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古代日本は人種の
坩堝だった? by Akira Kato
August 30, 2003
原日本人南方起源説 卑弥子さんが説明してくれたような理由で、この学説を主張する研究者がかなりいますが、それも上のような説明を聞くと納得が行きます。 では日本語の起源をたどると、どういうことになっているのでしょうか? ということで現在までにいろいろと出揃った学説を大きく分けてみると、 およそ次の3つの分野に分かれて研究が進められてきたようです。
母音について振り返ってみると。。。 前のページ(いろは51文字に隠された秘密)で見てきたように、 昔の日本人は2重母音を現在よりも頻繁に使っていました。一体どこから入ってきて、なぜ、現在あまり使われなくなったのだろうか?という疑問に答えるのが、 そもそも、このページの目的でした。 しかしこの疑問に答えることはさして難しいことではないのです。というのは、お隣の国の朝鮮語を考えてみれば、大体回答をつかむことができるのです。 日本古代史の本をめくって見ずとも、弥生時代以後、朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来たことは歴史的な事実として多くの人の認めるところです。 しかし、「朝鮮」と言う時、人によっては、この言葉を差別用語と考える人が居るかも知れません。確かに、 両国が常に仲がよかったというわけではありませんでした。朝鮮人に対する差別ということもありました。関東大震災の時に、 朝鮮人が大量に虐殺されたことなどは、その一例です。 このような問題は非常に重要なことですが、しかし、ここでは言語について考え、そのような問題は別のページで取り上げたいと思います。 いずれにしても、地理的に見て、朝鮮半島と日本の関係は先史時代から切っても切れない関係にありました。昔は、 朝鮮半島と日本は、文字どうり陸続きで結びついていたわけです。そういうわけで、朝鮮半島の文物は、 古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えてきました。このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然なことです。 例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように書かれています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドウ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法があって、 古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記していたのです。 したがって、日本の万葉仮名はこの吏読からヒントを得て作られたと考えたほうが自然です。 万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。 しかし、韓国人が万葉集を読むと、日本の専門家でなければ区別できない甲類と乙類を、一般の人でもごく簡単に区別することができるそうです。 実際、研究者の中には、古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、現在の韓国のように、 さらに3つの異なる母音「イエオ」があったのではないか、と考えている人たちもいます。 現在の韓国語には10種類の単母音と、2つ以上の母音が合成されてできた複合母音が11種類あります。古 代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。古代日本語は古代朝鮮語から強い影響を強く受けていましたから、 たくさんの母音があったとしても不思議ではありません。実際、前のページで見たように、確かに現在よりも多くの母音があったわけです。
どうして今に残ってないの? 日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの血が交じり合ってできあがった民族です。 このことは、上で述べた日本語の起源を探る研究からもよく分かります。 要するに、『日本語』というのは、その起源を探るだけでも簡単にかたずかないわけです。 それはなぜかといえば、地図の上で見るとこれ程狭いちっぽけな日本にも、先史時代あるいは古代を通して、 いろいろな土地からさまざまな人間が渡ってきたからです。 当時の日本列島は19世紀から20世紀にかけて、新大陸のアメリカを目指して、ヨーロッパから続々と移民が押し寄せて行ったように、 いわば人間の掃き溜めのようになっていた観がありました。そのよい例が、滅んだ呉からやって来た人たちです。
呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間 なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語 の中に消しがたい足跡を残しています。しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着し ています。 これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。 一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。 一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?ちょっと考えてみてください。 聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、 朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。
隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。 必ず戦乱がつき物です。すると、当然のことながら難民が出ます。これは何も、古代にかぎったことではありません。 ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか? サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。しかし、その後の迫害を恐れる者、 よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々と べトナムをあとにします。いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。 漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。 1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、 神戸に再回航するというような事態も発生しました。 現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、 たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、 おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。
それで結論は? したがってどういうことが言えるかというと、この当時の日本では、もうさまざまな言語や方言が混在していたのです。 しかも、ペルシャ人やユダヤ人までがやって来ていました。このように言うと、論理の飛躍じゃないかと思われるかもしれません。 そのように思われる人のために、特別なページを用意したので読んでください。 古代においては、朝鮮半島の影響は言語学的にも非常に強いものがあります。しかし、その影響力を撥ね退けるほどの 言葉や、方言の混在を考えない限り、今日のように日本語に母音が少なくなったのかどうしてなのか?を説明することができません。 中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違うので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に変わっていったと考えられます。 つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられるわけです。現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、 非常に区別しやすい音です。言語や方言を異にするさまざま人たちの共通母音になったわけです。 現在、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、 これは古代の名残だと考えられます。 名古屋地方の人たちが、「野球でもやるきゃぁ」とか「宿題やるみゃぁ」と言うのも、昔使われたヤ行の2重母音が現在に残っている例です。 また、母音の例ではありませんが、東北地方の田舎に行くと、まれには聞くことがあります。「おら、東京さいぐだ」 これは文章中の清音が濁音になる例です。この方言とよく似た発音が韓国語、特に、 古代の新羅に当る朝鮮半島南東部の慶尚道地方の方言に現存しています。これなどは、奈良時代にはもっと広い地域で多くの人によって、 このように話されていたのでしょう。「おら、都さいぐだ」 しかし、他からやって来た人たちの耳には、ちょっとばかり、いただけない発音だったのでしょう。そんなわけで、だんだんと廃れていって、 東北地方だけに残るようになったようです。
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