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新しい
古代日本史
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『壬申の乱』は
天智帝暗殺で始まった
July 14, 2003

 

『壬申の乱』は、むしろ、天智天皇が暗殺された時に始まったと見る方が、一連の事件との関連で、より的確だと思われます。 大海人皇子が弘文天皇(大友皇子)を殺害するまでのすべての作戦には、 参謀長として藤原不比等が何らかの形で関わっていたはずです。しかし、もちろん、このことを日本書紀に書くわけにはゆきません。 なぜなら、彼の父親・中臣鎌足は中大兄皇子と共に、大化の改新を成し遂げた善人であり、また英雄として書紀に登場してくるからです。

古事記も日本書紀も、藤原不比等が関わっていると言う研究者が増えていますが、もちろん、私もその意見に大いに賛成する者です。 しかし、古事記を読んでも、日本書紀を読んでも、不比等が編纂に携わったと言うことは書かれていません。なぜ書けなかったかということは、 これまで述べた一連の事件を見れば明らかです。不比等は表に出てきてはならない人だからです。そんなわけで、彼は裏から、いろいろと、 この両書の編集者に注文をつけています。

もちろん、藤原不比等を良く思っている人は少ないはずです。 親の七光りで、天武帝に取入り、いろいろと、うるさく口を出すイケスカナイ奴だと思われていたでしょう。 しかし、何しろ実権を握っていますから、表立って反抗できません。それで、ところどころに編集者の小さな反抗の跡が覗いています。 注意して読むと矛盾が顔を出します。「この日本書紀のページを開く読者の皆さん、どうか、この書の中に書き込まれている矛盾に気づいてください。 私たち編集者は、無理やり事実を曲げて書かされています。どうか行間に塗りこめられている意味を読んでください」

日本書紀のページをめくる時、上に書いたような声が行間からにじみ出てくるように感じられますが、あなたはどのように感じているでしょうか?

いずれにしても、古事記と日本書紀には矛盾が多いのです。このことはすでに、このページ  (古事記より古い書物がどうして残っていないの?) でも説明しました。その分かりやすい例をここに一つ紹介します。次の話は、先ず間違いなく藤原不比等がでっち上げた話です。 前のページに書きましたが、繰り返して書きます。

天智帝は671年10月17日に病状が悪化しました。その時、彼は、 弟の大海人皇子を病床に呼んでこう言ったのです。「もう私は、病気で体が思うように動かないので、後の事はお前に任せたい」

しかし、大海人皇子を呼びに来た天智帝の家臣の蘇我安麻呂は、皇子に好意を持っていたので、忠告したのでした。 「言葉を選んで、どうか慎重に答えてください」

頭の回転の速い大海人皇子はピンと来ました。
天智帝は更に続けます。「そんなわけで、お前に皇位を譲ろうと思うのだがどうか?」
「兄さん、それはどうも。しかし、私も最近、病気がちで、任に耐えません。せっかくですが、ご辞退申し上げます。ついでながら、 私からもお願いがあります。前々から考えていたことですが、そのようなわけで出家したいと思います。兄さんからお許しが出れば、 早速、吉野に向かう準備をしたいと思うのですが、。。。」
「そうか、それは残念だ。しかし、そういうことなら、無理に頼めないな。仕方ない、大友皇子にでも継いでもらうか」

そういうわけで、大海人皇子は、家にある武器をすべて国の武器庫へ納めて吉野へ向かったとあります。ある人はこの事を耳にして、 「トラに翼を付けて野に放ったようなものだ」と言いました。

この話しは非常に良くできた話だと思います。天智帝の事も、大海人皇子の事も、一度だけ読んだのでは、 どちらの事も悪く書いてあるようには思えません。この話を実際に書紀に書くように命じられた筆者は、藤原不比等から、くどくど言われているはずです。

「すでに、あんたにも、何度も言っているのだけれど、念のためにここでもう一度言っておく。天智帝は暗殺されたから、悪く書くのが当たり前なんだが、 編集方針で、暗殺したことは書かないことになっている。したがって、天智帝の事は決して悪人だとは書かないように。この前私が、 あんたに話した荒筋に肉付けして書いてください。くどいようだが、天智帝を絶対に悪人にしないように。」

上に書いたようなことを、日本書紀の筆者は藤原不比等から、くどくどと、うるさいほどに言われていたと思います。 それも不比等の身になってみれば、当然のことで、天智帝を貶(おとし)めることは、天智帝と一緒に大化の改新を実行した、 彼の父親までを悪者に仕立て上げなければならない場合も出てきます。それは、今後、天皇家に『藤ツル』のように巻きついて 寄生して行く藤原氏にとって好ましいことではありません。したがって、彼の父親・鎌足を、悪人にしたくないのであれば、 天智帝も悪人にしてはならないわけです。

上の話をよく読めば、「政権を譲る」と言うことは罠であることが分かります。もし、大海人皇子が「ハイ、それでは、私が次の天皇になります」 と言ったら、天智天皇は大海人皇子を殺すつもりだったわけです。そこで、この話の中では

しかし、大海人皇子を呼びに来た天智帝の家臣の蘇我安麻呂は、皇子に好意を持っていたので、忠告したのでした。 「言葉を選んで、どうか慎重に答えてください」

蘇我安麻呂に上のような忠告をさせています。これは、「天智帝は、あなたに罠をかけようとしていますから、どうか気を付けてください」 と言うことを間接的に言っていることになります。

実は、私は、この逸話をじっくり読む前に、藤原鎌足と彼の長男・定慧(じょうえ)のことを考えていました。定慧は11歳で、遣唐使と共に、 唐へ渡ります。 このとき次男である不比等はまだ生まれていません。遣唐使はまもなく帰ってきますが、定慧はその人たちと一緒に戻ってきませんでした。彼は、 唐を発っても、途中百済に立ち寄り、そこに長いこと滞在したといわれています。定慧は天智4年(665)に日本へ帰ってきました。この年は、 白村江の戦いの2年後です。百済はそのとき滅亡していたわけですから、一体何をしていたのかという疑問が頭をもたげます。

詳しいことはこのページ (藤原鎌足と彼の長男・定慧) を見てください。 新しいウィンドーが開きます。いずれにしても、定慧は天智4年12月23日に、23歳の若さで亡くなるのです。日本へ帰り着いたのも束の間、 亡くなっているわけです。非常にかわいそうなわけです。個人的なことを述べて恐縮ですが、私は日本で生まれ育ちましたが、若い頃 アメリカへやってきて、カナダで20年以上暮らしています。したがってこういう話には、とりわけ引き込まれてしまう。しかもこのように悲しい結末を見ると なんだか身につまされてしまう。

しかも更に話を悲劇的にしていることがあります。彼の死が病死なのか、殺されたのか、まだはっきりしたことが分かっていません。 藤原氏の家伝によると百済人に殺されたことになっていますから、私は、先ず間違いなく殺されたのだと考えています。そのように考える材料もあります。 しかし、ただ百済人に妬まれて殺された、と言う説明だけでは、納得できるような説明になっていません。結論を言ってしまえば、 どうやら天智帝に殺されたらしいのです。 もちろん天智帝が直接殺しているわけではありません。しかし、定慧は鎌足の子供です。そして鎌足はと言えば、大化の改新を一緒にやった相棒です。 事情がどうであれ、世間では、鎌足の長男だと認められている相棒の子供を天智帝が殺せるだろうかと。

ここで上の逸話に戻ります。この話の中では、大海人皇子は天智帝の実の弟になっています。その実の弟に対して罠をかけているわけです。 どういうことかといえば、天智帝が後年になって非常に猜疑心の強い人になっているということです。実の弟といえでも信用できない、 と言うように書かれています。天智帝がそのような性格であれば、つまり、実の弟も信用できないのなら、相棒はもっと信用ならないだろう。 その相棒のせがれは、それ以上に信用が置けないと言うことになります。

ここまで考えたときに、なるほど、このような性格の男だったら、定慧を殺せという命令を出すこともできると思ったものです。 当時の天智帝は、四面楚歌でした、しかも、新羅派からは命を狙われていました。豪族からは、総スカンを喰らい、民衆からは、 バチアタリと悪口を言われていました。人を疑い深くなったのも故なしとはいえません。

これなどは、矛盾の中から真実を語りかけている良い例です。実際には、天智帝と大海人皇子は母親が違いますから実の兄弟ではない、 つまり、腹違いの兄弟です。しかも、大海人皇子の方が年上です。このことについては、このページ (天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった) で説明しています。いずれにしても、古事記や日本書紀を実際に書いた筆者たちは、このような書き方で、 矛盾の中に真実を塗り込めていたのかもしれません。

 

壬申の乱の一番の功労者

栗隈(くりくま)王は壬申の乱の後、弘文天皇の出兵要請を拒否したことによって、天武天皇から後の兵部卿に当たる官職に就きます。 これは正四位上に相当する官職です。栗隈王はその翌年に亡くなります。そのときに天武天皇から従二位を追贈されたようです。 これは、大変な出世になります。二位までゆけば右大臣、左大臣になる資格があるからです。もちろん死んでしまっては官職に就けませんが。

どうして、こういうことが分かるかと言うと、栗隈王の孫に有名な政治家がでます。橘諸兄(たちばなのもろえ)がその人です。 この諸兄の死亡した時の事が続日本紀(しょくにほんぎ)に次のように書かれています。「(祖父は)贈従二位の栗熊王である」

橘諸兄は天武13年(684)に生まれ、出世して左大臣まで上りつめ、天平勝宝9年(757)1月6日に亡くなっています。 源平藤橘と言われるように、日本では由緒ある4つの姓のうちの一つですが、その中では橘家は後世有力な人があまり出ずに、しぼんでいったようです。 そのような中にあって、橘諸兄は橘家の系図の初期における最も有名な人です。

橘家の歴史を見るとき、藤原不比等を語らずしては始らない程に、橘家と不比等は切っても切れない関係を持っています。 というのも橘という姓は、初め藤原不比等の妻の県犬養三千代に与えられた姓だからです。

県犬養三千代は、敏達天皇の曾孫の美努王と結婚して葛城王・佐為王らを 設けますが、後に離婚して藤原不比等と再婚し安宿媛(あすかべひめ)を産み ました。この安宿媛が聖武天皇の皇后(光明皇后)となったあたりから藤原氏 の黄金時代が始まるわけです。

三千代は軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めていましたが、その軽皇子の母 である阿閉(あべ)皇女に気に入られ、皇女が元明天皇として即位した時に橘の姓を 賜りました。三千代は天平5年(733)に亡くなりますが、その死後、子供の葛城 王・佐為王が特に願い出て橘の姓を継ぐことになり、二人は天平8年に臣籍 降下して、橘諸兄・橘佐為となりました。

栗隈王と不比等の関係は、中臣鎌足と天智帝の関係に近いものがあったでしょう。 いずれにしても、壬申の乱の参謀長として活躍した不比等ですが、栗隈王がいなかったら あのように完璧な天智帝暗殺を実行できなかったでしょう。まさに完全犯罪と呼べるものです。

日本書紀をどうひっくり返して読んでも、栗隈王と不比等の結びつきは語られていません。 しかし、なぜ、栗隈王が従二位という非常に高位な位階を贈られたのか?しかも、彼の子孫が、 なぜ、これほどまでに出世できたのか? この辺の事を考える時、これまで述べたような栗隈王の果たした天智帝暗殺における役割を考えれば、 すべてがうまく説明されるのです。

橘諸兄は母親(県犬養三千代)が藤原不比等と再婚したことにより、不比等の義理の息子になったわけです。 もちろん、不比等と栗隈王の強いつながりがあったことによって、このような発展があったわけです。 橘諸兄が左大臣に出世できたという裏には、不比等と栗隈王の結びつきがあったということを見逃すことができません。

 

なぜ天武朝は一代限りで
終わってしまったのか?

『壬申の乱』が終わって一応、平穏な状態を取り戻します。しかし、新羅派の統領である天武帝が新たな王朝を建てたために、 先ず外交方針ががらりと変わりました。 当然のことながら、唐との国交は断絶状態になりました。唐と戦った天智帝ですら白村江での敗戦(663年)後に、 遣唐使を大陸に送っています(669年)。むしろ、これは鎌足親子の外交政策の表れです。

ところが、天武帝は一度も遣唐使を派遣していません。それに引き換え、新羅との交流は急に激しくなります。 新羅からの日本へやってくる使者と日本から新羅へ派遣された使者を合わせると14回になります。 天武帝が政権をとってからなくなるまで14年ですから、毎年新羅との正式の交流を持ったわけです。

したがってどのようなことが言えるかというと、この政変は、単なる、権力闘争ではなかったということです。その裏には、百済派と新羅派の 思惑が非常に強く影響しています。しかも、この当時の国際情勢が問題をいっそう複雑化させています。 唐が郭将軍を『日・唐軍事同盟』を締結するために使者として日本へ送りこんだことが、この政変の導火線になったようです。 この辺の情報は、大宰府長官である栗隈王の口から、逐一、大海人皇子と鎌足親子の耳に入れられていたはずです。

『日・唐軍事同盟』が結ばれると、どういうことになるかといえば、もちろん、新羅が日本と唐の挟み撃ちにあって滅びるということです。 同じようなことを、新羅は、これまでに唐と組んで、百済と高句麗を滅ぼしています。『日・唐軍事同盟』ができれば、今度は、 自分が滅びる番が来ると言うことを、新羅派は、はっきりと理解しています。

それでは、一体、大海人皇子がなぜ、これほどまでに新羅の肩を持つのか? それは、彼の母親が新羅人であるということを考えに入れるとよく理解できます。それ以外には、ちょっと納得のゆく説明が見当たりません。

それに対して、藤原不比等の出自をここで考えてみる必要があります。彼のおじいさん・御食子(みけこ)は、百済で生まれています。 藤原氏の出自についてはこのページ (藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) で説明しています。したがって、その子の鎌足は、百済で生まれていることも十分に考えられます。

更に重要な状況証拠があります。鎌足の長男・定慧(じょうえ)は11歳で遣唐使の一行と653年に唐へ渡っています。 遣唐使はまもなく帰ってきますが、定慧はその人たちと一緒に戻ってきませんでした。彼は、唐を発っても、途中百済に立ち寄り、 そこに長いこと滞在したといわれています。その後、定慧は天智4年(665)に日本へ帰ってきました。この年は、白村江の戦いの2年後です。 百済はそのとき滅亡していたわけですから、一体何をしていたのかという疑問が頭をもたげてきます。

ただ当てもなくさ迷っていたのでしょうか?もちろんそんな無駄なことをしていたわけではないでしょう。結論を言ってしまえば、 おじいさんの実家を訪ねたわけです。彼は出家して坊さんになっていました。この当時の坊さんというのは、現在の坊さんと違って、 権力を握る人たちと交際を持つ機会に恵まれています。仏教を国教にするという時代です。 仏教を政治の手段として利用していたという事実を忘れることができません。

したがって、坊さんになると情報をつかみやすいわけです。 端的に言ってしまえば、頭を丸めたスパイです。 この良い例が、聖徳太子の若い頃からの個人教授を勤めた僧の慧慈(えじ)です。高句麗からやってきましたが、後に、呼び戻されて、 祖国へ帰ってゆきます。 もちろ時の高句麗王に、日本情勢をこと細かく報告するためです。この人については、このページ (朝鮮三国の緊張関係―聖徳太子の師・高句麗からの僧・慧慈(えじ)) で説明しています。

定慧(じょうえ)の物語は、表面的に読むと、涙がにじんできてしまうほど、非常に悲しい話です。あまり知られていない日本の悲劇です。 今で言えば、彼は小学校4年生で12年の長旅に出ます。もちろん両親に付き添われてゆくのではありません。一人です。また、 遣唐使と共に唐へ渡るということは、修学旅行で中国を旅行するのとは、わけが違います。生きるか死ぬかの試練を潜り抜けての 船旅です。しかも、1ヶ月や2ヶ月の旅行ではありません。船旅の途中大嵐にあって死んだり、唐に渡ってから病気で死んだり、年をとりすぎて、 帰るのを断念して、唐で中国の土になった人もかなり居ます。

そのようなわけで、定慧はのんびりと、百済で息抜きしていたというわけではありません。しかも、当時の百済の状況が、 そのようなノンキきなことを言っているような場合でないことはよく分かります。つまり、国が滅びるというような混乱の中にあったわけですから、 普通の感覚で考えるならば、当然そのような国へ立ち寄るということは極力避けるわけです。そのような土地へ行くとしたら、 よほどの物好きか冒険家か、 今で言えば、ジャーナリストかスパイかのどちらかでしょう。

定慧は、日本へ帰って来ると、まもなくして亡くなります。つまり謎の死を遂げるわけです。藤原氏の家伝には、「百済人に妬まれて殺された」となっています。 病死という人も居ます。しかし、このような状況を考えるとき、普通の死に方ではなかったということは、はっきりとしています。私が調べた限りでは、 天智天皇の命令によって殺されたというのがもっともこの状況にかなった死に方になるのです。

要するに、鎌足親子と天智帝の間には、この当時、修復が不可能なほどに亀裂がはいっていたというのが、私の結論です。 定慧についての詳しいことはこのページ (藤原鎌足と長男・定慧) を読んでください。つまり、新百済派(逃げてきた百済朝廷の貴族たち)が天智帝の回りにできており、鎌足親子は、 天智帝から煙たがられていたようです。したがって、このことによって、不比等は大海人皇子と組んで天智政権を打倒することに決心したようです。 つまり、外交方針が一致していたわけではありません。

外交方針だけを考えるならば、鎌足親子は、天智帝と同じ考え方を持っていたでしょう。むしろ、鎌足親子の考えにもとずいて、 遣唐使を派遣していたはずです。天智政権は唐と戦って白村江で敗戦(663年)の憂き目を見ます。しかしそれでも天智王朝は 敗戦後、669年に遣唐使を大陸に送っています。これは謝罪の意味もありますが、スパイ活動でもあります。一体、唐は、 この後日本に対してどのような方針で臨むのか、その辺のことを確かめるには、唐との国交を断ち切ることは望ましくありません。 藤原氏のバイブル・『六韜』の教えを思い出してください。 唐へ出向いていって、じっくりと、唐の王朝の様子を観察しなければなりません。

従って、藤原不比等は、天武王朝に見切りをつけます。唐との国交を断絶していたのでは、 今後の政権を維持してゆく上で支障をきたすということをはっきりと見て取っています。しかし、天武帝と、しいて事を構えることはしませんでした。 そういう訳で、686年に天武帝が亡くなると、持統王朝を盛りたててゆくことによって、藤原氏の意向を反映する政権を作ってゆきます。 その後は、変則的な皇位の継承を続けて、かたくなに天武天皇の他の息子たち(持統天皇の血が流れていない息子たち)へ政権が渡ることを阻んでいます。

しかも、この間に、不比等は自分の娘たちを、皇室に送り込んで、ますます藤原氏の地盤を固めています。これは、下に示した系図に見るとおりです。

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このようにして、新羅派を朝廷から排除してゆきますが、藤原氏の外交政策を打ち出すのに33年間という月日がかかっています。 西暦630年に始まった遣唐使は、669年に6回目の派遣がありましたが、33年間、中断していたのはそのためです。 遣唐使派遣は、藤原京時代に復活をしています。大宝律令を制定したあくる年の702年のことです。

Family tree of Emperor Tenmu (keizu03.gif--460x458)

 

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筆者紹介
Akira Kato (kato.jpg--180x135)
  • 日本とカナダの大学で教育を受ける。
  • 横浜にある大手の電器メーカーでコンピューターのソフトウエアの開発に従事する。
  • カナダのノースウエスト隼州政府・財務省に勤務する。
  • バンクーバーのランガラ・カレッジおよびサレーのクワンテレン・カレッジで講師を勤める。
  • ヨーロッパ、東南アジア、中国、北米を幅広く旅行する。
  • 現在、経営コンサルタント、フリーランス・ライターとして活躍している。



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