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坊っちゃん
と熊谷 by デンマン & 卑弥子
2009年8月29日
Subj:軽井沢で水着になって
はしゃいでいますか? ストレスを解消しながら ルンルン気分で楽しんでね! \(*^_^*)/ キャハハハ。。。
Date: 17/08/2009 8:47:44 PM いま、8月25日の『小百合物語』の記事をライブドアで予約投稿したところです。
日付: Mon, 10 Aug 2009 08:24:47 +0900 (JST)
差出人: "domini@yahoo.co.jp" 宛先: "green@infoseek.jp"
件名:「麦わら帽子」のフレーズが
ずーっと気になってました
\(*^_^*)/ 「人間の証明」で麦わら帽子を 渓谷で落して亡くした、 8月10日の小百合さんからのメールを使って 「人間の証明」
麦わら帽子
霧積温泉 いつものように小百合さんからインスピレーションをもらいました。
すでに上の2つの記事を書いて予約投稿してあります。 バンクーバーは、もう秋になった感じですよう。 もちろん、その方が僕にとってはうれしいですよう。 \(^δ^)/ キャハハハ。。。
じゃあ、小百合さんも元気で軽井沢を楽しんできてね。 室生犀星の文学碑を僕の分まで眺めてきてね。 \(^_^)/キャハハハ。。。 (\__/) じゃあねぇ~
デンマンさん。。。、今日はどうして急に「坊っちゃん」なんでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、僕は次の記事の中で熊谷空襲を調べたのですよう。 熊谷空襲
それで。。。? それで、ついでだと思って懐かしい母校の「熊谷高校」が『ウィキペディア』で、どのように紹介されているのだろうかと思って覗いてみたのですよう。ちょっと読んでみてください。
熊谷高校
1895年(明治28年)、埼玉県第二尋常中学校として創設された。 校訓 「質実剛健」 校風 自由な校風を有することが特徴である。 このほかの同校の自由な校風を象徴するものとして以下のようなものがある。 このほか、小規模な行事であろうと肩を組んで校歌を斉唱する習慣がある。 40キロハイク 毎年5月中旬から下旬ごろに行われる行事。 臨海学校 1年次の7月中旬に行われる行事。 熊高祭 毎年9月に行われる、文化祭と体育祭の総称である。 修学旅行 2年次の11月頃に行われる。 部活動 「文武両道」の精神にのっとり、部活動への加入率は高い傾向にある。 硬式野球部が1951年、1982年などに3回夏の甲子園に出場しており、うち1951年の大会においては準優勝した。 主な出身者・関係者 政治・行政 (略) 経済 (略) (中略) 芸術・雑 弘中又一: 夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとなった第二中学の教員 (後略) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 。。。んで、最後の方で「坊っちゃん」に出くわしたのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。僕は知らなかった。小林秀三は在学中に良く話に出ていたのですよう。田山花袋が書いた『田舎教師』のモデルだと言う事が知れ渡っていた。校長室の前の廊下にガラスケースがあって、その中に埼玉県第二尋常中学校の第2回か3回目の卒業写真が飾られてあって、僕も何度かその記念写真に写っていた小林秀三の姿を見たことがあった。 弘中又一さんの事は話に出てこなかったのでござ~♪~すか? 誰からも聞いた覚えが無いのですよう。。。『田舎教師』よりも小説「坊っちゃん」の方が良く知れわたっていると思うのに、どう言う訳か僕は弘中又一先生の話を聞いたことがない。実に意外だったのですよう。 それで、今日の記事で取り上げる気になったのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。 小説「坊っちゃん」の方が良く知られているのに、なぜ弘中先生のお話が出なかったのでござ~♪~ましょうか? あのねぇ~、僕は思うのだけれど、小林秀三が田山花袋が書いた『田舎教師』のモデルだと言うことは、ほぼ間違いないのですよう。つまり、文学に多少関心がある人の間では、誰も認めている事実なんですよう。 弘中先生が「坊っちゃん」のモデルだと言う事は夏目漱石ファンの誰もが認めているわけではないのでござ~♪~ますか? 僕も夏目漱石のファンだけれど、僕は知らなかった。夏目漱石自身が「坊っちゃん」のモデルだと、僕は素朴に思い込んでいましたよう。 なぜでござ~♪~ますか? ただ素直に、そう思い込んでいた。「坊っちゃん」の主人公と夏目漱石が僕のオツムの中では重なり合っていた。 つまり、私小説だとデンマンさんは思っていたのでござ~♪~ますか? 志賀直哉が書くような私小説だとは思わなかったけれど、「坊っちゃん」の主人公は、明らかに夏目漱石の生い立ちや経歴に基づいて書かれていますよう。 たとえば。。。? 『ウィキペディア』の作品解説には次のように書いてあるのですよう。
作者(夏目漱石)が、高等師範学校(後の東京高等師範学校)英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年4月から教鞭をとり、1896年4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。
つまり、漱石の松山時代の体験に基づいて書かれた小説なのですよう。だから、私小説とは言わないまでも、漱石自身の体験がそこ、ここに書かれている。 例えば。。。? 漱石が子供の頃に一緒に居た女中のお清さん。孫が書いた本にも次のように紹介されている。
漱石の『坊っちゃん』には、父親に嫌われる主人公を無条件に愛する使用人の清という女性が描かれる。
清が「まっすぐで、よいご気性です」と坊っちゃんをほめると、坊っちゃんは「おれはお世辞は嫌いだ」といいかえす。 が、「それだから、よいご気性です」といわれて閉口するのである。 そこで愛されているのは、坊っちゃん本人であり、彼自身の気性である。 彼の生まれた家柄や、父親といった、彼自身に選べない属性ではない。 だからこそ坊っちゃんも清を愛し、恩を返そうと思う。これは「ひいき」ではない。 漱石自身は、坊っちゃんではない。 もっと複雑で多重人格的な人だが、清のようなまっすぐな愛情を尊ぶ性向は、明らかに漱石のものだったと思う。 148ページ 『漱石の孫』 著者・夏目房之介 確かに、漱石自身は坊っちゃんではない。でも、漱石自身も坊っちゃんの姿に自分自身のあるべき姿を見ていたはずですよう。 どうしてデンマンさんは、そのような事をおっしゃるのでござ~♪~ますか? 孫の房之介さんは、更に次のように書いていた。
本当の自分を持つ
「真に目覚める日本」とは、個人におきかえれば「本当の自分」を自覚することになる。 (中略) ともあれ漱石は、日露戦争直前の、明治国家が世界における存亡を強く意識して極度に緊張した時期に留学したのである。 (中略) 「国家は大切かもしれないが、そう朝から晩まで国家国家といってあたかも国家に取り付かれたような真似はとうてい我々にできる話ではない。(略) 見事な指摘である。これを漱石は、日露戦争(1904-1905年)および第一次世界大戦(1914-1918年)の戦勝国となった日本で語っている。 日本は、そののち「朝から晩まで国家国家」といわねばならない、「出来ない事」をできるといいはる国になり、「徳義」もないくせに「徳義」ヅラして(この点は欧米だって同じだが)、そして手ひどく(太平洋戦争で)負けた。 131-134ページ 『漱石の孫』 著者・夏目房之介 つまり、僕は『漱石の孫』の上の部分を読んで、夏目漱石は当時の自己肥大しつつある日本帝国という国に居て、本当の自分を持つために苦悩していた。その事を赤裸々に小説化したのが「坊っちゃん」だと思えたのですよう。 つまり、苦悩する自分の姿を坊ちゃんになぞらえて書いたとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか? そうですよう。漱石は1900(明治33)年の9月に横浜からイギリス留学に向けて出発した。完璧を望む漱石は文学者として苦悩しノイローゼになってしまった。でも、その経験があったからこそ、漱石は日本帝国を、そして自分自身を客観的に見ることができた。そして、よくよくイギリスと比較してみたら、日本帝国は夢中で自己肥大しようとしていた。 狂っているのは漱石ではなく、当時の日本帝国の方が病的に自己肥大しようとしていたとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか? そうですよう。日本帝国は「朝から晩まで国家国家」と言うようになっていった。「出来ない事」をできると言いはるような国になりつつあった。そういう中で漱石は『坊っちゃん』を書き上げて1906(明治39)年に「ホトトギス」に発表した。 つまり、「真に目覚める日本」とはどう言う事か?を考えながら、漱石自身が「本当の自分を持つ」ために書き上げたのが『坊っちゃん』だとデンマンさんはおっしゃるのでござ~♪~ますか? その通りですよう。そう思っているところで、『ウィキペディア』の母校「熊谷高校」を覗いてみたら次のようなことが書いてあった。 弘中又一: 夏目漱石の小説「坊っちゃん」の
主人公のモデルとなった
第二中学(現・熊谷高校)の教員 意外だったのでござ~♪~ますか? 実に意外だった。 どうして。。。? 夏目漱石は自分自身を俎板(まないた)の上に乗せて、これから自分をどのように料理しようか?そう考えながら書いたのが『坊っちゃん』だと思えたのですよう。 ところが、「坊っちゃん」の主人公のモデルが外に居たと『ウィキペディア』に書いてあったのでござ~♪~ますわね?! そうですよう。まるでバケツの冷水を頭からぶっ掛けられたような気分でしたよう。 マジで、それ程意外だったのでござ~♪~ますか? もし、それが事実であるならば、弘中又一先生は、夏目漱石が真に理想としていたような人物ではなかったのか?。。。僕は、ふと、そう思ったのですよう。 。。。んで、調べ始めたのでござ~♪~ますか? そうです。まず弘中先生の略歴を読んでください。
弘中又一 略歴
21才頃の弘中先生 ・明治6年(1873)12月10日、山口県都濃郡湯野村第287番屋敷(現、山口県徳山市大字湯野4152番地)で、父弘中伊亮、母タメの長男として生まれる。 ・明治12年(1879)7月 現湯野小学校入学。 明治18年8月18日卒業。 ・明治23年(1890)1月 同志社普通学校入学。明治27年6月29日卒業。 ・明治28年(1895)5月27日 愛媛県尋常中学校へ単身赴任。 ・明治29年(1896)4月1日4月1日 愛媛県尋常中学校東予分校へ転任。 ・明治29年(1896)11月24日徳島県尋常中学校第二分校(現 富岡西高等学校)へ着任。 ・明治33年(1900)4月4日 埼玉県第二中学校(現 埼玉県立熊谷高等学校)着任。 ・大正8年(1919)5月8日同校離任。大正8年5月同志社中学校へ赴任。 ・昭和7年(1932)3月31日同校退職。 ・昭和13年(1938)8月6日永眠。墓は菩提寺湯野常照院にある。 漱石先生の生まれは1867年の2月だから、弘中先生の方が6才若いのですよう。 松山の中学校で一緒に居たのはわずかに1年程なのですわね。 そうなのですよう。漱石先生は当時28才で、弘中先生が赴任した時は21才ですよう。 弘中先生は若かったのでござ~♪~ますわね あのねぇ~、僕が弘中先生のことを調べ始めて驚かされたのは、旧制熊谷中学の卒業生の間で弘中先生の事は結構知られていたのですよう。 どうして分かったのでござ~♪~ますか? 1975年に熊谷高校は創立80周年を迎えたのですよう。その記念行事として「熊谷高校八十周年誌」を出版したのです。 その八十周年誌に卒業生が寄せた弘中先生のエピソードがたくさん書いてあったのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。そう言えば僕も買わされて、親父が懐かしそうに手にとって読んでいたのを今でも思い出しますよう。 でも、デンマンさんのお父様は小学校だけしか出ていなかったのでしょう? 卑弥子さんは、そのようなどうでもよい事はよく覚えているのですねぇ~。。。確かにそうなのですよう。でも、親父だって家が貧乏でなければ、当時の熊谷中学へ入りたかったのですよう。 。。。んで、お父様はどうしていたのですか? 昔の忍尋常小学校で給仕をしながら独学で教員検定試験を受けてパスしたそうですよう。18才で小学校で教え始めたと言うのだから驚きます。でも、中学校に行けなかったので、小学校の頃の同級生の名前を探しながら、懐かしそうに読んでいましたよう。 デンマンさんは、読まなかったのでござ~♪~ますか? 親父が独占してしまったので、僕は初めにざっと目を通したぐらいで、とりわけ面白いとも思わなかったから、それ以後読まなかったのですよう。 そうしたら、「熊谷高校八十周年誌」に弘中先生の面白いエピソードがたくさん書かれていたのでござ~♪~ますか? そうです。ネットで、同窓生のページを調べていて知ったのですよう。 。。。んで、どのようなエピソードがあったのでござ~♪~ますか? 教科は『坊っちゃん』の中に書かれているように、熊谷中学でも数学を教えていたのですよう。博学で、英語の原書を授業で用いることもあったそうです。しかも、「坊っちゃん」のような破天荒ぶりも見せたそうですよう。 どのような。。。? 弘中先生は“泥鰌(どじょう)”が好物だったらしいのです。ある時、安いのでどじょうを買ったのだけれど、あいにく入れ物がないので、かぶっていた山高帽の中に入れて持ち帰ったというのですよう。グルメの小百合さんが聞いたら絶対に大喜びしそうな話ですよう。うしししし。。。 その他には。。。? またある時は、荷車を引いて歩くのに山高帽にフロックコートをはおって引いていたというのですよう。面白いでしょう?! まだあるのでござ~♪~ますか? 修学旅行で京都に行ったとき、先生方は皆モーニングにネクタイを締めて引率していたが、弘中先生はネクタイを忘れたらしく、モーニングにネクタイ無しで引率していたというのですよう。 他には。。。? 中学の先生にしては周囲の視線を気にしないで、ひょうひょうとして、あまり身なりには構わなかったそうです。 あだ名はあったのでござ~♪~ますか? 「エグス」というのですよう。 卵の英訳でござ~♪~ますか? 違うのですよう。出席簿の教師名欄に弘中の「弘」を書く代わりに数学記号「x」を書き、「エグス」と発音していたと言うのです。それで「エグス」と呼ばれるようになったとか。。。面白いのは、先生の名前をエグスだと思い込んでしまって、卒業しても本名を知らない生徒が居たとか。。。 マジで。。。? 「熊谷高校八十周年誌」に、そう書いてあるらしい。住んでいたのは、学校から南東へ約1キロ、さいたま地裁熊谷支部の南側にある「明石医院」の隣の貸家だった。 今でもあるのでござ~♪~ますか? その貸家は取り壊されて、今では駐車場になっているそうです。市街地の中心部にありながら、熊谷空襲でも焼けずに残った地区だったそうで、そのあたりは、今でも古い民家が立ち並ぶ狭い通りだそうです。 何か面白いお話でも伝わっているのですか? あのねぇ、大家だった明石千代子さん(92)は、「弘中先生が酔って道ばたで寝ていた」と、お母さんから聞かされたそうですよう。 中学校の先生が酔って道端で寝ていたなんてマジでござ~♪~ますか? 覚えている女性の名前と年齢までがはっきりしているのだからマジですよう。しかも驚いたことに、「漱石の『坊っちゃん』先生旧居跡」という看板が、ブロック塀に今でも掲げられているのですよう。次のサイトへ行くと、その写真を見ることができます。
弘中先生は色白で背が高くて、学校近くへ写生に出かけると、青縞織(あおじまおり)の女子工員たちが一斉に工場の窓から首を出すほど「ハンサム」だったそうですよう。でも、『坊っちゃん』の主人公のモデルだ、と語ることはほとんどなかったらしい。 弘中先生が教えていた頃の校舎は今でも残っているのですか? 旧制熊谷中の校舎は改築されて、今では見ることができません。でも、当時からあったくぬぎ林は今でも残っていますよう。林の奥にある同窓会館「くぬぎ会館」で、弘中先生写っている集合写真を見ることができます。 それ程ハンサムなら、あたくしも一度弘中先生が写っているお写真をぜひ見たいものでござ~♪~ますわ。 あのねぇ~、僕が更に驚いたのは、田山花袋の小説『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三(1884―1904; 熊谷中2期生)も、弘中先生に教わった生徒の一人だと言うのですよう。 しかし、これだけ有名なのに、どうしてデンマンさんは弘中先生のお話を覚えていなかったのでござ~♪~ますか? いま、振り返ってみても、僕自身が不思議でならないのですよう。。。やっぱり、どのように思い出そうとしても記憶に無い。どう言う訳か僕にとって『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三の印象が強烈で、弘中先生の話は、多分聞いたと思うのだけれど、全く記憶に無いのですよう。 そのような事があるのでござ~♪~ましょうか? あるのですよう。何が強烈に印象に残るのかは、人によってさまざまですからね。 でも、『田舎教師』の主人公のモデルになった小林秀三の印象が強烈だとデンマンさんはおっしゃいましたけれど、何が強烈だったのでござ~♪~ますか? 実は、その事で僕はかつて記事を書いたことがあるのですよう。これから探してみます。記事が長くなったので、その事については、あさって話しますよう。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 とにかく、デンマンさんのお話が面白くなりそうですわ。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
高校の頃の思い出って、
あなたにもたくさんあるでしょう?
もちろん、わたしにもありますわ。
恋愛らしい恋愛をするのも
高校生の頃ですよね。
自慢するわけではないのですけれど、
高校生の頃わたしはもてたのですわ。
でもねぇ~、一つ大きな問題があったのですわ。
わたしに寄ってくる男の子は
どう言う訳か成りすまし馬鹿さんのような
下らない男の子ばっかりだったのですわ。
どうしてなの?
わたしは悩みました。
デンマンさんがその事で記事を書いていました。
もし、興味があったら次のリンクをクリックして
ぜひ読んでくださいね。
『本当に寂しくて死にたいの?』
(2005年10月24日) ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。
時間があったらぜひ読んでみてください。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
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