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定慧出生の秘密
by Akira Kato
July 25, 2003
定慧は白雉4年に11歳であったと言われています。という事は、皇極2年(643)に生まれた事になります。この皇極天皇在位2年目という年は、 山背大兄皇子が殺害された年です。したがって、この時期の事情がよく分かってないと、定慧の出生の秘密が分からないと言うことになります。 定慧が生まれることと、その当時の事件がなぜ関係あるかというと、定慧を産んだ女性が、その1年ほど前に、 鎌足以外の男性と関わりを持っていたということが考えられるためです。その男は誰かと言うと、当時の軽皇子、つまり、後の孝徳天皇です。 日本書紀を読むと、鎌足は、この事件に関わっていないことになっています。しかも、山背大兄皇子殺害は、あたかも、蘇我入鹿の単独犯 であるかのような書き方になっています。したがって、日本書紀を丸まる信用すると、鎌足と孝徳天皇との関係が良くつかめません。 しかし、これまでの関連ページを読んでもらうと分かるとおり、古事記と日本書紀は鎌足の次男である、不比等が中心になって編纂されたものです。 名目上、天武天皇の息子の舎人親王が編集長だと書いてありますが、むしろ、彼は発行人であり、事実上の編集長は不比等です。 そのようなわけで、不比等は、父親が、あるいは、藤原氏が、後世に汚名を残すような書き方をしていません。
山背皇子・殺害事件の真相は?したがって、定慧の出生の秘密を探るには、この事件の真相をぜひとも解明する必要があります。 厩戸皇子(聖徳太子)は晩年は蘇我馬子・蝦夷父子とそりが合わず、孤立していたようです。詳しいことはこのページ (蘇我馬子と聖徳太子の対立) を見てください。厩戸皇子の死後、今度は、太子の息子の山背大兄皇子の存在が蘇我蝦夷・入鹿にとって目障りになってきました。 蘇我入鹿は山背大兄皇子がいると、自分の独裁政治ができなくなるので、山背大兄皇子を討とうしたのです。 推古天皇の死後、山背大兄皇子が当然皇位を継承すると思われていました。しかし、そのようにはなりませんでした。蘇我氏によって、 退けられたからです。 蘇我蝦夷が勅命と言って田村皇子を皇位に就けたのです。この人が舒明天皇です。そのような経緯で天皇になったために、 山背大兄皇子の存在は舒明天皇にとっても脅威でした。同じような理由で、その後を継いだ舒明天皇の皇后だった皇極天皇にとってもけむたい存在です。 ここで軽皇子が登場します。というのは、軽皇子(後の孝徳天皇)は皇極天皇の弟だからです。したがって、軽皇子にとっても、 山背大兄皇子は邪魔者です。そこのことは舒明と皇極の間の皇子だった中大兄皇子にも言えることです。 ここで事件が起こります。ところが『日本書紀』では643年に、入鹿一人で山背大兄皇子を討ったとされています。 つまり、入鹿一人を悪人に仕立て上げるために、そのような書き方をしたわけです。そのようにすると、二年後の「大化の改新」クーデターで 入鹿の首が飛んだ事件を、あたかも山背大兄皇子の仇を討った事件であるかのような印象を与えることができます。 つまり,聖徳太子は善人である、ということが前提としてあります。このことが、くどいほどに日本書紀には書かれています。 太子は決して悪い人ではなかったでしょう。 しかし、必要以上に善人として書かれています。まるで神様のような書き方になっています。もちろん、そこには藤原不比等の思惑が絡んでいます。 どういうことかというと、山背大兄皇子は、神様のような聖徳太子の息子であるから、善人である。したがって、その善人を殺した、蘇我入鹿は悪人である。 その悪人を殺して仇を討った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(不比等の父親)は善人である。このような図式になります。 巨勢徳太(こせとこた)は軽皇子(後の孝徳天皇)に従って、山背大兄皇子を討つ計画に参加しています。しかし、日本書紀には、 この二人の関係が明記されていません。次のように書かれています。 蘇我入鹿は独断で巨勢徳太、土師娑婆 (はじのさば)たちを遣わし、山背大兄皇子らの居る斑鳩の上宮(うえのみや)王家を 襲わせます。下男の三成(みなり)らの奮戦の間に山背大兄皇子は 馬の骨を寝室に投げ置き、胆駒山(いこまやま、生駒山)に隠れます。つまり、 自分たちが火事の中で焼け死んだように見せかけようとしたわけです。巨勢 徳太らは斑鳩宮に火をかけ、焼け跡から骨が出たことで安心して帰陣したのです。 山背大兄皇子は、しばらく胆駒に隠れていました。しかし、三輪文屋(みわのふみや)は山背の深草(京都)に逃れて 挙兵するように勧めます。皇子は戦乱を招くことを嫌って、挙兵しなかったのです。それで、もうこれまでと諦めて、 斑鳩寺(法隆寺の前身)に入って、一族もろとも自殺したのです。 あとで、皇子が生駒山に逃げたという話を聞いた時、入鹿は追討にでかけようとします。そこへ、 中大兄皇子の腹違いの兄、古人大兄皇子が現れて、入鹿に言います。「鼠は穴に伏れて生き、 穴を失いて死ぬ」 つまり、穴を失ったのだから、死んだも同然だよ、と言ったわけです。それで入鹿は思い止まったのです。 いずれにしろ、それまでに、入鹿から命令を受けた巨勢徳太たちは、上宮(うえのみや)王家を襲撃しました。これが元で、結局、 山背大兄皇子とその一族は滅んだのです。具体的なことを何一つ聞かされていない蝦夷はこの事件を知った時こう嘆いています。 「噫、入鹿、極甚だ愚癡にして、専行暴悪す。爾が身命、亦殆からずや」 つまり、山背大兄皇子を殺せば、 次に危うくなるのは自分たちなのである。入鹿にはそれが分かっていない、と嘆いたわけです。 蘇我蝦夷にはよく分かっていたようです。蘇我氏の権力は精神的な権威として、山背大兄皇子を必要としていたことを。 このことは、蘇我馬子が厩戸皇子を必要としていたのと同じことです。 日本書紀を読むと、大体上のようなことが分かります。しかし、日本書紀には書かれていない重要なことが、まだあります。 『上宮聖徳太子伝補闕記』では、蘇我蝦夷・入鹿父子、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬飼、中臣塩屋の六人が「悪逆至計を発して、 太子子孫男女廿三王、罪なくして害せさる」となっているのです。蘇我氏と孝徳派の共犯になっているわけです。 中臣塩屋という人物がよく分かりませんが、この男が中臣鎌足であることは先ず間違いありません。もし、本人でないとしたら、 鎌足の右腕として動いた人物だったはずです。なぜなら、事件の後で、鎌足は神祇伯に出世しています。この官職が不足だったらしくて、 鎌足は辞退していますが、これが事件の裏で采配を振るった鎌足に対する論功行賞だったことがわかります。 軽皇子と中大兄皇子しかも、大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、 軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということです。 そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外に考えられません。このように見てゆくと、中臣塩屋は、 鎌足だという可能姓が、ますます強くなります。 実際、鎌足は、事件のあと軽皇子を尋ねています。軽皇子はこの事件の重大さに、 すっかり気持ちが動揺してしまい、病気といって閉じ籠もっていたのです。軽皇子は、人並みに権力欲はあったようですが、 ずいぶんと気の小さい人だったようです。 それは、その後の中大兄皇子との関係によく表れています。つまり、大化の改新より8年後の653年、天皇になっていた軽皇子は、 遷都の問題で中大兄皇子と対立します。孝徳天皇は難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。 軽皇子は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。しかし、いかに傀儡とはいえ、天皇です。 しかも自分の母親の実の弟・叔父さんです。その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。 この時、中大兄皇子はもっとひどいことをしています。孝徳天皇の妻である間人(はしひと)皇后を一緒に大和へ連れて行ってしまったのです。 この中大兄皇子という人は、年をとるに従って非常に猜疑心が強くなってゆきます。したがって、もともと人を信用するタイプではなかったようです。 もし、鎌足が推薦しなければ、軽皇子を天皇などにはしなかったでしょう。何をするか分からないと不安に思ったようで、監視役に実の妹を、 この叔父さんに嫁がせたのです。この間人(はしひと)皇后が、夫でもあり、叔父さんでもある、孝徳天皇を置き去りにして、 兄さんと大和へ行ってしまったというわけです。 ひどい話です。このような異常な話の内容から歴史研究者の中には、 中大兄皇子とこの実の妹が愛人関係にあったと言う人たちが居ます。私は決してそうではないと思っています。 この当時の一連の事件の中で、中大兄皇子という人間像を考えてみてください。私は、この人を想像するとき、 太平洋戦争当時の首相・東条英機大将がダブってしまいます。この人は日本史にはあまり良い人間として記録されていませんが、 「カミソリ東条」と言われたほど、鋭い頭脳を持っていたそうです。決断力もあり、バリバリ仕事をかたずけてゆくというタイプだったそうです。 とにかく、首相官邸で風呂に入りながらでも、ドアの外に居る秘書官に、仕事をメモさせているというくらい、一生懸命仕事をやったそうです。 白村江の戦いに敗れてからの天智天皇のやり方を見てください。九州から、近畿へかけて、大防衛網を作り上げます。 しかも、東国から防人を徴用して九州の守りに就かせます。このやり方は、東条首相とよく似ています。独断で、どんどん仕事を進めてゆきます。 『一億玉砕』をスローガンにして、お国のためにまっしぐらです。しかし、そのために死んでいった人だとか、苦労をなめている人のことは考えません。 人の気持ちなど二の次です。民衆から怨嗟の的になっていることを深刻になって考えない。 したがってどういうことが言えるかというと、女性にもてるタイプでは決してない。実の妹を、本当に愛していたなら、 監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと私は信じます。この間人(はしひと)皇后は、 中大兄皇子に無理やり連れて行かれたのだと私は思うのです。 その時、孝徳天皇は歌を詠みます。しかし、こんなひどい仕打ちを受けても、なおかつ歌心を忘れていないというところが、なかなか どうして、馬鹿にできない、立派な人だと感心させられます。その歌とは次のようなものです。 金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せずわが飼ふ駒を人見つらむか 国文学者の吉永登さんは次のように解釈しています。 誰よりも愛していたお前を他人が奪ってしまったではないか。お前は私を捨てて他の男のもとに走ったのではないか。 上の歌を見て、間人(はしひと)皇后が孝徳天皇を捨てたと解釈するのは間違いで、中大兄皇子によって捨てさせられたと解釈すべきです。 そのように理解したうえで、上の歌をもう一度かみ締めて味わうと、次のようになるのではないでしょうか? 確かに事情はよく分かる。しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、 私を見捨ててゆく。人の世は、決してそういうものではないと私は思う。だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。 もし、軽皇子と中大兄皇子を見比べて、人情の機微が理解できるのは、果たしてどちらかと尋ねられたら、私は、疑問の余地を残さずに、 軽皇子だと答えるでしょう。なぜか?それは、軽皇子と鎌足の関係を知っているからです。では、その関係とは一体どういうものか?しかも、 ここに、定慧の出生の秘密が隠されています。
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