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「蒲団」と
「田舎教師」
2009年9月24日

11月の桜

11月に桜が咲いている!
ビックリしました。
間違いなく桜の一種です。
小百合さんもビックリしていました。
名前は分かりません。

バンクーバーやバーナビーの植物園のように名札をつけてくれればいいのに!
小百合さんは、そう言っていましたね。
ごもっともです。

旧秋元別邸の近くに田山花袋が9歳から14歳まで住んでいたという旧居が保存されていました。

田山花袋の『田舎教師』を読んだ事がありますが、
僕の記憶では、主人公は羽生の田舎にあるお寺に下宿して僕の母校・熊谷高校(当時の旧制熊谷中学)に毎日、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて通っていた、というような事を読んだことがあります。
初めて読んだ時、信じがたい事をしていたものだと驚きました。
僕が通ってた頃、校長室の前の廊下にガラス張りのケースがあって、その中に旧熊谷中学校第三回卒業生の写真の中に、
「田舎教師」のモデル・小林秀三の少年時代の姿を見たことがあります。

小百合さんが卒業した館林女子高校は田山花袋の旧居から歩いて5分のところにありました。
女子高時代、校門の近くの食べ物屋さんで
ラーメンだか、うどんだか、あるいはカップヌードルだったか。。。
それを買って戻って来る時に校門のすぐ前で、それをぶちまけてしまい、後片付けをしなければと思ったけれど、
結局、何もしないでそのままにして教室に戻ってしまった。
そんな事をいつだったか小百合さんが書いていました。

12月にバンクーバーに戻るまでに
小百合さんの面白いエピソードが、もっともっと聞けるような気がするのです。
楽しみにしていま~♪~す。

では、小百合さんに捧げる短歌を。。。

館林

季節外れの

桜咲き

かわゆいきみに

胸ときめかせ

『愛しい人 (2008年11月14日)』より

デンマンさん。。。、今日も館林の短歌を持ち出してきたのでござ~♪~ますわねぇ!?

そうでうよう。今日も田山花袋について卑弥子さんと語ろうと思うのですよう。

どうして田山花袋先生にデンマンさんはこだわるのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、考えてみると僕はよくよく田山花袋とは縁があるのだと思うのですよう。

どうして、そう思うのでござ~♪~ますか?

まずねぇ、館林に着くと小百合さんが僕を田山花袋の旧居に案内してくれたのですよう。

なぜ。。。?

だから。。。ぼくも、どうしてぇ、と思ったのですよう。。。あのねぇ、それまでに僕は小百合さんと田山花袋について語り合ったことなど一度もないのですよう。

多分、小百合さんは他に案内する所が思い浮かばなかったのだと思いますわ。

いや。。。たとえば、すぐそばにある県立つつじヶ丘公園だとか、旧秋元別邸だとか、旧上毛モスリン事務所など。。。僕を案内する場所は他にも幾つかあったのですよう。

それなのに何をおいてもまず最初に、小百合さんは田山花袋の旧居にデンマンさんを案内したのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。

だったら、多分、小百合さんはデンマンさんが田山花袋について書いた記事を読んだのでござ~♪~ますわ。

あのねぇ~、僕が田山花袋のこと、田舎教師のことを書いたのは、現在ではもう無くなってしまった『タンタン広場』と呼ばれるコミュニティだったのですよう。それは僕と小百合さんが2007年に再会する以前のことなのですよう。

でも、デンマンさんが『タンタン広場』で書いた記事を小百合さんは読んでいたかもしれませんわ。

それは考えられません。

どうして。。。?

当時、僕はデンマンではなく、バークレーと言うハンドル名を使っていた。それに小百合さんは僕を本名でしか知らなかった。だから、僕が田山花袋に関心を持っていたなんて全く知らなかったはずなんですよう。

それで、小百合さんに案内されて田山花袋の旧居を訪れたことに並々ならない不思議な縁をデンマンさんは感じたのでござ~♪~ますか?

いや。。。館林で小百合さんと会っている時には、それ程の不思議な縁を感じなかったのだけれど、今振り返ってみると、どうしてこれほど田山花袋のこと、田舎教師のことを書くことになったのか?。。。この事を考えた時に、僕は改めて不思議な縁を感じたのですよう。

つまり、田山花袋旧居を訪れたことで、デンマンさんは次のような記事を書くことになった。そこに不思議な縁を感じるのでござ~♪~ますか?

『坊っちゃんと熊谷(2009年8月29日)』

『田舎教師と熊谷(2009年8月31日)』

『坊っちゃん再訪(2009年9月2日)』

『田舎教師と成りすまし馬鹿(2009年9月4日)』

『弘中先生と熊谷(2009年9月6日)』

『熊校の先生(2009年9月10日)』

『「田舎教師」再訪(2009年9月12日)』

『四季桜 (2009年9月14日)』

『「田舎教師」と行田(2009年9月18日)』

『小百合さんの存在感(2009年9月20日)』

そうですよう。僕もこれ程たくさんの記事を書くとは思っても居ませんでしたよう。

でも、『坊っちゃん』のことを書いたことがきっかけだったのではござ~♪~ませんか?

いや。。。その前に僕は森村誠一さんが書いた『人間の証明』について記事を書いたのですよう。それで、森村さんのことをウィキペディアで調べたら“熊谷空襲”を体験している事が分かった。しかも熊谷市で生まれ育った。それで、たまたま僕は母校の“熊谷高校”をウィキペディアで見てみた。そうして気づいたのが次の項目だった。

熊谷高校

1895年(明治28年)、埼玉県第二尋常中学校として創設された。
県下の公立校としては埼玉県第一尋常中学校(現埼玉県立浦和高等学校)に次ぐものである。
戦後、新制埼玉県立熊谷高等学校となった。
開学以来男子校である。
早くから私服での登校が認められており、校風は極めて自由である。

校訓

「質実剛健」
「文武両道」
「自由自治」
部活動への加入率は高く、また自由な校風を有している。

校風

自由な校風を有することが特徴である。

 (中略)

主な出身者・関係者

政治・行政 (略)

経済 (略)

 (中略)

芸術・雑

弘中又一: 夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとなった第二中学の教員
小林秀三: 田山花袋『田舎教師』モデル

須田剋太: 日本画家

(後略)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『坊っちゃんと熊谷 (2009年8月29日)』に掲載

この弘中先生が「坊っちゃん」の主人公のモデルだったことを僕はすっかり忘れていた。それで弘中先生のことを書き始めて、やがて関心が「田舎教師」の小林秀三さんに移っていったのですよう。

つまり、そもそものきっかけは『人間の証明』について書き始めたことでござ~♪~ますわね?

その通りですよう。

だったら、なにも小百合さんの事を持ち出す必要は無いではござ~♪~ませんか!

あのねぇ、どうしても小百合さんのことを持ち出さねばならない理由があるのですよ。

それは何でござ~♪~ますか?

『人間の証明』について書き始めるきっかけを作ったのが小百合さんが書いた次のメールだったからですよう。

Subj:霧積(きりづみ)温泉で、

また楽しい思い出が増えてよかったね。

\(*^_^*)/ キャハハハ。。。

日付: Mon, 10 Aug 2009 08:24:47 +0900 (JST)
(バンクーバー時間:8月9日 日曜日 午後4時24分)
差出人: "domini@yahoo.co.jp"
宛先: "green@infoseek.jp"

ただいまー 夕べ  戻りました。
自由に させてもらいました
元気です
碓氷峠の近く 霧積(きりづみ)温泉にやっと行きました

霧積(きりづみ)温泉

金湯館(きんとうかん)

一晩ねて翌朝、 急用で すぐ戻らなくては・・っと
軽井沢から  帰らなくては いけない状況になり
あわてて 横川まで 降り PA (パーキング)からTelして長男坊と話したら、戻らなくてOK という事になった。

ホットして また 碓氷峠を登る。バカだねー私
(今度は旧道から、父と昔 とおった道を登った)
横川まで降りてしまったから
途中 霧積(きりづみ)へ向かってみよう。イイ チャンス!
ここから軽井沢は近いし夕方までにまた戻れば・・と

「人間の証明」で麦わら帽子を
渓谷で落して亡くした、あのフレーズを
ずーっと 気になっていて やっと 行けました。

「人間の証明」で麦わら帽子を 渓谷で落して亡くした???
なんだか興味深いことを書いてくれたね?
ん。。。?「人間の証明」?

なんだか聞き覚えのあるタイトルですよう。
また、後で調べてみます。

碓氷峠近くの 霧積(きりづみ)温泉ね?
初めて聞く温泉ですよう。
う~♪~ん!
軽井沢タリアセン夫人と一緒に入りたいですよう!

\(@_@)/ キャハハハ。。。


『人間の証明 (2009年8月19日)』より

つまり、小百合さんの麦わら帽子の思い出が、回りまわって田山花袋の「田舎教師」に行き着いたと言うことでござ~♪~ますか?

そうですよう。

でも、なぜ今日、「蒲団」を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?

卑弥子さんが異常な関心を示したからですよう。

あたくしが異常な関心を。。。?

そうですよう。卑弥子さんは忘れてしまったようだから、次の対話を読んで思い出してくださいね。

小林秀三は中田遊郭へ

一度も行かなかったのではないか?

デンマンさんは、何が何でも現実の小林秀三さんは中田遊郭へ通わなかったと思い込みたいのでござ~♪~ますわね?

あのねぇ~、何度も言うけれど、小林秀三さんは中田遊郭へ行ったことを日記に一言も書いてないのですよう。

やましい事は日記に書かないものでござ~♪~ますわ。

卑弥子さん!。。。あなたは、何が何でも小林秀三さんを中田遊郭へ行かせたいのですか?

だってぇ~、小説には、そのように書いてあるのでござ~♪~ますわア!そうでしょう?

だから、そこが小説と現実の違うところですよう。

だったら、田山先生はどうして中田遊郭を持ち出したのでござ~♪~ますか?

小説家だからですよう。

でも、それでは、あたくしを説得するような答えになっていませんわ。

あのねぇ~、田山先生は「田舎教師」を書く2年前に、つまり、1907年(明治40年)に『蒲団(ふとん)』という有名な小説を書いたのですよう。

それが中田遊郭と関係あるのでござ~♪~ますか?

直接の関係はありません。でもねぇ、『蒲団』は一大センセーションを巻き起こした小説なのですよう。

どのようにでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、中年作家の女弟子に寄せる複雑な感情を田山花袋は小説の中で描いたのですよう。つまり、女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぐ。。。そして、さめざめと泣くのですよう。

あらっ。。。かなり刺激的な作品なのでござ~♪~ますわねぇ~。おほほほほほ。。。

おほほほじゃないですよう!そうゆう小説を「田舎教師」を書く2年前に書いたのですよう。だから、読者は同じような表現を小説の中に期待する。もし小林秀三さんの清く正しい生活をありのままに小説に書いたら、まるで道徳(修身)の教科書になってしまって、それでは小説が売れないのですよう!

つまり、小説が良く売れるように中田遊郭を持ち出したのでござ~♪~ますか?

違うのですよう。自然主義の小説というのは、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の小説でもなければ、道徳の教科書でもない。つまり、清濁併せ呑(せいだくあわせの)むような小説なのですよう。清く正しいことばかりを書いていたのでは自然主義の小説にならない!

そうでござ~♪~ましょうか?

卑弥子さんは、まだ僕の言葉を疑うのですかァ~?

だってぇ~、小説の中で主人公は中田遊郭に通うのでござ~♪~ますわ。だから、素直に小林秀三さんも中田遊郭に通ったと信じればよろしいではござ~♪~ませんか!

卑弥子さんは、どうして。。。、どうして。。。、中田遊郭にこだわるのですか?

だってぇ~、あたくしは小さな頃に花魁(おいらん)になりたかったのでござ~♪~ますわ。


『「田舎教師」再訪 (2009年9月12日)』より

つまり、あたくしが「かなり刺激的な作品なのでござ~♪~ますわねぇ~」と言ったので、デンマンさんは今日「蒲団」を取り上げる気になったのですか?

そうですよう。。。卑弥子さんが、きっと大喜びすると思ったのですよう。うししししし。。。

デンマンさんは、あたくしがエロい小説を3度のご飯よりも好きだと思い込んでいるのでござ~♪~ますか?

違うのですか?

それほどエロい小説が好きならば、あたくしはとっくの昔に「蒲団」を読んでいますわア~!

あのねぇ~、実は「蒲団」を取り上げたのは、この小説にも小百合さんと僕の不思議な因縁を感じたのですよう。

あらっ。。。エロい小説の中にデンマンさんは小百合さんとの因縁を感じてしまったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。

あらっ。。。マジで?。。。本当でござ~♪~ますか?

卑弥子さん!。。。ヨダレをたらしながら、そのようにウェブカムに近づかないでくださいよう。

でも。。。、でも。。。、あたくし、とっても気になりますわよう。。。

卑弥子さん!。。。ヨダレをたらしながら、そのようにウェブカムに近づかないでくださいよう。。。近づきすぎですよう!。。。卑弥子さんの鼻の穴が。。。鼻の穴が。。。画面に大写しになっていますよう!。。。んも~♪~!

デンマンさん!。。。いい加減にしてくださいな!。。。どうか真面目に「蒲団」のお話を聞かせてくださいまし。。。

『蒲団』(ふとん)  

 田山花袋

田山花袋の中編小説。
「新小説」1907年8月号に掲載され、のち易風社から刊行された『花袋集』に収録された。

概要

花袋に師事していた弟子の岡田美知代とのかかわりをもとに描いた小説。
日本における自然主義文学、また私小説の出発点に位置する作品で、末尾において主人公が女弟子の使っていた蒲団の匂いをかぐ場面など、性を露悪的にまで描き出した内容が当時の文壇とジャーナリズムに大きな反響を巻き起こした。

自分のことを暴露する小説としては、これより先に森鴎外の「舞姫」があったが、下層のドイツ人女性との恋愛の末妊娠させて捨てるという内容であり、女弟子に片想いをし、性欲の悶えを描くという花袋の手法ほどの衝撃は与えなかった。
小栗風葉は「中年の恋」という主題にのみ着目して、「蒲団」に続いて「恋ざめ」を書いたが、自然主義陣営の仲間入りはできなかった。
以後3年ほど、花袋は文壇に君臨したが、一般読者にはあまり受けなかった。

花袋の盟友ともいうべき島崎藤村は、その後、姪との情事を描いた『新生』を書いて花袋にも衝撃を与えたが、私小説の本格的な始まりは、大正2年の近松秋江「疑惑」と木村荘太「牽引」だとする説もある。
花袋や藤村はその後、むしろ平凡な日々を淡々と描く方向に向かった。

あらすじ (ネタバレ注意)

34歳くらいで、妻と三人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。
始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。
時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。

時雄は監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。
だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。
そして時雄は芳子のいない空虚感のために、芳子が寝ていた蒲団に顔をうずめ、泣くのであった。


岡田美知代(おかだ みちよ)

1940年アメリカ滞在中の

美知代(55才)

1885(明治18)年4月15日 - 1968(昭和43)年1月19日
日本の文学者、雑誌記者。
田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。

広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町【じょうげちょう】)に豪商の長女として生まれる。
1898(明治31)年9月神戸女学院に入学するが、文学への志深く、1904(明治37)年2月退学して上京する。
1905(明治38)年、花袋に師事。
同年4月女子英学塾(現・津田塾大学)に入学する。
上京の途次、既知の永代静雄(ながよ しずお)と京都で会い親密な仲になる。
静雄との関係が花袋に知れて帰郷するが、その後『蒲団』が発表される。
再度上京して永代との間に長女千鶴子を儲け、1909年(明治42年)1月花袋の養女として永代と結婚。
3月長女を産んだのち11月いったん永代と別れるが、翌年4月再びともに富山へ行き1911年(明治44年)3月長男太刀男出産。
この間、いくつかの短篇を雑誌に発表する。
花袋の『妻』、『縁』にも登場する。
「ある女の手紙」は花袋への意趣返しの意味を持つ美知代の作品である。

1926年(大正15年)、永代と別れ、「主婦之友」記者として太刀男を連れてアメリカへ渡る。
アメリカで花田小太郎と再婚する。
しかし、花田は結核のため単身1927(昭和2)年に帰国。
1944年(昭和19年)、戦争のため帰国。実妹万寿代の嫁ぎ先の広島県庄原市に住んだ。

岡田美知代の生家は上下歴史文化資料館となっている。


永代 静雄(ながよ しずお)

1886(明治19)年2月12日 - 1944(昭和19)年8月10日)
日本の小説家、新聞記者。
田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン横山芳子の恋人である田中のモデル。

兵庫県に生まれ、伯父の養子となり永代姓となる。
牧師となるため関西学院に入学、神戸教会に所属するが、同志社の神学部に移る。
花袋の弟子となっていた岡田美知代と恋仲になり上京するが仲を裂かれ、新聞記者をする。
1909年、美知代の妊娠により結婚。
同年離婚して関西に戻るが、再び上京して美知代と出奔、各地を転々とするが、最終的に美知代とは別れ、毎夕新聞に勤めたのち、新聞研究所を設立する。
この間、『不思議の国のアリス』の日本での初訳を行ったほか、主に湘南生のペンネームで大衆小説や少年向きSFを多く執筆した。
主な作品に、徳富蘆花の『小説 不如帰』のSFパロディである『小説 終篇不如帰』など。

1933年(昭和8年)ころより伝書鳩研究に専念し、雑誌『普鳩』を発行した。
『蒲団』での静雄像は歪められていると、後年美知代は書いている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

どうですか、卑弥子さん。。。『ウィキペディア』で、これだけの事を調べて書き出したのだけれど、大体、小説の内容がつかめたでしょう?

。。。んで、小説を読むと、もっとエロい事が書いてあるのでござ~♪~ますか?

女弟子の使っていた蒲団の匂いをかぐ場面など、性を露悪的にまで描き出した内容」と書いてあるけれど、いわゆる現代的な意味でのエロい事は書いてありません。もちろん、「エロい」と言う定義は人によってまちまちだけれど、現在の男性週刊誌などに克明に書かれている性のテクニックなどは全く書いてありません。

。。。んで、デンマンさんは読んでみて、どうでござ~♪~ました。

田山花袋先生がこの小説を書いた明治時代に読めば確かにセンセーショナルな内容だったかもしれません。でもねぇ、僕は読んでちょっとがっかりしましたよう。

なぜでござ~♪~ますか?

僕は、描写力だとか、文章の美しさ、話の組み立ての見事さ。。。そういうものを期待していたのですよう。

そういう物はなかったのでござ~♪~ますか?

僕はねぇ、田山花袋先生は習作のつもりで「蒲団」を書いたのではないかと思ったほどですよう。

なぜでござ~♪~ますか?

『ウィキペディア』の説明にも次のように書いてある。

花袋はその後、むしろ平凡な日々を

淡々と描く方向に向かった。

つまり、田山花袋先生の目指していたものは私小説的な小説ではなかったと言うことでござ~♪~ますか?

僕は、そう思ったのですよう。

どう言う訳で。。。?

あのねぇ~、田山花袋先生は明治37(1904)年3月から日露戦争の私設写真班の一員として博文館から派遣されて従軍したのです。ところが、体を壊して9月に帰国した。たまたま建福寺に住職・太田玉茗(ぎょくめい)を訪ねた時に、墓地で「小林秀三之墓」という墓標を目にしたのですよう。

それで。。。?

だから、それが「田舎教師」を書くきっかけになったのですよう。小林秀三さんの墓を見ながら花袋先生は、「志を抱き乍(なが)ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」を書いてみようと思い立った。幸いに秀三さんの日記が中学生時代と小学校教師時代と死ぬ年の1年分とが住職の手許にあった。それを基にして旧友たちに取材し、5年の歳月をかけて小説を書き上げたのですよう。「田舎教師」の初版は明治42(1909)年10月25日に佐久良書房から出版されたのですよう。

デンマンさんの言おうとなさっている事があたくしには良くわかりませんわ。

あのねぇ~、「蒲団」は1907年8月号に掲載された。

つまり、「蒲団」を発表した時には田山先生は、すでに3年ほど「田舎教師」を書き進めていたのでござ~♪~ますわね?

そうですよう。つまりねぇ、田山先生は試行錯誤しながら日本の近代小説を生み出そうとしていた。

そうやって習作していた一つの作品が「蒲団」だとデンマンさんは見るのでござ~♪~ますか?

そうですよう。知っている事から書く、身近なところから書く。。。それが小説を書く基本だと思いますよう。それで、田山先生は女弟子の岡田美知代さんを取り上げて「蒲団」を書いた。

でも、それは田山先生の本命(ほんめい)の作品ではなかったのでござ~♪~ますか?

その後の田山先生の作品を見れば、はっきりしていますよう。田山先生の関心が「志を抱き乍(なが)ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」に移っていたのですよう。

つまり、「蒲団」を発表する頃には、関心は「田舎教師」に移っていたと。。。?

そうですよう。だから、「蒲団」を読むと、完成された美しさが無い。

具体的には、どう言う事でござ~♪~ますか?

描写力だとか、文章の美しさ、話の組み立ての見事さ。。。そういうものが僕には感じ取れなかったのですよう。田山先生は、主人公に起こった出来事を直線的に並べて書いているに過ぎない。推理小説のような構成には全く無頓着(むとんちゃく)。もちろん、推理小説ではないのだから、それほど構成にこだわる必要はない。でも、主人公の視点で書かれてると思ったら、いきなり妻の視点に切り替わったり、女弟子の視点に切り替わったりする。いかにも、習作を書きながら、どのような近代小説を書き上げたら良いのか?試行錯誤している様子が文章の書き方に表れている。

要するに「蒲団」を書き上げる頃には、本命の「田舎教師」の方に関心がすっかり移っていたのでござ~♪~ますか?

僕は、そう思いますよう。実際、「田舎教師」の方が読み応(ごた)えがありますからね。。。

たとえば、どう言う所が読み応えがあるのでござ~♪~ますか?

『田舎教師』 作品解説

田舎教師の主人公・林清三

(実在のモデルは小林秀三)の銅像

主人公が下宿している成願寺の住職が清三に次のように語る。

「人間は理想がなくては駄目です。
宗教の方でも理想を非常に重く見ている。
同化する惑溺するというのは理想がないからです。
美しい恋を望む心、それもやはり理想ですから。
理想があってものに憧れるところがあるのが人間としての意味がある」

「成功、不成功は人格の上には価値がない。
人は多くそうした標準で価値をつけるが、そういう標準よりも理想や趣味で価値をつけるのが本当だと思う」

「どんな人でも人間は人間で、それ相応の安慰と幸福とがある。それに価値もある。
名誉を追って一生をあくせくするにあたらない。
それよりも人間としての理想のライフを送るほうが、どれほど人間としてえらいかもしれない。
何のかのと言って、誰でも皆、死んでしまうんですからな。それを考えると本当につまらない。
どんなに得意になったって死が一度来れば、人々から一滴の涙を注がれるだけじゃあありませんか。死んでからいくら涙を注がれても仕方がない」

「田舎教師」は美しい自然描写を背景に不運の主人公を描く。
島崎藤村が部落差別で苦しんでいる青年を主人公に小説「破壊」を書いたのと共通するものがある。
現実世界でも、田山花袋と島崎藤村はたいへん仲のよい友達だったという。
また、主人公は人生と貧困に悩み若くして世を去った石川啄木とも共通するものがある。

田山花袋の代表作となった「田舎教師」は明治42(1909)年に発表された。
発売以来、明治から平成へと百年近くの激しい時代の移り変わりの中で新潮文庫で百刷を重ねている。
貧しさの中に理想を求め、人生に悩み、ひたむきに生きる清三の姿は、現在でも読む人の心に何かを感じさせないではおかない。


『田舎教師と熊谷 (2009年8月31日)』より

成願寺の住職が主人公に語る内容が実にいいですよう。実は、この住職には実在のモデルが居たのですよう。太田玉茗(ぎょくめい)さんです。

どういう人だったのでござ~♪~ますか?

27才で住職になる前は東京専門学校(早稲田大学の前身)で文学を学んで明治27年に卒業したのです。同期には島村抱月(ほうげつ)が居ました。そして卒業後2年間は三重県の中学校で英語を教えた。それから先生を辞めて上京してからは新体詩や小説や翻訳で活躍したのです。明治30(1897)年には田山花袋、国木田独歩、柳田国男らと共に詩集『抒情詩』を出したりした。明治32(1899)年5月に建福寺の住職を継ぎ羽生の田舎で暮らすようになったのですよう。

田山先生と一緒に詩集を出したこともあるのですわね?

そうなのですよう。田山花袋先生とこの住職は同(おな)い年の親友なのですよう。さらに、田山花袋先生の妹の「りさ」さんは住職に嫁いだ。つまり二人は義理の兄弟でもあったのですよう。

身近な人物を小説の中に描くことは「蒲団」と同じでござ~♪~ますわね?

そうです。でもねぇ、田山先生自身が「田舎教師」をいろいろと調べながら書き進むうちに人間的に成長したのが感じられますよう。

たとえば、どのような所に感じられるのですか?

僕は思うのだけれど、田山花袋と住職の太田玉茗、それに「田舎教師」のモデル・小林秀三さんの3人は新体詩を通してインスピレーションで文学的に繋(つな)がっていたようです。実際、秀三さんは次のような詩も書いていた。

鄙(ひな)はさびしきこの里に

さきて出でにし白梅や

一枝いだきて唯一人

低くしらぶる春の歌

田舎教師のモデル・小林秀三

(熊谷中学卒業時)

物語の中で主人公・林清三は「都を知らぬ鄙少女」というタイトルを書いて美穂子に送ろうと思った。つまり、主人公は恋にも悩みながら、心のどこかで詩人になろうとも思っていた。

それで。。。?

だから、秀三さんの墓を見ながら花袋先生は、「志を抱き乍(なが)ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」を書いてみようと思い立ったのですよう。幸いに秀三さんの日記が中学生時代と小学校教師時代と死ぬ年の1年分とが住職の手許にあった。それを基にして旧友たちに取材し、5年の歳月をかけて小説を書き上げた訳ですよう。

その事が田山先生が人間的に成長した結果なのでござ~♪~ますか?

違います。

だから、具体的には、どのような事なのでござ~♪~ますか?

あのねぇ~、あまり知られていない事なのだけれど、次の略歴を読むと気になることがあるのですよう。

1909年(明治42年)1月花袋の養女として永代と結婚。
3月長女を産んだのち11月いったん永代と別れるが、翌年4月再びともに富山へ行き1911年(明治44年)3月長男太刀男出産。
1926年(大正15年)、永代と別れ、「主婦之友」記者として太刀男を連れてアメリカへ渡る。

つまり、1月に結婚して3月に長女を出産したと言うことでござ~♪~ますか?うふふふふ。。。

もちろん、それは“できちゃった結婚”なんだけれど、僕はその事を問題にしている訳ではないのですよう。

まだ他にも気になることがあるのでござ~♪~ますか?

ありますよう。1926年に長男の太刀男だけを連れてアメリカへ渡っている。長女はどうしたのだろうか?卑弥子さんは不思議に思いませんか?

そうですわね?。。。どうしたのですか?。。。結核で亡くなってしまったのですか?

あのねぇ、長女が生まれると、田山先生の頼みで寺に引き取ってもらったのですよう。

花袋の弟子となっていた岡田美知代と

恋仲になり上京するが仲を裂かれ

ウィキペディアの説明では上のように書いてありますけれど、田山先生が二人の仲を裂いてしまったのでござ~♪~ますか?

そうなのですよう。このようなゴタゴタの中で、住職の太田玉茗さんが“恋の不始末”の面倒を見て長女を引き取ったのですよう。「田舎教師」の中で住職が主人公に人生哲学めいた事を言うけれど、実際、口先だけではなく、言行一致の人だと偲ばれるのですよう。

田山先生もこの太田玉茗さんを親友としてよりも師として慕っていたのでござ~♪~ましょうか?

「田舎教師」を読むと、僕もそのような印象を持ちますよう。玉茗さんの影響で田山先生も人間的に成長してゆくのが感じ取れますよう。

それで玉茗さんは、その後どうなったのでござ~♪~ますか?

玉茗さんは、青年の頃は文学を志したけれど、文壇で活躍することもなく昭和2(1927)年に56歳で亡くなっています。その3年後に田山先生も後を追うように亡くなりました。

。。。んで、「蒲団」と小百合さんが何か関係あるのでござ~♪~ますか?

あるのですよう。

どのような。。。?

あのねぇ、その事を話す前に「蒲団」の横山芳子のモデルになった岡田美知代さんの苦労話を語らねばならないのですよう。

どのような。。。?

美知代さんは後年、『蒲団』での静雄像は歪められている、と書いたのですよう。「田舎教師」ではモデルの小林秀三さんを冷静に見つめることができたけれど、「蒲団」では田山先生は“関係者の一人”であっただけに、冷静にはなりきれなかったようです。

そうでしょうね。デンマンさんがいつもおっしゃっているように人間は誰でも完璧な人は居ませんからね。それで、田山先生と言えども静雄像は歪めて書いてしまったのでしょうね。

少なくとも、美知代さんの目には歪められていた。僕は、美知代さんが一人の女として永代静雄(ながよ しずお)を充分に愛していたと思いますよう。

何か証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

書き残された小説の原稿署名は、すベて「氷代美知代」だそうですよう。「蒲団」のモデルとして花袋に寄生することを厳しく拒絶していたそうです。夫だった永代静雄への想いが滲み出ていると思いませんか?

それなのに、どうして別れてしまったのでござ~♪~ますか?

「蒲団」のモデルにされたことが終生、疫病神のように美知代さんに付きまとったからですよう。

どういう事ですか?

あのねぇ~、田山花袋先生は「蒲団」を書いたことによって自然主義作家としての地位を確立した。文学史的には、そのように評価されている。しかし、「美しく才気ある女弟子を師であるべき者が恋慕する」小説のモデルにされた美知代さんは、田山家養女になって永代静雄と結婚した。しかし、その生活は受難の始まりになった。

どうして。。。?

当時のミーちゃんハーちゃんは知らなくても、知る人は「蒲団」を知っている。

“蛇の道はヘビ”

仕事に就(つ)きたいけれど仕事にありつけない。なぜなら、事情を知っているから「蒲団のモデルは採用できぬ」と新聞社も出版社も入社をはねつけた。当時の人は小説を「虚構」としてでなく「事実」として誤読し、または曲解した。

マジで。。。?でも、新聞社や出版社の人がそのような誤解をするものでござ~♪~ましょうか?

あのねぇ、時代が違うのですよう。文学的認識ではなく封建的儒教道徳で評価されたのですよう。

それで美知代さんは、どうしたのでござ~♪~ますか?

東京を離れ、挙句の果てに日本を離れてアメリカへ渡った。美知代さんは行動の人なのですよう。

つまり、そこが小百合さんと似ていると。。。?

その通りですよう。小百合さんのメールを読んでみてください。

Subj:長い電話お疲れ様でした。

Date: 01/10/2007 1:52:14 AM
(日本時間:10月1日 月曜日 午後5時52分)
Pacific Daylight Saving Time
From: fuji@adagio.ocn.ne.jp
To: barclay1720@aol.com

長い電話お疲れ様でした。
良くわかりました。

経理をしなくてはいけない。
それも13年分。
誰にたのもうか?
レシートもなくてと迷って朝方まで寝られない夜が毎晩だった時、
デンマンさんと話して、ここまで経理が進んだことをホットしてます。

バーナビーで夏休みを過ごすことは 毎年私の支えの時間でした。

あの古い家は、夏休みで休むというより
ペンキ、芝のクローバむしり、
りんごの木の手入れ、
玄関まで高く長い階段のペンキはがしや、
しばらくみがかないガラス、
シミだらけのじゅうたん、
BASEMENTはランドリーのホコリとくもの巣、
行けば、掃除ばかりの家に大変でしたが
また戻りたいと思っていました。

バーナビーの鹿の湖 (Deer Lake)

私が13年間、夏休みを過ごした

バーナビーの“山の家(湖畔の家)”

実父の病気に、もう自分勝手にしていては駄目だ。
と今年決意しました。

こんな私でも欲しい物があります。
別荘です。
場所は長野です。
買ったら元家主の藤田桃子さん夫婦も招きたいです。
よかったらデンマンさんも。

日本だったら、親をおいていくことなく、ゆけます。

でも、29才からバーナビーで夏休みを過ごすことができた事は
私の人生にとって良かったと思います。

ではまた。。。

小百合より


『軽井沢と小百合さん (2007年12月4日)』より

つまり、小百合さんはカナダのバーナビーに救いを求めたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。ちょうど美知代さんがアメリカに羽ばたいて行く事によって救いを求めたように。。。

デンマンさんもバンクーバーで救いを求めたのでござ~♪~ますか?

「救い」と言うほど大げさなものではないけれど、僕はバンクーバーで癒(いや)されていますよう。

。。。んで、15年ほど前にバーナビーの湖畔の家でデンマンさんは小百合さんにお会いしたのでござ~♪~ますか?

そうですよう。

。。。んで、海外に羽ばたくと救いがあるものでござ~♪~ますか? 

自由と進取(しんしゅ)の気風に浸(ひた)ることができますからねぇ。

もう少し分かり易いように説明してくださいな。

だから、堅苦しい人間関係に束縛されずに世界に羽ばたくような自由な気持ちで、お互いに一人の自由人として理解を深めることができるのですよう。

その証拠でもあるのでござ~♪~ますか?

ん。。。?証拠。。。? あのねぇ、僕と小百合さんは、日本から太平洋を越えて何千キロも離れたカナダのバーナビーで初めて出会ったのですよう。つまり。。。、つまり、心の平安を願う国際人なのですよう。うしししし。。。

【デンマン注】 小百合さんが夏休みを過ごしたバーナビー市は
バンクーバー市の東隣にあります。
赤い枠を拡大したのが下の地図です。

【卑弥子の独り言】

ですってぇ~。。。
かなりの飛躍があるようでござ~♪~ますけれど
確かに、カナダのような広い国に行くとデンマンさんのような大きな気持ちが持てるのかもしれませんわ。
小さなこと、むしゃくしゃすることに、こだわらなくても済むようになるのでしょうね。

でも、ご自分から国際人と言うのですから、聞いているあたくしは半分呆れていますわ。
あなたは、いかがですか?

とにかく、デンマンさんのお話がまだ面白くなりそうですわ。
どうか、あなたも、またあさって読みに戻ってきてくださいましね。
では、またねぇ。。。

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

「ふとん」には2つの漢字の書き方があることを

私は知りませんでした。

「布団」は知っていましたが、

「蒲団」は知りませんでした。

だから、わたしは「蒲団」を“うらだん”と読んだのです。

デンマンさんに笑われてしまいました。

「布団」の「布」は当て字なんだそうです。

そう言われてみると、

田山花袋の「蒲団」は必ず「蒲団」と書いてあります。

「布団」とは書いてありません。

それにしても「団子」の「団」は“だん”と読むのに、

「布団」の「団」は“とん”と読むのですよね。

どうして。。。?

デンマンさんに尋ねたら、

“だん”は呉音で

“とん”は唐音ですって。。。

日本語って難しいですよね。

ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

時間があったらぜひ読んでみてくださいね。

■ 『笑って幸せな気分になれるサイト』

では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。


 





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