑しな事を申し上げたのでござ~♪~ましょうか? 今日は、当然おとといの話の続きをするのですよう。。。それなのに、楊貴妃が暑くて玄宗皇帝と一緒に九龍湖で泳いだなんて言ったら、ミーちゃんハーちゃんにバカにされますよう。 そうでしょうか? そうですよう。僕は卑弥子さんの学識を見直したばかりですよう。それなのに。。。また、笑ってもらおうと思ったのか、卑弥子さんは可笑しなことを言う。。。少しは准教授らしい話をしてくださいよう。 分かりましたわ。。。んで、デンマンさんは何がおっしゃりたいのでござ~♪~ますか? あのねぇ、紫式部を調べ、宮本武蔵を調べてみると二人は密接に関係していることが分かったのですよう。 どうして、密接に関係しているのでござ~♪~ますか?生きている時代がまったく違っておりますわ。手短に説明してくださいな。 あのねぇ~、紫式部と宮本武蔵は『長恨歌(ちょうごんか)』にめちゃハマッていたのですよう。卑弥子さんは武蔵の事は良く知らなくとも、源氏物語研究家として紫式部が『長恨歌』にハマッていた事は知っているでしょう? ハマッていたかどうかは知りませんわ。。。でも、紫式部は『長恨歌』を間違いなく読んでいたのでござ~♪~ますわ。 どうして分かるのですか? 紫式部は次のように『長恨歌』から引用しておりますわ。
桐壺の帖
第二章 父帝悲秋の物語
第三段 命婦帰参
命婦は、「まだお寝みあそばされなかったのだわ」と、しみじみと拝し上げる。 (中略) 「亡き更衣を探し行ける幻術士がいてくれればよいのだがな、人づてにでも 絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師と言っても、筆力には限界があったのでまったく生気が少ない。 さすが、卑弥子さんは源氏物語研究家だけのことはありますね。 。。。んで、宮本武蔵が「長恨歌」にハマッていたと言うのは、どうして分かるのでござ~♪~ますか? 吉川英治が書いた『随筆・宮本武蔵』の中に次のように書いてあるのですよう。
煩悩に始まって煩悩につきる
人間慾と無常
春風桃李花開時
秋露梧桐葉落時 この二行は、有名な白楽天の長編詩“長恨歌”の中の一章句である。 もちろん、武蔵は、長恨歌全文を、愛誦(あいしょう)もし、白楽天のあの艶麗(えんれい)にして悠遠(ゆうえん)な構想と宇宙観の示唆に富んだ一章一章をふかく玩味(がんみ)もしていたであろう。 前には、書き落してあるが、この二行の書のわきには、なお細字で、次のような辞句が書き添えてある。 「是兵法之始終也」 (これへいほうの はじめにして おわりなり) おもしろいと思う。 82ページ 『随筆・宮本武蔵』 これだけを読んだだけでも武蔵が「長恨歌」にハマっていた事が充分に分かるのですよう。 あたくしは、これだけでは判断ができないと思いますわ。 どうしてですか? あたくしが調べたところでは宮本武蔵も『和漢朗詠集』を読んでいたのですわ。
『和漢朗詠集』 (わかんろうえいしゅう)
藤原公任撰の歌集である。 もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。 下巻「祝」部に日本国歌『君が代』の原典がある。 背景 国風文化の流れを受けて編纂された。 構成 上下二巻で構成。その名の通り和歌216首と漢詩588詩(日本人の作ったものも含む)の合計804首が収められている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ほォ~。。。なるほどォ~。。。白居易(白楽天)の詩が135も収められているのですかァ~? そうなのでござ~♪~ますわ。当時の貴族たちに最も愛されたのが、白居易(白楽天)の『白氏文集(はくしもんじゅう)』だったのでござ~♪~ますわ。
白氏文集
中国唐の文学者、白居易(白楽天)の詩文集。 日本にも平安時代にはすでに伝わり、「源氏物語」「枕草子」等の王朝文学を始めとする日本文学に大きな影響を与えた。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 白楽天(白居易)は平安時代の貴族の間では、それ程人気があったのですか? そうなのでござ~♪~ますわよう。 マジで。。。? 冗談など言いませんわよう!白楽天は、当時のビートルズだったのでござ~♪~ますう。
キャー すてきィ~
卑弥子さん!。。。熱狂しないでくださいよう!今日はビートルズの話じゃないのだから。。。 失礼いたしましたわ。。。ついつい、熱狂してしまいましたわ。。。ごめんあそばせぇ~♪~うふふふふ。。。 つまり、平安時代の貴族も卑弥子さんがビートルズに熱狂するぐらいに白楽天に熱狂していたのですか? そうなのですわよう。 ちょっと信じられませんよう。。。何か根拠でもあるのですか? ありますわ。かつて、デンマンさんは楊貴妃がペルシャ人ではなかったのか?そうおっしゃって、李白の詩を引用したことがありましたわね。
楊貴妃はペルシャ人だった?
古代ギリシャの文化がペルシャ人に伝わったと言うのは理解できましたが、その古代ギリシャ文化が唐の時代にペルシャ人を通じて中国人に伝わったのでござ~♪~ましょうか?
伝わっていたのですよ。 証拠でもあるのでござ~♪~ますか? あります。詩人・李白(701ー762)が作った「少年行」という詩があるのですよ。
少年行
五陵の年少、金市の東
銀鞍白馬、春風を渡(わた)る
落花(らっか)踏み尽くして、
何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ
笑って入る、胡姫酒肆(こきしゅし)の中
盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。 見るからに金持ちの貴公子です。 花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。 酒肆というのは酒場のことです。この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。 胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。 つまり、「胡姫」というのは胡の姫、ペルシャ人の女の子でござ~♪~ますか? その通りですよ。だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっていますよね。エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーですよ。うしししし。。。
こんな感じのペルシャ人のお姉さんがお酌をしていたのかもしれませんよ。 でも、ペルシャ人は極めて少なかったのでござ~♪~ますでしょう? いや、それが意外に多かったようですよ。この当時の長安(現在の西安)は国際都市だったのですよ。 どうして、そのような事が分かるのでござ~♪~ますか? 「安史の乱」がなかったら、そもそも白楽天は『長恨歌』を作ることはなかったでしょう。その「安史の乱」を起こした安禄山(あんろくざん)はペルシャ人だったのですよ。 マジで。。。? もちろんですよ。正確にはソグド人(ペルシア系のオアシス農耕民族)と突厥人(トルコ系の遊牧民族)の混血だと言われています。とにかく、容貌も体型も中国人とはかけ離れていた。なにしろ、体重が200キロを越す巨漢だった。 つまり、中国に帰化した外国人だったのでござ~♪~ますか? その通りですよ。この人の生まれはサマルカンドだった。当時の中国の首都・長安も国際都市だったけれど、このサマルカンドは、まさに国際都市の中の国際都市だった。そう言う訳で、安禄山は6ヶ国語に堪能であったため、初め互市郎(貿易官)に任じられたのですよ。その後、軍功を立て出世してゆき、742年には節度使になり、その後は玄宗と楊貴妃に取り入り、二つの州の節度使を拝命し、まもなく三つの州の節度使を兼任する事になった。 つまり、この当時外国人に対する偏見は中国人は持っていなかったのでござ~♪~ますわね? 僕は思うのだけれど、長安が国際都市だったことを考えると、楊貴妃がハーフだったのではないか?僕はそう思っているのですよ。 上の李白の詩がどうだと卑弥子さんは言うのですか? 李白も杜甫も、白楽天と並んで唐の時代には有名な詩人でござ~♪~ましたわ。デンマンさんだってご存知でしょう? うん、うん、うん。。。もちろん知っていますよう。白楽天がビートルズだとすれば、李白はローリングストーンズで、杜甫はボブディランぐらいの人気はあったでしょうね。 そうでしょう!。。。ところが、白楽天の詩が『和漢朗詠集』には 135も入っているのに、李白と杜甫の詩は一つづつしか入っていないのでござ~♪~ますわ。この事だけを見ても、白楽天がいかに当時の日本の貴族の間で人気があったかが分かるのでござ~♪~ますわ。 分かりました。つまり、白楽天の詩が。。。、また「長恨歌」が平安時代の貴族の間では好んで読まれたということが良く分かりましたよう。だったら、なおさら武蔵が「長恨歌」にハマっていたと考えられませんか? いいえ。。。違うのでござ~♪~ますわ。 どう違うのですか? 『和漢朗詠集私注』という本があるのでござ~♪~ます。
和漢朗詠集私注
(わかんろうえいしゅうしちゅう) これは、信阿(別名・信救、覚明)によって著された和漢朗詠集の注釈書である。 いくつかの写本の奥書に、応保元年(1161年)とあることから、この頃の成立と考えられる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この本がどうだと言うのですか?
つまり、漢学の初心者向けの注釈書だったのでござ~♪~ますわ。平安時代から、いわゆる教養人と言われる人たちは、武蔵を含めて『和漢朗詠集』の注釈書を読んでいたのでござ~♪~ますわ。 要するに、武蔵のような剣客でも教養として『和漢朗詠集』を読んでいたので白楽天の詩を知っていた。つまり、「長恨歌」も読んでいた。だから、武蔵がとりわけ「長恨歌」にハマッていたわけではない。。。卑弥子さんは、そう言うのですね? その通りでござ~♪~ますわ。武蔵が特別に「長恨歌」を愛誦(あいしょう)していたわけではないのですわ。平安時代より、教養人と言われる人たちは常識として「長恨歌」を知っていたのでござ~♪~ます。 なるほどォ~。。。 あたくしが言った事を理解していただけたのでござ~♪~ましょうか? うん、うん、うん。。。卑弥子さんの言おうとする事が実に良く分かりましたよう。 だから、デンマンさんが思うほどには武蔵は「長恨歌」にロマンを感じていなかったのでござ~♪~ますう。 あのねぇ~、卑弥子さんの言おうとする事は僕にも分かりますよう。でもねぇ、武蔵が人一倍「長恨歌」を愛誦(あいしょう)してい事がはっきりしているのですよう。 根拠があるのでござ~♪~ますか? ありますよう。 では、見せてくださいな。 『随筆・宮本武蔵』の80ページに次のように書いてあるのですよう。
兵法伝書の類を除いた、武蔵の墨蹟らしい物をあげてみると、次の三点である。
1) 直指人心 2) 戦気・寒流帯月澄如鏡 3) 春風桃李花開時 秋露梧桐葉落時 この三点が、伝来も明瞭だし、熊本でも、古くから有名になっている。 2番目の「戦気 寒流帯月澄如鏡」は白居易(白楽天)の「江楼宴別」と題する詩の一句なのですよう。大正10年刊行の「宮本武蔵遺墨」に収録されたのだけれど、現在、所在は不明となっているらしい。3番目の「春風桃李花開時 秋露梧桐葉落時」は、すでに説明したように白居易の「長恨歌」の一節です。2番目も3番目も『和漢朗詠集』に載っている。武蔵は、事実、『和漢朗詠集』を愛誦したのですよう。 つまり、教養の書として読んだ以上に武蔵は白楽天にハマッていたとデンマンさんは信じているのでござ~♪~ますか? もちろんですよう。しかも、僕と卑弥子さんが箱根の強羅(ごうら)温泉で楊貴妃と玄宗皇帝のような体験を持ったように、武蔵は当時の温泉、つまり、湯治場で美しい女性と巡り合わせたに違いないのですよう。 そのような事が本のどこかに書いてあったのでござ~♪~ますか? 全く書いてないのですよう。うしししし。。。 それなのにどうして武蔵が美しい女性と湯治場で一緒に巡り合わせたと思うのでござ~♪~ますか? 武蔵は、いわば自戒書とも言える『独行道(どつこうどう)』の中で次のように書いている。 「恋慕の思いに、寄る心なし」 つまり、女性を恋しく思うようなことがあってはいけない。それは剣の道に外れることだ、と言う事ですよう。。。だから、それほど恋しくなるような女性が居たのですよう。そうでなければ、自戒の書に上の句を書かなかったでしょう。 それで、湯治場で一緒になったその女性と武蔵はどのようなことがあったとデンマンさんは、ご想像なさるのでござ~♪~ますか? 湯治場の温泉に浸(つ)かりながら次のような会話が交わされたと思うのですよう。
もしや、あなた様は宮本武蔵殿ではござりませぬか?
いかにも。。。どうして拙者のことをご存知で。。。? 宿の主人があなた様のことをうわさしておりました。 そうでござるか。。。 この湯治場で、ご一緒に湯に浸かるというのも何かのご縁。。。不躾(ぶしつけ)とは存じますが、もしよろしければ、わたくしのお部屋で共寝をお願いできないでしょうか? 共寝と申しますと。。。? いえ。。。一つのお布団にご一緒にと言うつもりではございません。伴の者が身内に不幸がありましたものですから実家に帰しました。わたくし一人が残されたと言うわけでございます。女一人では何かと心細くて。。、たまたまこうしてあなた様のような剣客のお方にめぐり合わせ、こうして不躾なお願いをいたしているわけでございます。 分かり申した。拙者のような者でもあなた様のお役に立つのであれば、異存はござらぬ。 申し遅れました。わたくしは橘卑弥子と申します。紀州藩に仕える御用商人・橘屋小次郎の家内でございます。 武蔵は、なんだかデンマンさんがチョンマゲを結ったようで、にやけてますわねぇ~ そうですか?うしししし。。。やっぱり、きれいなご婦人と一緒だと武蔵もにやけるのですよう。 。。。んで、その後どうしたのでござ~♪~ますか? 湯治だから少なくとも1ヶ月ぐらい湯治場で一緒に過すことになる。 袖触れ合うも他生の縁 武蔵だって男ですよう。きれいな女性と一つ部屋で暮らせば“他生の縁”を感じて情が移るというものですよう。 それで。。。? 卑弥子さんと同姓同名のご内儀も、心の優しい女性だから武蔵と打ち解けてゆくわけですよう。しかも、武蔵は僕と同じように寝る時には決まって“ついたて”を立てる。 武蔵もデンマンさんのように、二つのお布団の間に“ついたて”を立てたとおっしゃるのですか? そうですよう。当然ですよう。遊びで湯治しているわけじゃない。武者修行の一つとして精神を湯治しているのですよう。 それで。。。? 時にはご内儀は武蔵の背中を流してやることもあった。武蔵も、その夫人の美しさに楊貴妃を見る思いがした。 それで武蔵は『長恨歌』にハマッていたのでござ~♪~ますか? 当然ですよう。だから、美しいご内儀と過した日々が武蔵にとって素晴らしい思い出になったのですよう。忘れようとしても忘れることができないほどの思い出になった。だからこそ『独行道』に戒めの言葉として次のように書いたのですよう。 「恋慕の思いに、寄る心なし」 そうでしょうか? 僕も高校の漢文の時間に大島先生の『長恨歌』を聞いて魅せられたのですよう。そして、いつか玄宗皇帝のように華清池の温泉で楊貴妃に巡り合いたいと思ったものですよう。そして、ついに箱根で僕はその思いを遂げたのですよう。 あのォ~。。。あのォ~。。。箱根でってぇ。。。その楊貴妃のような女性ってぇ。。。あたくしのことでござ~♪~ましょうか? もちろんですよう。僕は箱根で卑弥子さん以外の女性と温泉に浸かったことはないのですよう。うしししし。。。 マジですの? 僕は大真面目ですよう。 それで、武蔵とそのご夫人はどうなったのでござ~♪~ますか? そろそろ別れが近づいたある晩、ご内儀(ないぎ)は、初夜を迎える若妻のように三つ指ついて武蔵にお辞儀をする。そして次のように言ったのですよう。 「武蔵殿、お蔭様で安心して湯治をすることができました。
何かのご縁とは申せ、わたくしの身勝手なお願いを
聞き届けてくださり、本当にありがとうございました。
お礼と申し上げても他に何もできないわたくしですが、
今夜はあなた様の伽(とぎ)をさせて
いただきたく存知(ぞんじ)ます」 「いや。。。、それはなりませぬ。
拙者、武者修行の身でござれば、
ご内儀のお心だけを
ありがたく頂戴(ちょうだい)仕(つかまつ)ります」 分かりますか卑弥子さん。。。? でも、これってデンマンさんの作り話でしょう? あのねぇ~、武蔵は、なぜ『長恨歌』にハマッたのか? なぜですの? 玄宗皇帝と楊貴妃のような疑似体験を武蔵がご内儀と持ったからですよう。だからこそ、『長恨歌』は武蔵にとって特別だったのですよう。ご内儀との体験が武蔵の剣の道に、ある閃(ひらめ)きを与えたに違いない。僕も卑弥子さんと同様な体験を持った時、同様の閃きを感じたものですよう。 でも。。。、でも。。。、玄宗皇帝と楊貴妃は愛し合って濡れ濡れになったのでござ~♪~ますわ。 だから。。。そこですよう。『長恨歌』は、煩悩に始まって煩悩につきる人間慾と無常を詠(えい)じ尽くして余りがない。 玄宗との仲睦まじかった日々をしのんで
楊貴妃は次のように語ります。
「陛下はわたしにささやかれた。
天にあっては比翼の鳥、
地にあっては連理の枝。
二人はいつでもいっしょだよと。
その誓いも今は空しく、
私は天にあり、陛下は地にとどまって、
別れ別れです」 この不幸の原因は何だったのか? 何でしたの? 煩悩に始まって煩悩につきる人間の愛欲。玄宗皇帝と楊貴妃はその愛欲に溺れてしまった。楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可しなければならなかった。そして結局、楊貴妃は殺されてしまった。楊貴妃の人生の破滅ですよう。 可哀想に。。。 どうして僕と武蔵は“ついたて”を立てたと思いますか? なぜでござ~♪~ますか? 武蔵は、長恨歌を愛誦(あいしょう)し、白楽天のあの艶麗(えんれい)にして悠遠(ゆうえん)な構想と宇宙観の示唆に富んだ一章一章をふかく玩味(がんみ)した。そして、その中の二行の辞句のわきに次のように書いた。 「これ兵法の始めにして終りなり」 これは、どういう意味なのでござ~♪~ますか? 殺戮(さつりく)の剣から愛の剣へ このような意味ですよう。 デンマンさんも箱根の夜に、このような閃きを感じたのでござ~♪~ますか? その通りですよう。つまり、武蔵の「愛の剣」とは、人間本能を自戒する大切な「道」をもたせたのですよう。破壊よりは建設を!。。。ですよう。 まだ分かりませんわ。 あのねぇ~、あの晩、僕が“ついたて”を立てなかったら、卑弥子さんは次のようになっていたのですよう。
武蔵だって、同じような状況に置かれたのですよう。ご内儀の申し出に鼻の下を伸ばして褥(しとね)を共にしたならば、卑弥子さんと同じように腹が膨らんでしまったかもしれないのですよう。そうなったら、ご内儀は離縁されて人生の破滅になるかもしれない。 それは、飛躍したお話ではござ~♪~ませんか? いや。。。決して飛躍しているわけではありません。風紀が乱れることを極力嫌っている京都の女子大学の教授会は、未婚の母である橘卑弥子・准教授を解雇処分にするのですよう。これは卑弥子さんの人生の破壊ですよう。 つまり、殺戮の剣であってはいけない。破壊の剣であってはいけない。あくまでも愛の剣でなければならない。デンマンさんも、そのように悟ったのでござ~♪~ますか? そうですよう。その通りですよう。うししししし。。。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 でも、あさっては、もう少し、まともなお話が読めると思いますわ。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
日本の露天風呂っていいですよね。
カナダにも露天の温泉ってありますわ。
でも、日本と違うのは、まず間違いなく
水着を着用しなければならないことです。
人里離れた山奥でも行かない限り
日本のような露天風呂に入ることはできません。
わたしはデンマンさんとご一緒に
北海道の長万部(おしゃまんべ)にある
ラジウム温泉の露天風呂に入ったことがありました。
2度目に入った時にはわたし一人だけで行きました。
20代の若い男の人が2人ほど入っていましたが、
わたしが行くと、あわてて出てしまいました。
3度目にはわたし一人だけでしたが、
50歳くらいの男の人があとからやって来ました。
英語が少しだけ話せましたが、
かなりしつこくわたしに話しかけてきました。
お酒の臭いがしたので、たぶん、
いたずら心を起こしたのかもしれません。
ニコニコしながら、わたしに近づいて
お尻に触ろうとしたのです。
わたしは合気道2段の技を持っていますので、
「逆手取り」にその老人を沈めました。
イテテテぇ~、と言いながら、かなりお湯を飲み込んで
目を白黒させながら、わたしを恨めしそうに見て
ゲロゲロとお湯を吐き出していましたわ。
大変面白い経験をしました。
うふふふふ。。。
ところで、英語の面白い話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
卑弥子さんには、ちょっと信じがたいような
恋物語がありますわ。
関心があったらぜひ次のリンクをクリックして
じっくりと読んでみてくださいね。
■ 『平助さんが卑弥子さんに恋をしたのがウンのつき』 では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
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