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肥後ズイキはどこから来た
by Akira Kato
February 28, 2004
原産地はマレー半島
ハス芋はサトイモの一種ですが、なぜ「里芋」と呼ばれるか知っていますか?「山芋」というのがありますね。 これは山で取れるから山芋です。これに対して、人里で栽培されるいもなのを「里芋」と言うわけです。 里芋はマレー半島が原産で、マレー族の移動とともに各地に伝播したと言われています。ということはマレー人が縄文時代に里芋、 つまり、肥後ズイキと共に日本へやってきて、肥後の国に腰を落ち着けて、そこでハス芋を栽培し始めたという事も全く根拠のないこととは思われません。
「コンティキ号の冒険」というのを聞いたことがありますか?ノルウェーの探検家・人類学者のトール・ヘイエルダールさんが1947年に、 いかだ舟コンティキ号(Kontiki)によって、南米からポリネシアまでの約7千キロにわたる太平洋横断航海して世界から脚光を浴びたことがあります。 彼は1936年に調査のためにマルキーズ諸島を訪れた際、ポリネシア人の起源が西方にあるとの定説に疑問を抱き、 南米から移住してきた可能性があると提起しました。自説を実証するために南米のインディオが用いたバルサ材のいかだを復元し、 コンティキ号と名づけ漂流実験を行なったんですね。そして、見事実証しました。
現在は、空の時代ですから、我われは海流のことには詳しくありません。しかし、縄文時代以前は、海の時代です。 7つの海にはたくさんのハイウエイが走っています。つまり、大陸と多くの島々は海のハイウエイによって結ばれていたのですね。もちろん、 今だってこの事実に変わりはありません。現在の人間は海よりも空を利用しているだけにすぎません。 海洋民族は、風の吹く方向、雲の動き、海面の波の様子、鳥の飛行状態、漂流物、海水の色、匂い、透明度などから、 これらの海のハイウエイを的確に見出して航海するといわれています。 したがって、海岸にすむマレー人が黒潮に乗って日本へたどり着き、 ハス芋と一緒に肥後の国に腰を落ち着けたとしても別に不思議でも何でもありません。 このことについてさらに深く知りたい人は次のリンクをクリックして読んでください。 現在の日本人がどこからやってきたかということは、歴史学、人類学の上で大きな問題で、いまだにいろいろな説が出ており、なかなか決着が付かないようです。 おそらく特定できないでしょう!つまり、古代日本は人種の坩堝だったからです。当然のことながら、マレー人も日本へやってきたでしょう。しかし、 南方人以上に北方人も日本へやってきました。つまり、モンゴル系の大陸人です。 その証拠が、いま我われが使っている日本語の母音の数として表れています。つまり、5つしかありません。なぜかと言えば、 たくさんの人がさまざまな地域からやってきたので、あいまいな母音は、分かりにくかったのですね。 それで、あいまいな母音は消えてゆき、今のようにはっきりと分かる母音だけが残ったというわけです。 いずれにしろ、ハス芋の原産地がマレー半島だということは、日本人の起源を考える時、南方人を無視できないという点で意味があるだろうと思います。 現在、里芋はインド・東南アジア・東アジア・オセアニアで広く食べられています。ニューギニアやメラネシアでは、日本と同じように秋の満月の夜、 芋を神に供える風習があります。ある研究者は、この里芋が日本に伝来したのは縄文中期で、 稲作が始まる以前に大和民族が主食にしていたという説を提唱しています。これも、はっきりとその時期を確定できないでしょうが、 おそらく稲作が始まる前に伝来したのでしょう。稲作が始まっていたら、里芋は捨てられていたかもしれません。日本には根付かなかったでしょう。 里芋は親芋に多くの子芋が生まれるところから、子孫繁栄のシンボルとされ、農耕儀礼には欠かせない食物となったようです。 そのため、今でも正月の雑煮に里いもを入れる地方は多いのです。また、里いもが主役の行事といえば、 秋になると東北地方のあちこちの河原で盛大に開かれる「芋煮会」が有名ですが、 この「芋煮会」も元は農作物の豊作を祈る神事でした。 つまり、里芋は昔から日本人の食生活とは切り離せないものなんですね。様々な品種改良の末、 現在では里芋の仲間は「肥後ズイキ」を含めて200種類を数えるに至っています。 今でも和食の煮物料理として根強い需要があります。
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