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天武天皇と天智天皇は
同腹の兄弟ではなかった。 by Akira Kato
July 14, 2003
信じ難いことですが、天武天皇の生年月日は古事記を見ても、日本書紀を開いても、最近の歴史辞典のページをめくってみても、 はっきりと書いてありません。もちろん亡くなった年ははっきりしています。686年(朱鳥元年)です。もし亡くなった時の年齢が分かれば、 生まれた年は逆算して求めることができます。しかし日本書紀には亡くなった時の天武天皇の年齢が書かれていません。 どこかに書いてあるはずだと探してみると、 ずいぶんと後になってから書いたものがでてきます。鎌倉時代の『一代記』と南北朝時代の『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』 です。どちらの文書にも65歳と書かれています。 したがって、逆算しますと、生まれは622年ということになります。天武天皇の実の兄である天智天皇の生まれは626年です。 ということは、弟が先に生まれているわけです。どういうことかといえば、日本書紀にはっきりと年齢がかけなかったという裏には、 このような事情があるからでした。 しかし、あなたはきっとこう言うに違いありません。それは、鎌倉時代に書いた書物のほうが間違っているのだと。そうかもしれません。 しかし、ここで考えてみなければならないことは、どちらの数字が正しいかということではありません。もちろんそのことも重要です。もっと重要なことは、 なぜ、書かなかったのか?この方がもっと重要です。 このように日本書紀は、古事記ともども、謎の多い書物です。なぜか?無理をして書いているからです。 言葉は悪いのですが、しかも言い過ぎになるかもしれませんが、古事記も、日本書紀も、嘘の塊のような書物です。 上に述べたことだけで、このように断定するのは独断と偏見だ、と思われかねないので、他の謎を知る意味からも、このページ (古事記より古い書物がどうして残っていないの?) をちょっと覗いてみてください。 新しいページが開きます。
天武天皇の生年月日をなぜ明記しなかったのか?そもそも、天武天皇が音頭を取って、この二つの書物を世に出そうとしたわけです。それは、どうしてか?ご存知のように、天武天皇という人物は 天智天皇の息子を殺して政権の座に着いたわけです。心のどこかに、うしろめたさがあります。したがって、自分が天皇位に就いていることを正当化する 必要があったわけです。うしろめたさは、これだけにとどまりません。まだもっとうしろめたさを感じなければならないことがあります。それは、 次のページに譲ることにして、ここでは、本題である、天智天皇と天武天皇が腹違いの兄弟であること、しかも、 天武天皇のほうが年上だったということを考えてみたいと思います。 ところで、織田信長に兄さんがいたということをご存知でしょうか?信広(のぶひろ)という兄貴がいたんです。この人は信長の父親・信秀の長男でした、 しかし嫡男、つまり跡取り息子ではありませんでした。それはなぜか?信広の母親が正室ではなかったからです。こういうことは、つい最近まで行われていました。 正妻でない女、つまり妾とか側室と呼ばれている女から生まれた男の子は、普通は跡取りになれませんでした。 たとえそのようなことが当時、常識であっても、こういうことは、不満や事件の種になりやすいものです。だから信広の場合にも、 後で美濃の国の斉藤氏と組んで反乱を起こしました。そういうわけで、昔は、 兄貴だからといって、必ずしも跡取りになれるとは限りませんでした。 天智天皇と天武天皇の関係も、まさに、上で述べたような関係だったのです。つまり、天智は皇極天皇を母として生まれたのですが、 天武の母は皇極女帝(斉明帝;2度天皇になっています)ではありませんでした。いわば、側室の女性から生まれたのです。したがって、当然, 天皇位は天智帝から、彼の息子の 大友皇子へと継承されたわけです。 弘文帝という名前は、明治時代になってから、この悲劇の大友皇子に送られたのですが、時間的には、短いとはいえ、まず間違いなく、 この皇子は天皇として即位していたでしょう。 しかし、そんな風には日本書紀に書かれていないよ。。。。もちろん、本当のことは書けないでしょう。天皇位につく権利がないにもかかわらず、今上天皇を殺して自らが天皇になったわけですから、 これは、皇国史観に照らし合わせれば、もうこれ以上立派な大逆罪はない程の、極上の大逆罪です。したがって、天武帝は、もう手段を選ばず、 なんとしても、自分が天皇位に就くべき人物であったことを触れ回らなければなりません。古事記と日本書紀はそのために編纂されたわけです。 そうでもしないかぎり、また同じような理屈で、不満分子が彼を襲うでしょう。そうなると、天武政権が長続きしませんし、もう危なくて仕様がない。 おちおち枕を高くして眠れません。 もちろん、そのようなことを、彼の耳にささやきかけたのは、中臣(藤原)鎌足だったでしょう。とにかく、鎌足の身の変わり方、身の振り方の見事なこと。 見てやってください。天智帝の右腕として政権に加担していながら、鎌足はちゃんと先を読んでいました。父親の生まれ故郷である百済は鎌足にとっても、 傍観しているわけには行きません。最善を尽くして援助の手をさしのべてやりたい。そのためにも、天智政権が長く続いて欲しい。しかし、 鎌足にとって何よりも大切なことは、 藤原氏が生き延びて、常に政権に寄生することです。沈みゆく船に同船しているわけには行きません。 歴史を振り返ってみれば、天智帝は、天皇になるべくして生まれてきたような人物です。決断力と、勇気を兼ね備えていました。蘇我入鹿を 暗殺した手際のよさは、鎌足という知恵袋があったにしろ、見事というほかはありません。鎌足が、彼に目をつけたのも当然過ぎるほど当然です。 しかし、白村江の戦いで天智帝はつまずいてしまいました。 もうその頃は、天智天皇が百済派の先鋒、大海人皇子(後の天武天皇)は新羅派の統領として対立していました。天武帝の母親は、 新羅系の渡来人である可能性が濃厚です。 天武帝の母親あるいは父親については、いろいろな候補者が上がっています。また天武帝、 その人を全く天智帝と血のつながりがない人物だと見る研究者もいます。どういうことが言えるかというと、最近、多くの人の研究・調査に因って 日本書紀の、特に、壬申の乱にからんだ記述が真実と、かなりかけ離れたものであることが、解明されつつあります。 したがって、日本書紀の真実性を疑っているのは、何も私一人ではありません。むしろ、あなたも含めて、歴史に関心を寄せている人の10人に8人までが 古事記と日本書紀の記述を半ば疑ってかかっているのではないでしょうか?とはいっても、このことは、私が本を読んだり、資料を見たり、 インターネットのサイトを眺め回した印象です。一人一人の研究者に会って調査したわけではありません。念のため。 ちなみに、天武帝の正体を暴こうとしている研究者のこれまでの成果を見てみると次のようなものがあります。
どの説も面白いのですが、もう一つ説得力に欠けるものがあって、私は、どの説とも違う考えを持っています。 3つの説を見てゆくと、面白いことに、天武帝の出自を渡来人と見ています。厳密に言えば、高向王の出自は分かっていません。しかし、 この時代の通例から、この人も渡来人系であることは先ず確かです。これは当然の成り行きで、この当時のどの人物を調べても、 何代か遡ると、たいてい渡来人に出くわします。それほどこの当時は中国大陸や、朝鮮半島から渡ってきた人物がたくさんいます。 280年に中国の呉が滅亡して呉人が日本へ呉服を持ち込んでから、660年に百済が滅んで、おびただしい数の百済人が日本へ逃げてきました。 この380年間は日本がもっとも国際的だった時代です。この時代については、このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で説明しています。 3つの説のうちでは、3番目が最も可能性があるように思えます。宝皇女の最初の結婚で生まれたわけですから、 漢皇子(あやのみこ)は天智帝よりも年上です。私が学校で習った歴史では、天智の実の娘4人(大田皇女,讃良皇女,大江皇女,新田部皇女)が 天智の実の弟である天武と結婚しています。しかし、これは、いかに古代において近親結婚がまれではなかったとしても異常です。 腹違いであれば、異常さが幾分薄れてきます。天武という人物はやはり実力のあった人だったのでしょう。彼を敵に回したら天智にとって、 大変な危険人物になる、 それで、実の娘を4人まで、嫁にやって、天武を自分の見方につなぎとめようとしたに違いありません。 しかし、私は漢皇子(あやのみこ)が天武帝であったとは思わない。なぜか?それは長い日本史を見渡すときに、母親の血筋を頼りに 天皇位継承問題を起こしたということはありません。やはり父親の血筋が問われています。継体天皇を例に挙げれば、それはよく分かることです。 彼のことは、このページ (皇室は、本当に 万世一系か? 継体天皇の謎に迫る) で説明しています。彼は、応神天皇の6代目の子孫ということで、 天皇に迎えられています。 先ほど織田信長と信広兄弟の事を持ち出しましたが、私は、天智と天武の関係もまさにそのようなものだと見ています。 そうでないと、天武の不満がリアルなものとして感じ取れません。では、一体母親は誰だったのか?それは前に書いたように、 天武帝の母親は、 新羅系の渡来人であるということしかいえないと思います。なぜ新羅系なのか?それは、 その後の天武帝が新羅派の統領となって活躍することから言えることです。 しかし、天武自身は母親の事に触れて欲しくはなかったでしょう。 なぜなら、そのために彼は、早く生まれても嫡男、つまり跡継ぎに成れなかったのですから。しかし新羅派の連中が彼を担ぎ上げて、 反天智派の運動を推進してゆきます。これについては、この後に述べます。天武は、初めはあまり乗る気ではなかったでしょうが、 回りのものが放っておきません。しかも、天武にはそれだけの人望と実力が備わっていたようです。 このような時期に、663年の白村江の戦いで敗れたということは、天智帝(まだ正式には天皇ではありませんが、政治を担っています)にとっては、 決定的な痛手だったでしょう。先ず人望を失います。これとは反対に、多くの人が、 大海人皇子になびいてゆきます。ちょうど、太平洋戦争に負けた日本のような状態だったでしょう。当時の大和朝廷は、まだ唐と新羅の連合軍に 占領されたわけではありません。しかし、問題は白村江で大敗したという一大ニュースです。おそらく、天智天皇は『一億玉砕』をさけんで、しきりに 当時の大和民族の大和魂を煽り立てたでしょう。しかし厭戦気分が広がります。それを煽り立てるのが大海人皇子を始めとする新羅派です。 国を滅ぼされてしまった百済人が難民となって続々と日本へやってきます。天智帝が援助の手を差し伸べます。しかし戦費を使い果たした上に、さらに 重税が割り当てられるのでは、大和民族にとっては、たまったものではありません。そういう税金が百済人のために使われると思えば、ますます嫌になります。 天智天皇の人気は底をつきます。そればかりではありません。天智天皇はもう必死になって、九州から近畿地方に至る大防衛網を構築し始めます。
664年
665年
667年
668年
天智天皇は大きな間違いを犯してしまった。唐・新羅同盟軍の侵攻を防ぐために、天智帝は上の地図で示したような、一大防衛網を築いたのです。 そのために、一体何十万人の人々が動員されたことか?天智天皇の防衛計画を本当に理解している人は、おそらく10パーセントにも達しなかったでしょう。 「何でこんな無駄なことをさせられるのか?」大多数の人は理解に苦しんだことでしょう。 魏志倭人伝に書いてあるとおり、原日本人というのは、伝統的に 町の周りに城壁を築くようなことをしません。したがって、山城を築くようなこともしません。これは朝鮮半島的な発想です。 原日本人にとって、山は信仰の対象です。聖域に入り込んで、山を崩したり、様相を変えたり、岩を積み上げたりすることは、 神を冒涜することに等しいわけです、このことだけをとってみても、天智天皇は土着の大和民族から、総スカンを喰らう。「今に見ていろ。 きっとバチが当たるから!」 しかも、これだけでよせばいいのに、東国から、防人(さきもり)を徴用する。この防人というのは、九州の防衛に狩り出される警備兵です。 往きは良い良い帰りは怖いです。というのは、帰りは自弁当です。 つまり自費で帰国しなければなりません。したがって金の切れ目が命の切れ目で、故郷にたどり着けずに野垂れ死にをする人が結構居たそうです。 それはそうでしょう、新幹線があるわけでありませんから、徒歩でテクテクと九州から関東平野までテクシーです。ホテルなんてしゃれたものはもちろんありません。 途中で追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれたら、もう死を覚悟しなければなりません。さんざ、こき使われた挙句、放り出されるように帰れ、と言われたのでは 天智天皇の人気が出るわけありません。人気どころか怨嗟の的になります。「今に見ていろ。きっとバチが当たるゾ!」 こういう状況の中で、新羅派が暗躍し始めます。天智天皇はすでに豪族の支持はもちろん、民衆の支持さえ失っている。 こういう状況の中で何も起こらなかったなら、起こらないほうが不思議でしょう? ところで、新羅派と言われる人たちが、なぜ反天智運動を展開する必要があるのか?それは、伝統的に中国王朝がとってきた『近攻遠交』 と呼ばれる戦略に関係しています。これは、どういうものかというと、読んで字のごとく、近い国を攻めるために、遠い国と親しく交際し、この近い国を 挟み撃ちにして攻略する、と言うものです。唐・新羅連合と言う結びつきは決して永続的なものではありませんでした。お互いが相手を利用すすために、 一時的に結束しているに過ぎません。どちらかが、相手の利用価値を認めなくなった時が、縁の切れ目です。百済が滅び、高句麗が滅びます。 次は、自分たちが唐に飲み込まれてしまうということを、新羅人はよく知っています。縁の切れ目が見え見えです。 そういうわけですから、新羅人は文字通り背水の陣をしきます。背後は海です。しかし海の向こうには日本がある。今度は、新羅を攻めるために、 唐が『近攻遠交』戦略を採るとしたら日本と組む以外にありません。もし先を越されでもしたら、新羅の命は風前の灯となります。したがって、 新羅人は、もう何とかして、日本に親新羅派の政権を打ち立てなければなりません。そうでもしないと、唐が必ず日本と組んで自分たちを滅ぼします。 すでに、述べたように、天智と天武は百済派・新羅派に別れて、すでに対立している状態でした。このようなことをスパイ網を通して知っている唐は、 この当時しきりに使者を送って、天智政権を懐柔しようとしています。しかも悪いことに、天智帝は、すでに述べたように、豪族にも、 民衆からも見放されています。したがって、四面楚歌の天智政権は、唐と仲良くしてゆく以外にありません。 ここで天智帝が急死しています。671年12月3日の事です。46歳です。10月になって病状が重くなったということが書かれているだけで、 特に詳しいことは何も書かれていません。 壬申の乱で敗れて天智の息子・弘文天皇が殺害されるのが約半年後の672年7月23日です。歴史の授業では、 天智の病死が壬申の乱を誘発したかのように教えられています。しかし、これまでの、事件や出来事の流れをよーく見てください。 天智帝の死と孝文帝の殺害の期間が短すぎます。 しかも、ここで非常におかしなことがあります。それは何か?天智帝と藤原鎌足の関係と、それ以後の藤原氏の繁栄です。 よーく考えてみてください。鎌足と天智帝のコンビは、二人三脚のようにして、大化の改新を成し遂げました。しかし、それを達成させるために、 非情にも、血なまぐさい暗殺を実行しています。蘇我入鹿の殺害です。もちろん、作戦は、天智帝と言うよりは、鎌足が入念に立てたものでした。 鎌足の愛読の兵法書『六韜』を思い出してください。この書はその後、藤原氏のバイブルになります。詳しいことはこのページ (藤原鎌足と六韜) で読んでください。 新しいウィンドーが開きます。 いずれにしても、この二人のチームワークは完璧に近いものでした。歴史を振り返って眺めるとき、 これほど息の合ったチームワークと言うのは他に見当たりません。 ところがです。壬申の乱の後で、藤原氏は失脚するどころか、それ以後の藤原氏の歴史を見れば、一目瞭然、ますます繁栄してゆくのです。 これは、一体どういうことなのか?常識的に考えれば、あるいは儒教的な忠孝の教えを思えば、はたまた、日本武士道を考えてみるならば、 鎌足は、天智政権が滅んだときに共に運命を同じくしたはずです。しかし、そうではなかったのです。これまで見てきたように、鎌足は、 天才的な政治屋です。政治的感覚が研ぎ澄まされている。これほどの天才は、 世界史を見渡してもほかに見出すことができません。何しろ、この後、藤原氏というのは、500年間政治の実権を握って行きます。 世界史の常識では、長くとも一つの政権と言うのは250年で交代するといわれています。したがって、藤原氏というのは異例です。 源頼朝によって、実権を奪われながらも、寄生虫のごとく、『藤』のごとく、天皇家にまとわりついて幕末まで公家社会の黒幕の地位を維持してきました。 しかし、明治維新と共に、藤原氏が終焉したわけではありません。いまだに藤原氏の家系は続いています。しかも気づかぬところで人脈を形成しています。 戦前近衛文麿という首相を輩出しています。最近では、その支流から細川首相が出てマスコミを騒がせました。 これは、どういうことかといえば、壬申の乱は、天武帝が前面に出ていても、その影で、相変わらず鎌足、 そしてその息子の不比等が動いている、と言うことです。つまり、天智帝は、鎌足親子にこの時、すでに見放されていたのです。 つまり、壬申の乱は、天智天皇の病死によって、誘発されたのではなくて、天智帝の暗殺によって始まったのです。そして、その息子、 弘文天応の殺害によって、決着がついたわけです。このことに因って、藤原氏は、揺ぎ無い基礎をしっかりと固めたわけです。 天智帝を見出して、 天智帝に政権をとらせたのが誰かと言うことをここで考えてみる必要があります。言うまでもなく、それは中臣(藤原)鎌足です。 したがって、鎌足親子に見放されたのが天智帝の運のつきでした。
なで、天智帝は、鎌足に見放されたの?その証拠は?ページが長くなりましたので、次のページで説明します。
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