| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
聖徳太子は
ペルシャ人 by デンマン & 卑弥子
2008年7月13日
Subj:虫の知らせと言うのでしょうか?
小百合さんからメールがあるような
気がしました。
\(^_^)/キャハハハ。。。 Date: 02/03/2008 7:02:55 PM
> はい デンマンさん
> お葬式も終わり ほっとしてます。 そうですか?よかったですね。 その点カナダはいいですよ。 カナダは何事もマイペースで生活できますよ。 小百合さんが“ほっとしている”気持ちが分かりますよ。
> 今日月曜 子供は修学旅行で1週間いません。
> お弁当作りは無し。ウレシイ お弁当を作らなくてもいい幸せを充分に味わってくださいね。
> 私は明日から 東京と横浜に行きます。
> 土曜日戻りますが、急ぎがあったら > メールください 楽しんできてください。
> ブログも歴史編になり
> ますます 力 が入ってますね そうですよう。
すでにライブドアに投稿して推敲も済ませましたよ。 小百合さんの、あの“思い出し笑い”のメールを使わせてもらいましたよ。 あのメールは、メチャ使い道がありますよう!
> 今日はたまっていた、返信と検索が多い日です。
虫の知らせと言うのでしょうか? やはり“以心伝心”ってあるものですよねぇ~。 デンマンでした。 じゃあね。
今日は、日活ロマンポルノの『軽井沢夫人』の続きかと思っていましたが、聖徳太子でござ~♪~ますか?
いけませんか? 別にかまいませんけれど、多くのネット市民の皆様方が日活ロマンポルノを期待して読みに来ていると思いますわ。 あのねぇ、『小百合物語』のアクセスを調べてみると、最近、軽井沢にこだわるせいか読みに来る人が減っているのですよう。 つまり、話題がマンネリ化している、と言う事でござ~♪~ますか? 多分そうでしょう。 それで、今日は急に聖徳太子でござ~♪~ますか? 実はねぇ、たまたま『宇宙の摂理ブログ』の「キーワードランキング」を見たら次のようになっていたのですよう。
“聖徳太子”が上位に表示されていたのでござ~♪~ますか? そうなのですよう。僕が記憶する限り、“聖徳太子”が10位以内に上昇した事は無いのですよう。 いつ頃から10位に喰い込んだのでござ~♪~ますか? 1週間前の7月3日に調べた時には、次に示すように10位以内に入ってなかったのですよう。
つまり、1週間の間にこれだけアクセスが増えたのでござ~♪~ますか? そうですよう。エロい話題ならば、いざ知らず、歴史的人物が急に10位以内に浮上すると言うことは極めてまれな事ですよう。 なぜでござ~♪~ましょうか? 僕も、そう思ってさっそく調べてみましたよう。まず、GOOGLEで検索してみました。その結果を見てください。
「聖徳太子 ペルシャ人」 の検索結果
約 2,860 件
1) 聖徳太子はペルシャ人 チョコバットで2000本安打 - Yahoo!ブログ2008年7月1日 ... 子供の頃から大好きな「チョコバット」で2000本安打を達成し名球会 入りを目指す男のブログ。 (猫 写真 古着) 2) 聖徳太子は実在したのか 神護景雲と花鳥風月な日々~007の ...2008年7月8日 ... 最近昔習った歴史が覆されることが多いですね。 必死に覚えた年号等なんだったやねんー!と叫びたい(^m^) TVか雑誌の記事だったかな。聖徳太子はペルシャ人?!というのを見かけました。もう全然わかりません(≧▽≦;) ... 3) 聖徳太子はペルシャ人だった 異端会議ソロ/ウェブリブログ日本史ミステリーの予告編を視ていたら「聖徳太子はペルシャ人だった。」という内容の予告編が(笑)。 サブテロップを見ると「楊貴妃も遣隋使も・・・」とあったように思えたのだけど、要は太子の都「斑鳩の里」においてペルシャ文化の影響を受けてこの ...
4) 聖徳太子の母親はペルシャ人だった?
宇宙の摂理ブログ聖徳太子の母親はペルシャ人だった? 聖徳太子の母親は ペルシャ人だった? 渡来人 聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。 ... 5) 聖徳太子の個人教授には
ペルシャ人がいた 宇宙の摂理ブログ確証があるわけではありませんが、これが事実とするならば、聖徳太子には、16分の1のペルシャ人の血が流れていたことになり ... ここで、聖徳太子の母親にペルシャ人の血が混じっていたこと、また彼女の回りにペルシャ人を含めて、多くの渡来人が居た ... (2008年7月10日午後4時現在) このリストを見て分かりましたよう。 何がでござ~♪~ますか? つまり、三番目のサイトに飛んでいって記事を読んだら分かりましたよう。 どう言う事でござ~♪~ますか? 次のように書いてあったのですよう。画像は僕が貼り付けたものですが。。。 新説!?日本史ミステリーの予告編を視ていたら 「聖徳太子はペルシャ人だった。」 という内容の予告編が(笑)。 サブテロップを見ると 「楊貴妃も遣隋使も・・・」と あったように思えたのだけど、 要は太子の都「斑鳩の里」において ペルシャ文化の影響を受けて このような結果が導き出せるぞ・・・ という内容なのだろうか? 本放送が楽しみなところだ。 。。。んで、この事がどうして“聖徳太子”の10位以内突入と関係あるのでござ~♪~ますか? 要するに、このブロガーと同様に“新説!?日本史ミステリー”の予告編を見た人がたくさん居るのですよう。 それで。。。? だから、急に興味が湧いて本放送を見る前に調べてみようと思い立って検索エンジンで調べたわけですよう。 それで、デンマンさんの『宇宙の摂理ブログ』に聖徳太子の記事を読みに来る人が急激に増えたのでござ~♪~ますか? そうですよう。『宇宙の摂理ブログ』の記事が上の検索結果の4番目と5番目に表示されるのですよう。 。。。んで、4番目の記事には、どのような事が書いてあるのでござ~♪~ますか? 僕の記事の中では短いので、ここに全文を書き出しますよう。卑弥子さんも読んでみてください。
聖徳太子の母親は
ペルシャ人だった?
渡来人 聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。しかし、「日本」古代史の「日本」って一体何なのか?については、あまり考えてみません。 「そんなことは決まってるじゃないか、昔の日本の歴史だよ!地図を開いてごらんよ。その地図の日本の中で、昔起こったことが、つまり日本の古代史さ」 と、多分、上のような答えが返ってくるでしょう。でも、ここで下の地図を見てみましょう。
上の地図には書き込んでありませんが、中国沿岸からも、またもっと遠く、ベトナムの方からも線が引かれているものと考えてください。「ベトナムはちょっと遠すぎるんじゃないの?」と言われそうですが、決して遠くありません。そのことについては、このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で説明しています。クリックすると新しいページが開きます。読んでください。 要するに、この当時の国際関係を一言で言ってしまえば、渡来人が日本人であって、日本人が渡来人であった、というような時代です。この頃は、原日本人、つまり、そのメイン・メンバーであるアイヌ人の人たちは、東北地方へ押しやられた形で生活しています。794年に桓武天皇が、都を京都に移してから、本格的に、蝦夷征伐を始めますが、それまでは原日本人は日本史に登場していません。古事記と日本書紀には神話時代の話に、「熊襲」などと呼ばれて登場している程度です。 古事記と日本書紀を編纂した人たちが、「これが新しい日本史だ」と言うのを、当時のアイヌ人が耳にしたとしたら、きっとこう言ったでしょう。「あんたがたよそ者が勝手にこの土地へやってきて、争いばかりしくさって、そのあげく日本史を作ったと?いいかげんにせんかい!わしら、あんたらが来る何千年も前から、この土地に住んでおるんじゃ。迷惑ばかりかけおって。何が日本史だい。わしらが日本史じゃわい!」 「アメリカ人」という言葉を聞くとき、私たちはすぐにマリリン・モンローだとか、ボブ・ホープ、クラーク・ゲーブル、エジソン、リンカーン、あるいは、ケネディー、ロックフェラー、マイケル・ジャクソン、マドンナ、などというような人の名前がすぐに口をついて出てきます。それでは、聖徳太子が生きていた当時のアメリカ人は?と言われると、「アメリカ人はその頃いなかったんだ」と言いたくなります。しかし、もちろん、アメリカ大陸にも我われと同じ人類が生活していました。現在のアメリカ・インディアンの祖先の人たちです。従って、聖徳太子が生きていた当時も、間違いなくアメリカ・インディアンの人たちがちゃんと生活していたのです。 それとちょうど同じことが「日本」についても言えます。現在では、日本人と原日本人との区別がほとんどつきません。おそらく日本人の95から99パーセントの血は渡来人から受け継いでいるだろうと思われます。アイヌ人の事についてはこのページ (平和を愛したアイヌ人) で書いています。興味のある方は読んでください。 今このページで問題にしようとする聖徳太子の時代と言うのは、アメリカ史にたとえれば、イギリスから清教徒の一団がメーフラワー号でアメリカ大陸に移住してから、やがて13州が独立宣言をして、一人立ちしてゆくという時代に当ると思います。そのうち、押し寄せてくる移民が、西部へ西部へと進んでゆきます。それと共に騎兵隊がインディアンたちを、もっと西へと追いやります。これが、日本史では、平安遷都のあとの蝦夷討伐に当たりそうです。 渡来人が来るのは分かるが、
ペルシャは遠すぎるンじゃない? 確かにペルシャは日本から遠い国で、聖徳太子が生きていた時代に、彼らが、日本に住んでいたとは思えないかもしれません。しかし、「遠い」と言うとき、私たちは、現在のイランと日本の距離を考えてしまいます。そう考えると、確かにペルシャと日本は距離的にずいぶんと離れています。 しかし、ペルシャ人は何も、インド洋を越え、マラッカ海峡を通り、東シナ海を経て、はるばる日本へやってくる必要はなかったのです。もちろん、飛行機でやってくる、なんて言うつもりはありません。つまり、中国人や、半島人と同じルートで日本へやってきました。その当時すでに、お隣の中国や、朝鮮半島にたくさんのペルシャ人が住んでいました。 少し時代が下りますが李白(701ー762)の詩に「少年行」があります。 五陵の年少、金市の東 盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。見るからに金持ちの貴公子です。花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。酒肆というのは酒場のことです。この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。 胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。「胡姫」というのは胡の姫、つまりペルシャ人の女の子です。だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっています。エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーです。ここで卑弥子さんに再び登場してもらいますが、この酒場にいた女の子は、こんな感じの踊り子だったかもしれません。
卑弥子でーす。今度はこんな格好させられてしまいました。とても恥ずかしいんですけど、無理して笑っています。 唐に居たペルシャ人もこんな格好をしていたと思うのですが。。。薄いベールで半分顔を隠したペルシャ人の魅力的な女性が、あたくしと同じ衣装を着て、古いペルシャの歌を歌いながら唐の都で踊ったのでしょうね。 ペルシャ人は一体いつ
中国へやって来たの? もちろん、唐の時代になってからペルシャ人が中国にやって来たというわけではありません。すでに秦の始皇帝の時代に中国に多数のペルシャ人がいたと言う記録が残されています。秦の始皇帝は、最初に中国を統一した人物です。彼が始めた群県制という国家制度はそれまでの封建制にかわる新たな制度、つまり中央集権のシステムでした。 この群県制は、ペルシャのアケメネス朝で採られた制度に非常によく似ていると言われています。各地の豪族をその地の王として認めていく封建制と全く違って、群県制では地方を治めるのは中央から派遣された官僚です。これは同様の中央集権制度を秦以前に確立していたアケメネス朝の制度に酷似しています。このことなどから秦朝を外来民族による政権とする説は意外にも中国の研究者の間に多いのです。そのためでしょうか、どの歴史の教科書も、秦を漢民族の国家とは断定していません。語族分類表でも、シナ・チベット語族からはずされています. これだけペルシャのアケメネス朝の影響を受けているわけですから、もしかすると、始皇帝にはペルシャ人の血が混じっているかもしれません。そう考える理由はまだ他にもあります。始皇帝は赤い髪に青い眼、つまりコーカソイド(白人種)の特徴を備えていたと伝えられるからです。肖像画に描かれている彼がいつもベールのような冠をかぶっているのは、この異相を隠すためだったと言う歴史研究家もいます。 事実、中国の史書のなかには、始皇帝が秦王室の血を正しく受け継いでいないということを述べているものもあります。しかも秦は戦国の諸国家の中で、最も西にあった国です。そういうわけで、チベットやペルシャなどの西域諸民族の血が流入しやすいことも確かです。また中国ではローマ帝国のことを大秦国といいますが、これも秦が西方系であることを示しているとも考えられます。 始皇帝時代のペルシャといえば、ヘレニズム時代に、アルサケス朝パルティアが成立した時期です。この国は中国の史書には安息国として登場します。活発な交易活動により東方の国々にもその存在を良く知られていました. 当時のペルシャは、ソグド人やユダヤ人を多く抱える商業的な国家であり、その文化は商人となって活躍する彼らと共に、遠く東の国々へ伝わりました。また秦の建国自体がアケメネス朝の滅亡時期と重なっており、秦それ自体が西方系国家だったとすれば、この混乱の時期に大挙して亡命してきたペルシャ人がその基盤となったことも十分に考えられるわけです。 また、秦は実利主義に徹していましたから、有能ならば外国人であろうとその国籍を問わずにどんどん重用しました。事実、財務関係の官職にはたくさんのペルシャ人が就いて秦の財政に携わっていました。 このような秦の歴史を見れば、始皇帝がペルシャ人の血を受け継いでいないとしても、ペルシャ人が彼の回りに多数居て、政治、経済、通商、財政の面で手助けしていたと考えても先ず間違いありません。 ペルシャ人は何のために
日本へやって来たの? ペルシャ人と秦との関係を見てくれば、当然日本へやってくる理由は想像つきます。アルサケス朝パルティアと呼ばれた当時のペルシャは商業的な国家であり、その文化は商人となって活躍する彼らと共に、遠く東の国々へ伝わりました。従って、日本へやって来たのも、そのような商人であった可能性があります。しかし、果たして、商人だけだったのでしょうか?このことについては、またの機会に詳しく述べようと思います。 これは次のページの内容をコピーして編集したものです。 「新しい古代日本史」 リンク元(referer) Yahoo! JAPAN 聖徳太子 ペルシャ人 (2008年7月10日現在) 『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』より こういう記事なのですよう。面白いでしょう? それで、上の“リンク元”と言うのは、どう言う事でござ~♪~ますか? これは僕が書き加えたものではないのですよう。 誰が書き加えたのでござ~♪~ますか? 『宇宙の摂理ブログ』では、記事を読みにやって来た人のリンク元を上のように最新10個だけ記録するのです。つまり、10個の URL を自動的に書き込むようになっているのですよう。そういう機能が WABLOG のブログにはついているのです。 「リンク元」に記録されている URL はデンマンさんの記事を読みにやって来る前に、ネットサーファーが居たページの URL でごさ~♪~ますか? そうですよ。上の10人は、すべて検索エンジンで検索した結果の中に表れた僕の記事のタイトルをクリックして読みにやって来たのですよう。 それで、その人たちの IP アドレスまで分かるのでござ~♪~ますか? もちろん、調べる気になれば分かりますが、そこまで記録するようにはなっていません。だから、上の記録だけでは 読みにやって来た人の IP アドレスまでは分かりません。 。。。んで、この聖徳太子の記事と小百合さんが何か関係あるのでござ~♪~ますか? 全く関係ないのですよう。 でも、デンマンさんは小百合さんからのメールを初めに引用していますよね。 そうですよう。 どうしてでござ~♪~ますか? 僕が歴史に興味を持っていることを小百合さんも良く知っているのですよう。 それで。。。? だから、この記事を読む人も、僕が歴史に関心があることを読み取る事ができる。何も予備知識が無いと、僕がどうして聖徳太子の事を書いているのか全く見当がつかない。 そのために小百合さんのメールを引用しただけでござ~♪~ますか? そうですよう。いけませんか?
【卑弥子の独り言】
ですってぇ~。。。 はっきり言って、聖徳太子がペルシャ人だなんてマジで信じる人は居ませんわ。 ええっ?確証があるのかって。。。? とにかく、また、あさってが面白くなりそうです。
ィ~ハァ~♪~! メチャ面白い、
ためになる関連記事
■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に
別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』
■ 『小泉純一郎君は漢字馬鹿か?』
(2009年4月18日)
■ 『小泉純一郎と名乗る漢字馬鹿』
(2009年4月20日)
こんにちは。ジューンです。
聖徳太子の体にペルシャ人の血が
流れていると言う考えは
とっても面白いと思いますよね。
その可能性は充分にあると思います。
なぜならば、正倉院の宝物を見れば、
ペルシャから伝来しているものって
たくさんありますよね。
直接ペルシャから日本に
届いたものは、まずないでしょう。
シルクロードを長い年月をかけて
たくさんの人の手に渡って、
アジアの東の果て、日本、にたどり着いた。
そのように想像するのは、
ロマンを掻き立ててくれますよね。
ところで、卑弥子さんがマスコットガールになって
歴史の記事をたくさん集めました。
時間があったらぜひ読んでみてくださいね。
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。
YouTube 動画
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|