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古代、裏日本と表日本は逆だった。
by Akira Kato
July 12, 2003
古代、日本は、朝鮮半島を通して、中国から文化を吸収していたわけです。上の地図を見ると分かるとおり、 現在の北京から日本への道筋をたどると、九州が日本の表玄関ということになります。すると、当然、現在裏日本と呼ばれている地域は、大陸に面しているわけで、古代においては、 文化的に見て表日本になるというわけです。 大昔、まだ日本が大陸と陸続きであった頃を考えれば、このことは、もっとよく理解できます。地図で見ればすぐに分かるとおり、大陸と陸続きになっていた部分は、 九州と北海道であり、当時一番の辺鄙な土地はどこかといえば、大陸から最もたどり着くのに時間がかかった、現在の東京ということになります。 では、なぜ、現在のように太平洋側が表日本と呼ばれるようになったのか?
いつ頃から、太平洋側が、表日本と呼ばれるようになったかは、おそらく誰もはっきりと、何年からとは断定できないでしょう。 いづれにしても、現在圧倒的多数が、太平洋に面している地域を、表日本と呼んでいます。その呼び方が正しいか正しくないか、 ということはあまり意味がありませんが、古代日本を振り返って眺めるとき、このことは、非常に大きな意味を持ってきます。 というのは、現在でこそ、太平洋側に、東京を始めとして大都市が集中していますが、邪馬台国時代には、太平洋側には、 ほとんど町らしい 人間集団はみあたらなかったようです。せいぜい部落というよなものだったでしょう。ところがそれに比べると、日本海側には、 当時の大都市が集中していました。特に、現在の、鳥取県・島根県のあたりには、一大国家と呼ぶにふさわしい 大集落があったようです。 このことは最近の考古学上の遺跡発見などからも裏付けられています。例えば、島根県斐川町の神庭荒神谷遺跡から出土した 青銅器や、その隣町(加茂町ー加茂岩倉遺跡)から出土した全国最多の銅鐸39個などは、古代出雲王国を裏付ける十分な証拠 といえるでしょう。 それに、因幡の白兎を始めとする伝説や、国譲り神話などは、圧倒的に、日本海側を舞台にしたものが多いのです。 現在でこそ、東京へ日本全国の目が集中しているようですが、古代にあっては、邪馬台国にしろ、あるいわその後を引き継いだ大和朝廷にしろ、 支配者たちの目は、まず間違いなく当時の表日本、特に現在の、島根県から新潟県あたりに向けられていたはずです。 というのは、このあたりに古代出雲王国を始めとする,強国がお互いに鎬(しのぎ)を削っていたからです。 どうして、そういうことが言えるのか?継体天皇という人は、それまでの系統の天皇と毛並みが異なっています。彼の前の武烈天皇に嫡子が無く後継問題が起こったのですが、 そのとき、越(こし)の国(現在の福井県のあたり)の国王であった越前の男大迹(ヲホト)王を権臣大伴金村(かなむら)らが、 次の天皇として迎えたのです。男大迹(ヲホト)王は応神天皇6代目の子孫ということになっています。 ところが、「迎えられた」 にしては大和に落ち着くまでに20年近くを要しています。 なかなか大和に入れずに、河内や山城を転々としているのです。 これらのことを総合的に考え合わせれば、継承問題が、すんなりといったとは当然考えられません。 むしろ、継体天皇はそれまでの天皇一族とは縁もゆかりもない人物だったと考えたほうが、話はスッキリするのです。 詳しいことは、このページ (皇室は、本当に万世一系か?) を見てください。 先ほど古代出雲王国について少し触れましたが、この越(こし)の国というのは、あまり歴史の上ではよく知られていません。 しかし、国王が、継体天皇として即位したことを考えれば、古代出雲王国同様に、侮れないほどの、強力な影響力を持っていたということが 考えられます。越の国王であったヲホトは絶好のチャンスと見て大和侵攻を試みたようです。 ちょうど戦国時代を考えればよいわけです。都へ上ろうと、上杉謙信、武田信玄、織田信長、といった一国の武将が、お互いに鎬を削っていたわけです。 ヲホトの武力制圧が成功したのか、大和豪族との間に和睦が成ったのかはよく解りません。しかし豪族たちの抵抗が予想以上に強く、そのため、 20年近くを要したというのが真相のようです。 たぶん素朴な疑問がわいてくると思います。現在の、裏日本という考え方を持っていると、そんな片田舎の親分が、果たして、 天皇位につくほど力がもてたのかと。 このことを考える時、もう一度地図をよく眺めてみる必要があります。
この当時の大陸の状況というのは、歴史の本を開くと、すぐに分かるとおり、平和な時期というのはきわめてまれで、 常にどこかで戦乱があるというのが当たり前の状態です。ひところ、ボート・ピープルと呼ばれる人たちがベトナムのほうから 日本へやって来たことがありますが、この当時の大陸では、戦乱の果てに、行くところがなくて、結局、船に乗って、 海に乗り出してゆくという人たちが、たくさん居たはずです。 ひとたび、海洋に乗り出せば、航海術に秀でた船乗りは別ですが、それ以外の人たちは日本海流に身 を任せるしか方法がありません。そうなると、上の地図で示すとおり、新羅の海岸から船出した者は、鳥取県から島根県、 それに、福井県のあたりに漂着します。渤海から船出した人々は、新潟県から秋田県沿岸に漂着することになります。 この当時の大陸難民が、ボート・ピープルと異なる点は、彼らが、当時としては、あるいは、日本人と比べて 格段に高度な文化と、優れた武器・戦術を身に着けていたことです。彼らを受け入れる人たちの中にも、以前、同様に、 大陸難民として渡って来た人たちが、数多くいたことでしょう。そういうわけで、当時の大陸難民が、ベトナムからの 最近の難民とは異なり 大歓迎されたはずです。なぜなら、新しい武器や戦術を日本人が学ぶことができたからです。 そういうわけで、当然、日本海沿岸の諸国が軍事的に強くなり、文化的にも、太平洋沿岸の国々に住む、 原住民の血を多く受け継いでいる人たちよりも文明度が高くなるわけです。当時の大和朝廷の支配層も、おのずから、 この日本海沿岸の諸国に眼を光らせたことでしょう。武烈天皇に嫡子が無く後継問題が発生した当時の、 社会情勢というのは、このようなものであったわけです。現在の「表日本」式思考方法に従うと、福井県の片田舎から やってきた、どこの馬の骨だか分からないヲホトという男が天皇になってしまったわけですから、不思議に思うかもしれませんが、 当時の社会情勢をよく考えてみれば、まず、なるべき人がなったといえるのではないでしょうか。
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